昨日は結局八時に寝て十二時に起き、三時にまた寝るという変則的な睡眠でセネガル戦を見た。やはり眠かった。それに加えて今日は暑かった。
では『嵯峨日記』の続き。
「廿七日
人不来、終日得閑。」
この日は特に何もなかったようだ。
「廿八日
夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚ム。
心神相交時は夢をなす。陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。 睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆 其理有テ妙をつくさず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」
芭蕉が杜国と出会ったのは貞享元年の冬、『野ざらし紀行』の旅で名古屋を訪れた時だった。そこで芭蕉は荷兮、野水、重五、杜国、正平らと興行を行い、この時の俳諧は荷兮編の『冬の日』として公刊された。これが芭蕉七部集の最初の集となる。
その杜国の最初の句は「狂句こがらし」の巻の五句目で、
かしらの露をふるふあかむま
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
「朝鮮のほそりすすき」が何を指すのかはよくわからない。韓国にもススキはあり、ネットではハヌル公園をはじめ、色々な地方のススキの美しい風景を見る事ができるが、日本にあるのと同じようなススキだ。ピンクのものを別にすれば。
その杜国だが、本業は米屋で、ウィキペディアによれば、「貞享二年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった。」とある。
空米は今でいう先物取引で、一七三〇年には将軍吉宗によって幕府公認の先物取引が行われるようになるが、それ以前にも慣習として広く行われていたと思われる。米相場の安定には欠かせぬものだった。
多分経済に疎い役人が、先物取引=博打みたいな感覚で安易に禁止する法律を作ったものの、施行してみると杜国のような業界の大物の名が挙がってしまい、尾張藩二代藩主徳川光友の手を煩わすことになったのだろう。
貞享四年の冬、『笈の小文』の旅の途中で三河の国保美(ほび)に隠棲している杜国のもとを訪ね、
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 芭蕉
と詠み、さらに伊良胡崎で詠んだ、
鷹一つ見付けてうれしいらご崎 芭蕉
の「鷹」も杜国のことではないかとされている。そして翌貞享五年の春、
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠 芭蕉
よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸
と句を詠み交わし、共に旅をすることになる。
その杜国の訃報を聞いたのが、元禄三年の四月、ちょうど幻住庵に入る頃だった。
持病の悪化で隠棲し、その間に近江、京都の門人達が頻繁に出入りしては、『猿蓑』の撰でもいろいろと忙しく、忘れかけてた頃に急に夢に現れたのか、目覚めたら涕泣(ていきゅう:涙を流して泣くこと)していた。
思うに予兆はあったと思う。二十五日の黄山谷之感句で、「杜門覔句陳無己」と「閉門」を「杜門」と書き誤ったあたりに、何か無意識に引っかかるものがあったのかもしれない。この日の丈草の句にも「杜宇啼や」と「杜」の字があった。そうしてものが夢に反映されたのかもしれない。
ここから先夢談義に入る。
0 件のコメント:
コメントを投稿