2018年6月30日土曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 なお、「巳ノ下刻允昌へ寄テ」の允昌は凡兆のこと。去来は俳号で呼んでいるのに対し、凡兆は本名で呼ばれている。今日では一般に野沢凡兆と呼ばれているが、他にも宮城、越野、宮部などの姓もあったようだから、おそらく正式な苗字ではないのだろう。なお「允昌」の読み方を探しているのだが、まだわからない。
 三月二十五日に「カセイテ尋 翁ヲ問」とあるが、この「カセイテ」はひょっとして「加生亭」か。耳で聞いただけで文字を確認できなかったのかもしれない。
 後に凡兆の家を指すのに地名の「小川」というのを頻繁に使っている。
 五月七日のところには「中村荒右衛門入来」とあり、史邦は本名で中村姓を付けて呼んでいる。ただ、この人も大久保荒右衛門、根津宿之助という名前が伝わっているので、正式な苗字かどうかは不明。五月十四日の日記では「中村荒右へ行宿」と名前を省略しているし、翌十五日には「終日史邦ノ宿」と俳号になっている。
 五月十七日には「芝居へ行 翁允昌羽紅荒右無辺佐野治左去来」と芭蕉は「翁」でその他は俳号と本名とごちゃ混ぜだ。
 曾良の日記ではしばしば「田中氏」というのが登場する。場所によっては単に「田中」と書かれている場合もあるが、田中式如という旧知の神道家だという。
 思うに当時は正式な苗字なのか、それとも通名のような「姓」なのかは、ある程度深く付き合ってみなければ判別がつかなかったのだと思う。だからはっきりとわかっている場合以外は「氏」を付けなかったのではないかと思う。あとはその時の気分で本名になったり本名の略称になったり俳号になったり、わりと適当だったようだ。
 曾良の日記に登場する人名も、詳しく追っていけばいろいろなことがわかりそうだ。
 さて、『嵯峨日記』の方に戻ろう。

 「一、三日

 昨夜の雨降つヾきて、終日終夜やまず。猶其武江の事共問語。既に夜明。」

 最初の「一」は特に意味もなさそうだ。翌日も「一、四日」とある。草稿段階での芭蕉さんの気まぐれによるものか。曾良の『近畿巡遊日記』は日付の上に「一、」とあるから、それに倣ったのか。
 雨が降ってすることもなく、久々に旧友の曾良と長々と語り合ったか。『奥の細道』の旅のあとの江戸のことなど、話も尽きず、夜を徹してしまったようだ。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「三日 雨不止 未ノ刻去来帰ル 幻住ノ句幷落柿舎ノ句

   涼しさや此庵をさへ住捨し
   破垣やわざとかのこの通路 夜ヲ明」

とある。芭蕉の文章では昨日から去来が一緒だということが記されていない。頻繁に来ているせいか、いちいち書くのが面倒になったのだろう。ここでの主役は曾良だし。
 曾良のこの二句は、『嵯峨日記』には記されてないが、『猿蓑』には入集している。

 涼しさや此庵をさへ住捨し   曾良

 これは幻住庵の句で、「涼しさの此の庵をさへ住み捨てしや」の倒置。芭蕉の一所不住の生き方は、こんなすばらしく涼しげな庵すら捨ててしまうのかという、その潔さを称える。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、三月二十三日に「大津石屋ニ着 及暮」と夕方に大津に到着し、翌三月二十四日には「早朝木曾寺ノ新庵見ル 帰テ朝飯調テ京ニ趣」とあるから、義仲寺の無名庵は見たようだが、幻住庵に行った様子はない。

 破垣やわざとかのこの通路  曾良

 これは落柿舎の句だろう。垣根が破れているのは、鹿の子が通れるようにわざと開けているのでしょう、というわけだが、多分ただ荒れ果てていて破れていただけだろう。ただの破れ垣も、そういう考え方もあるのかといった句だ。

2018年6月29日金曜日

 今日は梅雨明けだが何だかすっきりしないのは昨日の試合だ。
 結局は驕りだろうと思う。今のポーランドなら主力を温存しても引き分けられると思ってたら一点取られてしまい、簡単に追いつけないとわかって、あのような作戦に出たのだろう。
 ただ、スペイン=ポルトガル戦の場合は双方に利益があるから取引と見ることができるが、すでに敗退が決まっているポーランドには何の利益もない。その意味で日本はポーランドに大きな借りを作ってしまった。
 まあ、ポーランド代表のスパイクシューズの泥を舐めてでも決勝トーナメントに行きたいというなら、後はとにかく優勝する以外に恩返しの方法はないだろう。気持ち的には、これでベルギーに勝てなければ帰ってくるなと言いたいところだが、日本のサポーターは優しいから「夢をありがとう」で終るんだろうな。
 日本ではミスした選手にも激しいバッシングはない。ネタにして笑いものにする程度で平和なものだ。まあ、それが俳諧の伝統なのだろう。梅雨明けもすっきりしないパス回し。
 それでは『嵯峨日記』の続き。

 五月二日、『奥の細道』をともに旅した曾良が尋ねてくる。

 「二日

 曾良来リてよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人の はな(し)、彼是取まぜて談ズ。

 くまの路や分つゝ入ば夏の海   曾良
 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果


 夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及て歸る。」

 曾良は蛤の二見で別れた後、江戸へ登る。そして元禄四年三月四日に江戸を出て、三月二十四日には京都に着き、翌二十五日に芭蕉を訪ねる。このあたりのことは曾良の『近畿巡遊日記』に書かれているという。岡田喜秋『旅人・曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)の附録にそのテキストがある。
 このあと曾良は吉野の花を見てから高野山を経由して熊野古道を行き、那智の滝などを見て、そのあと和歌の浦を経て姫路へ行く。そして五月に京都に戻る。
 吉野の花見は四月一日で、初夏の熊野古道(熊野参詣道小辺路)を行き、十七日には和歌の浦に到着する。和歌の浦へは船で旅している。

 くまの路や分つゝ入ば夏の海   曾良

の句はその頃のものだろう。
 もう一つの、

 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果  曾良

の句だが、この日記だと大峰へ行った記録はない。ウィキペディアには「歴史的には『大峰山』は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。」とあるから、吉野で見た周辺の青々した山々を見ての句だったのかもしれない。
 このあと、大井川(今の桂川)に船を浮かべて、今の渡月橋のあたりの戸難瀬を登る。曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「二日 天晴 巳ノ下刻允昌へ寄テ妙心寺ヲ見テサガへ趣 翁ニ逢 去来居合 船ニテ大井川ニ遊ブ 雨降ル故帰ル。次第ニ雨甚シ」

とある。去来の同伴を除けばだいたい『嵯峨日記』の記述と一致する。

2018年6月28日木曜日

 今日も暑かった。夜の満月はやはり雲が掛かってぼんやりと周りの雲がオレンジに染まっている。最近では夏至の頃の月をストロベリームーンと呼ぶようだ。
 今日は対ポーランド戦。ポーランドといえばMerkfolk、Netherfell、Morhana、Stworz、Alne、Percival Schuttenbach、メタルの国だ。

 さて、『嵯峨日記』も五月に入る。

 「朔
 江州平田明昌寺李由被問。
 尚白・千那、消息 有。

 竹ノ子や喰残されし後の露  李由
 頃日の肌着身に付く卯月哉  尚白
   遣岐
 またたれつる五月もちかし聟粽 同」

 江州平田明昌寺は近江国、彦根平田にある明照寺だという。音が同じの違う字を書くことは、芭蕉の文章では珍しくないし、当時の人はそれほど字面にこだわらず、音が合っていれば良いというところもあった。
 明照寺は光明遍照寺の略と思われる。
 李由はその明照寺の十四世住職で、この日落柿舎に現れて、尚白や千那といった近江の門人の消息を伝えたようだ。尚白は大津で医者をやっている。千那は堅田本福寺十一世住職。
 千那の句はない。

 竹ノ子や喰残されし後の露  李由

 竹の子が食い残されればそのまま成長して立派な竹になり、秋の露を得ることになる。
 乳幼児の死亡率の高かった時代には、年を取るまで生きられるということは当たり前のことではなく、稀なことだった。
 李由は寛文二年(一六六二)の生まれで、元禄四年(一六九一)五月一日には数えで三十。働き盛りではあるが、体力的には衰えてきて露を得る頃か。当時は四十だと初老で、露というよりも霜を得る頃であろう。

 頃日の肌着身に付く卯月哉  尚白

 肌着は肌衣(はだぎぬ)、つまり襦袢のことか。ウィキペディアによると、「江戸時代前期は長襦袢ではなくこちら(半襦袢)が正式な襦袢と考えられていて、初期の半襦袢は袖の無い白地のもので腰巻と一揃で使われていた。」とある。
 旧暦四月ともなると暑い日も多くなり、半襦袢が汗で肌に密着するということか。

   遣岐
 またたれつる五月もちかし聟粽 尚白

 前書きの「遣岐」よくわからないが、「聟粽」とあるから、岐阜に住む娘婿に粽(ちまき)を届けるために出す遣いの者ということか。尚白の家族関係はよくわからないので、岐阜に親族がいるのかどうかは不明だが。
 まあ、でもこの句は五月五日の端午の節句の粽を待っている人がいるのは確かだ。

2018年6月27日水曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 さて芭蕉はこのあと杜国への思いをぶちまける。

 「誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」

 「夜は床を同じう起臥」のところなど、疑ってくれといわんばかりだ。まあ、あくまで噂なので。
 悲しみの涙には無粋な批評はせず、流すことにしよう。

 さて、翌二十九日と三十日はセットになっている。

 「二十九日 『一人一首』奥州高館ノ詩ヲ見ル。

 晦日 高館聳天星似冑、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」

 奥州高館ノ詩というのは『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集で、古代から江戸初期までの日本の漢詩を一人一首、全三百余の詩を収録している。
 その詩というのは巻九にある。

   賦高館戦場    無名氏
 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中
  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 高館は天に聳え星は兜ににて
 衣川は海に通じ月は弓のごとし
 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり
 弁慶は武威を揮い白波の中
   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

 義経は一切戦わず持仏堂で自害し、弁慶は堂の入口を守り立ち往生したというのが一般によく知られている物語で、口承の詩もそれを裏切らない。
 なおウィキペディアを見ていたら、この選者の林鵞峰とその父の林羅山が編纂した『本朝通鑑』に「俗伝又曰」として「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す」と記載されたことが、後の義経=ジンギスカン説の元になっているという。
 こうした漢詩は口承で伝えられて、庶民の間で吟じられていたのだろう。テキストとしてではなく音楽として伝わっていたと思われる。
 こうした伝承にはありがちなことだが、話がやたらに盛られたりする。
 小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになってしまった。
 芭蕉は無名作者を「古人」と呼んで、立派な作者でも現地に行かなければこういう詩を詠むと思ったようだが、多分そういう問題ではないだろう。
 芭蕉も後世、

 松島やああ松島や松島や

の作者にされてしまうとは想像だにしなかっただろう。
 伝承詩というのは時として何百年もの間形を少しづつ変えながら中国、韓国、日本に伝わった例もある。『野ざらし紀行─異界への旅─』の「十四、僧朝顔」の所でも書いたが、『万葉集と漢文学』(和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院)所収の濱政博司の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」にある一連の詩がそれだ。
 五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

