2022年7月27日水曜日

 俳話の方は休業中だけど、宣伝だけはしておくね。
 Kindleダイレクトパブリッシングから、新たに『古池の春』を追加しました。
 正確にいつ書き始めたか覚えてないけど、「古池の春」を書いたのは二十年以上前だと思う。あの頃はまだガチに左翼だったし、中沢新一の影響もかなり受けていた。
 さすがにそのままというわけにもいかなくて、大幅に書き直すことにはなった。
 同じ頃 に書いた「初しぐれの夢」「見えない天道」も書き直して、「汁も鱠も」は新たに書き下ろした。
 まあ、わりと真面目に論文っぽく書いた文章で、この俳話では抜け落ちてた、前提となっている部分も説明していると思う。
 まあ、Kindleダイレクトパブリッシングは、よっぽどネット上の有名人でない限り一冊も売れないのが普通だというのもわかった。
 まあ、できたら最初の一冊を買っていただけると有難い。つまらなかったら、思い切り酷評してほしいね。炎上商法のように逆宣伝になるかもしれないから。

 世相の方は、相変わらずウクライナの方は変わらないね。
 人権思想というのは結局、経済が飛躍的に成長して物が溢れている状態になって、それでいて人口増加の圧力を免れているというのが、正常に機能する条件だと思う。
 経済が鳴かず飛ばずの新興国だと、いくら頑張って追いかけても追いつけないんじゃないかという不安から、独裁への逆向が生じやすい。
 まして未だ人口増加の圧力にさらされているフロンティア諸国は、前近代社会と同様の命の選別をしなくてはならないから、不条理を承知でも古い秩序を維持しなくてはならない。
 日本の家父長制的な旧体制が揺らぎ、人権思想の普及が飛躍的に進んだ時期が高度成長期よりも後だったというのも偶然ではない。「断絶」というのが流行語になってた時代だ。井上陽水のアルバムタイトルにもなっていた。あの時やっと日本は、物が溢れて誰も腹を空かせることもなくなったし、少子化が定着してきたから将来的に人口増加で食いつくされる不安もなくなった。
 人権は闘えば手に入るといった単純なものではない。全員が何不自由なく食って行けるだけの豊かさと、人口増加による将来の不安がなくなるといった条件が整わないなら、いくら闘っても無駄に命を散らすことになる。
 フロンティア国に人権を急がせてはいけない。時が来れば彼らも人権の良さを分かる時が来る。急かせば急かす程西洋が嫌いになり、独裁を長引かせることになる。ある意味ロシアや中国もその犠牲者だったのかもしれない。
 この辺りの詳しいことは『恒久平和のために(仮)』も買ってね。

2022年7月16日土曜日

 しばらくこの俳話をお休みしようと思う。またいつか。
 家庭連合の問題について言えば、基本的に多額の献金の強要は立派な犯罪なので、司法手段に訴えるべきことで、首相の暗殺は単なる逆恨みにすぎない。
 まあ、悪質な宗教団体については、破防法に抵触しなくても解散命令を出せるような立法措置は必要だと思う。それは国会議員の役目だ。殺害ではなく陳情案件ではないかな。家庭連合が非合法化されていたなら、そこと関係を持ってたことは当然追究されなくてはならない。
 憲法二十条に定められた信教の自由は、憲法十二条の、

 国民は,これ(憲法で規定されている自由や権利:基本的人権)を濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

によって限界づけられているので、公共の福祉に反する宗教はその自由を剥奪することが出来る。それをしなかったのは国会の怠慢といえよう。
 いずれにせよ暗殺はテロ行為であり民主主義への挑戦であり、どのような理由であろうと擁護することはできない。テロに屈したという間違ったメッセージを発しないためにも、国葬はやり遂げなくてはならない。
 まあ、左翼やマス護美の論調というのは基本的に原理原則論によるもので状況判断を無視する。
 状況が変われば状況判断は当然変わる。それを一貫性がないだとか前言と矛盾するだとか言って批判する。
 状況においてはたとえ敵対勢力でも同盟を結ぶこともある。それを「友達」だとかズブズブだとか言ってスキャンダルに仕立て上げる。
 世間を知らない子供は原理原則で判断しがちだが、大人になるにつれて色々な事情が分かってきて、その場その場の状況判断があることを理解する。
 子供の心を忘れないことも大事だが、根っからの子供では困る。日本人が大人であることを信じ、これからも正しい判断をすることを願う。
 筆者も若い頃は太田竜も読んでいたし、中沢新一も読んでいた。でも今はその場所にはいない。かつての社会主義が多くの虐殺事件を生んだことや、密教神秘主義の賛美がオウムの事件を引き起こしたことについて、筆者も責任を感じ心を痛めている。今こうしてあえて政治的な発言するのも、過ちを二度と繰り返してはいけないと思っているからだ。実際未だにあの場所に留まり続けている人たちがいるのは、本当に心苦しい。
 大人になれなかったそうした人たちは本当に危機が迫った時でも、状況もわからずに闇雲に原理原則を言い立てる恐れがある。危機は外にだけでなく内側にもある。
 今や平和にすっかり慣れきって、世界中にこういう大人になれない子供が増えてしまい、それがあまりに美化されてしまっていないか。子供が寄ってたかって騒いでいるだけでは、プーちんは大人だからびくともしないばかりか、かえっていいように利用されてしまう。
 日本にもアメリカにもヨーロッパにも本当に必要なのは、それと渡り合える大人の政治家だ。それを子供たちが寄ってたかって引きずり降ろしてゆく。それができてしまうのは民主主義の弱点でもある。民主主義は民の大人度が試される。
 筆者は最近は大人というよりは老人になったなと感じる。それにふさわしい隠棲を考える時も来た。
 五年たち、十年たち、日本が今でもあることを喜べるように、ほなみんな、きばれや。
 あと、鈴呂屋書庫については今まで通り何か書いたらアップしてゆくのでよろしく。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き、挙句まで。

 名残裏、九十三句目。

   名所旧跡とをざかりゆく
 帆柱や八合もつてはしり舟    在色

 合はいろいろなものの割合を示すのに用いられる。山での八合目のように。
 ここではコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「合」の解説」にある、

 「(ニ) 和船の帆を張る程度をいう。帆桁を八分に上げるのを八合といい、五分に上げるのを五合という。」

であろう。
 和船は帆桁(ブーム)が固定されてないため、帆桁の位置で帆の張り具合を調整する。また、帆桁を横に移動させることで、風上に行く時にはヨットのように縦帆にすることもできる。
 停船時には帆桁ごと帆を下ろしているため、出帆することを「帆を上げる」という。
 帆を八合に挙げている状態だと、かなりスピードが出る。
 九十四句目。

   帆柱や八合もつてはしり舟
 すばる満時沖の汐さい      松臼

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注によると、「すばるまん時子(ね)八合」という諺があったという。ネット上を見ると「すばるまん時粉八合」という信州の諺があるらしい。子八合が元で粉八合は蕎麦作りに当てはめた派生形か。
 昴(すばる)はプレアデス星団のことで、東洋では二十八宿の一つで白虎七宿の中央に位置する。黄道上の最も北に位置するため、子の方角の八合という意味だったのだろう。
 昴が夕暮れに見えるのは冬で、その頃の満潮に船出する。
 九十五句目。

   すばる満時沖の汐さい
 久堅の天地同根網の魚      雪柴

 「天地与我同根、万物与我一体」は『碧巌録』の雪竇(せっちょう)禅師の言葉だという。梵我一如の境地を言う。
 どの魚もみな一つということで、一網打尽にする。
 九十六句目。

   久堅の天地同根網の魚
 七歩のうちにたつ鰯雲      一鉄

 天地同根ということで、海には鰯が網にかかり、空には鰯雲が出る。
 お釈迦さまは生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという。海の鰯と空の鰯雲を指し示して唯我独尊というところか。
 九十七句目。

   七歩のうちにたつ鰯雲
 棒手ぶりそのままそこに卒中風  一朝

 棒手ぶりはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「棒手振」の解説」に、

 「〘名〙 魚、青物などを天秤棒(てんびんぼう)でかついで、振売りすること。また、その商人。ふりうり。ぼてふり。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「七歩のうちにたつ鰯雲〈一鉄〉 棒手ふりそのままそこに卒中風〈一朝〉」

とある。
 卒中風は脳卒中で、魚屋が魚を担いで七歩もあるかないうちに脳卒中で倒れた。魚屋だけに紫雲ではなく鰯雲が天から御迎えに来る。
 九十八句目。

   棒手ぶりそのままそこに卒中風
 家主所謂大法四あり       松意

 「大法四(よつ)あり」は四箇の大法のことか。熾盛光法・七仏薬師法・普賢延命法・安鎮法の四つで、かつて宮廷で行われたという。
 前句の脳卒中で倒れた人の蘇生祈願であろう。魚屋の家主の家に伝わる方式がある。
 九十九句目。

   家主所謂大法四あり
 一町の公事あひ半花散て     志計

 一町は十反で約1ヘクタールになる。この広さの田んぼの所有権を争って公事(訴訟)が長引き、桜の花の散る苗代の季節になる。このままでは田植ができなくなり、困ったものだ。『春の日』の「雁がねも」の巻三十一句目にも、

   砧も遠く鞍にいねぶり
 秋の田のからせぬ公事の長びきて 越人

の句があり、裁判の長さは今も昔も変わらなかったようだ。
 前句の「大法四」を法律が多くてややこしいという意味に取り成したか。
 挙句。

   一町の公事あひ半花散て
 証拠正しきうぐひすの声     正友

 和歌では鶯が鳴くと花が散ると言われた。

 鶯のなく野辺ごとに来て見れば
     うつろふ花に風ぞふきける
              よみ人しらず(古今集)
 吹く風を鳴きてうらみよ鶯は
     我やは花に手だにふれたる
              よみ人しらず(古今集)

 そこから鶯の羽が風を起こして花を散らせているのではないかという嫌疑が掛けられる。

 こづたへばおのが羽風に散る花を
     誰におほせてここら鳴くらむ
              素性法師(古今集)

 それに対して、

 しるしなき音をも鳴くかな鶯の
     ことしのみ散る花ならなくに
              凡河内躬恒(古今集)

と、鶯が鳴こうが鳴くまいが毎年花は散っていると抗弁する。
 まあ、状況証拠だけで証拠不十分といった所だが、挙句の方は「証拠正しき」として結ぶ。まあ、裁判というのは時として不条理なものだ。

2022年7月15日金曜日

 安倍元首相の国葬が決まった。まあ、あちら側からすれば安倍信者が一堂に会するということで、血が流れる可能性もある。それでも日本がテロに屈しないことを世界に示すために、やらなくてはならない。
 日本人が人命を第一に考え、ちょっと軍隊を出して国民を殺すぞと脅せば簡単に国を明け渡すと思われてしまったなら、あっという間に日本という国はなくなる。戦う意思を示せ。って、岸田さんじゃどうかな。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 名残表、七十九句目。

   思ひは石のつばくらのこゑ
 春雨やなみだ等分手水鉢     一朝

 亡き夫を偲ぶ体であろう。軒先で燕の子が鳴くように、悲しい思いをしてるけど、あなたもあの世で私と同じように悲しんでくれてることでしょう。
 八十句目。

   春雨やなみだ等分手水鉢
 一儀何とぞ神ならば神      松意

 一儀はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一儀」の解説」に、

 「① 一つの事柄。一件。話題とする事柄をさしていう。あの事。
  ※高野山文書‐(文祿元年)(1592)七月二三日・島田大蔵清堅・明知坊宗照連署状「仍木上様と御衆徒中、御一儀に付て、帥法へ御懇書」
  ※人情本・貞操婦女八賢誌(1834‐48頃)五「妹に愛溺(あま)き此姉が、願ひは只此一義(イチギ)のみ」 〔淮南子‐斉俗訓〕
  ② いささかの気持。寸志。
  ※上杉家文書‐(永正一七年)(1520)二月二三日・毛利広春書状「抑太刀一腰令レ進候、誠表二一儀一計候」
  ③ 特に男女、または男色の交接のことをさしていう。
  ※仮名草子・犬枕(1606頃)「嫌なる物、〈略〉いちぎ」
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「一ぎをするたびたびに女房にいふやうは」

とある。
 互いに苦しんでいる恋になにとぞ結ばれるようにと神に祈る。③の意味になるが、「なみだ等分」はこの文脈だと男色っぽい。
 八十一句目。

   一儀何とぞ神ならば神
 敵めを御䰗にまかせてくれう物  志計

 「敵」は「かたき」、御䰗は「みくじ」とルビがある。前句の「一儀」を単なる一件の意味に取り成す。仇討の祈願とする。
 「くれう物」はよくわからない。
 八十二句目。

   敵めを御䰗にまかせてくれう物
 かけたてまつる四尺八寸     卜尺

 四尺八寸は約一四五センチ。日本刀の標準は二尺三寸くらいで四尺八寸はかなり長い。佐々木小次郎でも三尺余とされている。四尺八寸は当時の小柄な人の身長くらいあるから、普通なら後ろに背負っても抜くことが出来ない。よっぽどの巨漢か、そうでなければ儀式用か。
 八十三句目。

   かけたてまつる四尺八寸
 看板はいづれ眼のつけどころ   正友

 前句の四尺八寸を大看板とした。
 江戸時代には近代のような巨大な看板はなかった。ただ、天和二年に贅沢な看板に対して禁令が出ているから、延宝の頃には看板は大きく豪華になる傾向があったのだろう。
 八十四句目。

   看板はいづれ眼のつけどころ
 用の事どもおこたるべからず   在色

 看板に小便していく奴がいたのだろう。見張ってなくてはならない。
 八十五句目。

   用の事どもおこたるべからず
 置頭巾分別くさくまかり出    松臼

 「置頭巾」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「置頭巾」の解説」に、

 「① 袱紗(ふくさ)のような布を畳み、深くかぶらないで頭にのせておく頭巾。
  ※俳諧・生玉万句(1673)「御免あれ赤地の錦の置頭巾〈均明〉 時雨のあめに染るひん髭〈流水〉」
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)一「その時にあふて旦那様とよばれて、置頭巾(ヲキヅキン)・鐘木杖(しゅもくつへ)、替草履取るも」
  ② ①の形に似せて鉄板を張り合わせた兜の鉢の一種。」

とある。
 頭巾をいかにも偉そうに被って、仕事をサボってないかどうか見回りに来る奴っていたのだろう。
 八十六句目。

   置頭巾分別くさくまかり出
 しもく杖にて馬場乗を見る    雪柴

 撞木杖は取っ手の処がT字になった杖。体重をかけやすいので年寄りがよく用いる。
 現役引退して、馬場に来ても馬に乗るのではなく、見るのが何よりの楽しみ。
 八十七句目。

   しもく杖にて馬場乗を見る
 朝まだきうら門ひらく下屋敷   一鉄

 下屋敷はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「下屋敷」の解説」に、

 「〘名〙 控えの屋敷。別邸。江戸時代には、大名や豪商の主人常住の上屋敷(かみやしき)に対していった。下館(しもやかた・したやかた)。したやしき。
  ※虎寛本狂言・花盗人(室町末‐近世初)「某此山影に下屋舗を持て御座るが」

とある。高田馬場の辺りに多かった。
 八十八句目。

   朝まだきうら門ひらく下屋敷
 露と命はいづれ縄付       一朝

 お縄になった罪人は裏門からひっそりと連行されていく。
 八十九句目。

   露と命はいづれ縄付
 観音の首より先に月おちて    松意

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『盛久』を引いている。
 観音の功徳によって死刑を免れた平盛久は明け方に処刑されることになったが、刀が折れてそれが観音の功徳だということで免れることになる。
 て留なので「露と命はいづれ縄付、観音の首より先に月おちて」と読む。捕らえられたが首より先に月が落ちて助かった、となる。
 九十句目。

   観音の首より先に月おちて
 奉加すすむる荻の上風      志計

 荒れ果てたお寺の野ざらしになった観音様に月が落ちる。寄付してお堂の再建をしなければと、荻の声がする。
 九十一句目。

   奉加すすむる荻の上風
 衣手が耳にはさみし筆津虫    卜尺

 筆津虫(ふでつむし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「筆津虫」の解説」に、

 「〘名〙 昆虫「こおろぎ(蟋蟀)」の異名。《季・秋》
  ※古今打聞(1438頃)中「ふでつむしあきもいまはとあさちふにかたおろしなる声よわるなり 筆登虫は蛬を云也」

とある。
 最近はあまり見ないが、ちょっと前は耳に鉛筆を挟んでいる人がいたりした。昔は筆を耳に挟んでいたのだろう。奉加を勧める勧進僧が、すぐに奉加帳に書き込めるように耳に筆を挟んでやって来たのだろう。
 秋の草に鳴く虫は縁になる。

 虫の音も涙露けき夕暮れに
     訪ふ人とては荻の上風
              藤原家隆(壬二集)

