今日は梅雨明けだが何だかすっきりしないのは昨日の試合だ。
結局は驕りだろうと思う。今のポーランドなら主力を温存しても引き分けられると思ってたら一点取られてしまい、簡単に追いつけないとわかって、あのような作戦に出たのだろう。
ただ、スペイン=ポルトガル戦の場合は双方に利益があるから取引と見ることができるが、すでに敗退が決まっているポーランドには何の利益もない。その意味で日本はポーランドに大きな借りを作ってしまった。
まあ、ポーランド代表のスパイクシューズの泥を舐めてでも決勝トーナメントに行きたいというなら、後はとにかく優勝する以外に恩返しの方法はないだろう。気持ち的には、これでベルギーに勝てなければ帰ってくるなと言いたいところだが、日本のサポーターは優しいから「夢をありがとう」で終るんだろうな。
日本ではミスした選手にも激しいバッシングはない。ネタにして笑いものにする程度で平和なものだ。まあ、それが俳諧の伝統なのだろう。梅雨明けもすっきりしないパス回し。
それでは『嵯峨日記』の続き。
五月二日、『奥の細道』をともに旅した曾良が尋ねてくる。
「二日
曾良来リてよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人の はな(し)、彼是取まぜて談ズ。
くまの路や分つゝ入ば夏の海 曾良
大峯やよしの(ゝ)奥を花の果
夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及て歸る。」
曾良は蛤の二見で別れた後、江戸へ登る。そして元禄四年三月四日に江戸を出て、三月二十四日には京都に着き、翌二十五日に芭蕉を訪ねる。このあたりのことは曾良の『近畿巡遊日記』に書かれているという。岡田喜秋『旅人・曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)の附録にそのテキストがある。
このあと曾良は吉野の花を見てから高野山を経由して熊野古道を行き、那智の滝などを見て、そのあと和歌の浦を経て姫路へ行く。そして五月に京都に戻る。
吉野の花見は四月一日で、初夏の熊野古道(熊野参詣道小辺路)を行き、十七日には和歌の浦に到着する。和歌の浦へは船で旅している。
くまの路や分つゝ入ば夏の海 曾良
の句はその頃のものだろう。
もう一つの、
大峯やよしの(ゝ)奥を花の果 曾良
の句だが、この日記だと大峰へ行った記録はない。ウィキペディアには「歴史的には『大峰山』は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。」とあるから、吉野で見た周辺の青々した山々を見ての句だったのかもしれない。
このあと、大井川(今の桂川)に船を浮かべて、今の渡月橋のあたりの戸難瀬を登る。曾良の『近畿巡遊日記』には、
「二日 天晴 巳ノ下刻允昌へ寄テ妙心寺ヲ見テサガへ趣 翁ニ逢 去来居合 船ニテ大井川ニ遊ブ 雨降ル故帰ル。次第ニ雨甚シ」
とある。去来の同伴を除けばだいたい『嵯峨日記』の記述と一致する。
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