  鼓声推命役 日光向西斜
  黄泉無客主 今夜向誰家

  太鼓の声は賦役へとせきたて、
  日の光は西へと傾いて行く。
  黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。
  今夜は誰の家に向かうのというのだ。

が最初だが、それが六八六年には少し変わっているが、二上山で処刑された大津皇子が詠んだとして『懐風藻』にも載っている詩となる。

  金烏臨西舎 鼓声催短命
  泉路無賓主 此夕誰家向

  黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
  日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
  黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
  この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 それが一四五六年、韓国で成三問が処刑されるときの詠んだとされてきた、

  撃鼓催人命 回看日欲斜
  黄泉無一店 今夜宿誰家

  太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、
  振り返って見れば日は傾こうとしている。
  黄泉の国には宿屋があるわけでもない。
  今夜は一体誰の家に泊ろう。

の詩として登場する。
 この間にも九五○年の江為の詩がある。

 衙鼓侵人急 西傾日欲斜
 黄泉無旅店 今夜宿誰家

 中国版のウィキペディア「維基百科」には、

 「江洪之後。早年避乱迁居建阳(今屬福建)。曾游庐山。由於科場屢試不第,一直怏怏不樂,打算前往吴越發展,結果被同謀告發,被殺身亡。一說是替福州友人草擬降書,被逮獲,慘遭株連。據說臨刑前有絕命詩云:“黄泉無旅店,今夜宿誰家”。」

とある。
 また、『水滸伝』にも、

 黄泉無旅店 今夜落誰家

の句があるらしく、一三九三年の孫蕡の詩にも、

 鼉鼓三声急 西山日又斜
 黄泉無客舎 今夜宿誰家

とある。「維基百科」には、

 「洪武十五年复起为苏州经历,洪武二十二年谪戍辽东,是年以黨禍被殺,年五十六岁,有絕命詩:“鼍鼔三聲畢,西山日又斜。黄泉無旅店,今夜宿誰家。”另說於洪武二十六年之藍玉案被殺。」

とある。
 これらは皆伝説であり、あくまで有名人に仮託されただけで、いわゆるパクリではない。

2018年6月26日火曜日

 今日も暑い日が続く。梅雨明けも近いのか。
 夜には朧ながら月も見えた。五月も満月が近い。

 五月雨やある夜ひそかに松の月   寥太

の句が思い起こされる。こちらは大島寥太。大島僚太だと日本代表のサッカー選手になる。今回のワールドカップではまだ出番がない。
 では『嵯峨日記』へ、

 まず「心神相交時は夢をなす。」だが、これはやや仏教的な言い方だ。
 『列子』周穆王篇には「神遇為夢、形接為事。故晝想夜夢、神形所遇。」とある。人間の思考は感覚によって捉えられた物的対象があれば「想」となり、感覚が遮断されて対象から切り離されれば「夢」となる。感覚が遮断されても猶残る脳の活動を「神」と呼ぶのであれば、列子のこの言葉はなかなか科学的だ。
 ただ、「神」といえば、『易経』の「陰陽不測、これを神という」の神概念もあり、いわば人智を超えたものはすべて神であり、人間の脳の活動も、それ自身は直接認識することができず、思考にしても幻想にしても何らかの活動の結果を認識できるにすぎない。その意味では「神」であり、近代には西洋のスピリットを「精神」と訳しているし、ニューロンは「神経」と訳している。自覚的に捉えることができないからだ。
 哲学で言う現象学的還元は、思考を対象から切り離して純粋な思考そのものを明らかにしようとしたが、沈黙以外の何も得られなかった。ジャック・デリダはこれを太陽に向かって飛び立ったイカロスに喩えている。
 これに対して「心神相交時は夢をなす。」となると、心は人間の中にある性や情を併せ持ったものを表し、神は天の側にある。禅などの瞑想によってそれが一致するような印象を与える。
 体の中の測り知れないもの(神)は天に通じるもので、そのため夢もまた感覚によって捉えられた対象から切り離されているとはいえ、物の形を借りて現れる。このことを列子は「一體之盈虛消息、皆通于天地、應於物類。」という言葉で表す。
 さて、芭蕉に戻るが、「陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。」は『列子』周穆王篇の「故陰氣壯、則夢涉大水而恐懼。陽氣壯、則夢涉大火而燔焫。」から来ていると思われる。
 体の陰気が尽きるというのは、逆を言えば体の陽気が盛んになることをいう。この時は火の夢を見るという。陽気が衰え陰気が盛んになれば水の夢を見るという。このあたりはあまり科学的ではない。夢判断の類になる。
 「飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。」というのも、『列子』周穆王篇の引用で、「藉帶而寢則夢蛇、飛鳥銜髮則夢飛。」から来ている。
 「睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆 其理有テ妙をつくさず。」の「睡枕記」は、岩波文庫の『芭蕉紀行文集』の中村俊定注には『枕中記』の誤りか、とある。『枕中記』はウィキペディアによれば、

 「『枕中記』(ちんちゅうき)は、中国・唐代の伝奇小説である[1]。作者は沈既済(しんきせい)。
 著者の沈既済は、8世紀後半頃の人である。蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の人で、薬を調達する礼部員外郎となった。

 主人公の盧生が、邯鄲(河北省邯鄲市)で、道士・呂翁に出会い、枕を授けられる。その枕で眠りについたところが、まだ黍の飯が炊き上がる前に、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬまでの間の出来事を夢みた。それによって、盧生は人生の儚さを悟った、という話である。

 「邯鄲の枕」「黄粱の一炊」「邯鄲の夢」の故事として、広く知られている。また、明代の湯顕祖が著わした戯曲の『邯鄲記(中国語版)』は、この『枕中記』を元にして作られたものである。」

とある。
 「槐安國」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「中国、唐の李公佐(りこうさ)の「南柯記」に書かれている、想像上の国。→南柯(なんか)の夢」

とあり、「南柯の夢」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「はかない夢。また、栄華のむなしいことのたとえ。槐夢(かいむ)。槐安の夢。[補説]昔、中国で、淳于棼(じゅんうふん)という人が、酔って古い槐(えんじゅ)の木の下で眠り、夢で大槐安国に行き、王から南柯郡主に任ぜられて20年の間、栄華をきわめたが、夢から覚めてみれば蟻(あり)の国での出来事にすぎなかったという、唐代の小説「南柯記」の故事から。」

とある。
 「荘周夢蝶」はいわゆる胡蝶の夢というやつで、『荘子』齊物論第二に、

 「昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。」

とある。
 まあ、要は夢で胡蝶になってるときは胡蝶である事を疑わず、醒めれば荘周となり、やはりそれを疑わない。生まれ変わるというのはそういうことだ、というわけだ。
 「其理有テ妙をつくさず。」という芭蕉の感想は、どれも一理あって不思議だなあ、というところか。別に信じるというのでもなく、世間で言われているのも尤もだくらいのスタンスだろう。
 「わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。」というのは『論語』述而の「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公」、いわゆる「夢に周公を見ず」のことで、孔子が周公をたびたび夢に見ていたなどという立派な夢ではなく、ごく普通の夢だということをやや謙遜して言っている。
 人が何故夢を見るかについて、現代の科学でもはっきりした答はない。人生が夢だというのはあくまで比喩としても、寝て見る夢は未だに科学で解明できないという点では、「陰陽不測」という意味での「神」が心に現れる現象だといっていいだろう。
 それは記憶を整理するためであったり、願望の表れだったりしたとしても、自分ではコントロールすることの困難な、自由にならないものだという点では「神」だ。

2018年6月25日月曜日

 昨日は結局八時に寝て十二時に起き、三時にまた寝るという変則的な睡眠でセネガル戦を見た。やはり眠かった。それに加えて今日は暑かった。
 では『嵯峨日記』の続き。

 「廿七日
 人不来、終日得閑。」

 この日は特に何もなかったようだ。

 「廿八日
 夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚ム。
 心神相交時は夢をなす。陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。 睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆 其理有テ妙をつくさず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」

 芭蕉が杜国と出会ったのは貞享元年の冬、『野ざらし紀行』の旅で名古屋を訪れた時だった。そこで芭蕉は荷兮、野水、重五、杜国、正平らと興行を行い、この時の俳諧は荷兮編の『冬の日』として公刊された。これが芭蕉七部集の最初の集となる。
 その杜国の最初の句は「狂句こがらし」の巻の五句目で、

     かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国

 「朝鮮のほそりすすき」が何を指すのかはよくわからない。韓国にもススキはあり、ネットではハヌル公園をはじめ、色々な地方のススキの美しい風景を見る事ができるが、日本にあるのと同じようなススキだ。ピンクのものを別にすれば。
 その杜国だが、本業は米屋で、ウィキペディアによれば、「貞享二年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった。」とある。
 空米は今でいう先物取引で、一七三〇年には将軍吉宗によって幕府公認の先物取引が行われるようになるが、それ以前にも慣習として広く行われていたと思われる。米相場の安定には欠かせぬものだった。
 多分経済に疎い役人が、先物取引=博打みたいな感覚で安易に禁止する法律を作ったものの、施行してみると杜国のような業界の大物の名が挙がってしまい、尾張藩二代藩主徳川光友の手を煩わすことになったのだろう。
 貞享四年の冬、『笈の小文』の旅の途中で三河の国保美(ほび)に隠棲している杜国のもとを訪ね、

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき  芭蕉

と詠み、さらに伊良胡崎で詠んだ、

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉

の「鷹」も杜国のことではないかとされている。そして翌貞享五年の春、

   乾坤無住同行二人
 よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   芭蕉
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸

と句を詠み交わし、共に旅をすることになる。
 その杜国の訃報を聞いたのが、元禄三年の四月、ちょうど幻住庵に入る頃だった。
 持病の悪化で隠棲し、その間に近江、京都の門人達が頻繁に出入りしては、『猿蓑』の撰でもいろいろと忙しく、忘れかけてた頃に急に夢に現れたのか、目覚めたら涕泣(ていきゅう:涙を流して泣くこと)していた。
 思うに予兆はあったと思う。二十五日の黄山谷之感句で、「杜門覔句陳無己」と「閉門」を「杜門」と書き誤ったあたりに、何か無意識に引っかかるものがあったのかもしれない。この日の丈草の句にも「杜宇啼や」と「杜」の字があった。そうしてものが夢に反映されたのかもしれない。
 ここから先夢談義に入る。

2018年6月24日日曜日

 今日は午前中が雨で午後からが晴。今夜はセネガル戦だが、明日は仕事だからな、無理かな。
 フレデリック・ラルーの『ティール組織』(二〇一八、英治出版)という本を少しづつ読んでいるが、日本はなかなかアンバー組織から抜け出せない。
 思うに近代哲学というのもアンバー組織に対応したもので、多様な欲望や感情に単一の理性が君臨するという霊肉二元論は、アンバー組織そのものだ。
 だから明治の文明開化で西洋の考え方が入ってきたとき、アンバー組織こそが文明の最高のものだという信仰が出来上がったのかもしれない。社会主義も人権思想も基本的にはアンバー組織に対応している。
 中小企業だと日本にはレッドとグリーンの混合型が多いように思える。いわゆる家族的経営というのは、強力な家父長的権威と人情味ある暖かさが共存する。こうした人たちは官僚的なアンバーを嫌う傾向がある。
 働き方改革で問題になっている高度プロフェッショナル制度は、将来日本にもティール組織が広がるなら、年収に関係なく認められる必要があるだろう。反対しているのはアンバー命の連中だし。
 西洋哲学は理性でもって欲望や感情をコントロールすることを要求するが、これは一方で著しく人間の本来あるべき欲望や感情を抑圧し、凡そ生理的に受け入れられないような行為を「汝なしうる」の名のもとに要求する危険がある。ナチスの狂気も感情の爆発ではなく理性の暴走だったし、ディストピアというのもその危険を警告するものだった。