の歌がある。
 九十二句目。

   衣手が耳にはさみし筆津虫
 名所旧跡とをざかりゆく     正友

 旅僧が歌を詠もうと思っているうちになにも思い浮かばず、名所旧跡も遠くなってゆく。

2022年7月14日木曜日

 小松左京の『日本沈没』は実のところ読んでないけど、ラジオドラマでは最後の所で、今まで日本は四方海に囲まれた自然的条件によって国土が守られてきたが、それを失ったとき、ユダヤ人のような苦難の歴史が待ち受けている、と語る場面があった。
 昨日の日本のシナリオは左翼の人たちからすればおそらくベストシナリオだろう。なにしろ無血で日本人が救われたのだから。下手な抵抗をするよりも、このシナリオがベストだと思うだろう。
 ただ、その後のことはわからない。日本人のイメージで占領下というと、進駐軍がやって来てチョコレートを配ってくれた、やさしいアメリカ人だ。中国人やロシア人の支配も同じだろうか。
 食うに困れば女はパンパンになって生き延びればいい。日本には長いこと遊郭の遊女の苦しみが風流のテーマになっていたから、売春婦を社会から厳しく排除する習慣はない。戦時下には赤線から駆り出された沢山の日本人従軍慰安婦がいたし、戦後進駐軍を相手に売春をしていた女もたくさんいた。ただ、彼女らにオモニの家を作る必要はなかった。多少の差別や偏見はあったとしても、日本ではどこかしら生きていける場所があった。
 仮に日本が中国やロシアに占領された場合、筆者としてはレジスタンスはお勧めしない。多分旧右翼の生き残りと日本共産党はやるかもしれないが、多分ほとんどの人は偽中国人、偽ロシア人になろうとするだろう。
 抵抗するものは容赦なく収容所送りになるだろう。待っているのはウイグルだ。ただ真面目に中国語やロシア語を学び、その習慣に馴染もうとする人たちに銃を向けることはあるまい。街で喧嘩を売られてボコられたり、女は路地裏に連れ込まれて回されたり、時折ヘイトクライムでいきなり殺されたりとか、それくらいのことはあるだろう。
 おまわりにつかまれば、有無も言わさず殴られたり、撃たれたり、店に入ろうとしただけで通報されたり、それくらいのこともアメリカの黒人を思えば可愛いものだ。今のヤンキーだって似たようなもんじゃないか。
 そして三十年後には中国人やロシア人に同化したふりをしたなんちゃって中国人やロシア人が、いつの間にか社会の中枢部を握っている状態になり、生粋の中国人やロシア人はあたかも顔面腫に人格を乗っ取られるような苦しみを味わうことになるだろう。
 ただ断っておくが、これはベストシナリオではない。ベストシナリオは無血でこの国を守り切ることだ。前日のシナリオは消極策による失敗例だ。
 日本が戦意を見せないないなら、ロシアが攻めてくる前にアメリカが見放すというシナリオがあるということだ。日本の防衛をアメリカに丸投げではアメリカ人の方がお断りだろう。むしろ今までよく付き合ってくれたことに感謝すべきだ。
 ただ、無血で占領されるというシナリオと戦って独立を守り抜くというシナリオのどちらがいいかは難しい。戦った場合の損失と秤にかけることになるが、それはやってみなくてはわからない。後から結果論で非難することは誰にでもできる。
 最悪は占領されてから戦って虐殺されるというパターンだ。真面目なあの党の人たちが貧乏くじを引かなければいいが。
 ウクライナの人たちも今までよく戦ったし、それはいくら称賛してもし過ぎることはないが、西側のロシア包囲網が総崩れになったなら、降伏して何十年何百年でも次のチャンスを待つのも手だ。ロシアがヨーロッパにまで攻め込むなら、志願してドイツに復讐するのもいいかもしれない。会津の抜刀隊だ。
 言っておくが筆者は思想で動く人間ではなく、状況判断で動いているので、状況が変われば前言を翻すことはある。コロナの時もそうだったが、ワクチン接種の進捗とウイルスの弱毒化など、状況が変わった時は前言を翻すのも躊躇しない。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 三裏、六十五句目。

   狐飛こすあとの夕露
 かうばしう爰に何やら野べの色  正友

 秋も深まると草も枯れて、野辺も油揚げの色になる。
 六十六句目。

   かうばしう爰に何やら野べの色
 柴の折戸にすりこぎの音     在色

 野辺に立つ草庵からは擂鉢で何かを擂る香ばしい香りがする。
 六十七句目。

   柴の折戸にすりこぎの音
 去間ひとり坊主の朝ぼらけ    松臼

 「坊主」は「ぼつち」とルビがある。出家したばかりの坊主を新発意(しんぼち、しんぼっち)というからか。今日でいう「ぼっち」も漢字を充てると坊主か発意になるのか。まあ世俗を断ってはいるが。
 去る間というから、一時的に小坊主が一人で留守番して、その時は朝寝していたが、主人が帰って来たので今日からまた早朝の擂粉木が復活した。
 六十八句目。

   去間ひとり坊主の朝ぼらけ
 いやいや舟にはあとのしら波   一朝

 『西行物語』の渡し舟に乗ってた西行が、あとからやって来た武士たちが来た時に船がもう満員だったため、あの「法師降りよ」としたたか打ち据えられて船から降ろされてしまう場面だろう。
 いやいやひどい目にあった。

 世の中をなににたとへむ朝ぼらけ
     漕ぎゆく舟のあとのしら浪
              沙弥満誓(拾遺集)

による。
 六十九句目。

   いやいや舟にはあとのしら波
 革袋たしか桑名の泊まで     一鉄

 東海道の七里の渡しは宮(熱田)と桑名を結ぶ。
 銭を入れた革袋は確か桑名を出た時にはあったんだが、船で居眠りしている間にすられたか。気付いた時にはあとの白波。
 七十句目。

   革袋たしか桑名の泊まで
 古がねを買ふなみ松の声     雪柴

 なみ松は松並木で街道には付き物。
 古がねはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「古鉄・古金」の解説」に、

 「〘名〙 (「ふるかね」とも)
  ① 金属器具の使いふるしたもの。または、その破片など。
  ※本福寺跡書(1560頃)大宮参詣に道幸〈略〉夢相之事「かぢやはかじとしにかま・なた・ふるかねをやすやすとうるをかいとめ」
  ※日葡辞書(1603‐04)「Furucaneuo(フルカネヲ) ヲロス」
  ② 「ふるがねかい(古鉄買)」の略。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「釘五六舛こけらもる月〈信章〉 ふる里のふるかねの声花散て〈芭蕉〉」

とある。②の意味で「なみ松の古がねを買ふ声」の倒置であろう。街道に古金買がいて、財布を無くした旅人が旅刀を売ってその場をしのぐ。辞書の例文は延宝四年の「梅の風」の巻二十一句目。
 七十一句目。

   古がねを買ふなみ松の声
 焼亡は片山里にきのふの雲    松意

 焼亡は「ぜうまう」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焼亡」の解説」に、

 「〘名〙 (「もう」は「亡」の呉音。古くは「じょうもう」)
  ① (━する) 建造物などが焼けてなくなること。焼けうせること。焼失。しょうぼう。
  ※田氏家集(892頃)中・奉答視草両児詩「勝家焼亡曾不レ日、良医傾没即非レ時」
  ② 火事。火災。しょうぼう。
  ※権記‐長保三年(1001)九月一四日「及二深更一、西方有二焼亡一」
  ※日葡辞書(1603‐04)「Iômǒno(ジョウマウノ) ヨウジン セヨ」
  [語誌](1)「色葉字類抄」によると、清音であったと思われるが、「天草本平家」「日葡辞書」など、室町時代のキリシタン資料のローマ字本によると「ジョウマウ」と濁音である。
  (2)方言に「じょうもう」の変化形「じょーもん」があるところから、室町時代以降に口頭語としても広がりを見せたと思われる。」

とある。
 焼け出された家があれば、焼け残った金属製の物を買い取りに古金買がやってくる。
 「きのうの雲」は煙に通じる。
 七十二句目。

   焼亡は片山里にきのふの雲
 糑にくみこむ滝の水上      志計

 糑(だく)は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「餅米を煎って粉にした非常食。水で練って団子にする」とある。康煕字典には粉餌とあるから、本来は家畜の飼料だったのかもしれない。
 七十三句目。

   糑にくみこむ滝の水上
 そげ者はやせ馬引て帰る也    卜尺

 そげ者はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「削者」の解説」に、

 「〘名〙 かわりもの。変人。奇人。また、人をののしっていう語。そげ。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「にくみこむ滝の水上〈志計〉 そげ者はやせ馬引て帰る也〈卜尺〉」
  ※人情本・閑情末摘花(1839‐41)一「アノ慈母(おふくろ)が思ひの外不通(そげ)もんででも有やせう」

とある。
 日ノ岡峠の義経蹴上水だろうか。義経がまだ牛若丸だった頃、金売吉次(かねうりきちじ)とともに奥州平泉に向かう時、京から山科へ行く日ノ岡峠の道ですれ違った平家武者の馬の跳ね上げた水がかかったということで喧嘩になり、切り捨てた後、峠の坂の上の方にあった清水で刀を洗ったという。
 七十四句目。

   そげ者はやせ馬引て帰る也
 談合やぶる佐野の秋風      正友

 痩せ馬に佐野といえば「いざ鎌倉」の佐野源左衛門で謡曲『鉢木』に登場する。
 ただ、ここでは約束と違って、鎌倉に駆けつけたけど何ももらえず、すごすごと帰って行く。物語は出来すぎで、現実はこんなもの。
 七十五句目。

   談合やぶる佐野の秋風
 ぬすまれぬかねこそひびけ月の下 在色

 盗まれた金と鐘の鳴るを掛けている。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『船橋』を引いている。

 「古き者の申したりし事を語つて聞かせ申し候べし。昔この所に住みし者、忍び妻にあくがれ、所は川を隔てたれば、更け行く鐘を境にて、此の橋のほとりに出でたりしを、二親深くこれを厭ひ、この橋の板を取り放つ。それをば夢にも知らずして、かけて頼みし橋の上より、かつぱと落ちて空しくなる。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.53615-53622). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 まあ、ストーカー退治の物語か。怨霊となったストーカーの魂を成仏させるというのは、この頃から江戸時代にかけての恋物語の一つのパターンでもある。「一心二河白道」もその一つ。

 かみつけぬ佐野の船橋とりはなし
     親はさくれどわはさかれがへ(万葉集巻十四 上野国歌)

が元になっている。
 句の方はそれを思い起こしつつも、約束と違って騙されて金を盗まれた話に作り替える。
 七十六句目。

   ぬすまれぬかねこそひびけ月の下
 目ざとく見えてうつから衣    松臼

 眠れなくて夜中に唐衣を打っていたから、泥棒に入られなくて済んだ。
 月に衣打つは、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

による。
 七十七句目。

   目ざとく見えてうつから衣
 花は根に夫はいまだ旅の空    雪柴

 李白の「子夜呉歌」が三句にまたがってしまう形だが、一応「花は根に」とすることで、

 花は根に鳥は古巣にかへるなり
     春のとまりをしる人ぞなき
              崇徳院(千載集)

を逃げ歌にする。
 七十八句目。

   花は根に夫はいまだ旅の空
 思ひは石のつばくらのこゑ    一鉄

 燕は岩に巣を掛ける。今は建物の軒や橋の下などにもよく見られる。元は岩場に巣を掛けていた習性による。
 雛が親鳥の帰りを待って鳴いているように、旅に出た夫の帰りを待つ。

2022年7月13日水曜日

 2025年の日本の死という予測は、今だったらこう書きなおす所だろう。
 ウクライナ戦争の長期化により、欧米の世論はインフレとエネルギー危機から武器供与の停止、経済制裁の解除の方向に傾き、選挙のたびに現政権が敗北する。
 この結果2023年には、ロシア包囲網は崩壊してロシアは攻勢に転じウクライナ全土を支配下におさめる。
 アメリカは新モンロー主義を強化し、まず韓国からの米軍撤退を決定する。その直後、韓国は北朝鮮に制圧される。日本に数百万人にも及ぶ韓国からの難民が押し寄せることになる。彼らは日本国中に分散するのではなく、特定の地域に集中し、その地域の地方参政権を獲得する。
 それにやや遅れて2024年、中国は台湾に軍隊を送る。新モンロー主義の定着したアメリカは軍を出さずに武器供与だけに留まり、EUもこれに準じる。ウクライナの時で懲りたか、経済制裁は行わない。
 その結果台湾は最初は激しい内戦状態になるものの、程なく全土が制圧され、やはり百万単位の台湾難民が日本に押し寄せることになる。
 日本人は相変わらず平和憲法と日米同盟で国は守られると考え、憲法改正に躊躇し、野党とマスメディアの声に押されて防衛力強化にも失敗する。宏池会は元々改憲に消極的で、野党との調整に終始し、その弱点が露呈する。清和会も安倍という強力なリーダーを失い、弱体化する。
 自公政権は人権の平等の名のもとに、ついに国政においても外国人の参政権を認めることになる。夫婦別性、同性婚、女性宮家なども次々に決定してゆく。
 また法人税やキャピタルゲインの増税を行い、インフレ手当を全国民に配布するなどの富の再分配や最低賃金の物価連動の引上げなどを行い、「新しい資本主義」はほぼ社会主義と同義になってゆく。
 右翼も新日本保守党どころか、小さな党に細分化するばかりで、左傾化する自公政権の不満の受け口にはならない。
 そうした中で、2025年にアメリカは日米同盟も一方的に破棄して、アジアの問題から完全撤退を決める。
 この年の夏の解散総選挙で韓国系台湾系からの圧倒的な支持のもとに立憲民主党と共産党が圧勝し、蓮舫が日本初の女性首相になる。
 秋にはロシアが国境を越えて北海道に侵入すると、蓮舫首相は即座に中国に援助を求める。日本は一切の武力抵抗を行わず、ロシアと中国の取引に基づいて東西に分割され、戦争を回避するが、日本という統一国家はここで終わりを告げることになる。ロシア連邦日本共和国と中華人民共和国日本人自治区の二つが残る。
 蓮舫はそのまま日本人自治区の党委員会書記に任命され、ロシア連邦日本共和国の大統領には鈴木宗男が就任する。国内の皇室は廃絶させられるが、アメリカで眞子様が第127代天皇として即位し、亡命日本人の希望の星となる。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   国まはりする春の山風
 鶯や小首をひねる歌まくら    一朝

 前句の「国まはり」を歌枕を尋ねる諸国漫遊とし、春の鶯に首をひねって和歌を案じる。
 鶯の歌枕というと、

 花の散ることやわびしき春霞
     たつたの山のうくひすの声
              藤原後蔭(古今集)

の龍田山か、

 鶯のなくにつけてや真金吹く
     吉備の中山春を知るらむ
              藤原顕季(金葉集)

の吉備の中山か。
 春の山風に鶯は、

 谷川のうち出る波も声立てつ
     鶯さそへ春の山風
              藤原家隆(新古今集)

の縁になる。
 五十二句目。

   鶯や小首をひねる歌まくら
 かうしてどうして雪のむら消   雪柴

 「雪のむら消」も和歌の言葉で、

 こりつめて真木の炭焼くけをぬるみ
     大原山の雪のむら消え
              和泉式部(後拾遺集)
 薄く濃き野辺の緑の若草に
     跡まで見ゆる雪のむら消え
              後鳥羽院宮内卿(後鳥羽院宮内卿)

などの歌に詠まれている。
 雪のむら消えは人がそこを通ったから、というのが多い。ただ、誰が何のためにというのがわからないと悩んでしまう。
 五十三句目。

   かうしてどうして雪のむら消
 むかふからうつてかからば飛火野に 松意

 飛火野(とぶひの)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飛火野」の解説」に、

 「奈良市東部、春日山のふもと、春日野の一部。また、春日野の別称。元明天皇のころに烽火台が置かれたところから名づけられた。とびひの。
  ※枕(10C終)一六九「野は嵯峨野さらなり。印南野。交野。駒野。とぶひの」

とある。ここでは飛ぶ火の粉に掛けて、ふりかかる火の粉は払わねばならないとする。そのせいで雪がむら消えになった。
 飛火野の雪のむら消えは、

 若菜摘む袖とぞ見ゆる春日野の
     飛火の野辺の雪のむら消え
              藤原教長(新古今集)

の歌がある。
 五十四句目。

   むかふからうつてかからば飛火野に
 羽買の山の天狗そこのけ     志計

 羽買(はがひ)の山はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「羽買之山・羽易之山」の解説」に、

 「[一] 奈良市の春日山の北側に連なる若草山のこととも、また西側に連なる三笠山、南側に連なる高円山、それに若草山を加えた三山のことともいわれるなど、諸説がある。
  ※万葉(8C後)一〇・一八二七「春日なる羽買之山(はがひのやま)ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥」
  [二] 奈良県桜井市穴師にある巻向山につづく龍王山か。
  ※万葉(8C後)二・二一〇「大鳥の羽易乃山(はかひノやま)に吾が恋ふる妹はいますと人の言へば」

