「幻住庵記」の続き。
虱というと、『野ざらし紀行』の最後に江戸に帰ってきたときの句に、
夏衣いまだ虱を取り尽さず 芭蕉
の句がある。
おそらく、隠棲を中国の隠士のような政治的なものや、仏教の過酷な修行のようなものと切り離し、別に俳諧師でなくても一般的な隠居生活の一つの楽しみとして「猿の腰掛」を提案した側面もあったのだろう。今だったらツリーハウスを作るところか。
「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊(かし)ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。」
「まめ」というのは真面目(真目)という意味。毎日きっちりご飯を炊くのではなく、気が向いた時だけに炊いたようだが、なら普段はどうしていたのか。お弟子さんが持ってきてくれるのか。
「炊(かし)ぐ」というのは甑で蒸す強飯(こわいい)に対して、釜で水を加えて煮る弱飯(よわいい)を炊くことを言う。
ここまでくるとゆるキャンならぬ「ゆる隠棲」だが、本格的な隠遁者になるのではなく、この程度なら誰でも真似できるという所で、俳諧の風流な遊びの一つとして広めようという意図があったのだろう。
「とくとくの雫」は芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき、吉野の西行庵の跡を訪れた時、
露とくとく心みに浮世すすがばや 芭蕉
と詠んだのを思い起こさせる。西行法師の歌と伝えられている、
とくとくと落つる岩間の苔清水
くみほすほどもなきすまひかな
が元になっている。
「とくとく」は「とっとっとっとっ‥‥」という感じで間断なく雫が滴る程度の状態を言う。水が溜まるまでしばらく待たなくてはならない。
使用する炉も一つだけで、たくさんの料理を作ったりは出来ないあたりも、今のキャンプ料理のようだ。
「いとかろし」には出典にもたれすぎない「軽み」の精神を、隠棲においても実践しようというものだろう。いにしへの隠士の心にとらわれず、自由にという意味が込められているのだろう。
この部分、猿の腰掛のところはほぼ一緒だが、そのあとは「幻住庵ノ賦」の方がやや詳しく書かれている。
「つたへ聞ぬ、除老が海棠巣の飲楽も、市にありてかまびすしく、王道人が主簿峯の住ゐも、爰を捨てうらやむべからず。虚無に眼をひらいて嘯き、孱顔にしらみを捫(ひね)て座す。たまたま心すこやかなる時は、薪をひろひ清水をむすぶ。小歯朶・ひとつ葉のみどりをつたふとくとくの雫をわびては、一炉のそなへいと軽し。」
「軽み」という観点から言えば、この文章はまだ重い。徐佺や王道人をうらやまずに、というあたりにまだ彼等と同等になろうとして、「虚無に眼をひらいて嘯き」というあたりにも、まだ禅家の悟りのようなものを匂わせている。改作した時には、そういう古人のもつ隠棲の重みを捨て去る所で、隠棲という一つのライフスタイルに軽みをもたらそうとしたのではないかと思う。
「心すこやかなる時は」では病んでるときと対比されるが、「心まめなるとき」だと心がだらけてる時と対比される。このあたりも等身大を意識している。
飯を炊くだけでなく、薪を拾うことも含まれているし、このあたりもよりゆるくなるように書き改めている。そう見ると、当時の「軽み」は今日に「ゆるい」に近いのかもしれない。ゆる俳諧、ゆる隠棲、あまり古人の思想とかにこだわらず、ゆるく楽しもうというのが、晩年の芭蕉の境地だったのかもしれない。
芭蕉の時代というのは、ちょうど木版印刷によって本が庶民の間に広まった時代で、それまで上流階級は僧侶でなければ知らなかったような古典の知識を庶民が得るようになった時代だった。
そしてその古典の知識は、庶民の奔放な想像力によって、これまでなかったような世界を生み出した。俳諧もそうだし、歌舞伎、文楽、風俗画、様々な庶民向けの、しばしば大きなイラストの入った草紙類、これまでの支配者階級にはない自由な発想で古典は解釈され、独自の遊びの世界を生み出した。
支配者階級の知識は支配するためのもので、単一性を志向する。意見が違えば独鈷鎌首でガチに争う。
これに対して庶民の知識は多種多様な職業、身分、境遇、地域、性向を持った人が混在する都市という場所に置かれた時、多様性を認め合い、調和を重視し、ガチな争いを好まず、ゆるく行こうという空気が生じる。そこに様々な笑いの文化が生まれる。
今の時代も似た所がある。インターネットの普及でこれまで上流階級や知識人階級に独占されてきた情報が、教育機関やマスメディアなどの検閲や編集なしに庶民に広まるようになった。そういう中でやはり庶民特有の多様な考え方の共存ということを求めるようになった時、ガチなイデオロギーの主張は嫌われ、ゆるさと笑いが重視されるようになる。
芭蕉が「幻住庵記」で試みたゆる隠棲は、やがて『嵯峨日記』へと結実してゆくことになる。悲壮感のない楽しい隠棲は、やがて江戸時代の市井での隠居生活の手本となり、そこから江戸時代特有の文化が生まれて行ったのではないかと思う。
「はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。」
幻住庵の先住者は「心高く」無駄なものを置かない人だった。いわば昔ながらのガチな隠棲者だった。持仏、つまりマイ仏像を置く部屋一間(約1.8メートル)隔てて、夜具を置く部屋を作り、誰でも住めるような部屋に改装した。この心高き隠棲者との決別が芭蕉の求めた「軽み」だったのだろう。句においては、志の高い古典の表現に対し、出典の深い意味にこだわらずという「軽み」になった。
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