 さて『嵯峨日記』の続き。
 四月廿五の条は更に続く。

 「乙州来りて武江の咄。並燭五分俳諧一巻、其内ニ、

   半俗の膏薬入は懐に
 臼井の峠馬ぞかしこき      其角

   腰の簣に狂はする月
 野分より流人に渡ス小屋一    同

   宇津の山女に夜着を借て寝る
 偽せめてゆるす精進       同

 申ノ時計ヨリ風雨雷霆、雹降ル。雹の大イサ三分匁有。龍空を過る時雹降。
   大ナル、カラモゝノゴ(ト)ク少(小)サキハ柴栗ノゴトシ」

   半俗の膏薬入は懐に
 臼井の峠馬ぞかしこき      其角

 これは連句なので、「半俗」は前句との係りで、多分これは無視してもいいのだろう。膏薬をすぐに取り出せるように懐に入れておくというところから、中山道の難所である碓氷峠を越える時は馬に乗るのが賢明だが、落馬の心配があるので、と付けたのだろう。
 まあ確かに、「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)という半俗の芭蕉さんも杖突坂で落馬している。

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな  芭蕉

の句は貞享四年(一六八七)なので、その時のことを思い脱して、芭蕉さんもクスリと笑ったのかもしれない。膏薬だけに。

   腰の簣に狂はする月
 野分より流人に渡ス小屋一    其角

 「簣(あじか)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「竹・わらやアシなどを編んで作ったかご、ざるの類。」とある。
 ここでは天秤棒で吊り下げる「もっこ」ではなく腰に下げるタイプのもので、漁師の用いる籠であろう。
 月に狂うならその漁師は只者ではない。都から流れてきた高貴な人物であろう。『源氏物語』「須磨」の俤か。

   宇津の山女に夜着を借て寝る
 偽せめてゆるす精進       同

 これは旅の僧の一夜の迷いか。府中宿の西側の安倍川町には遊女がたくさんいたという。
 宇津の山というと『伊勢物語』に、

 駿河なる宇津の山べの現にも
     夢にも人にあはぬなりけり
              在原業平
の歌がある。
 この日は雷が鳴り雹が降る。申の刻は夏至も近い頃なので、今でいえば四時は過ぎている。「三分匁」は一匁が約2.4センチ(寛永通宝の直径)としてその十分の三だから7.2ミリというところか。
 「龍空を過る時」は竜巻が起きたのか。幸い落柿舎に被害はなかったようだが、この時には唐桃大の雹が降ったという。当時の唐桃(杏)は杏仁を取るための薬用だったから今よりは小さかっただろう。梅よりやや大きいくらいか。「柴栗」は自生する栗で二センチくらいか。竜巻も発生したとあっては、かなりの被害があったあったのではないかと思う。
 翌卯月二十六日、芭蕉、丈草、史邦に乙州、去来が加わり、表六句に一句足りない五句の短い俳諧興行を行う(2017年6月3日の俳話を参照)。

2018年6月22日金曜日

 今日は梅雨の中休みか、暑かった。
 それでは『嵯峨日記』の続き。黄庭堅の詩の所からだったか。

   病起荊江亭即事  黃庭堅
 翰墨場中老伏波 菩提坊裏病維摩
 近人積水無鷗鹭 時有歸牛浮鼻過
 閉門覓句陳無己 對客揮毫秦少遊
 正字不知溫飽未 西風吹淚古藤州

 筆と墨のある所には老いた伏波将軍がいる
 釈迦入滅した坊の裏には病んだ維摩居士がいる
 最近の人が集めた水には鷗や鷺は居ず
 時々帰る牛の浮かんだ鼻先が行く
 門を閉ざし良い句をひねる陳無己に
 客を前にして筆を揮う秦少游
 正しい字も知らずにぬくぬくとしているうちに
 涙に秋風が吹くいにしえの藤州

 陳師道が名利を求めずに門を閉ざしてひたすら詩作に没頭し、秦少遊は客の求めに応じて気軽に筆を揮った。どちらの生き方にも惹かれるものがある。
 「正字不知」はそれにひきかえ我が身はという黄庭堅の謙遜だろうか。
 芭蕉もまた、一人庵に籠って発句を練ることもあっただろうし、連句は連衆の前で即興で句を繋いでゆく。
 芭蕉はこの二年後の元禄六年の七月、病気療養のため「閉関之説」を書き、一ヶ月ほど閉門する。その時の句は、

 あさがほや昼は鎖おろす門の垣  芭蕉

2018年6月20日水曜日

 見たか僕等の御霊(みたま)、そんな感じの昨日の試合だった。今朝の新聞にも「サムライ魂」の文字が躍っていた。
 とはいえ今日は一日雨で、時折強く降った。
 では『嵯峨日記』の続き。

 もう一首の漢詩は「尋小督墳(こがうのつかをたづぬ)」だ。
 小督(こがう)の塚については2017年5月29日の俳話でも書いたが、今は渡月橋の北岸を西に行ったところにあるが、かつては臨川寺の近く、松尾の竹の中にあったという。『嵯峨日記』には「松尾の竹の中に小督(こがう)屋敷と云有」とある。「都(すべ)て上下の嵯峨ニ三所有、いづれか慥(たしか)ならむ。」とあるように、三つある候補の内の一つだったようだ。
 小督はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にこうある。

「一、中納言藤原成範(ふじわらのしげのり)の娘。高倉天皇に愛されたため、建礼門院の父平清盛によって追放された。小督の局(つぼね)。生没年未詳。
二、謡曲。四番目物。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。高倉院の命を受けた源仲国が、名月の夜に嵯峨野(さがの)法輪寺辺で、琴の音に導かれて小督の局を捜しあてる。」

 さて、その詩を見てみよう。

   尋小督墳      丈艸
 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風
 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て、
 一輪の秋の月に田舎の村の風
 昔僅かに得た琴の音を探す
 一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに

 高倉帝に愛された小督は清盛の怒りを恐れて、嵯峨野法輪寺のあたりの竹薮に身を隠す。「強」はこの場合「強いて」ではなく「強く」の方か。
 さあ、それでは超訳してみようか。チェキラッ、

 恨み取り乱して出た後宮
 秋の月一つ田舎は風ぴゅうぴゅう
 昔かすかに聞いた琴の音を探し
 その物語の舞台はどこ?竹林に墓一つ
 
 まあ、丈艸の詩は上手いとは言えないが、俳諧漢詩としてはこれでいいのだろう。
 次の史邦の発句、

 芽出しより二葉に茂る柿の実  史邦

は2017年6月3日の俳話にも書いたので、重複するが、「實」を「み」と読んでしまうと柿の実は秋になってしまうのでここでは「さね」と読む。新芽の枝、くらいに考えた方がいいか。
 芽吹いてきた柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生えてくる。
 この句の季語は「茂る」で夏。近代では「柿若葉」という夏の季語があるが、この時代にはない。

   途中吟
 杜宇啼や榎も梅櫻    丈艸

 ホトトギスが啼く頃には梅や桜は終っているが、榎の立派に枝を広げた姿は梅や桜にも劣らない。
 最後の、

   黄山谷之感句
 杜門覔句陳無己 對客揮毫秦少游

というのは、芭蕉が目を留めた黄山谷(黄庭堅)の詩句という意味か。
 オリジナルは、

   病起荊江亭即事  黃庭堅
 翰墨場中老伏波 菩提坊裏病維摩
 近人積水無鷗鹭 時有歸牛浮鼻過
 閉門覓句陳無己 對客揮毫秦少遊
 正字不知溫飽未 西風吹淚古藤州

2018年6月19日火曜日

 今日はこれから日本=コロンビア戦なので早めにアップ。
 『嵯峨日記』四月二十五日。

 「廿五日
 千那大津ニ帰
 史邦・丈艸被訪

   題落柿舎      丈艸
 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居
 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

   尋小督墳       同
 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風
 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 芽出しより二葉に茂る柿の実  史邦

   途中吟
 杜宇啼や榎も梅櫻    丈艸

   黄山谷之感句
 杜門覔句陳無己 對客揮毫秦少游」

 二十四日の記述はなく、二十五日に飛ぶ。「千那大津ニ帰」とあるから、前日に千那が来たのか。入れ替わりに史邦と丈艸(丈草)が尋ねて来る。
 その丈草が漢詩を二首残してゆく。一つは、

   題落柿舎      丈艸
 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居
 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

 よく見れば峨峯には鳥や魚がいて
 荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ
 枝の先には今は赤い龍の卵はなく
 青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ

 「深對」は真剣に向きあうという意味だが、それだと重すぎるので「よく見れば」とする。
 「峨峯」は嵯峨の山で小倉山のことか。嵯峨という地名から四川の峨眉山を連想したのかもしれない。ただ、山の高さは大分違う。
 「伴鳥魚」は鳥や魚と一緒ということで、自分と一緒というよりは山に一緒にいるという意味だろう。
 「就荒」は就職が職に就くことを言うように、荒れた状態に就くということ。「野人」の「野」は「雅」に対しての言葉で、野卑な田舎物という意味。
 「赤虬」の虬は日本では「みづち」と訳されるが、龍の一種。柿の実をレッドドラゴンの卵に喩えて言っているのだろう。
 最後の一行は意味がよくわからない。せっかく来たのに柿の実がなかったので、柿の青葉を題材にして何とか漢詩を書いてみたということか。
 思い切って韻を踏んで超訳すると、

 よく見りゃ嵯峨の峯鳥や魚が一緒
 荒れ放題で田舎もんの家になるのも一興
 柿の枝にレッドドラゴンの卵はなくて
 せめては青葉を題に詩を作り書を学びましょ

てな感じか。

2018年6月17日日曜日

 今日は雨は止んだが一日曇り、やはり眠い。
 日本代表はカザンでベースキャンプ。いいなあ、タタールスタン共和国。
 Aq bure,Grai,Alkonost,Ruyan,Baradj,行ってみたいな。
 ではようやく『嵯峨日記』の続き。

 「廿三日
 手をうてば木魂に明る夏の月
 竹(の子)や稚時の絵のすさみ
 麦の穂や泪に染て啼雲雀
 一日一日麦あからみて啼(雲雀)
 能なしの眠たし我をぎやうぎやうし

   題落柿舎    凡兆
 豆植うる畑も木部屋も名所かな

 暮に及て去来京より来ル。
 膳所昌房ヨリ消息。
 大津尚白より消息有。
 凡兆来ル。堅田本福寺訪テ其(夜)泊。
 凡兆京に帰ル。」

 手をうてば木魂に明る夏の月  芭蕉

 この句は夏の夜がいかに短いかをかなりオーバーに喩えたもの。手をうってその木魂が帰ってくる一瞬の間に夜が明けてしまったようだ、とさすがにそこまで短くないだろう、と聞く人に突っ込ませながら、「明る」を月の明るさにも掛けて夏の月で結ぶ。