とある。
 前句の「うつてかからば」を天狗の襲撃とする。
 五十五句目。

   羽買の山の天狗そこのけ
 八重の雲見通すやうな占算    卜尺

 占算は「うらやさん」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「占屋算」の解説」に、

 「〘名〙 占い。とくに、売卜者(ばいぼくしゃ)が算木と筮竹(ぜいちく)とを使って行なう占い。また、それを業とする者。占い者。易者。うらないさん。うらやふみ。うらおき。
  ※玉塵抄(1563)一三「人のしらぬことをうらや算をおいてしるぞ」

とある。八重雲は「学研全訳古語辞典」に、

 「幾重にも重なってわき立つ雲。八重棚雲(たなぐも)。
  出典源氏物語 橋姫
  「峰のやへぐも、思ひやる隔て多く、あはれなるに」
  [訳] 山の峰の幾重にも重なってわき立つ雲のように、思いをはせるにも障害が多く悲しいのに。」

とある。

 白雲の八重に重なるをちにても
     おもはむ人に心へだつな
              紀貫之(古今集)

など歌にも詠まれている。
 前句の「そこのけ」を、「そこを退け」の意味ではなく天狗をも凌ぐ「天狗そこのけ」の意味に取り成す。
 五十六句目。

   八重の雲見通すやうな占算
 乙女が縁組しばしとどめん    正友

 乙女の姿を引き留めるのではなく、縁談をやめろと占い師が言う。

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
     乙女の姿しばしとどめむ
              僧正遍照(古今集)

による。
 五十七句目。

   乙女が縁組しばしとどめん
 色好みしかも漁父にて大上戸   在色

 色好みでは浮気しそうだし、漁父では生活が不安定だし、それで大酒飲みでは良い所がない。この縁談は×。でもこういうのに限って長身のイケメンだったりする。
 五十八句目。

   色好みしかも漁父にて大上戸
 よだれをながすなみだ幾度    松臼

 色好みなら女と見ればよだれを垂らしそうだ。その上大酒飲みなら酔っ払ってよだれを垂らす。
 五十九句目。

   よだれをながすなみだ幾度
 肉食に牛も命やおしからん    一朝

 牛はよだれを垂らすものだが、食われるとなると涙を流す。
 冬の薬食いはシカやイノシシのような野生動物の肉を食うことが多かったが、貧しい人は犬を食ったともいう。家畜の牛が食われることもあったのだろう。まあ、桜肉ということばもあって、馬肉も食ってたようだし。屠殺場に行く牛は涙を流すという。
 六十句目。

   肉食に牛も命やおしからん
 はるかあつちの人の世中     一鉄

 日本人は薬食いなどの特別な時くらいしか獣肉を食わないが、朝鮮(チョソン)でも清国でも南蛮でも肉を常食する。
 六十一句目。

   はるかあつちの人の世中
 祖父と姥同じ台の念仏講     雪柴

 今は亡き祖父と姥はあっちの世界でも愛し合っているのだろうか。「世中(よのなか)」には男女の仲の意味もある。
 六十二句目。

   祖父と姥同じ台の念仏講
 つらぬく銭の高砂の松      松意

 爺様と婆様でお目出度いということで、高砂の松にお賽銭をする。
 六十三句目。

   つらぬく銭の高砂の松
 秋の月外山を出て宮一つ     志計

 播磨の尾上の松が難波住吉神社の高砂の松に逢いに行くのが、謡曲『高砂』だが、今なら銭があれば誰でも行ける。

 「遠き住の江高砂の、浦山国を隔てて住むと、いふはいかなる事やらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1786-1788). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の一節がある。
 六十四句目。

   秋の月外山を出て宮一つ
 狐飛こすあとの夕露       卜尺

 山を出た狐の宮といえばお稲荷さん。秋の月に夕露が付く。

 秋の月篠に宿かるかげたけて
     小笹が原に露ふけにけり
              源家長(新古今集)
 袖の上に露置きそめし夕べより
     なれていく夜の秋の月影
              真昭法師(新勅撰集)

などの歌がある。

2022年7月12日火曜日

 家の荷物を整理していたら物置の奥から本が一ケース出てきた。その中には筆者がかつて傾倒していた新左翼の太田竜の著作は出て来るし、ルイ・ケルヴラン「生体による原子転換」なんて本も出てきた。これなんかプレミアつかないかな。
 その中に『2025年日本の死』(水木楊、1994、文芸春秋)なんてのも出てきた。今となっては買った記憶も読んだ記憶も失われているが、どの程度予言が当たっているのか気になって、ぱらぱらとめくって読んでみた。
 アメリカの新モンロー主義は一九九四年の時点ではっきりと前兆があったんだなと、改めて知った。ただ、この本の予測と違って、新モンロー主義はかなりゆっくりとしたペースだった。911事件が大きくそれを遅らせたのかもしれない。
 結果的に新モンロー主義を大胆に進めようとしたトランプさんにしても、北朝鮮問題にはこれまでのどの大統領にもなかったような深い関心を示していた。だから、アメリカの新モンロー主義の本格的な実行はバイデンさんになってからで、それも今年のロシアのウクライナ侵略の時についに来たかという所ではなかったか。
 あとロシア連邦の崩壊なんてのもあった。それが起きてたらプーちんはいまなにをやっていたのかな。というか、プーちんが強権でもってそれを防いでしまったということなのか。だとすると英雄だというのもわかる。
 日本の国連常任国入り、これは大外れ。憲法改正が防衛力強化ではなく、国連での国際貢献条項の追加という方向で行われる、これも外れ。解釈変更だけで乗り切っちゃったからね。
 新日本保守党の台頭というのも、まあ大外れといっていい。自民党も最後まで宏池会の宮沢元首相が居座る形で、反主流派の清和会の影がない。実際には小泉、安倍、麻生がその後の自民党政権の中心となっていったが、これも想像できなかったようだ。
 まあ、去年岸田さんになってようやく宏池会に政権が戻ってきたが、バイデンさんの新モンロー主義と同様、今なのかという意味で不吉だ。
 特に安倍長期政権の時代で自民党が保守層からリベラル層にまで幅広い支持を受けてしまったことが、保守系新党の動きを封じてきたのかもしれない。安倍さんが辞めた後、自民党は急速に左に寄り始めた。そこで何とかバランスを取っているのが今の宏池会と思うと、これも何だか不吉だ。今まで外れてきた予言が、去年今年になって急にパーツが揃い始めている。
 まあ、今回の選挙で出てきた参政党が「新日本保守党」としてこれから大きく成長することがあるのかというと、多分ないと思う。新党くにもりや日本第一党と一部の自民党の離反組が加われば多少は活気づくかもしれないが。パヨチンと一緒で経済音痴というのが一番のネックだ。
 まあ、著者が中国の生まれということもあってか、中国に関しては安定している。「日本の死」をもたらすのも、まあ当然ということか。

 さて話は変わるが、今回の暗殺はイスラム国のテロと構図が似ている。組織が直接手を下すのではなく、ネット上にデマを広めて、それに反応した誰かが自発的にテロを行うように仕向けるというやり方だ。今や世界のテロの標準となりつつある。それが日本でも起きたということだ。
 明らかな殺害予告だと日本でも犯罪として捜査はするが、単に「安倍死ね」だとか「万死に値する」だとか言っただけでは取締りの対象にはならない。それを複数アカウントを作ってネット上の主流の意見であるかのように拡散してゆけば、容易にテロは可能になる。
 日本の場合はマス護美もデモ拡散の片棒を担いでいる。
 人に対して死ねというのは、たとえ相手がプーちんであったとしても「正当な批判」とは言えない。侮辱罪の適用などの対策を強化しないと、やがて日本はテロの横行する国になる。
 日本は厳しい銃規制があるから平和だなんて思わない方が良い。「ないなら作っちゃえ」ってなるだけのことだ。日本の平和は文化の問題で、銃がないから犯罪が少ないのではない。
 その平和の文化を作ったのは、あるあるネタの談笑を通じて互いの緊張感を和らげる、俳諧の文化だったといってもいい。あるあるネタは「人情」に対する深い洞察を必要とするもので、理性よりも人情の理解が人の怒りを抑え、平和な世界を作る。
 人情は日本人にとっての人権概念だ。俳諧で人情を理解し、「かまわぬ」を広めよう。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 二裏、三十七句目。

   公儀の御たづね二千里の月
 廻状に初雁金のあととめて    卜尺

 雁金と借り金を掛けるのはお約束といったところか。
 廻状(くわいじゃう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回状・廻状」の解説」に、

 「① =かいぶん(回文)①
  ※東寺百合文書‐ち・永享九年(1437)四月四日・二十一口方評定引付「去年三月廿一日灌頂院御影供廻状、仏土院被載了」
  ② ある事柄を知らせるため、必要な所に配布される書状や書類。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「公儀の御たづね二千里の月〈志計〉 廻状に初雁金のあととめて〈卜尺〉」
  ③ 特に江戸時代に、領主が村々へ年貢取立て、夫役などの用件を通達するための書状。各村の名主(なぬし)はそれに判を押して次の村へ渡し、最後の村(留り村)から発行者(代官所)へもどす。また、村方が独自に出す場合もある。〔島田駿司家所蔵文書‐嘉永六年(1853)四月二五日・館山四ケ浦廻状〕」

とある。借金のトラブルでお尋ね者になったようだ。
 三十八句目。

   廻状に初雁金のあととめて
 明後夕がた雲霧の空       正友

 前句の廻状を③の意味に取り成して、取り立ての連絡を債権者の間で回覧する。
 三十九句目。

   明後夕がた雲霧の空
 引入は山の腰もとがつてんか   一朝

 引入(ひきいれ)はここでは手引きのこと。腰元は雑用女のことで、そこのところ夜這いを掛けるのに手引きしてくれ、合点か?と手引きを頼む。
 四十句目。

   引入は山の腰もとがつてんか
 泪の滝の水くらはせう      松臼

 どうやって腰元を口説くのかと思ったら、泣き落としか。
 泪の滝は、

   仁和のみかとみこにおはしましける時に、
   ふるのたき御覧しにおはしましてかへりたまひけるによめる
 飽かずして別るる涙滝にそふ
     水まさるとやしもは見るらむ
              兼芸法師(古今集)
 恋わびて一人伏屋によもすがら
     落つる涙や音なしの滝
              藤原俊忠(詞花集)

の歌がある。
 四十一句目。

   泪の滝の水くらはせう
 待ぶせやおもひの淵へ後から   雪柴

 泪の滝に後ろから押して落してやろうかと待っている。通って来る不実な男を懲らしめてやろうということか。どれだけお前のせいでうちの娘が泣いたと思ってるんだ、という感じで。
 四十二句目。

   待ぶせやおもひの淵へ後から
 いかに前髪比興さばくな     在色

 前髪は月代を剃ってないということで稚児や若衆の意味になる。男色の対象。
 比興はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「比興」の解説」に、

 「[二] (「ひきょ(非拠)」の変化した語。一説に「ひきょう(非興)」とも)
  ① 非理。不合理。また、不都合なこと。
  ※古今著聞集(1254)一一「あまりに供米不法に候て、実の物は入候はで、糟糠のみ入てかろく候故に、辻風に吹上られしを、〈略〉比興の事なりとて、それより供米の沙汰きびしくなりて」
  ② いやしいこと。つまらないこと。とるに足りないこと。そまつなこと。また、そのさま。
  ※異制庭訓往来(14C中)「只当世様。以二珍躰一為二風情一。以二淳朴一為二比興之義一」
  ※史記抄(1477)一五「かかる比興なる者を称挙して其任に、不称者をは、挙たる人を罰せんなり」
  ③ あさましいこと。みっともないこと。また、そのさま。
  ※今川大双紙(15C前)躾式法事「武士の人は、〈略〉臭きもひけふ也」
  ④ =ひきょう(卑怯)
  ※浄瑠璃・平仮名盛衰記(1739)三「ヤア比興(ヒケウ)なり松右ヱ門」

とある。
 「比興さばくな」は卑怯なことをするなという意味。
 待ち伏せして恋の淵に突き落とそうなどと、何て卑怯な。いいか絶対に押すなよ‥‥。
 四十三句目。

   いかに前髪比興さばくな
 御恩賞今つづまりて九寸五分   志計

 恩賞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「恩賞」の解説」に、

 「① 功労を賞して、主君が家臣に官位、所領、物品、税の徴収権などを与えること。また、そのもの。
  ※続日本紀‐神護景雲二年(768)九月辛巳「長谷部文選授二少初位上一。賜二正税五百束一。又父子之際。因心天性。恩賞所レ被事須二同沐一」 〔後漢書‐彭寵伝〕
  ② 恩恵。神の恵み。また一般に、世話を受けた恩。
  ※天草本伊曾保(1593)鳩と蟻の事「カノ アリ タダイマノ vonxǒuo(ヲンシャウヲ) ホウジョウズルト ヲモウタカ」
  ③ 世話になった恩を返すこと。恩返し。報恩。
  ※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一四「この御おんしゃうの御ために、これまで、御れいにまいりて、御ざあるぞ」

とある。
 恩をあだで返すような悪事をしでかしたのだろう。九寸五分は切腹をするときの短刀の長さ。
 四十四句目。

   御恩賞今つづまりて九寸五分
 隠居このかた十徳の袖      一鉄

 十徳(じっとく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十徳」の解説」に、

 「① 一〇種類の徳。また、多くの徳。
  ※十訓抄(1252)一「俊頼朝臣は十徳なからん人は判者にあたはずとぞかかれける」
  ② 室町時代の脇縫いの小素襖(こすおう)の通称。四幅袴(よのばかま)とあわせて用い、将軍供奉の走衆以下の召具(めしぐ)が着用した。また、江戸時代の儒者・医者・俳諧師・絵師などの外出着。道服の一種で、黒紗の類で仕立てるのを例とした。
  ※教言卿記‐応永一三年(1406)一〇月一九日「倉部十徳之体、当世之風体云々。重能・資能同体也」

とある。ここでは②の後半の御隠居さんが着るような外出着で、昔は御恩賞の長刀を差していたが、いまはそれが縮まって九寸五分の短刀を持ち歩いている。
 四十五句目。

   隠居このかた十徳の袖
 貝がらの内をたのしむ名膏あり  正友

 膏薬は貝殻に入れて持ち歩いた。膏薬は傷薬などが多かった。

   半俗の膏薬入は懐に
 臼井の峠馬ぞかしこき      其角

の句が後の『嵯峨日記』にある。蝦蟇の油がよく知られている。延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻九十七句目に、

   蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
 千年の膏薬既に和らぎて     桃青

の句もある。九十八句目に、

   千年の膏薬既に和らぎて
 折ふし松に藤の丸さく      桃青

とあるように、小田原の藤の丸という膏薬屋の膏薬も名膏だったようだ。
 もっとも、延宝六年の「さぞな都」の巻七十四句目、

   膏薬に木の実のうみや流覧
 よこねをろしに谷深き月     信徳

のように「よこね」という梅毒のために腫れたリンパ節を抑える膏薬もあったようだ。
 四十六句目。

   貝がらの内をたのしむ名膏あり
 蒔絵に見ゆる棚先の月      松意

 貝殻の内側の真珠質はは螺鈿細工に用いられる。貝殻に蒔絵を施すこともある。
 この場合は名膏の膏薬入れに蒔絵がしてあってそれを楽しんでたら、店先の月までが蒔絵に見えてくる、という意味であろう。
 四十七句目。

   蒔絵に見ゆる棚先の月
 町人の奢をなげく虫の声     松臼

 町人の店先に蒔絵を施した豪華な調度が並び、贅沢だなあと虫が嘆く。
 四十八句目。

   町人の奢をなげく虫の声
 庄屋九代のすへの露霜      卜尺

 九代続いた庄屋もドラ息子の道楽で今は空家になって荒れ果てている。
 四十九句目。

   庄屋九代のすへの露霜
 花の木や抑これはさかい杭    在色

 荒れ果てた家に花といえば『伊勢物語』第四段の、

 「またの年の睦月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて行て、立て見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣て、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏りて、去年を思ひ出て詠める。

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして

と詠て、夜のほのぼのと明るに、泣く泣く帰りにけり。」

であろう。
 庄屋の境界の杭の代りに木を植えるということは、よくあったことなのだろうか。
 五十句目。

   花の木や抑これはさかい杭
 国まはりする春の山風      一朝

 「国まはり」は「国廻り派遣」のことか。ウィキペディアに、

 「元和元年11月19日、徳川家康は武家諸法度・一国一城制が遵守されているかを確かめるために、3年に1度諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出したが、会津地方への監察が1度行われたのみに終わった。8年後の元和9年(1623年)に、徳川秀忠は豊後国に配流された甥(娘婿)松平忠直の状況視察を目的として「国目付」を派遣しているが、これも「国廻り派遣」の1種であった。本格的な派遣再開は徳川家光が親政を始めて1年後の寛永10年1月6日(1633年)に慶長日本図の校訂を理由として「国廻り派遣」を行うことを決め、2月8日に、小出吉親・市橋長政・溝口善勝・小出三尹・桑山一直・分部光信の6名の譜代大名格を正使として各地に派遣したのが最初とされている。この際には副使として使番・小姓組あるいは書院番に属する旗本からそれぞれ1名ずつが付けられた。彼らは地図の校訂を行うと同時に当時既に構想されていた参勤交代実施時の大名行列のルートを確認する意図があったとされている。
 その後、再びこの制は途絶えていたが、徳川家綱の代に入った寛文4年4月5日に全ての大名に対して領知朱印状が交付され(寛文印知)、同年に宗門改が全ての領主に対して義務付けられた。それらの実施状況を確かめる事を名目として寛文7年閏2月18日に諸国巡見使の制が導入されたのである。」

とある。国と国との境の境杭がなくて、この花の木が境杭の代りだと説明する。

2022年7月11日月曜日

 出口調査に比べるとかなり左翼票が伸びたのは、期日前投票の左翼票が多かったからだろう。
 まあ、憲法改正に安定した数とは言い難い。特に公明党は要注意だ。NATOのトルコのように揺さぶりをかけ、とんでもない取引を仕掛けてくる可能性がある。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 二表、二十三句目。

   のきぎりの身は谷の埋木
 すごすごとかたげて過るつづら折 雪柴

 何を担げてというと、下句の「埋木」であろう。ここでは埋木は「のきぎりの身」の比喩ではなく、山奥で退き切りされた人が仕方なく、自分で埋木を担いでつづら折りの坂を登り、売りに行く、ということになる。
 「退き切り」は夫婦の縁に限らず、男がたった一人山の中に取り残される意味でも用いられたのかもしれない。
 二十四句目。

   すごすごとかたげて過るつづら折
 やけ出されたるあとのうき雲   在色

 火事で家を失い、行く所もなく旅に出る。後に天和の大火で芭蕉さんも甲斐大月に旅に出ている。これが後の一所不住の漂泊の人生の始まりだったとも言える。
 二十五句目。

   やけ出されたるあとのうき雲
 落城や朝あらしとぞなりにける  志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『八島』の、

 「水や空空ゆくも又雲の波の、打ち合ひ刺し違ふる、船軍の掛引、浮き沈むとせし程に、春の夜の波より明けて、敵と見えしは群れゐる鷗、鬨の声と、聞こえしは、浦風なりけり高松の浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15597-15603). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 謡曲は八島の合戦の後の朝嵐だが、それを城の攻防戦で城は炎上して朝が来る場面に作り直す。
 朝嵐という言葉は、

 朝嵐山の陰なる川の瀬に
     波寄る芦の音の寒けさ
              後嵯峨院(続古今集)

など、和歌にも用いられる。
 二十六句目。

   落城や朝あらしとぞなりにける
 はや馬はいはい松の下道     一鉄

 落城の知らせを届ける早馬が駆け抜けて行く。
 二十七句目。

   はや馬はいはい松の下道
 此浦に今とりどりの生肴     正友

 新鮮な魚介が浜に上がると、早馬でそれを江戸に届ける。「とりどり」は「今獲れた」と掛けている。

 鎌倉を生きて出けむ初鰹     芭蕉

の句は後の元禄五年の句とされている。鎌倉は昔から街道が整備されていたから、早馬を飛ばすにはよかったのだろう。
 二十八句目。

   此浦に今とりどりの生肴
 酢樽にさはぐ沖津しら波     松意

 生肴には酢を用いる。刺身は昔は膾にして食べるのが普通だった。
 二十九句目。

   酢樽にさはぐ沖津しら波
 半切や入日をあらふそめ物屋   松臼

 前句の酢樽を染物の定着剤に用いる酢とする。
 半切(はんぎり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「半切」の解説」に、

 「① 半分に切ったもの。
  ※島津家文書‐慶長三年(1598)正月晦日・豊臣氏奉行衆連署副状「半弓之用心に、半切之楯数多可レ有二用意一旨、被二仰遣一候」
  ② 能装束の袴の一つ。形は大口袴に似て裾短とし、金襴、緞子(どんす)などにはなやかな織模様のあるもの。荒神・鬼畜などの役に用いる。はんぎれ。〔易林本節用集(1597)〕
  ③ 歌舞伎衣装の一つ。広袖で丈(たけ)が短く、地質に錦または箔(はく)を摺り込んだもので、主に荒事役に用いる。はんぎれ。
  ※歌舞伎・男伊達初買曾我(1753)一「五郎時致、半切、小手、臑当」
  ④ (半桶・盤切) 盥(たらい)の形をした、底の浅い桶(おけ)。はんぎりのおけ。はんぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑤ =つりごし(釣輿)」

とある。この場合は④の桶のことか。海に沈む夕日が波を染めて行く様を、染色に用いる桶に喩える。
 三十句目。

   半切や入日をあらふそめ物屋
 上京下京しぐれふり行      卜尺

 京は染物屋が多い。友禅は有名だ。
 時雨に濡れた紅葉の入日に輝く美しさは、和歌にも詠まれている。

 時雨降るみむらの山のもみぢ葉は
     誰がおりかけし錦なるらむ
              大江匡房(新勅撰集)
 夕時雨雲の途絶えは日影にて
     錦をさらす峰のもみぢ葉
              飛鳥井雅孝(文保百首)

などがある。
 三十一句目。

   上京下京しぐれふり行
 ひかれ者木の葉衣を高手小手   在色

 ひかれ者は刑場に連れてかれる罪人で、高手小手は後ろ手に縛りあげることをいう。
 木の葉衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木葉衣」の解説」に、

 「① 木の葉を編んで作った衣。仙人などの着る衣という。
  ※三人妻(1892)〈尾崎紅葉〉前「祖先建国の始末をおもひ、黒木の柱、木葉衣(コノハコロモ)、鳥獣の肉の摸傚(かた)にて行かば一入(ひとしほ)好かるべきに」
  ② 紅葉した木の葉が身に落ちかかるさまを衣服に見たてていう。このはぎぬ。《季・冬》
  ※謡曲・雨月(1470頃)「木の葉の雨の音づれに、老いの涙もいと深き、心を染めて色々の、木の葉衣の袖の上」

とある。②の意味で前句の「時雨」を受ける。
 三十二句目。

   ひかれ者木の葉衣を高手小手
 神農のすゑ似せくすりうり    一朝

 捕まったのは偽物の薬売りだった。木の葉衣に仙人の衣の意味もあるので「神農」が付く。
 三十三句目。

   神農のすゑ似せくすりうり
 なで付の額を見ればこぶ二つ   一鉄

 撫で付け髪という髷を結わずに油で撫でつけただけのオールバックのような髪型は、医者に多かった。こぶ二つというのは薬が効かなかったので袋叩きにあったのだろう。
 仮名草子『竹齋』の、

 目の玉のぬけあがるほと叱られて
     このむめ法師すごすごとゆく

といったところか。
 三十四句目。

   なで付の額を見ればこぶ二つ
 鬼が嶋よりやはら一流      雪柴

 前句の撫で付け髪を柔術の達人とする。修行の時にできたのか、額に瘤が二つあるが、それがまるで鬼のようだ。
 三十五句目。

   鬼が嶋よりやはら一流
 辻喧嘩度々に鎮西八郎兵衛    松意

 鎮西八郎は源為朝のことで、ウィキペディアに、

 「源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
 『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。」

とある。
 ここではオリジナルではなく、江戸時代の巷の鎮西八郎のような奴という意味で鎮西八郎兵衛になる。
 延宝六年の「さぞな都」の巻八十句目でも、

   熊坂も中間霞引つれて
 山又山や三国の九郎助      信徳

の句があり、源九郎義経を江戸時代設定に直して九郎助にしている。
 三十六句目。

   辻喧嘩度々に鎮西八郎兵衛
 公儀の御たづね二千里の月    志計

 お尋ね者になって捕まり、流罪になって二千里の彼方で月を見る。
 二千里の月は白楽天の、

   八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九 白居易
 銀台金闕夕沈沈 独宿相思在翰林
 三五夜中新月色 二千里外故人心
 渚宮東面煙波冷 浴殿西頭鐘漏深
 猶恐清光不同見 江陵卑湿足秋陰

の詩による。

2022年7月10日日曜日

 ググってみて分かったことだが、どうやら統一教会というのは今はないらしい。
 二〇一二年に教祖の文鮮明が亡くなった後、世界平和統一家庭連合とサンクチュアリ教会に分裂したようだ。勝共連合も昔の話だし、いつの間にか世界は変わっていたんだな。
 安倍さんの暗殺も二十年前の恨みだというし。
 比例代表区に何十人という候補者の名前があっても、自分と全部同じ考えの人なんて、大抵いないんじゃないかと思う。いたら気持ち悪いし、「俺いらなくねえ?」になっちゃうわないかな。
 まあ、大抵は今の政治でこれが一番大事だと思う所で考えの似ている人を選ぶ、ということになるんじゃないかと思う。それ以外の所で結構とんでもないこと言っていても、「しゃあねえな」ってことで目をつぶるしかない。
 それができない人が「これはという人がいない」と言って、選挙に行かないんだと思う。小異にこだわる人は、結局何が一番大切かが見えていない。
 マス護美の予測が当たらないのは、最重要項目でない部分での世論調査が全くあてにならないというのをわかっていないからだ。
 同性婚は筆者も反対はしないが、世論調査で容認派が日本の過半数を占めていたとしても、それがそのまま票になるということはまずない。当のLGBTの人たちだって、投票をするときにそれを最優先するとは限らない。やはり国防の方が大事と思うかもしれない。
 前回の衆議院選挙のように野党共闘が実現すると、実は争点が単純に資本主義か社会主義かの二択になってしまうから、悩む必要がなくなってしまう。そうなると、結局モリカケ桜もコロナ対策もどっかに吹っ飛んでしまうんだよね。
 さて、今回の選挙、何か変わるのかな。安倍さんの死が何かの歴史の節目になるのか。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き。

 初裏、九句目。

   そこなる清水橋台の露
 芋籠の下くぐり行ささら浪    正友

 芋籠(いもかご)は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は芋を洗う籠としている。芋は川で洗ったりした。

 芋を洗う女西行ならば歌よまむ  芭蕉

の句がのちの『野ざらし紀行』にある。
 ささら浪は洗うもので、

 ささら浪ひまなく岸を洗ふなり
     渚清くは来てもみよとや
              大友黒主(新千載集)

の歌がある。
 十句目。

   芋籠の下くぐり行ささら浪
 平鍋ひとつ志賀のから崎     執筆

 志賀の辛崎というと「さざなみの」だが細かいことは言わない。大友黒主の歌も『歌枕名寄』には「東山道一」で志賀の所にある。
 平鍋は底の浅い鍋で、芋の煮ころがしを作るのに用いる。志賀の辛崎といえば比良山で、それと掛けて平鍋を出す。

 さざなみの比良山風の海吹けば
     釣りする海人の袖かへりみゆ
              よみ人しらず(新古今集)

の歌がある。
 十一句目。

   平鍋ひとつ志賀のから崎
 火がふるや大宮人の台所     松臼

 志賀の都の大宮人の台所が火事になる。鍋はヘルメットの代りにもなる。
 志賀の辛崎に大宮人は、

 さざなみの志賀のから崎幸はあれど
     大宮人の船待ちかねつ
              柿本人麻呂(夫木抄)

の歌による。
 十二句目。

   火がふるや大宮人の台所
 神鳴とんとみまくほしさよ    卜尺

 延喜三年(九〇三年)に菅原道真が大宰府で亡くなったその二十七年後の延長八年(九三〇年)、清涼殿に落雷があって火事になり数人の大宮人が焼け死に、そのショックで醍醐天皇も三か月後に崩御した。菅原道真の祟りだと噂され、祟りを抑えるために北野天満宮が創建された。後に北野天満宮は連歌会所が設けられ、連歌の中心地にもなった。
 まあ、その時どんな様子だったのか、見てみたいものだ。
 「とんと」は「どーーーんと」ということであろう。
 十三句目。

   神鳴とんとみまくほしさよ
 何と何と法性坊の腰の骨     在色

 清涼殿落雷事件は謡曲『雷電』にもなっている。

 「比叡山延暦寺の座主、法性坊の律師僧正にて候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.77871-77874). Yamatouta e books. Kindle 版.)

とワキが名乗りを上げるところから始まる。後半は菅原道真の怨霊とのバトルシーンとなり、能役者の体幹の強さの試される所だ。 
 十四句目。

   何と何と法性坊の腰の骨
 比叡の山よりやいとの烟     一朝

 和歌の最後を四三で止めるのは万葉集には見られるが、古今集以降の和歌では嫌われ、連歌や俳諧にも受け継がれている。若干例外が見られるのが談林の流行期だ。
 「やいと」はお灸の頃で、腰を痛めた法性坊は比叡山でお灸をする。
 十五句目。

   比叡の山よりやいとの烟
 吹をろす杉の嵐の味噌くさい   一鉄

 比叡山といえば杉林で、お坊さんが住んでいるから吹き下ろす風は味噌臭い。肉や魚を食わないお坊さんは味噌の大豆でたんぱく質を取っている。
 十六句目。

   吹をろす杉の嵐の味噌くさい
 雑炊腹にきくほととぎす     雪柴

 味噌雑炊であろう。粥腹がお粥だけで満たした腹のことだから、雑炊腹も雑炊しか食べてないということで、味噌臭くなる。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「粥腹」の解説」に、

 「〘名〙 粥を食べただけで腹をみたすこと。多く、力のはいらない腹をいう。
  ※洒落本・残座訓(1784)「かゆばらは養生訓のおしえなり」

とあるから、雑炊腹も力の入らないということであろう。
 ホトトギスは山に鳴くものだから杉に縁があり、「過ぎ」と掛けて用いられる。

 郭公三輪の神杉過ぎやらで
     訪ふべきものと誰を待つらむ
              源通光(続古今集)
 五月雨の布留の神杉すぎがてに
     小高く名乗る郭公かな
              藤原定家(続後拾遺集)

などの歌がある。
 十七句目。

   雑炊腹にきくほととぎす
 村雨の空さだめなきつかへもち  松意

 「つかへもち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「痞持」の解説」に、

 「〘名〙 さしこみが持病であること。また、その人。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「村雨の空さだめなきつかへもち〈松意〉こはひ夢見し露の世の中〈志斗〉」
  ※黄表紙・色競手管巻(18C後‐19Cか)三「持病のつかへもちと成給ひぬ」

とある。「さしこみ」は「世界大百科事典内のさしこみの言及」に、

 「…普段はまったく無症状であるが,過食,脂肪食の後や,ときになんらの誘因もなく,発作的に強い上腹部痛(疝痛発作)を起こす。これは,〈しゃく〉〈さしこみ〉といわれる激痛で,苦悶状の顔貌で冷や汗をかき,前屈姿勢でうずくまるが,ときに苦痛のため七転八倒する。同時に軽度の黄疸がみられる場合もある。…」

とある。雑炊を食いすぎたのかさしこみをを起こす。
 ホトトギスに村雨は、

 心をぞつくしはてつるほととぎす
     ほのめくよひの村雨のそら
              藤原長方(千載集)
 声はして雲路にむせぶ郭公
     涙やそそぐ宵の村雨
              式子内親王(新古今集)

などの歌がある。
 十八句目。

   村雨の空さだめなきつかへもち
 こはひ夢見し露の世の中     志計

 露の世は露のように儚く消える世ということで、人生は夢とも言うので、死を暗示させる。
 前句の「つかへもち」を餅が喉につっかえたとしたか。「こはひ」は強飯(こはいひ)と掛けて餅の縁語になる。
 十九句目。

   こはひ夢見し露の世の中
 たまいだる女の念力月ふけて   卜尺

 「たまいだる」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「魂消(たまぎ)たる」の音便とある。魂消るは今日でも用いる「たまげる」。
 念力は今日のようなサイコキネシスではなく、一心に祈るその心の強さをいう。
 て留の時は倒置にして「こはひ夢見し露の世の中、たまいだる女の念力月ふけて」と読ませる場合がある。怖い夢を見てすっかりたまげてしまった女が、露の世の無常に一心に来世のことを祈りながら夜も更けてゆく。
 ニ十句目。

   たまいだる女の念力月ふけて
 挙銭のかねうごく秋風      正友

 挙銭(あげせん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「挙銭・上銭・揚銭」の解説」に、

 「① 中世、利子をとって金銭を貸し出すこと。また、その金銭。こせん。
  ※吾妻鏡‐延応元年(1239)四月二六日「挙銭を取て、まづ寺家に令二進納一後」
  ② 営業権を他人に貸して、受けとる貸料。うわまえをはねて取る金。
  ※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前「目鼻がなけりゃアわさびおろしといふ面(つら)だから、かながしらから揚銭(アゲセン)を取さうだア」
  ③ 小揚げの賃金。労賃。
  ※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)中「九間のおろせがあげせんの、残りもけふはすっきりと取って九両二歩のかね」
  ④ =あげだい(揚代)
  ※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)下「恋しやと見にこそ来たれ上銭の金は持たずもなりにけるかな」

とある。
 この場合④の意味で、「精選版 日本国語大辞典「揚代」の解説」に、

 「〘名〙 遊女、芸妓などをよんで遊興するときの代金。揚げ銭。揚げ代金。あげしろ。
  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)七「六年以来(このかた)俺が娘を女房にして、慰(なぐさみ)者にしてゐる。サア揚代(アゲだい)囉(もら)ふ」