 夏の夜や木魂に明くる下駄の音 芭蕉

が初案だったようだ。これも何の下駄の音なのかはよくわからない。何か音の出る小道具が欲しかったのだろう。この句は草稿で抹消されている。
 昨日の暮れに去来がやってきて、江戸からの便りを持ってきて、そこから色々話し込んだのだろう。あっという間に朝になり、去来は帰って行く。その時の下駄の音かもしれない。
 去来が来て嬉しくて手をうって、その木魂が帰ってくるか帰ってこないかのうちに朝が来てしまったようだという、楽しい時のあっという間に過ぎることをやや大袈裟に表現したのかもしれない。

 手をはなつ中におちけり朧月   去来

は後に去来の読む句で『去来抄』にあるが、朧月だと春の月で、何でそんなに早く月が沈むのかわかりにくいが、魯町との別れを惜しんで、明け方見送る時になかなか手を放すことができないことを、手を放せないうちに月が沈んでしまったとしたもの。

  竹の子や稚時の絵のすさみ   芭蕉

 単に芭蕉が個人的に幼い時に竹の子の絵を書いたというだけなら、そんな面白い句でもない。多分あるあるネタとして、字の練習の合い間にこっそりと竹の子の絵を描いた記憶が誰しもあるのではないか、という句ではないかと思う。
 多分上から下に筆を下ろし、下が太い三角形を重ねてゆくというものだと思う。竹の子と、すくすく育ってゆく子供の姿とが重なって清々しい。

 麦の穂や泪に染て啼雲雀     芭蕉

 嵯峨野のあたりにも麦畑があったのだろう。夕日に染まる麦畑は黄金色に輝き美しい。夕暮れの空に鳴く雲雀の声が聞こえてくれば、あの雲雀の泪に染まったかのようだ。

 一日一日麦あからみて啼雲雀   芭蕉

 前句に被っているので、これは初案が抹消されずに残ったものかもしれない。

 能なしの眠たし我をぎやうぎやうし 芭蕉

 なかなかラッパーのように韻を踏んだ句で、リズムがいい。
 ぎゃうぎゃうしは曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草(上)』(二〇〇〇、岩波文庫)の夏の所に、

 「剖葦鳥 蘆原雀(よしはらすずめ)、蘆鶯(よしうぐひす)、葭剖(よしきり)[和漢三才図会]蘆虎(兼名苑)、蘆原雀、葭剖、蘆鶯(以上俗称)按ずるに、状(かたち)、倭の鶯に似て、大さ雀の如し。青灰の斑色。長き尾、田沢、芦葦の中に在て、好んで葦中の虫を食ふ。其鳴声、喧(かまびすし)く亮(さやか)也、云々。故に此名あり。」

とある。ぎやうぎやうしはヨシキリのことで、芦の中でギャギャギャギャッとかしましく泣くところからギョウギョウシと呼ばれていた。形容詞の「仰仰し」と関係があるのかどうかはわからないが、似た言葉は意味も吊られてしまうことがある。
 「能なし」は夜更かしして一日だらだら過ごす自分を自虐的にそう言ったのか、寝てばかりいる自分を起すかのようにヨシキリがギャーギャー騒いでる。「眠たし」は終止形なので、ここに句切れがあり、「我をぎゃうぎゃうし(が起そうとする、眠らせてくれない)」と続く。

   題落柿舎    凡兆
 豆植うる畑も木部屋も名所かな

 このあとに「凡兆来ル。堅田本福寺訪テ其(夜)泊。」とあるから、その時に持ってきた句だろう。堅田本福寺は今の琵琶湖大橋の西側にある。この程度の距離は一日で行き来できたのだろう。
 芭蕉の「汁も膾もさくら哉」の句に似てなくもない。花の下では汁も膾も特別なものになる。それと同じように嵯峨の落柿舎では豆畑も薪を置く木部屋も名所のようだ。ただ、これは嵯峨野という名所にあるからというのではなく、芭蕉さんがいるからという意味だろう。もし現在も豆畑と薪小屋が残っていたら、間違いなく観光名所だ。
 凡兆は『去来抄』で、

 桐の木の風にかまハぬ落葉かな  凡兆

の句が芭蕉の、

 樫の木の花にかまわぬ姿かな   芭蕉

の句に似ていることが指摘されているが、言葉のつながり具合が似ているだけで意味はまったく違うので等類ではないと判定されている。
 暮れには凡兆だけでなく、去来も来る。また賑やかな夜になりそうだ。

2018年6月16日土曜日

 一昨日、昨日とついワールドカップの誘惑に負けて『嵯峨日記』の方はお休みしてしまったが、今日もちょっとお休みして、RADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞の話でお茶を濁させてもらおうかと思う。
 言葉というのはどういう意味にでも取り成せるもので、それは連句から学ぶことができる。一つの言葉が文脈によって思いがけない意味になるのは、遊びの範囲なら面白いし、それをゲームにした御先祖様の心はこれからも守っていきたい。
 歌の歌詞なんて皆が自由に解釈すればいいじゃないかと言われれば、確かにそのとおりだが、ただ解釈の自由を盾にとって、一つの言葉を切り取って意図的に違う意味を持たせることで印象操作を行ったり、ヘイトでないものをヘイトだと言い立てて反日感情を煽るのに利用したり、ということになると放っておくわけにはいかない。そういうものを見抜く目を養うのも、連句の一つの効用ではないかと思う。
 本当は全部の歌詞を逐一辿っていきたいが、著作権の問題もあるので、そこは大体の流れがわかる程度に留めておこうと思う。全部の歌詞を読みたい人はhttp://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.htmlで読めます。
 先ず冒頭の「風にたなびくあの旗に」だが、昔は祝日になると門の前に日の丸の旗を掲げる家があったが、最近ではほとんど見なくなった。風にはためく国旗の実物をみることは今の日本では滅多にない。
 多分、この冒頭の歌詞から多くの人が思い浮かべるのは、NHKテレビの放送終了時に流す君が代の時に映し出される旗の映像ではないかと思う。
 この曲バックでずっと響くトーーーン、トーーーンというドラムの音も、おそらくこの君が代の盛り上がるところで鳴るドラムの音のイメージがあるのではないかと思う。
 この音は多分、お祝いの時の武装解除を意味する空砲(祝砲)の音なのではないかと思う。学校の運動会の朝に鳴らす打ち上げ花火の音にも似ている。
 風に靡く旗は実際に見るとすれば、あとは競技場であろう。
 『HINOMARU』は前にも書いたようにフジテレビ系のロシアワールドカップのテーマ曲『カタルシスト』のカップリング曲で、テレビの画像から競技場への場面の移りは自然だ。
 そこで「胸に手をあて見上げれば、高鳴る血潮、誇り高く」とサッカーの試合の前で選手達が胸に手を当てて国歌を歌う姿が思い浮かぶ。
 問題なのはそのあとだろう。
 「この身体(からだ)に流れゆくは、気高きこの御国(おくに)の御霊(みたま)」
 実は今ワープロを打って気付いたのだが、「みたま」を変換すると「御霊」という文字がすぐに出てくる。しかし、この文字は「ごりょう」と読むとまったく違う意味になる。意図的か、それともバイアスによってそう読めてしまったのかはわからないが、ここが「軍歌」と言われるようになった重要な部分だったと思う。
 「御国」は「国」に対して敬意を込めた言い方で、戦前・戦中は「お国のために」という言い回しが多くなされたが、「御国」自体には特に皇国だとか帝国だとかを限定して言う言葉ではない。「御」は基本的にただの丁寧語としてあらゆる名詞に付けることができるし、尊敬の意味が込められていても、皇室への敬意に限定される言葉ではない。普通に相手の故郷を尋ねるときに「御国はどちらですか?」と言ったりもする。
 「みたま」も基本的には魂を意味する「たま」に敬意を込めた「み」をつけただけのもので、「みたま」という言葉は仏教でもキリスト教でも用いる。おそらくこの場合は「大和魂」のことだと思われる。この場合の魂は気概というような意味で、アメリカ魂だとか韓国魂だとかいうこともある。特にサッカーでは「ゲルマン魂」という言葉がドイツ代表を形容するのに用いられる。
 ただ、これを「ごりょう」と読むとまったく違った意味になる。もちろん歌でははっきりと「みたま」と発音しているから、ここでは「ごりょう」のことではない。「御魂」と変換していればよかったのだが、そこはあまり考えずに、多分機械的に変換してしまったのだろう。
 御霊(ごりょう)は怨霊と同じで、非業の死を遂げた魂をいう。古来人々はその怨念が天変地異などを引き起こすことを恐れ、神として祀ってきた。御霊神社は全国にあり、靖国神社も御霊神社の系譜を引く招魂社から発展したものだった。靖国神社に祀られている英霊も基本的には御霊で、「英」は本来「はなぶさ」であって、花のように儚く散っていった霊という意味だった。
 『HINOMARU』の歌詞を軍歌だといって告発した人たちは、この部分を皇国の英霊が体の中に流れていると解釈しているが、これは明らかに曲解だ。「御霊(ごりょう)」という言葉は一般にはほとんどなじみがない。文脈からいってもサッカーの応援歌からいきなり靖国の英霊にもってゆくのは唐突過ぎて不自然だ。
 そして、そのあとBメロの「日出づる国の御名(みな)の下に」と続くが、「御名」は天皇の名ではない。
 日本ではまず在位中の天皇を名前で呼ぶことはない。多分「天皇の名は。」と聞いても答えられない日本人も多いのではないかと思う。「御名」という言葉は「神の御名において」というふうに用いられるように、通常はその前に来る言葉の名をあらわすもので、独立で用いられたりはしない。この場合は「日出づる国」という名前に掛けて、という意味。「日出づる国の名のもとに」に丁寧語に「御」とつけただけと見た方がいい。
 「日出づる国」は聖徳太子が隋の皇帝に宛てた親書の中で用いた言葉で、日本が隋に対等な関係を要求し、朝貢しなかったことの証しだが、「日本」という国名とともに日本が太陽の国でありことを意味する。
 この部分だけが歴史的仮名使いなのは簡単な理由で、この言葉は引用だからだ。
 そしてサビへとゆく。前にも書いたように「強き風吹けど」は台風、「遥か高き波がくれど」は東日本大震災の津波を意味し、自然災害の困難な状況をも体に流れる大和魂(日本人としての気概)と日の昇るような勢いで頑張ろう、という意味になる。
 「僕らの燃ゆる御霊は挫(くじ)けなどしない」という文脈からしても、「御霊」は英霊の意味ではない。英霊は非業の死を遂げた怨霊なのだから「僕らの」なんて言葉を冠したりはしない。「僕らの英霊」なんて言葉は聞いたことがない。「僕らの大和魂は挫けなどしない」なら自然な言い回しになる。
 二番は優しき母、父の教えで始まり、そこいから受け継がれる歴史は「伝統」という言葉がしっくり来る。御先祖様の作った素晴らしい文化を受け継いでいるのだから「恐れるものがあるだろうか」という励ましになる。
 「ひと時とて忘れやしない、帰るべきあなたのことを」とここで割りと唐突に「あなた」が登場するが、これは拉致被害者の帰りを待つ被害者家族の立場に成り代わって発せられた言葉ではないかと推測している。ただ、次の一行との整合性があまりないので、朝鮮半島統一のムードに乗って、無理矢理挿入された可能性はある。
 「守るべきものが、今はある」「沸(たぎ)る決意」は特に何を守るのか、何を決意しているのか、はっきりしない。これは皆がこの歌を口ずさむ時、それぞれの思いを重ね合わせられるように、あえて曖昧にしたのだと思う。人それぞれかなえたい夢や達成したい目標がある。それを特に何とも限定せずにそれぞれ皆が困難を乗り越えていけるようにと応援する。それでこそ応援歌だ。
 この歌は軍歌などではないし、もとより戦争や差別を煽るような表現はどこにもない。
 ヘイトスピーチというのは差別や排除や脅迫や侮蔑などの表現であって、この歌には何一つそのようなものはない。単なる応援歌だ。作品内容を強引に曲解した上で、ヘイトスピーチの定義まで拡大解釈して告発することを許したなら、それは当然ながら言論の自由に対する大きな脅威となる。それは絶対に認めるわけにはいかない。
 なおRADWIMPSにはもう一つ日本のことを歌った唄がある。『にっぽんぽん』という歌で、歌詞はhttp://j-lyric.net/artist/a04ac97/l02e9f4.htmlにある。自分の国の名を「にっぽんぽん」なんて茶化して歌うような人が、軍歌なんて作ると思うか、考えなくてもわかることだ。
 思うにタイトルを『TAEGUEKGI』に変え、「日出づる国」を「東方礼儀之国」に変えれば、韓国人が歌ってもいいのではないかと思う。