とある。
 この場合は、老の秋風を感じた遊女が一心に祈った結果、多額の金で買い手がついた、ということか。
 二十一句目。

   挙銭のかねうごく秋風
 口舌には花も紅葉もなかりけり  一朝

 口舌(くぜつ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「口舌」の解説」に、

 「① 口と舌。〔日葡辞書(1603‐04)〕〔易経‐説卦〕
  ② もの言い。ことば。弁舌。また、口先だけのもの言い。くぜつ。くぜち。
  ※令義解(718)戸「凡棄レ妻。須レ有二七出之状一。〈略〉四 口舌〈謂。多言也。婦有二長舌一。維厲之階。是也〉」
  ※東寺百合文書‐を・正長二年(1429)正月鎮守八幡宮釜鳴動占文案「今月七日卯時、鎮守御供釜鳴、吉凶 占之、火事、年内自二月至十月慎之〈略〉又云、有口舌事、兼被致祈請、自旡其咎乎」
  ※吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉四「人生の目的は口舌ではない実行にある」 〔史記‐蘇秦伝〕
  [補注]②は、挙例「東寺百合文書」のように公私の場における占い(占文)の卦(け)の用語ともなっており、怪異吉凶を占うと、疾病・闘諍・失火・盗賊・口舌・訴訟、その他の災厄の卦が出ることがあり、そのひとつにあげられている。」

とある。
 口先だけでいくら色良い事を言っても、遊女にとってやはり大切なのはお金。お金をくれないのに誰が好きこのんで抱かれるものですか。
 「花も紅葉もなかりけり」は言わずと知れた三夕の歌の一つ、

 見わたせば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
              藤原定家(新古今集)

による。
 二十二句目。

   口舌には花も紅葉もなかりけり
 のきぎりの身は谷の埋木     松臼

 「のきぎり」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「家財道具の少ないときなど、妻を家に残し離別すること。」

とある。漢字を充てるなら「退き切り」であろう。追出すのではなく自分が出て行く。
 埋木は川底で炭化した木で、

 名取川瀬々の埋木あらはれば
     如何にせむとかあひ見そめけむ
              よみ人しらず(古今集)

などの歌に詠まれている。
 口論の末に分かれ、家に一人取り残された女は埋木のようだ、ということになる。

2022年7月9日土曜日

 ついこの間のニュースでれいわ新選組の山本太郎さんの応援演説でぜんじろうさんの発言が炎上したというのがあったな。確か、

 「『麻生、安倍、森の飛行機が墜落。助かったのは日本国民』れいわ新選組の応援演説での“不謹慎ジョーク”に批判殺到」

だったっけ。
 まあこういう雰囲気があったのも確かだ。随分古い話だけど「安倍死ね」と呟いて炎上した人もいたっけね。まあ、こういう雰囲気に煽られる人がいてもおかしくない状態だった。本人は冗談のつもりでも、必ず本気にする奴っているからね。
 左翼は大衆にわかりやすいようにということで、難しい理屈を言うのではなく、何か一つ象徴を決めて、そこにヘイトを集中させるという戦略を取る。
 安倍さんの暗殺については今は選挙中だから、マス護美としては選挙に「悪い影響」を与えるということであまり詳しい情報が出てこない。選挙が終わってからいろいろ情報が出て来るのではないかと思う。
 あと、「月に柄を」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは無事京に到着した所で、久しぶりに俳諧を読んでいこうと思う。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)から『談林十百韻』の第五百韻で、発句は、

 くつろぐや凡天下の下涼み    卜尺

で、芭蕉さんもお世話になった小沢さんの句。
 「天下の」という言葉には、「公認の」というニュアンスがある。今でも道を私物化している人に、「ここは天下の公道だ」という言い回しをする。暑い時には木陰で下涼みをしてくつろぐのは、御上も認める、誰もが認めることだ。恥じることはない。
 まあ、いつの時代でも、暑いからといって一休みしていると、何サボってるんだという輩はいるのだろう。まあ熱中症の危険もあるし、現代の御上も休息を取れと言っている。暑い時の下涼みは権利だ、ということだろう。「かまわぬ(自由)」の精神だ。
 脇。

   くつろぐや凡天下の下涼み
 民のかまどはあふぎ一本     松臼

 前句を軍(いくさ)も飢饉もなく平穏な天下の様に取り成して、今日も民の竈から煙が上がっている、とする。

   貢物を許されて、国が富んだのを御覧になって
 高き屋にのぼりて見れば煙立つ
     民の竈は賑はひにけり
              仁徳天皇(新古今集)

の歌を踏まえたものだが、
 まあ、煙を立てるくらいなら扇一本あれば足りるもので、お安い御用だ。
 第三。

   民のかまどはあふぎ一本
 はやりぶし感ぜぬ者やなかるらん 一朝

 扇一本あれば、それで拍子を取って流行の小唄なども歌える。
 延宝六年の「さぞな都」の巻にも、

 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

の発句があるように、当時様々な小唄が流行していた。弄斎節や片撥、投節は既に時代遅れだったようだが、「さぞな都」四十五句目に、

   舞台に出る胡蝶うぐひす
 つれぶしには哥うたひの蛙鳴   桃青

の句があるように唱和形式の連れ節は流行っていたのだろう。
 延宝六年の「のまれけり」の巻七句目に、

   与作あやまつて仙郷に入
 はやり哥も雲の上まで聞えあげ  春澄

の句もあるから、丹波与作と関のこまんの恋物語の歌も当時まだ流行っていたか。
 竈の前で炊事しながら、扇一本あれば小唄の一つもも唄える。
 四句目。

   はやりぶし感ぜぬ者やなかるらん
 乗かけつづくあけぼのの空    在色

 「乗かけ」は乗掛馬で旅体になる。乗掛馬が一斉に出て行く朝の宿場でも、みんな流行の小唄を口ずさんでいる。
 五句目。

   乗かけつづくあけぼのの空
 遠山の雲や烟のきせる筒     雪柴

 あけぼのに遠山は、

 眺めやる景色ぞいつも哀れなる
     遠山もとのあけぼのの空
              源師光(新続古今集)

であろう。ただここでは、遠山の雲かと思ったら煙草の煙だったという落ちになる。
 一斉に旅立つ乗掛馬の列に遠山が霞んでいると思ったら、みんな朝の一服で、煙管の煙がもうもうと立ち込めているだけだった。
 六句目。

   遠山の雲や烟のきせる筒
 杣がうちわる峰の松風      一鉄

 杣は木材にする木を切り出すことを職業としている人で、峰から松風が吹いてこないと思ったら、松の木を伐採作業が行われていた。遠山の雲だと思ったのは、その作業員の吸う煙草だった。
 雲に峰の松風は、

 紫の雲路にさそふ琴の音に
     憂き世をはらふ峰の松風
              寂蓮法師(新古今集)
 峰の雲麓の霧の色暮れて
     空も心も秋の松風
              藤原定家(夫木抄)

などの歌に詠まれている。
 七句目。

   杣がうちわる峰の松風
 岩がねやかたぶく月に手木枕   志計

 手木枕(てこまくら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「梃子枕」の解説」に、

 「〘名〙 梃子の下にあてがって支える木。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「杣がうちわる峰の松風〈一鉄〉 岩がねやかたぶく月に手木枕〈志計〉」

とある。
 林業従事者が峰の松を伐採して、それを梃子の枕として、沈む月を止めようとしている。シュールネタになる。

 冬の夜の月は稲葉の峯越えて
     なほ山の端に松風の声
              藤原範宗(建保名所百首)

の歌がある。
 八句目。

   岩がねやかたぶく月に手木枕
 そこなる清水橋台の露      松意

 橋台(けうだい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「橋台」の解説」に、

 「① 橋の両端にあって、橋を支える台状のもの。きょうだい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「駒とめて佐保山の城打ながめ〈雪柴〉 朝日にさはぐはし台の波〈松意〉」
  ② 橋のそば。橋際。橋もと。
  ※洒落本・客衆一華表(1789‐1801頃)丹波屋之套「こっちらの橋台(ハシダイ)の酒ゃア算盤酒やといって名代でございやす」

とある。
 清水の湧き出る傍で架橋工事が行われる。朝早く作業が始まり、梃子枕で橋台を持ち上げると、清水の露に濡れる。

2022年7月8日金曜日

 ボリス・ジョンソンさんが辞任したと思ったら、今日は安倍さんが撃たれて、つい今しがた亡くなったという報道があった。
 安倍さんのまだなくなる前だったが、『恒久平和のために(仮)』というのを書いてみたけど、まあ、いつもここに書いているようなことを、ちょっと長くしたような内容だけどね。本としては短い、小冊子程度のものだから、99円は高いと思うかもしれない。
 まあ、こういう時代だから、何か言いたい人は気軽にKindle ダイレクト・パブリッシングで出版してみるといいんじゃない。

 それでは「東路記」の続き。

 「〇大津とおい分の間に、大谷と云所に、はしり井と云井、南の方にあり。おい分は、京と伏見へゆく道のちまた也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30~31)

 大谷は京阪京津線大谷駅があり、逢坂の関跡より少し先になる。山科盆地へ降りる途中の国道1号線沿いの南側に月心寺という寺があり、そこに走井がある。
 山科盆地に出た所に京阪京津線追分駅がある。駅の近くに髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)があり、ここが京都へ向かう東海道と伏見に向かう大津街道の分岐点になる。

 「大津と伏見の間に、勧修寺の茶屋有。是を大亀谷と云は非なり。茶、こがらしなど多く売所なり。むかへに勧修寺御門跡あり。其辺に宮道の弥益の社有。夫婦の社なり。醍醐天皇の御外祖父なり。其事は宇治物語などにあり。道ばたの北のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 勧修寺は山科盆地の南の端で、近くを名神高速(中央自動車道西宮線)が通っている。京都市営地下鉄東西線の小野駅があり、このあたりが歌枕にあった小野の一つだった。
 勧修寺はウィキペディアに、

 「勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派の大本山の寺院。山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。」

とある。
 門跡は皇族や公家が住職を務める寺院のことで貝原益軒も「勧修寺御門跡」と表記している。昔は大津街道の反対側の南側に茶屋があったようだ。勧修寺下ノ茶屋町の地名が残っている。大亀谷はここから深草の山を越えたJR藤森駅の方にある。
 勧修寺の近くには吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)がある。男石女石を一対にした「安産の神」がある。

 「〇京の方へゆけば、山科の前に左へ行道あり。是は、しる谷越にゆき、清水の下へ通る道也。清水の南の山辺を、苦集滅道と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 しる谷越えの道は渋谷街道で、渋谷(しぶたに)を「しるたに」と呼ぶこともあった。元は滑谷(しるたに)だったとも言う。今はJR東海道本線や国道一号線が京都に入るその近くを越えて行くと、清水寺の南に出る。。髭茶屋追分で大津街道に入って少し行った所に渋谷街道の分岐点があった。
 渋谷街道の清閑寺から清水寺へ行道は苦集滅道(くずめじ)と呼ばれていた。苦集滅道(くじゅうめつどう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苦集滅道」の解説」に、

 「〘名〙 (duḥkha-samudaya-nirodha-mārga の意訳) 仏語。仏教の根本教理を示す語。苦は人生における苦しみで四苦八苦をさし、集は苦の原因である煩悩の集積のこと、滅はその煩悩を滅し尽くした涅槃(ねはん)を意味し、道は涅槃に達するための方法で八正道のこと。釈迦はこの理を悟って成仏した。四諦(したい)。くじゅめつどう。くずめつち。
  ※正法眼蔵(1231‐53)摩訶般若波羅蜜「また四枚の般若あり。苦・集・滅・道なり」 〔北本涅槃経‐一二〕」

とある。

 「山科、すべて八郷あり。僧正遍照が居たりし花山と云所も道の左にあり。遍照が居たる寺あり。元慶寺と云。此辺に、しぶ柿の木多し。はたけは、みな柿園なり。凡、幾千株と云事をしらず。伏見山の桃のごとし。
 京へ行くかい道の右に、陵と云村有。天智天皇の御陵あり。此辺の野を御廟野といふも此故なり。御上洛の時、京都町々の年寄共、皆、此野に御迎に出て、拝謁す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 山科の八郷というのは古代宇治郡の八郷のことであろう。ウィキペディアに、「大国郷、賀美郷、岡屋郷(乎加乃也)、餘戸郷、小野郷(乎乃)、山科郷(也末之奈)、小栗郷(乎久留須)、宇治郷」とある。
 花山は渋谷街道の峠の辺りにその地名が残っている。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「遍昭」の解説」に、

 「816-890 平安時代前期の僧,歌人。
弘仁(こうにん)7年生まれ。桓武(かんむ)天皇の孫。良岑安世(よしみねの-やすよ)の子。素性の父。蔵人頭(くろうどのとう)のとき仁明(にんみょう)天皇の死で出家,天台の僧となる。京都花山(かざん)に元慶寺をひらき座主(ざす)となり,花山僧正とよばれた。仁和(にんな)元年僧正。六歌仙,三十六歌仙のひとりで,「古今和歌集」以下の勅撰集に35首とられる。寛平(かんぴょう)2年1月19日死去。75歳。俗名は良岑宗貞(むねさだ)。名は遍照ともかく。家集に「遍昭集」。」

とある。元慶寺(がんぎょうじ)は今もあるが、ウィキペディアには「現在の建物は安永年間(1772年 - 1781年)の再建と伝わる。」とある。昔はこの辺りで柿の栽培が行われていたのだろう。渋柿は染料としての柿渋の生産としても重要だった。
 『阿羅野』の「月に柄を」の巻十三句目の、

   月の夕に釣瓶縄うつ
 喰ふ柿も又くふかきも皆渋し   傘下

は山科の柿だったのかもしれない。
 東海道の山科の出口の方には今も御陵のつく地名があり、地下鉄東西線に御陵駅がある。天智天皇山科陵 (御廟野古墳)がある。

 「日の岡、嶺に坂有。日の岡と云里あり。其さきに義経のけあげの水あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この先山に入ると日ノ岡峠になる。峠を越えると地下鉄東西線の蹴上駅がある。近くに本願寺水道水源地があり、この辺りは水の脇出る場所だったようだ。
 義経がまだ牛若丸だったころ、金売吉次の案内で奥州平泉に行く時、日ノ岡峠で喧嘩をしたエピソードによるもののようで、相手の馬が水を跳ねたからだとか、切り捨てた後の刀を洗ったからだとか、諸説あるようだ。

 「粟田口、京より東国へ出口なり。道の南、青蓮院御門跡あり。左の山上に将軍塚あり。道よりは見えず。右に南禅寺、黒谷、吉田、白川の方に行道在。粟田山は名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この辺り一帯は粟田口と呼ばれていて、ここから先が京になる。京を出る人からすれば東国への出口になる。
 峠を降りて三条の道に入ると左に青蓮院門跡がある。ウィキペディアに、

 「青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。」

とある。
 将軍塚はその裏の山の上にある。この山は清水寺の山に繋がっている。
 南禅寺は三条の道に入る所の右側にある。
 「黒谷、吉田、白川の方に行道」は今の白河通りであろう。
 粟田山は、

 粟田山越ゆとも越ゆと思へども
     なほ逢坂は遥けかりけり
              よみ人しらず(夫木抄)
 見るたびに煙のみたつ粟田山
     はれぬ悲しき世をいかにせむ
              よみ人しらず(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「白川橋、此川は白川より出るなり。左に、智恩院、祇園、清水へ行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 白川橋は地下鉄東西線の東山駅に近い。智恩院は青蓮院門跡の南にある。祇園は八坂神社でその南西にある。清水寺はそのさらに南の方になる。

 「三条の大橋、是より京へ入なり。此川は、賀茂川の下なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 そして東海道の終点、三条大橋に到着する。賀茂川に架かる。

2022年7月7日木曜日

 これまでの戦争は基本的には経済的な動機があった。増え続ける余剰人口を食わせていかなくてはいけないというものだ。
 今のロシアにも中国にもその必然性が何もない。動機があるとすれば冷戦でアメリカに負けた恨みくらいだ。となると、今の戦争は独裁者のみプレイ可能なゲームになったのだろうか。
 経済的な動機のない、最初から経済なんてどうなってもいいというゲームなら、経済制裁は何の意味もない。
 国益のための戦いでないから、交渉の材料もない。
 ここまでやれば終わりという勝利条件自体が設定されてないから、停戦交渉に意味はない。基本的には世界を征服するまで終わりがない。
 やっていることは愉快犯に近いので、基本的には単純な暴力以外に止める方法がないのではないかと思う。
 こんな空虚なゲームに死んでゆく沢山の人たちっていったい何なんだ。まるでNPCを相手にしているかのような戦争だ。とにかく嫌な予感しかしない。

 それでは「東路記」の続き。

 「蛍谷は、勢多と石山の間なり。四月下旬の比、此谷より夜ごとに蛍おびただしく飛出て、橋の南北にとびちり、数万の蛍、又一所にあつまり、丸くかたまりて空にあがり、其かたまり、水の上におちてちると云。毎夜かくのごとし。漸々、日をおふて川下へ下る。宇治にては五月上旬の比、蛍多きさかりなちろ云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 勢田の蛍船は俳諧でも詠まれている。『談林十百韻』の「青がらし」の巻十句目に、

   火影立へついの外に飛蛍
 でんがくでんがく宇治の川舟   執筆

の句があり、蛍見物に人が集まってくると、そこに味噌田楽を売る声も響き渡る。
 芭蕉も元禄三年の幻住庵滞在の頃、勢田川の蛍船に乗って、

 蛍見や船頭酔うておぼつかな   芭蕉

の句を詠んでいる。
 蛍は勢田から宇治にかけて広く楽しめたので、そのつど蛍見物の船で賑わったようだ。

 〇勢田より大津の札のつじまで、一里半あり。大津、松本、膳所、此三所は町つづきたるやうにて別也。勢多と膳所の間、粟津が原なり。今井四郎兼平が墓あり。木曾義仲の墓は、膳所の民家のうらにあり。道の南也。柿の木二本、其しるしにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 大津、松本、膳所は今はいずれも大津市で一つになっている。昔は町は繋がっていても別々という名古屋と熱田、福岡と博多のような状態だったのだろう。
 大津は宿場町で、蕉門では智月・乙州の親子がいた。
 松本は港町で、元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、

   花さくを旅すく人もなかりけり
 舟ならべたる松本の春

の句もあった。ここには風流人は少なかったのだろう。松本に棲んでいた丈草も膳所を拠点としていた。膳所の門人と智月・乙州・丈草の間に何となく距離感があるのは、すぐ近くだけど別の町と認識されていたからなのだろう。
 膳所はこの後芭蕉がやって来て、近江蕉門の中心地になる。元禄三年の幻住庵滞在に続き、木曽義仲の墓の隣に無名庵を構え、終には自らも木曽義仲の墓の隣で眠ることになった。
 義仲寺はウィキペディアに、

 「江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 - 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。」

とある。貞享元年の時点では義仲寺はまだなく、木曽義仲の墓は民家の裏にあり、柿の木二本だけがその印だった。

 「松本の辺、湖のはたより、ひゑの山、坂本、八王子、堅田、志賀、唐崎の一松、三井寺の上の長等山など見えて、好景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 この記述からしても、当時の松本の湊は今の大津港より南東の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールの辺りだったのではないかと思う。今残っている松本の地名もこっちに近い。

 「大津の八町坂の右に、関の明神あり。此神は、蝉丸なりと云。いぶかし。此社のほとりに関の清水とてあり。但、古人の説には、関の清水のあり所たしかならずと見えたり。
 左の方に関寺あり。其先に、昔、相坂の関の有し所あり。此上の山は相坂山也。関の小川も此辺ならん。家隆の歌に、『立帰りなを相坂にいしまゆく関の小川の花の白波』。経家の歌に、『紅に関の小川はなりにけり音羽の山に紅葉ちるらし』。音羽の山は清水寺の山をいへども、相坂の南の山をも、音羽山といふ。又、比叡山にも音羽のたきあり。関山と云も相坂山なり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 大津宿を出るとすぐに関蝉丸神社下社があり、逢坂山の山の中に入って行く。
 白河の関にも関の明神があり、本来関の明神は関所毎にあったのだろう。ただ、逢坂の関に関しては関蝉丸(せきせみまる)神社になっている。
 貞享の頃はまだ「関の明神」と呼ばれていたのだろう。今は完全に蝉丸に乗っ取られた形になっている。

 あふさかの関のし水に影見えて
     今やひくらんもち月のこま
              紀貫之(拾遺集)

の歌にも詠まれている。朝廷に八月十五日に献上される馬を詠んでいる。
 その後も、

 こえて行くともやなからむあふ坂の
     せきのし水のかげはなれなば
              源定房(千載集)
 逢坂の関の清水のなかりせば
     いかでか月の影をとめまし
              藤原顕輔(続拾遺集)

などの歌に詠まれている。
 今の関蝉丸神社下社にも関の清水の跡というのがあるが、本当にここだったかどうかははっきりしない。
 現代だと、坂を登ってゆくと関蝉丸神社上社があり、その先の右に逢坂山弘法大師堂があるが、いわゆる関寺はない。ウィキペディアに、

 「関寺(世喜寺、せきでら)は、かつて近江国逢坂関の東(滋賀県大津市逢坂2丁目付近)にあったとされる寺院。現在は存在しないが、長安寺がその跡地に建てられているとする説がある。」

とあるが、現在の長安寺は関蝉丸神社下社よりも大津宿に近い所にある。
 逢坂の関跡は坂山弘法大師堂よりも先で、京阪京津線大谷駅よりは手前にある。大谷駅の近くには、ここにも蝉丸神社拝殿がある。
 この辺りも谷なっていて、関の小川があったのだろう。引用された、

 立ち帰りなほ逢坂にいしまゆく
     関の小川の花の白波
              藤原家隆(壬二集)
 紅に関の小川はなりにけり
     音羽の山に紅葉ちるらし
              藤原経家(六百番歌合)

の歌の外にも、

 音羽山紅葉散るらし逢坂の
     関の小川に錦おりかく
              源俊頼(金葉集)

の歌があり、『歌枕名寄』にも見られる。
 音羽山は逢坂の関の南にあり今は真下を東海道新幹線が通っている。
 関山を詠んだ歌は、

 関山の峰の杉むらすぎゆけど
     近江は猶ぞはるけかりける
              よみ人しらず(後撰集)

の歌がある。

2022年7月6日水曜日

 俵万智さんが、「実感のないこと歌になりづらし」という上句にAIで下句を考えさせたら、

   実感のないこと歌になりづらし
 われに歌ありとうしろ姿に
 喝采を受けずにはいられない

という付け句が出てきたという。俵さんは感動したようだが、連歌俳諧を知っているものとしてはまだまだだなと思う。両方とも単純な心付けで変化に乏しい。
 AIが連歌や俳諧の付け筋を覚えればもっと面白いと思う。
 物付けだと「歌」に例えば「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」(古今集仮名序)の縁で、歌に蛙を付けるとかもできる。

   実感のないこと歌になりづらし
 蛙に遊ぶ古池もなく

とかいう展開もできる。
 前句が嘆きの句なので「咎めてには」というのも使える。

   実感のないこと歌になりづらし
 ネタがなくても機械頼るな

 AIがこんな自虐をすると面白いかも。
 そういえば今日は新暦の七月六日、サラダ記念日だ。口語短歌の精神は今の仁尾智さんにも受け継がれている。

 それでは「東路記」の続き。

 「鳥井本より彦根へゆき、彦根より八幡といふ所にゆき、それより野洲に出る海道有。是を『近江の下道』と云。平地にてよき道なり。沙地なり。列樹の松あり。将軍家御上洛の時は、此道を御通りあり。朝鮮信使来れば、毎度此道を通る。鳥居本より彦根へ一里、彦根より八幡へ六里、八幡より守山へ三里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 この「近江の下道」は今日では朝鮮人街道という。朝鮮通信使が通ったことでこの名前があるだけで、それ以上の意味はない。チョソンサラム街道と呼んだ方が良いのか。ウィキペディアには、

 「朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)は、近江国(滋賀県)に存在した近世の脇街道である彦根道(ひこねみち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名である。中山道(上街道)との比較で下街道・浜街道、あるいは朝鮮人道、唐人街道などともいう。」

とある。
 旧中山道は鳥居本を通って山の中を出ると、そのまま真っすぐ高宮へ向かうが、途中で右へ折れて佐和山城跡の南を通って彦根へ向かうのがチョソンサラム街道になる。彦根道とよばれる道が一部国道8号線と並行して通っている。JR彦根駅付近を越えると彦根城の前で左に折れ、荒神山の南を通って安土へと向かう。
 ウィキペディアによると、元は織田信長が安土を通るように作った道だという。

 「中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が天正4年(1576年)に安土城を築いたときに岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備し、安土城築城後の天正5年(1577年)に城下に宛てた13ケ条の定書において「安土発展のため中山道ではなく、この街道を通ることが原則」とされ、安土落城後に同地を支配した豊臣秀次は八幡建設後町衆に対して同様の定めを公布し、この道の利用を奨励した。」

とある。

 「彦根と八幡の間に安土あり。信長公の城あとなり。安土に今も町少有。在家有。八幡と野須の間に、長原と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 信長亡き後は安土もすっかり寂れ、道だけは朝鮮通信使の通り道として役に立った。まあ、ヒットラーがアウトバーンを残したようなものか。
 JRの篠原駅と野洲駅の間に滋賀県野洲市永原という地名が残っている。旧中山道の道からは外れていて、こちらを朝鮮人街道が通っていたのだろう。野洲で旧中山道に合流する。

 「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。
 此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。
 是より観音寺山へ三里あり。東にあたる。越智川へ二里半有。其間に右に書し佐々木明神の社有。篠原の里は守山と草津の間にあり。又、此間に、うね野と云名所あり。野路は、草津と大津の間にあり。此辺より、比良の高峯、比叡の山、八王子、堅田の浦など見ゆる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 八幡は今の近江八幡で、大津と並ぶ大きな街だった。
 八幡山には八幡山城跡がある。今はロープウェイがある。ウィキペディアに、

 「八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。」

とある。秀次は秀吉の姉の子で、秀吉の養子になり、秀吉の跡を継いで関白の位に就いたが、秀吉に実子が誕生したことで処分された。
 近江蚊帳は近江八幡の名産品で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「近江蚊帳」の解説」に、

 「近江(滋賀県)の特産である蚊帳。蒲生(がもう)郡八幡(はちまん)および坂田郡長浜を主産地とし、それぞれ八幡蚊帳、長浜蚊帳(浜蚊帳)とよばれた。八幡では早く天正(てんしょう)年間(1573~92)から奈良蚊帳を売買する商人がいたが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)ころになると地元の麻糸を買い集めて蚊帳を織らせ、八幡蚊帳として売り出すようになった。寛永(かんえい)(1624~44)になると越前(えちぜん)(福井県)から大量の麻糸を輸入して生産するに至り、1639年(寛永16)には町内蚊帳屋17軒、1653年(承応2)ころには仲間の「えびす講」で申合せを定めるまでに発展した。また寛文(かんぶん)年間(1661~73)には八幡から長浜に製作技術が伝わり、農家の副業として隆盛に赴いた。八幡蚊帳の盛期は享保(きょうほう)・元文(げんぶん)(1716~41)ころで、仲間も古組・新組・新々組の3組計47名に上った。」

とある。
 二代目西川甚五郎が寛永の頃に麻を萌黄色に染めて朱色の縁を付けた蚊帳を売り出し、これが蚊帳の定番になったという。

 君が春蚊屋はもよぎに極りぬ   越人

の句が『去来抄』にある。萌黄色の蚊帳が不動であるように、君への思いも変らないという恋の誓いを歳旦に寄せて詠んでいる。
 観音寺山は安土の方に戻ることになり、東になる。越智川は愛智川か。佐々木明神(沙沙貴神社)もこの方角にある。
 篠原はJRの駅があるが、武佐宿と守山宿の間にある。鏡山の西側一帯に大篠原、小篠原の地名がある。うね野は、

 近江より朝たち来ればうねの野に
     田鶴ぞ鳴くなる明けぬこの夜は
              大歌所御歌(古今集)
 田鶴の棲む冬の荒田の畝の野に
     ひとむら薄一夜宿貸せ
              藤原家隆(洞院摂政家百首)

などの歌に詠まれている。場所は定かでない。
 野路は草津宿の少し先にある。JR南草津駅の辺りになる。ここまで来ると琵琶湖の向こうの山々がよく見える。
 比良の高峯は瀟湘八景にも「比良暮雪」があり、『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻三十句目に、

   青天に有明月の朝ぼらけ
 湖水の秋の比良のはつ霜     芭蕉

の句がある。
 比良の南が比叡山になる。八王子山は比叡山の手前の低山で、堅田は比良の麓の琵琶湖の細くなっている所で近江八景に「堅田落雁」がある。
 堅田の浮御堂では元禄四年の、

   堅田既望
 安々と出でていさよふ月の雲   芭蕉
 錠明て月さし入よ浮御堂     同

の句がある。

 「鈎里、草津の東に在。将軍義尚の陣所也。延徳元年此所に卒す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 鈎(まがり)里は今の栗東市に下鈎・上鈎という地名が残っている。ちなみに栗東市(りっとうし)という名称は古代の栗太郡の東部という意味で、『和名類聚抄』では「栗本郡」と記されているという。栗の巨木の伝説に関係があるのか。
 足利義尚の鈎陣所がここにあった。ウィキペディアに、

 「応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。」

とある。

 「瀬田の橋の下の川は、近江国中の水、ことごとく湖に入て其末流也。是より宇治へ流れ、淀にいづ。勢多より石山へ、半里余有。石山のしもに、供御の瀬あり。かちにてもわたる。
 其下に、しし飛と云所あり。両岸の間を大河流れ、其岩の間近き故、鹿、此所をとび渡ると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29~30)

 近江の国に降った雨や雪は琵琶湖に流れ込み、その琵琶湖の水は勢田川から出て行く。今は天ヶ瀬ダムから下が宇治川になる。橋本で桂川や木津川と合流して淀川になる。
 文和千句第一百韻、九十九句目に、

   ふたつの川ぞめぐりあひぬる
 佐保山の陰より深し石清水    良基

の句があるが、これは佐保山から流れ出た木津川の水が、桂川・宇治川の二つの水と廻り合うという意味になる。この合流点の橋本に石清水八幡宮がある。
 瀬田の唐橋のすぐ南に石山寺がある。
 供御の瀬はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「供御瀬」の解説」に、

 「滋賀県大津市田上黒津(たなかみくろづ)町付近にあった浅瀬。天皇や将軍の食膳(しょくぜん)に供するため、黒津の浅瀬に田上の網代(あじろ)を設けて氷魚(ひうお)(アユの稚魚)をとったことからこの名が生まれたと伝えられる。また瀬田川唯一の徒渉(としょう)地で戦略的な要地でもあった。膳所(ぜぜ)藩は網代経営を表向きの理由として兵を常駐させ、瀬田橋の破壊に備えた。現在では瀬田川の浚渫(しゅんせつ)工事や南郷洗堰閘門(あらいぜきこうもん)設置で水没した。[高橋誠一]」

とある。
 黒津は大戸川と勢田川の合流点辺りの地名で、店の名前などには「田上」の地名も残っている。グーグルアースで見ると合流点は土砂が堆積して細くなっていて、浅瀬が残っているように見える。かつてはこれがもっと広く、広い浅瀬を形作っていたのだろう。
 一九六一年、黒津の浅瀬に南郷洗堰が作られ、その上の方は今は漫々と水をたたえている。
 おそらく合流点の東側の広い田んぼは、かつては低湿地で遊水池の役割を果たしていたのだろう。ここが干拓されてしまうと、そこの水害を防ぐために堰が必要になる。そういう事情だったのではなかったか。
 田上の川下は一転して山の間を流れるようになる。大石は小さな盆地になっていてそこに鹿跳橋があり、この谷が今も鹿跳渓谷と呼ばれている。

2022年7月5日火曜日

 この世界の答えなんて誰も知らないわけだし、本当のことなんて誰にも分らない。それでも政治というのは何らかの決断を下さなくてはならない。
 だから「こんな俺が国の大事なことを決めちゃって本当に良いのだろうか」なんて思う必要はない。どんな偉い人だってまともな決断などできないんだから、あんたに助けを求めているんだ。そう思えば投票を躊躇する必要なんかない。
 間違ったことを信じて独裁政治をしようとしている奴を止めるのが、選挙の役割だ。この世界に正解はない。みんな間違っている。その点では政治家も有権者も五十歩百歩なんだ。だからみんな平等に一票なんだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「此辺、四十九院と云所あり。此辺、ゑち川などの東に、犬上山、鳥籠山、さや川あり。道ゆきびりに尋て見るべし。皆、名所也。〇高宮の西の大山を、和田山と云。其南の山を、荒神山と云。其南なる長き山を、いば山と云。其南は観音寺山なり。其南は箕作山也。是皆、近江の国なかにある山なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 高宮と愛知川の間の滋賀県犬上郡豊郷町に四十九院という地名が残っている。
 四十九院はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四十九院」の解説」に、

 「① 彌勒菩薩の居所、兜率天(とそつてん)の内院にある四九の宮殿。
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「金(かね)の御嶽は四十九院の地なり、媼(をうな)は百日千日は見しかど得領(し)り給はず」
  ② 行基が畿内に建てたという四九の寺院。
  ※顕戒論(820)上「一向大乗寺此間亦有、謂レ如二行基僧正四十九院一」
  ③ 平安時代、ひとつの寺院の境内に、①に模して設けた堂宇。
  ④ 鎌倉以後、墳墓の前面に六基、左右に各一四基、後面に一五基、合わせて四九基の塔婆を建てたもの。」

とある。②の寺院の一つがここにあったのか。
 鳥籠山(とこのやま)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥籠山・床山」の解説」に、