2018年6月13日水曜日

 横井庄一という懐かしい名前を久しぶりに聞いた。まだ小学生の頃だったと思う。グアム島のジャングルで二十八年間戦争が終ったのも知らずに隠れ住んでいて、一九七二年に発見され話題になった。
 「恥ずかしながら帰って参りました」は当時の流行語になり、テレビのバラエティー番組をはじめ、しばらくの間いろいろな場面でパロディーにされたりし、物まねの定番にもなった。
 後の横井庄一さんのインタビューで、自分の物まねがあちこちでされていることについて、みんな敬礼をしているけどあれは小野田さんの方だと言っていたのが印象に残っている。
 確かに今回話題になっている「ワンピース」の横井さんの絵も敬礼をしている。小野田さんと間違えている。多分、尾田栄一郎をディスっている人も小野田さんと間違えているのではないかと思う。
 横井庄一は自分で服を作ったりしていて、発見された時は裸足でみすぼらしい手製の服を着た姿だった。
 これに対し二年後の一九七四年にフィリピンのルバング島から帰還した小野田少尉は、中野学校出のエリートで、しっかりと軍服を着、銃も撃てる状態に手入れされていた。帰ってきたときには背筋をピンと伸ばし、しっかりと敬礼している。この二人については、グーグルで画像を検索してみるといい。

 それでは『嵯峨日記』の続き。
 曲水の句はもう一句あった。

 「又いふ、我が住所、弓杖二長計にして、楓一本より外は青き色を見ず、と書て、
 若楓茶色になるも一盛    曲水」

 これも元歌がある。

 散はてし桜が枝にさしまぜて
     盛りとみするわかかへでかな
              藤原為家(夫木和歌抄)

 若楓は鮮やかな新緑だし、「楓一本より外は青き色を見ず」とあるように青々としていた。それが茶色になるというのは病葉 (わくらば)だろうか。
 青々とした今を盛りの若楓が和歌なら、それに病葉 (わくらば)が混じってるのを見つけるのが俳諧といったところか。
 弓杖二長は弓二本分の長さという意味で、ウィキペディアによれば、「和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221cm)が標準と定められている」とある。二長は約442cm、442cm四方の部屋ということになれば、十二畳半だが楓一本のある庭も含めてということなら、十畳くらいか。
 さらに、嵐雪からの手紙に発句二句があったようだ。

   「嵐雪が文ニ
 狗背の塵にえらるる蕨哉
 出替りや稚ごごろに物哀

 其外の文共、哀なる事、なつかしき事のみ多し。」」

 『和漢朗詠集』に、

 紫塵嬾蕨人拳手 碧玉寒蘆錐脱嚢
 紫の塵のように物憂げな蕨は人の拳に似ていて
 碧玉のような初春の蘆は錐のように袋を破る

とある。和歌にも、

 武蔵野のすぐろかうちのした蕨
     まだうらわかしむらさきの塵
             藤原長方(夫木和歌抄)

と詠まれている。
 蕨市の名の起源として、

 武蔵野の草葉にまさるさわらびを
     げにむらさきの塵かとぞみる
             慈鎮和尚

の歌がネットに見られるが、出典は不明。歌の内容も『和漢朗詠集』に寄りすぎている感じがする。
 蕨は古来紫の塵に喩えられてきたが、ここでは狗背(ぜんまい)取りをしていると、蕨が混じっていて塵として選り分けられる、とする。
 江戸時代は乾燥ゼンマイが大量に流通していた。池谷和信の「江戸時代から明治初期にかけてのゼンマイ生産」というpdfファイルによれば、「元禄8年(1695)刊行の「本朝食鑑」には、『ゼンマイは近世食すること流行す』と書かれている」という。
 出替りの句は、三月五日に奉公人の入れ替えがあって、半年・一年慣れ親しんだ奉公人が去ってゆけば、年少の丁稚も哀れに思うというもの。人情句だ。

2018年6月12日火曜日

 米朝首脳会談、今回はまだ顔見世というところかな。この流れを途切れさせないためには、今後のスピーディーな展開が要求されるし、最終的には彼岸の南北統一にもっていって欲しい。まあ、北朝鮮内部にも北朝鮮という国がかたくなに守ろうとする勢力は入るし、日本にだって反米の最後の砦を守れという声はある。だが、そこは夢の国ではない、現実のことも忘れないで欲しい。
 ところでRADWIMPSはラジオで「へっくしゅん」を聞いた頃から好きなバンドで、二〇〇五年九月三日のセプテンバーさんのコンサートに行ったのは良い思い出だ。
 今度の曲、カタルシストはフジテレビ系のロシアワールドカップのテーマ曲で、そのカップリング曲のHINOMARUも基本的には応援歌だ。
 「胸に手をあて見上げれば、高鳴る血潮、誇り高く」のフレーズは誰しも試合開始前のあの胸に手を当てて国家を歌う場面を想像するだろう。
 サビの部分の「どれだけ強き風吹けど、遥か高き波がくれど」が、毎年のように日本を襲う台風と、東日本大震災の津波のことだというのは日本人ならすぐにわかることだ。この歌はサッカーに限らず、震災復興の応援歌でもある。
 一部の心ない人たちが歌詞を変な風に曲解して騒ぎ立てているのは残念なことだ。
 ネットで見た辻田何ちゃらの説も、こんな読解力皆無でよく文筆家なんて名乗れるのか不思議だ。口語と文語がごっちゃになっていることをディスってるが、たまたま少しくらい文語を知ってるからって得意になられても困る。
 口語の中に文語の文章を挟んだりその逆をしたりするのは、江戸時代の俳文の雅語と俗語をまぜこぜにして書いた頃からの伝統で、今日のJ-popの歌詞では何ら珍しいことではない。サザンの「愛の言霊」の歌詞でも読んで見ればいい。
 和文、漢文、俗文を区別せずに一つの文章の中に取り入れたことが、後に明治になって西洋の語彙を取り入れるのに重要な役割を果たしたことを考えると、今日の日本の繁栄のもとはこうした色々な文体を貪欲に吸収できる日本の雅俗混淆の文体にあったのではないかとすら思える。
 その雅俗混淆の文体、俳文の誕生の瞬間を、今まさに「幻住庵記」や『嵯峨日記』に見ようとしている。
 そういうわけで、昨日は暮に去来がやってきた所で終わった。ここから去来が時間を得て、芭蕉が時間を失うことになる。

 「乙州ガ武江より帰り侍るとて、旧友・門人の消息共あまた届。其内曲水状ニ、予ガ住捨し芭蕉庵の旧き跡尋て、宗波に逢由。

 昔誰小鍋洗しすみれ草」

 乙州(おとくに)は近江の人で、智月の弟。幻住庵の頃から芭蕉の世話をしていた。その乙州が江戸から帰り、江戸の門人の消息を色々と持ち帰ってくれた。その中に曲水からの手紙があった曲水は芭蕉の幻住庵を提供したその人だ。膳所藩の家臣だが、江戸で勤務していた。元禄二年の暮には膳所にいて幻住庵提供の話が出ていたが、その後まもなく江戸に下り、この頃もまだ江戸にいた。
 その曲水が、雛の家になった第二次芭蕉庵を訪ねたのであろう。宗波は本所定林寺の住職だという。『鹿島詣』に同行した「水雲の僧」だ。

 昔誰(たが小鍋洗(あらひ)しすみれ草 曲水

の句は『猿蓑』入集のときには、

 菫草小鍋洗しあとやこれ   曲水

になる。

 むかし見し妹が垣根は荒にけり
     つばなまじりの菫のみして
              藤原公実

が元になっているが、ここでは妹ではなく芭蕉さんが鍋を洗った跡ということになる。芭蕉は伊賀藤堂藩の料理人だったこともあり、料理にはうるさかったようだ。牡蠣の季節になるとガラガラと牡蠣を炒る音が聞こえたという。
 「妹が垣根」というと、

 妹が垣根三味線草の花咲きぬ 蕪村

の句も思い浮かぶ。この句については鈴呂屋俳話2017年12月15日を参照のこと。

2018年6月11日月曜日

 今日も一日雨が降った。
 元禄四年の四月二十二日は「朝の間雨降」とある。前日の夕方に去来も帰り、芭蕉は一人で「幻住庵記」の清書をしている。「けふは人もなく、さびしきままにむだ書してあそぶ。其ことば、」とあり、いわゆる日記と離れて、ここから先は短い俳文になる。

 「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。さびしさなくばうからましと西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる

 山里にこは又誰をよぶこ鳥
     獨すまむとおもひしものを

 獨住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰、客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふと。素堂此言葉を常にあはれぶ。予も 又、

 うき我をさびしがらせよかんこ鳥

とは、ある寺に独居て云し句なり。」

 ここまでが日記と独立した「むだ書」であろう。
 「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。」は『荘子』雑編「漁父」の「飲酒以樂為主,處喪以哀為主」から来ている。
 孔子が漁父に学ぶという場面設定は、どこか同時代の『楚辞』の「漁父辞」を思わせる。何か元ネタになる伝承があったのかもしれない。まあ、とにかく酒を飲めば楽しくなり、喪に服すれば悲しくなるのは人間の自然の情だというところだろう。
 「さびしさなくばうからましと西上人のよみ侍る」は、

 とふ人も思ひ絶えたる山里の
    さびしさなくば住み憂からまし
                 西行法師

という西行の高野山修行時代の歌だという。西行で高野山というと、其角の『猿蓑』の序のときに出てきた『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」というのがあった。(鈴呂屋俳話2016年11月8日)
 寂しさと憂さの関係はこれまでも何度か述べてきたが、浮世の交わりは「憂さ」で、浮世を離れれば「寂しさ」になる。寂しくなる所までいかない隠棲は、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇

になる。その西行の歌を引用する。

 山ざとに誰を又こはよぶこ鳥
     ひとりのみこそ住まむと思ふに
               西行法師

 「よぶこ鳥」はツツドリのことで、鈴呂屋俳話2016年10月30日を参照のこと。「来よ」と鳴く。独りで寂しく過ごそうと山に籠るのだが、そこでも「来よ」と呼ぶ声がする。
 長嘯隠士は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。

 鉢叩あかつき方の一こゑは
     冬の夜さへもなくほととぎす
                 長嘯子

の歌から、芭蕉は、

 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

の句を元禄二年に詠んでいる。(鈴呂屋俳話2018年1月28日)
 その長嘯子は「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と言ったという。ヤフー知恵袋のlie********さんによると、

 「宋の大詩人蘇東坡(蘇軾)が師友の仏印和尚と散歩したとき、蘇東坡が「竹院ニ過テ僧ニ逢テ話レバ 又浮生半日ノ閑ヲ得タリ。」と言うと、仏印は「学士ハ閑半日ヲ得タリ。老僧ハ忙了スルコト半日。」と言ったという故事からきたもの。
 また この会話は有名な漢詩 李渉「鶴林寺」を踏まえたものです。」

とある。

   題鶴林寺   李渉
 終日昏昏醉夢間 忽聞春盡強登山
 因過竹院逢僧話 又得浮生半日閑

 一日中昏々と酔っ払って夢を見ていたが、
 春ももう終るとはっと気付いて山のお寺に行ってみた。
 竹林の中の書院で僧と雑談して過ごしたら、
 儚い人生の半日ばかり閑をつぶすことができた。

 李渉は半日暇つぶしができても、僧はその分自分の時間がなくなったというわけだ。
 そしてここで一句。

 うき我をさびしがらせよかんこ鳥 芭蕉

 これは鈴呂屋俳話2018年5月30日に書いたが、元禄二年秋の九月に、

   伊勢の国長島、大智院に信宿す
 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺   芭蕉

の改作だった。
 「幻住庵記」の清書の際、「かつこ鳥我をさびしがらせよ」をカットして、この句を『嵯峨日記』の方に組み込んだのだろう。
 このむだ書のあと、日記に戻り、
 「暮方去来より消息ス。」となる。

2018年6月10日日曜日

 今日は旧暦の四月二十七日。元禄三年の芭蕉は幻住庵に滞在し、元禄四年の芭蕉は落柿舎に滞在していた。
 今日は台風の影響で午前中から雨がぽつぽつと降ってきて、午後に本降りになった。眠かったので長い昼寝をした。

 『嵯峨日記』の四月二十一日のところに、「幻住庵記」の清書のことが書かれている。

 「廿一日 昨夜いねざりければ、心むつかしくて、空のけしきもきのふに似ズ、朝より打曇り、雨折々音信(おとづれ)れば、終日(ひねもす)ねぶり付たり。暮ニ及て去来京ニ帰る。今宵は人もなく、昼伏たれば、夜も寝られぬままに、幻住庵にて書捨たる反古(ほご)を尋出して清書。」

 前夜は去来が兄嫁から託された菓子・調菜を持ってきて、羽紅夫婦と飲み明かしたのだろう。明け方に羽紅夫婦は帰り、芭蕉と去来はそのまま一日うだうだと過ごしたようだ。雨の降る日は眠たいものだ。
 江戸時代になると今日のような甘いお菓子も作られるようになったが、ここでは本来の意味での木の実などではないかと思う。調菜も多分酒のおつまみになるような、野菜に簡単な調理をほどこしたものであろう。
 凡兆と羽紅は「羽紅夫婦」であり、今のような野沢夫婦という呼び方はなかった。凡兆の姓についてはウィキペディアには「姓は越野、または宮城、宮部とも」とあり、いずれも本来の意味での「姓」ではないし、武家のような正式な「苗字」でもなく、通名のようなものであろう。
 夕方に去来が帰り、夕方になったようやく起き上がると、今度は目が冴えてしまい、幻住庵で書き捨てた反古を取り出して清書したという。あれから一年経っている。
 幻住庵記の一番最初の元となった文章は、元禄三年四月十日付如行宛書簡で、その中に、

 「此度住る処は石山の後、長良山之前、国分山と言処、幻住庵と申破茅、あまりに静に風景面白候故、是にだまされ、卯月初入庵、暫残生を養候。比良・三上・湖上不残、勢田の橋めの下に見へて、田上山・笠とりに通ふ柴人、わが山の麓をつたひ、岩間道・牛の尾・長明が方丈の跡も程ちかく、愚老不才の身には驕過たる地にて御座候。されども雲霧山気病身にさはり、鼻ひるにかかりてゐ申候へば、秋末まではこたえかね可申候。身骨弱に而、つま木拾ひ清水汲事はいたみて口惜存候。」

とある。山々の列挙や笠とりの柴人など、既に「幻住庵記」の片鱗がある。
 その後、幻住庵滞在中に少しづつ書き進み、幻住庵を出たあと、「幻住庵ノ賦」が成立したのだろう。最後に庵を出るところが記されているから、その後だと思われる。
 これを順序を改め、幻住庵から出る場面をカットし、一日の記とした最終稿はこの頃に成立したのかもしれない。
 奥の細道の旅の終わりから庵を出るまでの時系列を追った紀行文的な体裁の「幻住庵ノ賦」から一日の出来事として切り取る日記的な体裁に改めたのは、『嵯峨日記』を構想した時に重なっていたのかもしれない。ただ、紀行文はこの次の年、江戸に帰ってから今の形に仕上がっている。草稿が書き溜められたのは幻住庵の頃だったのかもしれない。『笈の小文』の風雅論が生まれ、当初は「幻住庵記」に加えようとして、後にカットされたことから、平行して書かれていた可能性はある。

2018年6月8日金曜日

 安倍首相が是枝監督のパルムドール受賞に賛辞を送らなかった理由がようやく見えた。監督の方が辞退したからだ。
 国民栄誉賞を送るときは辞退されないように事前に打診して、受け取ってくれる人かどうか確認するという。だからあんなに活躍しているのにという人が何で国民栄誉賞を貰わないんだろうという人は、たいていはこの打診の段階で辞退しているという。
 賛辞を送る場合もそうした根回しがあり、監督が拒否したため賛辞がなかった、あるいは事前の調査で、そういうものを求めるような人ではないというのがわかっていてあえて声をかけなかったか、そう考えるのが一番自然だろう。
 さてそれでは「幻住庵記」の続き。

 そしてここで一句、

 先づ頼む椎の木も有り夏木立  芭蕉

 椎の木に一体何を頼むのかというと、夏ということもあってやはり日影を作ってくれることだろう。
 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、三つの歌が引用されている。

 ならびゐて友をはなれぬこがらめの
     ねぐらに頼む椎の下枝
              西行法師
 立ちよらむかげとたのみし椎が本
     むなしき床になりにけるかな
              『源氏物語』椎本
 片岡のこの向つ峯に椎蒔かば
     今年の夏の陰に並みむか
            詠み人知らず(万葉集)

 椎の木の本意は木陰で休むことで間違いない。
 それに加えて椎の木に『荘子』の言う「無用の用」の意味も含めていたかもしれない。
 芭蕉の時代よりやや後になるが、『和漢三才図会』には、

 「凡そ椎の木心は白樫に似て粗く理(きめ)微黒、堅に似て蛙(むし)いり易く屋の柱と為すに堪えず、唯(ただ)繊(ほそ)長き木を用ふ、椽の用と為す、俗に椎丸太と云ふ」

とある。建材には適さないから椽(たるき)として用いるとあり、まったく役に立たないわけではないが、建材としてはあまり上等なものではなかった。
 『荘子』「逍遥遊篇」には、

 「恵子、荘子に謂いて曰く、吾(われ)に大いなる樹あり。人は之を樗(おうち)と謂う。其の大本は擁腫ちて(ふしくれだちて)縄墨(すみなわ)に中らず(あたらず)、その小枝は巻き曲がりて規(ぶんまわし)と矩(さしがね)に中らず、之を塗ばたに立ておくも匠者(だいく)の顧みるものなし。今、子(きみ)の言(ことば)も大きくはあれど用うるすべ無し。衆の同じく去る所なりと。
 荘子曰く、子(きみ)は独りいたちを見ざるか。身を卑めて(かがめて)伏せ、以て敖ぶ(あそぶ)者を候い(つけねらい)、東西に跳梁し、高きところも下きところも避けず、ついに機辟(わな)に中り(はまり)、罔罟(あみ)にかかりて死す。今、かのくろ牛は其の大いなること天に垂れる雲の若し(ごとし)。此れ能(まこと)に大いなれども鼠を執うる(とらうる)ことは能くせず。今、子に大いなる樹ありて、其の用うるすべ無きを患うる(うれうる)も、何ゆえに之を何も無き郷(むらざと)、広漠な野に樹えて(うえて)、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。 」

 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の二上山当麻寺の松を見て、この寓話を思い起こし、「斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ」と記している。
 昼は日影を作ってくれる椎の木の「側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。」とすれば、この「幻住庵記」の「いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。」の文章にうまく呼応する。
 下五に「夏木立」とあるから、ここでの椎の木は一本ではないのだろう。そして「夏」の季が入ることによって、「涼み」ということが強調される。冷房のなかった時代に夏木立の涼みは、一番贅沢なものだったのかもしれない。
 「幻住庵ノ賦」には発句はない。代りに「秋も半(なかば)に過行まま、風景・朝暮の変化とても、又ただまぼろしの住ゐならずやと、やがて此文をとどめて立さりぬ」と、庵を去ってゆく場面で終る。
 「幻住庵記」のもう一つの草稿と思われるバージョンには、もう一句、

 頓(やが)て死ぬけしきも見えず蝉の声 芭蕉

の句があった。季節が椎の木よりかなり後という感じがする。
 結びのところの文章も、「凡西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵に置る、利久が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは一ならむと」と後の『笈の小文』に流用される一文があり、「背をおし腹さすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半に過ぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。」と無常迅速で結び「頓(やが)て死ぬけしきも」の句になる。将棋では終盤のミスで勝つはず試合があっという間にに負けになる事を「頓死」というが。
 最終的には秋(七月二十三日)に庵を出たという記述はカットされた。そこでこの句を生かすことができず、「先たのむ」の句一句で落ち着いたのだろう。
 最初は『奥の細道』の旅を終え、ここにやってきた所に始まり、庵を出て行くところで終る、長い時間の経過を追う形で書かれていたが、最終的には幻住庵そのものを前面に押し出して、魅惑的なゆる隠棲の一日を描き出す形になった。
 前の年の初頭に「猿も小蓑を」の句を詠み、『猿蓑』の編纂の話も持ち上がる中で、俳文の一つの見本のようなものを提起したかったのだろう。そうなったとき、ただ時系列で順々に示してゆく紀行文的な手法ではなく、何か新しいものが欲しかったのだろう。
 一つには貞享元年の『野ざらし紀行』以来ずっと旅をしてきた芭蕉が、ここで持病の再発による体調不良により、旅が続けられなくなって、それに代わる何かが欲しかったのかもしれない。
 前にも引用した、四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とあるように、持病がなければ四国西国の旅に出ようと思っていたようだ。蝦夷千島の旅よりは現実的な計画ではあった。
 結局四国西国の旅も実現しなかったが、体の調子が良くなったらいつかはという思いはあったに違いない。
 幻住庵に来て旅の代わりになるものを芭蕉は見つけた。それがゆるい隠棲の記録、修行のためでもなければ世を捨て世からも捨てられた悲壮感もない、平和な江戸時代の新しいスタイルの隠棲、それが芭蕉の見つけた答だったのではないかと思う。
 そして、このコンセプトは翌年の夏の『嵯峨日記』に結実してゆくことになった。