 「滋賀県彦根市にある正法寺山の古名。不知哉(いさや)川(芹川)の北岸にある。一説に大堀山のこととも。
  ※書紀(720)天武元年七月(北野本南北朝期訓)「近江の将秦友足(はたのともたる)を鳥籠山(トコノヤマ)に討ちて斬りつ」

とある。
 正法寺山は芹川の北ということになると彦根になる。旧中山道が芹川を渡る所の東側に鞍掛山があり、西側に大堀山がある。どっちも低い山だ。
 古代東山道には鳥籠駅があるが、それもこの辺りか。
 犬上山は犬上川の方なのだろう。どの山なのかよくわからない。さや川は不知哉(いさや)川で、今の芹川になる。
 荒神山(こうじんやま)は大分湖に近い方になり、荒神山城跡がある。和田山はそれより愛知川を遡った中山道に近い所にある。位置的には荒神山の方が北になる。和田山と観音寺山の間にある「いば山」は石馬寺の後にある伊庭山(いばやま)のことであろう。その南に今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている観音寺山があり、旧中山道を隔てた向こうに箕作山(みつくりやま)がある。

 「愛智川の宿の西にある川を、愛智川と云。俊頼の歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 俊頼の歌は、

 えちかはに岩越す棹のとりもあえず
     下ろす筏のいちはやの夜や
              源俊頼(夫木抄)

の歌であろう。『散木奇歌集』には「落とす筏の」とある。

 「観音寺山は、愛智川と武者の宿の間にあり。山の南の方の麓を通る。山上に観音寺堂有。三十三所の順礼観音也。僧坊、九あり。観音堂より上に、佐々木氏の代々の城あとあり。城の大手は、南方にあり。観音寺山のむかへ五六町ばかりに、箕作の城あと有。最高き所也。是は佐々木義秀の一族、佐々木承禎が居城なり。観音寺山とひとしき高山なり。建部明神は、箕作山の東の麓にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28~29)

 観音寺山は今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている。南東に箕作山(みつくりやま)があり、旧中山道はこの二つの山の間を通る。
 「武者の宿」は武佐宿で、近江八幡に近く、近江鉄道万葉あかね線の武佐駅がある。
 今の繖山には繖山観音正寺がある。ウィキペディアには、

 「実際の創建時期については不明であるが、遅くとも11世紀の平安時代には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏に攻められた六波羅探題北方北条仲時が後伏見上皇・花園上皇および光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に、両院(上皇)や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある。」

とある。また、佐々木氏の城について、

 「観音正寺が位置する繖山には、鎌倉時代以来近江国南半部を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城があったが、六角高頼が観音寺城を居城として以来、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えた。寺伝によると最盛期には72坊3院の子院を数えたとされる。」

とある。

 「江戸時代に入り、西国三十三所の霊場として栄えた観音正寺は、天保12年(1841年)には塔頭として、定円坊、本乗坊、松林坊、宝泉坊、観泉坊、松寿坊、徳万坊、光林坊、教林坊の10か坊が存在していたが、明治時代に入ると教林坊を残して廃絶した。」

とあり、ここにも廃仏毀釈の影響があった。
 反対側の箕作城はウィキペディアに、

 「箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館(日本の城)。」

とある。
 繖山は432m、箕作山は373m、高さはそれほど違わない。
 建部明神は今の地図を見てもそれらしきものはない。近江国一之宮の建部大社は大津にある。

 「老曾の森は、観音寺山のふもと、清水と云所の少西にあり。海道のはた也。老曾村に町あり。此あたりに、すくもと云物あり。地をふかくほりて取る。黒土のごとく、柴の葉のくちたるに似たり。其中に木の枝の有もあり。火を付れば、よくもゆる。火をたもつ。里人、是を掘て薪とし、うる。
 里人は是を、『むかしの栗の木の葉なり』といふ。いぶかしき物なり。昔、此辺に大なる栗の木有しと云。続酉陽雑俎に、『東海に大栗あり』と云へり。『若。此栗の事にや』と云人あり。いぶかし。(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 老蘇森(おいそのもり)は観音寺山と箕作山の間の谷を出た辺りにあり、国道八号線と新幹線の線路が横切っている。旧中山道はそれと交差するように南に向かい、老蘇森を右に見ることになる。
 清水というのは箕作山の北側に清水山があり、その麓辺りをそう呼んでいたか。古代東山道にも清水駅がある。
 「すくも」は籾殻を意味する場合もあるが、ここでは別のもので、腐葉土の一種のようだ。藍染の過程で、藍の葉を発酵させたものも「すくも」というが、それとも違うようだ。よく燃えるというから泥炭と言った方が良いのだろう。
 ウィキペディアの「泥炭」の所に、

 「主に気温の低い涼しい気候の沼地で、植物の遺骸が十分分解されずに堆積して、濃縮されただけの状態で形成される。泥炭が蓄積した湿地帯を泥炭地と呼び、日本では主に北海道地方を中心に北日本に多く分布する。泥炭は寒暖の差に関係なく形成され、熱帯地域では木質遺骸によって(トロピカルピートと呼ばれている)形成される場合も少なくない。いずれも植物遺骸などの有機物の堆積する速度が、堆積した場所にいる微生物などが有機物を分解する速度を上回った時に泥炭が形成される。泥炭は石炭の成長過程の最初の段階にあると考えられている。また、炭化が十分に進んでいないせいか植物の遺骸がそのまま残っていることが多いので、石炭と違って長い年月をかけておらず、蓄積してから数年程度しか経っていないことを確認できる。総じて、泥炭は炭化の過程がかなり短く、少ない時間でできる為、単純な条件下でできる。」

とあり、必ずしも寒冷地でなくても形成されることがあり、「其中に木の枝の有もあり」という記述とも一致する。老蘇森が湿地にあったため、泥炭が形成されやすい環境にあったのだろう。
 この「すくも」と大栗の伝説については南方熊楠も『南方閑話』に記している。ネット上で読むことができる。そこには、

 「『先代旧事本紀』には、「景行天皇四年の春二月の甲寅に、天皇、箕野《みの》路に幸《みゆき》す。淡海を経《す》ぐるに、一の枯木より殖《お》いし梢は空《くう》を穿《ぬ》きて空《そら》に入る。国老に問うに、いわく、神代の栗の木なり。この木の栄ゆる時は、枝は嶽に並ぶ、ゆえに並枝山《ひえのやま》という。また並びて高峰に聯《つら》なる、故に並聯山《ひらのやま》という。毎年葉落ちて土となる。土中ことごとく栗の葉なり、云々」とあるが、これは有名の偽書で」

とあり、これが元になっているのだろう。『先代旧事本紀』はウィキペディアに、

 「蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。」

とある。
 また、『和漢三才図会』が、燃土《すくも》がこの栗の木の葉だったという説を、燃土が越後の寺泊・柿崎でも産出するということでもって論破していることも記している。
 老蘇の森は歌枕で、

 東路思ひ出にせむ郭公
     老蘇の森の夜半の一声
              大江公資(後拾遺集)
 かはりゆく鏡の影を見るたびに
     老蘇の森の嘆きをぞする
              源師賢(金葉集)

などの歌に詠まれている。

 「安土の城あとは、観音寺山の北にあり。佐々木大明神の社は、観音寺山のいぬゐの方にあり。佐々木氏、代々尊敬の神也。延喜式神名帳に、『近江国蒲生郡沙々貴神社』とあり。仁徳天皇の御社也。ささきは仁徳の御名也。安土も、佐々木の社も、本かい道より見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 織田信長の安土城の跡は観音寺山の北西にあり、沙沙貴神社は西にある。記述は四十五度ずれている。JRの安土駅に近い。旧中山道から見ると観音寺山に遮られる形になる。
 沙沙貴神社はウィキペディアに、

 「神代に少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったという。このことからこの地は「ササキ」と呼ばれるようになり、その地に少彦名神を祀ったことが当社の始まりであるという。古代に沙沙貴山君が大彦命を合わせて祀り、景行天皇が志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。」

とある。今日での祭神の中に仁徳天皇が含まれている。仁徳天皇は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)とも呼ばれている。江戸時代は豆のササゲよりも仁徳天皇の宮の方で通っていたのだろう。

 「鏡山は、武者と守山との間にあり。西のかたよりむかへば、鏡を立たるごとくなれば鏡山といへるか。名所也。山下に鏡の宿有。人家多し。馬次にあらざれども、馬多く、はたご屋多し。武者より鏡まで一里半。鏡より守山へ二里有。武者より八幡山へ五十町有。武者と守山の間、横関と云所に川有。船渡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 武者は武佐で鏡山(384m)の先、JRで言えば篠原駅の南側にある。国道8号線には道の駅竜王かがみの里がある。旧中山道もここを通っていた。「鏡を立たるごとくなれば」というのはよくわからない。今と地形が違っていたか。
 近江平野はかつてはたくさんの沼があった。彦根の北の入江もそうだし、安土城の北西には今は西の湖が名残をとどめているが、かつては大中湖、小中湖という大きな湖だった。旧中山道が老蘇の森の南へと方向を変えるのもそのためだったのかもしれない。
 あるいは鏡山の西にある西池もかつてはもっと大きくて、そこに映る鏡山が鏡を立てたように見えたのかもしれない。
 横関は今の竜王町だという。今は日野川と善光寺川があるが、かつては船を用いる程の大きな川だったか。日野川の渡し跡がある。西川池・鏡新池がその名残なのかもしれない。

 「野洲は、鏡と守山との間なり。鏡の宿の西にあり。此町の左右のうらにて、布を多くさらす。やす川は町の西のはしにあり。野須川、河原、共に名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 鏡山を越えると野洲になる。野洲晒(やすざらし)が作られていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野洲晒」の解説」に、

 「〘名〙 滋賀県野洲市から産出する上質の麻のさらし布。近江晒(おうみざらし)。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 野洲の河原は、

 天の川やすの河原に舟うけて
     秋風吹くと妹につけこせ
              山部赤人(続古今集)

の歌がある。神話の天の安河原に七夕のイメージを重ねている。元禄三年の「種芋や」の巻九句目の、

   小僧のくせに口ごたへする
 やすやすと矢洲の河原のかち渉り 芭蕉

も、前句の小僧をスサノオに見立てている。海原の支配を命じたのに黄泉の国へ行くと口答えし、姉の天照大神に会おうとやってきて天の安河原の宇気比(誓約)を行う。このあとさんざん悪さをして、天岩戸になる。

2022年7月4日月曜日

 今朝のニュース。

アルジャジーラ
 ウクライナ軍がリシチャンシクからの軍の撤退を確認
BBC
 ウクライナはロシア人によって捕えられたリシチャンシクを確認します
ブルームバーグ
 キーウはその軍隊がリシチャンシクから撤退すると言います
スプートニク
 ショイグがルガンスク人民共和国の開放についてプーチンにブリーフ

 一方日本では、

朝日デジタル
 ウクライナ軍がリシチャンスク撤退認める 「ロシア軍が優位に」
 ウクライナ軍がリシチャンスク撤退 「鋼の意志だけでは」
NHK
 ロシア国防相「ルハンシク州全域掌握を大統領に報告」と発表

 朝日はウクライナの敗北をあざ笑うかのようなコメントを付けている。「ロシア軍が優位に」「鋼の意志だけでは」という見出しはまるでスポーツの敗者に対して言ってるかのようだ。NHKはスプートニックの見出しに比べてもいかにも戦果を強調するような書き方だ。
 スポーツ新聞ならこういう書き方でもいいが、多くの人が亡くなっている戦争で、勝ち負けを中心としたこういう報道姿勢は下衆というしかない。
 午後になったら今度は、

アルジャジーラ
 ロシアは、国境都市ベルゴロドでミサイルを発射したとしてキーウを非難している
BBC
 ロシアはウクライナが国境都市を攻撃したと非難
テレビ朝日
 「ウクライナが市民を標的に」ロシア国内への攻撃

というニュースが流れた。日本のテレビのいつものパターンだが、頭にロシア側の主張をどーーーんと持ってきて、ニュースの最後の方でウクライナはこう反論していますと、申し訳程度に付け加える。

 この国を何とかしなくてはと思う人は、必ず投票に行こう!
 ロシアとウクライナとの国境がなくなり、ロシアと日本との国境がなくなることを、国境のない世界への第一歩だとするような連中に負けてはいけない。
 世界を一つにしてはならない。世界は多様であるべきだ。世界が一つになれば個人もすべて最高指導者の一つの価値観に服従させられることになる。多様性を失った世界は滅亡する。
 人間の脳は可塑性に富んでいて、生得的な差異だけでなく、生まれたから生じる様々な偶然から、一人一人他人にはできない独特な思考ができるようにできている。これによって、一人では解決できない問題を他の人の脳を借りながら解決できるようになる。
 世界は七十億の脳によって並列処理されることで成り立っている。独裁はこれを一つの脳だけで処理しようというものだ。
 たった一人の頭脳が支配する世界になったら、この世界の様々な難問が解決困難になるばかりか、偽りの非人間的な回答を万人が信じ込む世界になる。
 間違ってはいけない。世界に正解なんてない。自分で考え、判断しろ!自らの多様性を信じろ!人と違う声を上げろ!
 意見が違っても力で解決せずに、数で解決しよう。それが民主主義だ。石鹼屋というバンドが唄っていたが、この世界のノイズになれ!
 選挙は出題者の言う「正解」を当てるためのクイズゲームではない。選挙に正解なんてない。答えのないこの世界の問題を、みんなで解決するための一つの手段に過ぎない。

 それでは「東路記」の続き。

 「沢山の古城は、鳥居本の西にあり。長き松山也。石田治部が城あと也。関が原軍の翌日、此城を攻落す。彦根の城は其西にあり。鳥居本より彦根へ行けば、沢山の古城の山を越ゆく也。鳥井本より彦根に一里に近し。彦根は湖の辺也。夫木集に、経信と弁の乳母が歌あり。関が原陣の後、沢山の城と治部少輔が領地を、井伊兵部殿に給りしが、慶長九年、沢山の城不宜とて、彦根に改て城を築かしめ給ふ。是は兵部殿死去の後也。垂井より鳥居本の間、七里は山中也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27~28)

 滋賀県の広報によると、滋賀県には千三百を超える城があったという。ここでは「沢山」は「さわやま」と読むが、「たくさん」とも読めてしまう所が面白い。
 この沢山城は今は佐和山城と表記されている。鳥居本宿のあったところには今も近江鉄道の鳥居本駅がある。西に佐和山城跡のある山があり、まだ湖の辺には出ず、山の中になる。
 「関が原軍(いくさ)の翌日、此城を攻落す。」については、ウィキペディアに、

 「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」

とある。
 『夫木抄』所収の歌は、

 彦根山あまねきかどと聞きしかど
     八重の雲居に惑ひぬるかな
              源経信(夫木抄)

と、あと日文研の和歌データベースでは「番号外作者」としか表記されてないが、
 よを照らす彦根の山の朝日には
     心も晴れてしかぞかへりし
              (夫木抄)

の歌が弁の乳母の歌か。
 彦根城はウィキペディアに、

 「江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。」

とある。
 彦根城で彦根藩というと許六がここにいたわけだが、ウィキペディアには、

 「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」

とあり、貝原益軒が通った時には大津にいたことになる。『俳諧問答』に、

 「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。
 しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

とある、この頃だった。延宝の頃は田中常矩に師事し、当時の流行で速吟なども試みていたが、今一つ芽が出なかった。そこに父の左遷と談林俳諧の衰退が重なり、ぐれていた時期だった。自暴自棄になりながらも俳諧が救いだった。
 芭蕉の名声は耳にしていたが、芭蕉に感化されるようになったのは元禄二年に公刊された『阿羅野』を読んだ時だった。
 その年芭蕉は『奥の細道』の旅を終えて伊勢から伊賀へ行き、そして一度京都へ出た後十二月に芭蕉は膳所にやって来たのだが、悲しい哉、許六はこの年父の隠居で彦根に連れ戻され、ここで芭蕉に出会うことはなかった。芭蕉との念願の対面は許六が参勤交代で江戸勤務になった元禄五年のことだった。

 「小野の宿は、鳥居本と高宮の間にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 鳥居宿の次は高宮宿だが、鳥居宿を出てすぐの両側に山が迫る所に「小野」という地名が今も残っていて、小野小町の里になっている。
 小野を詠んだ和歌は多いが、どこにもありそうな地名だけに、ここの小野なのかどうか確証はない。
 こことは別に、山科にも小野があり、「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、

 今はしも穂に出でぬらむ東路の
     石田の小野のしののをすすき
              藤原伊家(千載集)
 秋といへば石田の小野のははそ原
     時雨もまたず紅葉しにけり
              覚盛法師(千載集)
 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて
     ふかくも雪のなりにける哉
              藤原為季(千載集)

などの歌に詠まれている。
 山田の小野、

 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
     標指すばかりなりにけるかな
              藤原顕季(六条修理大夫集)

小野の山里、

 鹿のねを聞くにつけても住む人の
     心しらるる小野の山里
              西行法師(新後撰集)

を詠んだ歌もあるが、どこの小野なのか定かでない。

 風越ゆる十市の末を見渡せば
     雲にほのめく小野の茅原
              賀茂季保(正治後度百首)

のような小野の茅原を詠んだものもあり、これだと大分イメージが違ってくる。十市が奈良橿原の十市だとしたら、また別の場所になる。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小野」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「お」は接頭語) 野。野原。おぬ。
  ※古事記(712)中・歌謡「さねさし 相摸の袁怒(ヲノ)に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
  [2]
  [一] 京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野派本山)随心院(小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。
  ※拾遺(1005‐07頃か)雑秋・一一四四「み山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふるをのの炭焼〈曾禰好忠〉」
  [二] 京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。
  ※伊勢物語(10C前)八三「睦月にをがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」
  [三] 滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。
  ※義経記(室町中か)二「をのの摺針(すりばり)打ち過ぎて、番場、醒井(さめがい)過ぎければ」
  [四] 兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制。」

とある。[1] は一般名詞としての小野で、[四]は歌枕ではない。

 「高宮より多賀へ、一里あり。南にあたる。多賀に多賀大明神の社有。伊弉諾尊なり。参詣する人多し。高宮より彦根へも一里有。高宮の町に、布を多くうる。高宮と愛智川の間に、つづらおり村と云所あり。水口のごとく、つづら行李を多く作りてうる処也。高宮の町の西の出口に川あり。犬上川と云。此辺は犬上の郡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 高宮には今も近江鉄道高宮駅がある。南西に多賀大社があり、近江鉄道多賀大社線が通っている。多賀大社はウィキペディアに、

 「和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。」

とある。
 元禄三年の伊賀での「種芋や」の巻十句目に、

   やすやすと矢洲の河原のかち渉り
 多賀の杓子もいつのことぶき   半残

の句がある。伊賀からだと甲賀の水口を経由して多賀へ向かうから、野洲川を上流の方で安々と渡ることになる。
 多賀の杓子はウィキペディアに、

 「多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。」

とある。
 高宮布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高宮布」の解説」に、

 「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。この麻織物は生平(きびら)とも呼ばれ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生平・黄平」の解説」に、

 「〘名〙 からむしの繊維で平織りに織り、まだ晒(さら)してないもの。上質であるため、多く帷子(かたびら)や羽織に用いる。滋賀県彦根市高宮付近から多く産出した。大麻の繊維を用いることもある。《季・夏》
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「生平のかたびら添てとらすべし」」

とある。また、「世界大百科事典内の生平の言及」に、

 「農民は特殊なものでないかぎり紬以上を禁じられた。武家の下僕は豆腐をこす袋や暖簾(のれん)に使う細布(さいみ)(糸の太い粗布)を紺に染めて着,民間の下僕は生平(きびら)(さらさない麻布)を着た。一般の民衆は麻または木綿を常用した。」

とある。天和二年の「錦どる」の巻九十五句目に、

   藍搗臼のごほごほし声
 市賤の木びらを負る木陰には   曉雲

の句がある。藍搗の作業場の下僕が着ていたのだろう。
 は高宮宿の次の宿は愛知川(えちがわ)宿で、JR愛知川駅がある。高宮宿を出てすぐに犬上川を渡ると彦根市葛籠町という地名がありここがかつての「つづらおり村」だったのだろう。ウィキペディアに、

 「行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた葛籠(つづらかご)の一種。直方体の容器でかぶせ蓋となっている。衣料や文書あるいは雑物を入れるために用いる道具。衣類や身の回りの品の収納あるいは旅行用の荷物入れなどに用いられた。半舁(はんがい)ともいう。」

とある。元禄七年、芭蕉が最後の旅で潤五月に京都に来た時に、

 柳行李片荷は凉し初真桑     芭蕉

の句を詠み、六吟歌仙興行が行われている。この柳行李もこうした葛籠だった。

2022年7月3日日曜日

  それでは「東路記」の続き。

 「もと番馬は、今の番馬の宿の西にあり。湖のはたに米原と云所有。大津、貝津、塩津、所々より船のつく湊なり。大津より米原まで、舟路十六里有。米原より今の番馬に通る道あり。此故に、もと番馬の町を、今の番馬にうつして立し也。米原へ一里あり。米原より鳥居本へ、一里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)

 米原へ行道は前にも述べた九里半街道のことであろう。琵琶湖と伊勢湾を結ぶ産業道路だった。
 番馬は今の番場で、中央自動車道西宮線が通っている。この中央自動車道西宮線の小牧西宮間が昔は名神高速道路と呼ばれていて、今もその呼び名が通称として用いられている。だから、この辺りは名神高速になる。
 これだと、高井戸大月間は何なのかということにもなるが、ここは西宮線が付かない単なる中央自動車道で、河口湖が終点になる。
 この番場宿のルートは古代東山道から受け継がれている。ウィキペディアには、

 「飛鳥時代に「東山道」と呼ばれた頃以来の宿場。江戸時代の慶長16年(1611年)、番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点となった。」

とある。番場宿は特に米原から移ったということではないようだ。
 琵琶湖は水運が発達していて、丸太船という丸太を二つわりにしたおも木が船腹に取りつけてある和船が用いられていた。『談林十百韻』の「郭公(来)」の巻七十句目に、

   から橋の松がね枕昼ね坊
 朽たる木をもえる丸太船     正友

の句がある。丸太船は丸舟、丸子船とも呼ばれていた。元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、

   花さくを旅すく人もなかりけり
 舟ならべたる松本の春

の句もある。ここでいう「松本」は膳所松本で、京阪石山坂線石場駅の辺りに松本という地名が残っている。大津港からそう遠くない。みんな荷物の積み下ろしで忙しくて花見どころではなかったか。
 米原というと筑摩神社の筑摩祭も有名だった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」

とある。

 君が代や筑摩祭も鍋一ツ     越人

は『猿蓑』に収録されている。『春の日』の「蛙のみ」の巻三十一句目にも、

   鳥羽の湊のおどり笑ひに
 あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水

の句がある。

 「磨針嶺は、番馬と鳥居本の宿の間にあり。湖水、眼下に見えて好景なり。竹生嶋は是よりいぬいの方に見ゆる。嶋のまはり、一里有。めぐりはみな、屏風を立たるごとくなる岩なり。神社有。僧坊十坊有。在家はなし。
 凡、湖の中に三の嶋あり。竹生嶋は尤北にあり。南に奥の嶋と大嶋あり。民家多し。竹嶋あり。小嶋なり。
 又、岡山とて、武者の宿のいぬいの方に、湖の中にさし出たる山あり。是又、嶋のごとし。是、名所也。少、地につづけり。磨針嶺の下に入海あり。其西南に民家あり。磯と云。是より沢山の方へも行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)

 番場宿と鳥居本宿の間に摺針峠がある。番場側から行くと視界が開けた所で琵琶湖が見渡せることで、かつては有名だったようだ。峠には神明宮がある。今の道は切通になっているが、昔はここを通ったのだろう。
 竹生島は琵琶湖の北の方にあるが、この峠道の角度だと正面になる。竹生島には、今も都久夫須麻神社(竹生島神社)があり、宝厳寺がある。
 「南に奥の嶋」というのは「沖島」のことであろう。今でも漁港もあれば小学校もある大きな島で、民家も多い。
 「竹島」は今は多景島という字を当てている。霊夢山見塔寺がある。
 「岡山」は近江八幡にある水茎岡山城跡で、今は回りが田んぼになっているが、かつては湖に浮ぶような城があったという。ウィキペディアに、

 「南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。」

とあり、また、

 「築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。」

とある。
 「磨針嶺の下に入海」は今は田んぼになっている滋賀県米原市入江という地域で、かつての入江の輪郭が水路となって残っていて、地図上で見ることができる。
 湖側に集落があり、滋賀県米原市磯という地名が残っている。

 岡山は水茎の岡として和歌に詠まれ、歌枕になっている。

 水茎の岡のやかたに妹とあれと
     寝ての朝けの霜の降りはも
              よみ人しらず(古今集)
 水茎の岡の葛葉も色づきて
     けさうら悲し秋の初風
              顕昭(千載集)

などがある。

2022年7月2日土曜日

  来週は雨になるというから、梅雨の戻りだと思ってたら、台風が来るのか。水不足の解消にはいいけど、「時により過ぐれば民の嘆きなり‥‥」という和歌もあったからな。
 それでは「東路記」の続き。

 「伊吹山は、美濃、近江の境にあり。大道より見ゆ。名所なり。伊吹の里は近江なり。山の西北にあり。是も名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 伊吹山というと、

 かくとだにえやは伊吹のさしも草
     さしも知らじな燃ゆる思ひを
              藤原実方(後拾遺集)

の歌は百人一首でもよく知られている。
 他に伊吹山を詠んだものには、

 秋ををやく色にぞみゆる伊吹山
     もえてひさしき下のおもひも
              藤原定家(建保名所百首)
 伊吹山峰なる草のさしもこそ
     忘れじとまで契りおきしか
              宗尊親王(続古今集)

などの歌がある。
 伊吹の里は、

 思ふだにかへらぬ山の桜花
     たれか伊吹の里とつけしぞ
              清少納言(夫木抄)

の歌がある。

 「昔、天武天皇の兵と大友の皇子の兵と、戦有しも、此不破の関なり。大友の皇子、終に打負給ひ、天武天皇、帝位に上り給ふ。清見原の天皇、是なり。慶長五年、治部少輔等の狂徒を亡して天下を治め給ふも、此地なり。古今共に、天下存亡の分れし地なり。又、頼朝十三歳の時、京都の戦ひに打負て関東へ下り給ひしを、平家の士、弥平兵衛が行逢て生捕しも、関が原也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25~26)

 前にも「天武帝も野上に陣し給ふ」とあり。そのとき壬申の乱の時に、大海人皇子(後の天武天皇)が野上の行宮から不破に出陣して、桃を全兵士に配って戦いに勝ったということを述べた。
 六七二年にここでもう一つの天下分け目の戦いがあり、その翌年に不破の関が置かれたという。天智天皇の第一皇子だった大友の皇子と弟だった大海人皇子との戦いで、この時代の皇位継承のルールはよくわからない。
 普通に考えると第一皇子が継ぐのが順当のように思えるが、なぜ弟がという気もする。諸説あるが、ウィキペディアに、

 「天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。」

とある。諸説あるようだが、親中派と嫌中派の戦いだったのかもしれない。この時に一度でも日本が中国に朝貢したということがあったらと思うと、大海人皇子の勝利は日本にとって幸いだったことになる。
 関ケ原の合戦もまた、壬辰倭乱に失敗した豊臣秀吉の後継者を徳川が討つという形になった。壬申と壬辰の音の一致も奇妙な縁を感じさせる。
 まあ、今も右翼がよく言うことだが、日本は半島に係わるとろくなことがない、ということか。近代も含めて。外へ向かう衝動に駆られずに、あくまで縮み志向でいることが日本の繁栄に繋がる。
 弥平兵衛は平宗清で、ウィキペディアに、

 「平頼盛の家人[5]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。」

とある。このことも後の日本の歴史を大きな分かれ目になった。

 「今須と柏原の間に、長久寺と云小里あり。是、美濃と近江のさかひ也。車返しとも云。両国より家を近く作りならべ、其間に小溝を一へだつ。国をへだてて、寝物語をすると云。此故に此所を、「ね物語」ともいふ。〇たけくらべと云所、柏原の辺、近江と美濃の山を左右に見て行所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)

 今須と今洲は同じ。今須とその次の柏原宿との間に、美濃国と近江国の境界線がある。長久寺の地名は今は滋賀県の方の地名で、車返し地蔵尊は関ケ原町今須になる。
 今も小溝があるという。
 分水嶺は滋賀県側にあるが、ここまで行くと美濃側の山は見えなくなる。車返し地蔵尊がある辺りの、今のJR線の踏切がある辺りの旧中山道が、ちょうど右に美濃の山、左に近江の山を見ることになる。
 柏原は今もJR東海道本線に柏原駅がある。

 「柏原の北六里に、小谷山有。道より見ゆる。山下に小谷と云町有。北国道の宿也。山上に城あと有。むかし浅井備前守長政居城なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)

 小谷山(おだにやま)は正確には北西になる。前にも北国街道の名前で出てきた北国脇往還がここを通っていて小谷宿がある。
 小谷城はウィキペディアに、

 「日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。
 戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。」

とある。

 「醒が井の宿は、山中也。宿の北に川あり。其川上に黒田村あり。醒井より八町あり。鴨の長明が歌一首あり。此所にてよめるか。又、余湖のうみの辺にも黒田村あり。
 醒井の水は、古来名を得し処也。昔、日本武尊東征し給ひし時、伊吹山にて大蛇を踏で通り給ひしに、山中を雲霧おこりて甚くらかりしが、尊、山を出給ひて御心地わづらはしかりければ、此水をのみて即醒給ひぬ。是によつて、醒が井と云。尊の腰かけ給ふ石あり。日本武尊は景行天皇の御子、仲哀天皇の御父なれば、八幡の祖父也。
 醒井より長浜へ行道あり。六里あり。長浜は湖のはた也。町あり。秀吉公も信長公の時、初は爰に居給ふ。〇梓の杣、醒井の東、梓村と云所に有。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26~27)

 JR東海道線は近江長岡の方を大きく迂回するが、旧中山道は今の国道21号に近いルートを通っている。JRも近江長岡駅の次は醒ヶ井駅になる。周囲はまだ低山に囲まれている。
 宿場の北にある川は天野川で、JR線に沿って流れている。近江長岡駅周辺は昔は東黒田村があった。ウィキペディアに、

 「東黒田村(ひがしくろだむら)は、滋賀県坂田郡にあった村。現在の米原市の東部、天野川の中流域、東海道本線・近江長岡駅の周辺にあたる。」

とある。
 黒田の里というと、

 をちこちも今はた見えずむばたまの
     黒田の里の夕闇の空
              冷泉為相(夫木抄)

の歌がある。
 鴨長明の歌というのは、ネット上の稲田利徳さんの『正徹「なぐさめ草」(松平文庫本)注釈(上)』によると、

 めにたてぬ人なかりけりむば玉の
     くろ田の河によれる白波
              鴨長明(歌枕名寄)

の歌だという。正徹は美濃の木曽川町黒田の辺りで、

 夜もすがら光は見せよむば玉の
     黒田の里に咲ける卯の花
 墨染の黒田の早苗取る賤や
     夕をかけて袖濡らすらむ

の歌を詠み、そのあとに、

 「此(の)所は、古き歌枕などによめる歌見えず。黒田川はあれども美濃の国とかや、尋(ぬ)べし。」

と記している。黒田の里の位置ははっきりしなかったようだ。『東路記』もまた、「又、余湖のうみの辺にも黒田村あり」と記して、ここかどうか確証はなかったようだ。
 余湖の海の黒田村は琵琶湖の北にある小さな余呉湖の辺りで、黒田官兵衛の故郷とも言われている近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の方であろう。黒田神社、黒田観音寺、黒田安念寺などの名前にも残っている。
 醒井の水は居醒(いさめ)の清水(しみず)とも呼ばれている。コトバンクの「デジタル大辞泉プラス「居醒の清水」の解説」に、

 「滋賀県米原市にある湧水。「いさめのしみず」と読む。名称は、「日本書紀」や「古事記」に日本武尊が病を癒すために用いた水と記されていることから。環境省が2008年に選定した「平成の名水百選」のひとつ。」

とある。
 日本武尊が伊吹山で牛のような大きな白い猪に出くわし、そこで、

 「ここに言挙して詔りたまひしく、『この白猪の化れるは、その神の使者ぞ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。』とのりたまひて騰りましき。ここに大氷雨を零らして、倭健命を打ち惑はしき。‥‥略‥‥故、還り下りまして、玉倉部の清泉に到りて息ひましし時、御心稍に寤(さ)めましき。故、その清泉を號けて、居寤の清泉と謂ふ。」

とある。
 「八幡の祖父也」とあるのは、八幡神と応神天皇は一つのものとされていることによる。母の神功皇后とともに三韓征伐と結びつけられて軍神とされていた。八幡神は道鏡事件の時に今の万世一系の皇統の道を確立させるような神託を下したことで、皇統と軍神の両面で信仰され、八幡神社は日本で一番多い神社となった。
 新羅(シルラ)とは三韓征伐を通じて間接的にかかわっているものの、八幡神を新羅起源とする根拠はない。
 旧中山道は醒井を出ると米原へ行かずに今の高速道路に沿って番場宿へ行くため、北国街道はこの途中から分岐することになる。木ノ本で北国脇街道に合流することになるが、その手前に秀吉の長浜城があった長浜がある。
 柏原と醒井の間に梓ノ関遺跡がある。この辺りが梓の杣のある梓村だったのだろう。

   津のくににすみ侍りけるを、
   みのの国にくたる事ありて、
   あつさの山にてよみ侍りける
 宮木ひく梓の杣をかきわけて
     難波の浦を遠ざかりぬる
              能因法師(千載集)
 明日より梓の杣にたつ民も
     君につかふとみや木ひくらし
              花山院師継(宝治百首)

などの歌に詠まれている。