2018年6月7日木曜日

 「幻住庵記」の続き。

 「昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、『猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ』など、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」
 幻住庵滞在中、芭蕉の門人も多数訪れている。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 「七月中、出庵までに来庵の人々─。尚白・木節・智月・昌房・何処・越人・洞哉。金沢の北枝より蓑、膳所の扇女より薬袋、京の羽紅より発句が届く(

『猿蓑』所収「几右日記」)。

とある。
 四月には野水も訪れている。
 その他にも八幡宮の宮守や近所の農夫などが尋ねて来たりしたようだ。猪に田んぼが荒らされただとか、豆畑の兎にやられただとかいう話は、農家の人にとっては「あるある」なのだろうけど、芭蕉には馴染みのないものだったようだ。
 芭蕉は農人の生まれとはいえ、数えで十三の頃から伊賀藤堂藩に奉公し、料理人を務めたりしていたし、江戸に出てきてからはずっと都会暮らしだったから、あまりあまり百姓事情には詳しくなかったのだろう。
 ただ、こういう雑談も多分無駄に聞いてたのではなく、後の軽みの俳諧のヒントにしていったのではないかと思われる。

   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合せ度芋畑    芭蕉

   上下の橋の落たる川のをと
 植田の中を鴻ののさつく   芭蕉

のような後の句も、百姓との会話の記憶からひねり出した可能性はある。
 隠棲といっても結構尋ねてくる人はいて、そういう意味ではそれほど退屈もしなかったし、寂しくもなかったのだろう。まあ、夜ともなれば人も帰って、月を待つ間は闇に閉ざされる。
 「罔両」は「魍魎」に同じ。ウィキペディアには「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称。」とある。『淮南子』に既にこの用例がある。
 『荘子』には罔両と影との問答がある。元の意味は「影のまわりに生ずる薄いかげ」だったらしい。そこから幽霊や物の怪のようなものを指すようになったのだろう。
 山の中で真っ暗となると、何か出そうな雰囲気になる。暗闇に目を凝らし、物の怪ではないかと是非を案ずる。このあたりは『源氏物語』の夕顔の俤かもしれない。
 昼の絶景や農夫との雑談などのゆるい隠棲生活を語る一方で、夜の不安を対比させホラー感覚へと持ってゆく。なかなか面白い展開だ。

 さて、それではこの「幻住庵記」もそろそろ締めに入る。

 「かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。

 先づ頼む椎の木も有り夏木立」

 別に閑寂を好んでこの山に入ったのではなく、ましてここに骨を埋めようとも思っていない。実際に短期間の滞在で打ち払うことになる。『猿蓑』の「市中や」の巻の二十九句目ではないが、

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

だ。
 ここでの滞在は一つには持病が出たことによる。芭蕉の持病は疝気であり、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎,胆嚢炎あるいは胆石,腸炎,腰痛などが原因となることが多い。」

とある。
 元来胃腸が弱かったのだろう。最期も大腸癌だったと思われる。幻住庵に移って間もない四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とある。『奥の細道』の旅の途中でも度々この持病が出てたし、その後の旅も負担になり、しばし休息するのが最大の目的だったと思われる。
 そして、そんな病身での隠棲は本当に世を厭うて隠棲している人に似てなくもない。ただ、違うのはほんの一時的なゆるい隠棲だということだ。
 そんななかでこれまでの人生を振り返る。
 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」
 これは『笈の小文』の、

 「かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

に似ている。『笈の小文』は未完の草稿で、後の元禄五年ごろに書かれたものだろう。その前身とも言える文章だ。
 「楽天は五臓の神を破り」は白楽天(白居易)の「思旧」という詩の一節「詩役五藏神」から来ている。長い詩なので、いつか暇な時に訳そうかと思う。

   思舊   白居易
 閑日一思舊 舊遊如目前
 再思今何在 零落歸下泉
 退之服硫黃 一病訖不痊
 微之鍊秋石 未老身溘然
 杜子得丹訣 終日斷腥羶
 崔君誇藥力 經冬不衣綿
 或疾或暴夭 悉不過中年
 唯予不服食 老命反遲延
 況在少壯時 亦爲嗜慾牽
 但躭葷與血 不識汞與鉛
 飢來吞熱物 渴來飲寒泉
 詩役五藏神 酒汨三丹田
 隨日合破壞 至今粗完全
 齒牙未缺落 肢體尚輕便
 已開第七秩 飽食仍安眠
 且進桮中物 其餘皆付天

 また「老杜は痩せたり」は杜甫が詩作のために痩せたということを言うらしい。自分なんぞは白楽天や杜甫の賢とは比べようもなく「愚」だが、と一応謙遜し、「いづれか幻の住みかならずや」と幻住庵の名前に掛けて、人生は所詮幻の住みか、人生は夢幻ということで締めくくりにする。
 「思ひ捨てて臥しぬ。」と、先に「夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」と述べたのを受け、今日はもう眠りに落ちる、と結ぶ。

 ここから先は不快に感じる人は読まなくていい。
 まいんさんの『二度目の人生は異世界で』が何やらとんでもないことになっている。
 とはいえ、実のところまいんさんの作品は読んだことがないし、問題になったのはこの小説を書く前の2013年頃の古いツイットのようだ。
 ツイットの内容はいくつかネットで見ることができたが、2チャンネルあたりに普通にありそうな内容だ。まあ、ラノベもアニメも韓国や中国の市場を無視できないから、今回の厳しい処置もやむをえないのだろう。
 まあ、本は出荷停止でも、「小説家になろう」のサイトでは読むことができる。
 印象としては、やはり壊れているな、という感じだ。これは別にけなしているのではない。岩井恭平の『ムシウタ』に出てくる塩原鯱人のような、なかなか良い壊れ具合という意味だ。
 いきなり幼女を蹴飛ばしながら性的な感情がまったくなかったり、二人の女性を救うがほとんど興味なく、殺害に対してもあまり感情を持たない。おそらく物語は、この壊れた主人公の失われた生前の記憶への旅として展開するのだろう。
 まあとにかく、愛国心は理解できるが、作家なら言葉は選んだほうがいい。

 ×これは驚いた。中国人が道徳心って言葉を知ってたなんて!
 ○道徳は老子の道徳教に由来する言葉だが、儒仏老荘の古き良き伝統が共産党の支配によって一度破壊されてしまったのは残念だ。

 ×日本の最大の不幸は、隣に姦国という世界最悪の動物が住んでいることだと思う。
 ○日本の最大の不幸は、恨の国を併合してしまったことだと思う。

 この程度の配慮はしたほうがいい。

2018年6月6日水曜日

 カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した是枝監督の『万引き家族』は既に先行上映だけでも興行収入でも2億円に迫り、好調なようだ。
 受賞した当初は日本でも反応が薄く、首相もコメントしなかったということがフランスで話題になったようだが、実際に見た人が口コミでその良さを広めていけば、それなりの成功にはなるのではないかと思う。
 ただタイトルの「万引き家族」から受けるイメージというのは、日本では「あるあるネタ」ではないし、「さもあらん」でもない。多分知り合いにこんな家族がいるとか言う人はほとんどいないだろう。万引きで生計を立てる家族という設定は、一種の思考実験と言ったほうがいいのかもしれない。
 まあ、これでもしリアルな万引き家族逮捕なんてニュースがあれば、「本当にいるんだ」ということになって、もっと盛り上がるだろうが、捏造はやめてくれよ。
 あと、監督のあのインタビューは随分韓国のマスコミ(中央日報)によってゆがめられてたみたいだ。ったくネトウヨが韓国のマスコミ信じてどうするんだ。
 まあ、それはそれとして「幻住庵記」の続き。

 ヤマコレというサイトによると、現在の国分山は「展望はない。」ということで、芭蕉亡き後はすっかり木が生い茂ってしまったのだろうか。残念なことに芭蕉の描いたあの雄大なパノラマは今は見られないようだ。現在の幻住庵は平成三年(一九九一)に再現されたものだという。

 「さるを、筑紫高良山の僧正は、 加茂の甲斐なにがしが厳子にて、このたび洛にのぼりいましけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らるる。やがて草庵の記念となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」

 高良山(こうらさん)には筑後国一ノ宮の高良大社があり、創建は仁徳天皇・履中天皇の時代という伝承があるが、ここまで古いと本当の所はよくわからない。祭神の高良玉垂命について、ウィキペディアには、

 「高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。」

とある。
 やがて本地垂迹に基づき神仏習合の山として、明治の神仏分離まで栄えることになる。
 御井町誌というサイトによると、戦国時代には大友氏と秀吉との対立により荒廃していた高良山を立て直したのが高良山の五十代座主寂源だったという。この寂源こそが、加茂祠官藤木甲斐守敦直の厳子、幻住庵の額の文字を書いたその人だった。額というのは扁額(へんがく)のことで、お寺の門や神社の鳥居に掲げる表札のようなものをいう。
 ところで「幻住庵」を検索すると、博多の幻住庵というのが出てくる。こちらのほうが古い。しかもこの「幻住庵」のホームページによれば、幻住庵はここが最初ではなく中国に起源があるという。

 「中峰明本は中国禅宗界屈指の禅僧であり、五山第一位に住持するよう求められたが、これを拒否しています。中峰明本は名誉欲を捨て官寺の世界から抜け出し行脚の旅に出ます。
 そして行く先々で庵を創りこの庵をすべて幻住庵と名付け、そこで座禅をし自らも幻住と号しました。中峰明本のような世俗と一線をかく禅僧のもとに、西域・高麗・雲南・日本の人が集まってきました。中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は6名おり無隠元晦もその一人です。無隠元晦は師の中峰明本が名付けた幻住庵という庵に因んで、博多に天目山幻住庵を開きました。中峰明本の法系は日本では幻住派と呼ばれ中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えます。」

 菅沼修理定知(幻住老人)がこの幻住派と関係があるのかどうかはよくわからない。
 さて、寂源に扁額の文字を書いてもらった芭蕉だが、「やがて草庵の記念となしぬ」という。この部分の「幻住庵ノ賦」には「其裏には予が名を書て、後見ん人の記念(かたみ)ともなれと也。」とある。
 「すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。」とまあ、荷物は最低限にということで、旅に必要な蓑笠はいつでも手元においておく。幻住庵は別にここに定住することを意図したものではなく、あくまで旅の途中のかりそめの宿だ。
 実際に四月六日に入庵したものの、六月に一度離れ、六月二十五日に再び戻ってくるものの、七月二十三日には引き払うことになる。 木曽の桧傘は『更科紀行』の時のものか。越の菅蓑は『奥の細道』の旅を思い出すものであろう。『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、北枝の贈った蓑で、

   贈蓑
 しら露もまだあらみのの行衛哉  北枝

の句を引用している。

2018年6月4日月曜日

 「幻住庵記」の続き。

 虱というと、『野ざらし紀行』の最後に江戸に帰ってきたときの句に、

 夏衣いまだ虱を取り尽さず    芭蕉

の句がある。
 おそらく、隠棲を中国の隠士のような政治的なものや、仏教の過酷な修行のようなものと切り離し、別に俳諧師でなくても一般的な隠居生活の一つの楽しみとして「猿の腰掛」を提案した側面もあったのだろう。今だったらツリーハウスを作るところか。
 「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊(かし)ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。」
 「まめ」というのは真面目(真目)という意味。毎日きっちりご飯を炊くのではなく、気が向いた時だけに炊いたようだが、なら普段はどうしていたのか。お弟子さんが持ってきてくれるのか。
 「炊(かし)ぐ」というのは甑で蒸す強飯(こわいい)に対して、釜で水を加えて煮る弱飯(よわいい)を炊くことを言う。
 ここまでくるとゆるキャンならぬ「ゆる隠棲」だが、本格的な隠遁者になるのではなく、この程度なら誰でも真似できるという所で、俳諧の風流な遊びの一つとして広めようという意図があったのだろう。
 「とくとくの雫」は芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき、吉野の西行庵の跡を訪れた時、

 露とくとく心みに浮世すすがばや 芭蕉

と詠んだのを思い起こさせる。西行法師の歌と伝えられている、

 とくとくと落つる岩間の苔清水
     くみほすほどもなきすまひかな

が元になっている。
 「とくとく」は「とっとっとっとっ‥‥」という感じで間断なく雫が滴る程度の状態を言う。水が溜まるまでしばらく待たなくてはならない。
 使用する炉も一つだけで、たくさんの料理を作ったりは出来ないあたりも、今のキャンプ料理のようだ。
 「いとかろし」には出典にもたれすぎない「軽み」の精神を、隠棲においても実践しようというものだろう。いにしへの隠士の心にとらわれず、自由にという意味が込められているのだろう。
 この部分、猿の腰掛のところはほぼ一緒だが、そのあとは「幻住庵ノ賦」の方がやや詳しく書かれている。

 「つたへ聞ぬ、除老が海棠巣の飲楽も、市にありてかまびすしく、王道人が主簿峯の住ゐも、爰を捨てうらやむべからず。虚無に眼をひらいて嘯き、孱顔にしらみを捫(ひね)て座す。たまたま心すこやかなる時は、薪をひろひ清水をむすぶ。小歯朶・ひとつ葉のみどりをつたふとくとくの雫をわびては、一炉のそなへいと軽し。」

 「軽み」という観点から言えば、この文章はまだ重い。徐佺や王道人をうらやまずに、というあたりにまだ彼等と同等になろうとして、「虚無に眼をひらいて嘯き」というあたりにも、まだ禅家の悟りのようなものを匂わせている。改作した時には、そういう古人のもつ隠棲の重みを捨て去る所で、隠棲という一つのライフスタイルに軽みをもたらそうとしたのではないかと思う。
 「心すこやかなる時は」では病んでるときと対比されるが、「心まめなるとき」だと心がだらけてる時と対比される。このあたりも等身大を意識している。
 飯を炊くだけでなく、薪を拾うことも含まれているし、このあたりもよりゆるくなるように書き改めている。そう見ると、当時の「軽み」は今日に「ゆるい」に近いのかもしれない。ゆる俳諧、ゆる隠棲、あまり古人の思想とかにこだわらず、ゆるく楽しもうというのが、晩年の芭蕉の境地だったのかもしれない。
 芭蕉の時代というのは、ちょうど木版印刷によって本が庶民の間に広まった時代で、それまで上流階級は僧侶でなければ知らなかったような古典の知識を庶民が得るようになった時代だった。
 そしてその古典の知識は、庶民の奔放な想像力によって、これまでなかったような世界を生み出した。俳諧もそうだし、歌舞伎、文楽、風俗画、様々な庶民向けの、しばしば大きなイラストの入った草紙類、これまでの支配者階級にはない自由な発想で古典は解釈され、独自の遊びの世界を生み出した。
 支配者階級の知識は支配するためのもので、単一性を志向する。意見が違えば独鈷鎌首でガチに争う。
 これに対して庶民の知識は多種多様な職業、身分、境遇、地域、性向を持った人が混在する都市という場所に置かれた時、多様性を認め合い、調和を重視し、ガチな争いを好まず、ゆるく行こうという空気が生じる。そこに様々な笑いの文化が生まれる。
 今の時代も似た所がある。インターネットの普及でこれまで上流階級や知識人階級に独占されてきた情報が、教育機関やマスメディアなどの検閲や編集なしに庶民に広まるようになった。そういう中でやはり庶民特有の多様な考え方の共存ということを求めるようになった時、ガチなイデオロギーの主張は嫌われ、ゆるさと笑いが重視されるようになる。
 芭蕉が「幻住庵記」で試みたゆる隠棲は、やがて『嵯峨日記』へと結実してゆくことになる。悲壮感のない楽しい隠棲は、やがて江戸時代の市井での隠居生活の手本となり、そこから江戸時代特有の文化が生まれて行ったのではないかと思う。
 「はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。」
 幻住庵の先住者は「心高く」無駄なものを置かない人だった。いわば昔ながらのガチな隠棲者だった。持仏、つまりマイ仏像を置く部屋一間(約1.8メートル)隔てて、夜具を置く部屋を作り、誰でも住めるような部屋に改装した。この心高き隠棲者との決別が芭蕉の求めた「軽み」だったのだろう。句においては、志の高い古典の表現に対し、出典の深い意味にこだわらずという「軽み」になった。

2018年6月3日日曜日

 今日は生田緑地に行って、花菖蒲と紫陽花を見た。今年は紫陽花の咲くのが早い。梅や河津桜までは遅かったが、その後咲く花はみんな早い。なぜにそんな花を急ぐのか。
 スペインは首相が変わりカタルーニャ自治州政府が復活したという。イタリアは「五つ星運動」と「同盟」の連立で落ち着くようだ。ネットによって庶民が容易に情報を入手できるようになったため、ポピュリズムといっても昔のような衆愚政治ではなく、却って既存の政党やマスコミのほうが古い価値観に縛られて、むしろ今や衆賢政治の時代が来ているのかもしれない。
 パレスチナにも独立して欲しいが、ただ今の状態だとイスラム原理主義の国になって、却って民も苦しむのではないかと思う。イスラエルの経済成長にコバンザメ商法のようにくっついていって、ある程度経済的に豊かになったところで民主国家として独立するほうが良いと思う。
 それでは「幻住庵記」の続き。

 「なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付く。かの海棠に巣を営び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖山民と成って、孱顔に足を投げ出し、空山に虱をひねって坐す。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。」

 幻住庵からの眺望をこれまで述べてきたが、もっと眺めを隈なく楽しもうと言うことで、国分山に登り、松の棚を作り藁の円座を敷いて猿の腰掛と名付ける。
 松の棚は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注には、「『蘆のひともと』『猿蓑さがし』等には陳元信の「松棚ノ詩」を引く」とある。
 その「松棚ノ詩」を検索して探したら、さすがにグーグル先生、すぐにこの詩を出してきた。それは「『錦嚢風月』解題と翻刻」(堀川貴司)というpdfファイルだった。『錦嚢風月』は「相国寺の春渓が寛正年間に撰んで、唐宋金元明の詩三千余首を纂めたものである」という。寛正年間というと応仁の乱の直前だ。

   松棚       陳元信
 旋斫松枝架作棚 蒼髯如戟昼崢嶸
 清陰堪愛還堪恨 遮却斜陽礙月明

 松の枝を断ち切り棚を作って架ける。
 蒼い髭のような松の枝は戟(げき)という鉾のように昼の空にギザギザと聳え立つ。
 その清らかな木陰は愛おしくもあれば恨めしくもあり、
 西日を遮ってくれるものの、月明かりを見るには邪魔である。

 「棚」という字には棚の意味もあれば、橋や屋根の意味もある。横に渡すものという意味なら、ここではベンチに近いかもしれない。
 赤松は太い枝が横に伸びるから、そこに横板を渡して、梯子を掛けて登るような空中のベンチを作ったのかもしれない。
 そこに藁を編んで丸くした座布団を乗せ、「猿の腰掛」と名付ける。茸の名前に掛けた洒落だ。
 「かの海棠に巣を営び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。」の王翁は王道人で北宋の頃の人で、徐栓は徐佺で南宋の人。ともに、

   題灊峰閣     黄庭堅
 徐老海棠巢上 王翁主簿峰菴
 梅蘤破顏冰雪 綠叢不見黃甘

 老いた徐佺は海棠の木の上に巣を作り、
 王道人という老いた主簿は峰に庵を結ぶ。
 梅の花は氷る雪の中で破顏して笑い、
 生い茂る緑の中では蜜柑は見えない。

の詩による。
 蘤は花の異字体で、同様に𤾡という字もあるようだ。「汉典」という中国語のサイトに「古同“花”。」とある。
 芭蕉は自分は徐佺や王道人のような立派な人ではないと謙遜する。
 「ただ睡癖山民と成って、孱顔に足を投げ出し、空山に虱をひねって坐す。」
 「孱顔(せいがん)」は辞書には「山がやせほそって険しいさま」とある。そのまま読めば貧弱な顔だが、それを山に喩えたものだろう。ぽっちゃり顔のような山だと確かになだらかな感じがする。痩せると険しくなる。
 ただ山で隠居生活を送りだらだらと眠るだけで、険しい山に向って足を投げ出し、空っぽの山で虱を潰している。この「虱をひねって」に俳諧がある。

2018年6月1日金曜日

 今日は予報どおり晴れた。午後から雲が多くなった。
 それでは「幻住庵記」の続き。

 このあたりは「幻住庵ノ賦」だと、まず「山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。」の部分は最初に幻住庵を紹介する所にあった。
 「山はさすがに深からず、人家よき程にへだたり、石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。南薫高く峯よりおろし、北風はるかに海をひたして涼し。おりしも卯月のはじめなれば、つつじ咲‥‥」
 このあと、比叡、比良、辛崎は一緒で、そのあとに「膳所の城は木ノ間にかがやき、勢田のはしに雨晴ては、粟津の松ばらに夕日を残す。」と続く。この辺は「城あり、橋あり、釣たるる舟あり」と大幅に省略されてしまった。その替りに笠取山、田植え歌、蛍、水鶏などが付け加えられる。
 そして三上山から田上山、ささほが嶽、千丈が峰、袴腰は同じで、その後にあった笠取山が削られて「釣たるる舟あり」の後へと移動する。
 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注の「幻住庵ノ賦」の千丈が峰の所に、「千頭が嶽」とある。太神山(たなかみやま)ととそのあとに黒津の里が出てくるので、南東の方角を探してそれらしき山が見つからなかったが、千丈が峰は幻住庵の西にあった。確かに千丈川はこのあたりを水源としている。
 何でこんな方向違いの山が並列されたかというと、この位置に「笠取山に笠はなく、黒津の里人の色くろかりけむ」と続くと、南西に位置する笠取山が入るため、南東に限らない広い範囲の記述になるため、千頭が嶽が入ってもそれほど違和感はない。笠取山が始めのほうへ移動したため、千頭が嶽だけが浮いてしまったといっていいだろう。