出口調査に比べるとかなり左翼票が伸びたのは、期日前投票の左翼票が多かったからだろう。
まあ、憲法改正に安定した数とは言い難い。特に公明党は要注意だ。NATOのトルコのように揺さぶりをかけ、とんでもない取引を仕掛けてくる可能性がある。
それでは「くつろぐや」の巻の続き。
二表、二十三句目。
のきぎりの身は谷の埋木
すごすごとかたげて過るつづら折 雪柴
何を担げてというと、下句の「埋木」であろう。ここでは埋木は「のきぎりの身」の比喩ではなく、山奥で退き切りされた人が仕方なく、自分で埋木を担いでつづら折りの坂を登り、売りに行く、ということになる。
「退き切り」は夫婦の縁に限らず、男がたった一人山の中に取り残される意味でも用いられたのかもしれない。
二十四句目。
すごすごとかたげて過るつづら折
やけ出されたるあとのうき雲 在色
火事で家を失い、行く所もなく旅に出る。後に天和の大火で芭蕉さんも甲斐大月に旅に出ている。これが後の一所不住の漂泊の人生の始まりだったとも言える。
二十五句目。
やけ出されたるあとのうき雲
落城や朝あらしとぞなりにける 志計
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『八島』の、
「水や空空ゆくも又雲の波の、打ち合ひ刺し違ふる、船軍の掛引、浮き沈むとせし程に、春の夜の波より明けて、敵と見えしは群れゐる鷗、鬨の声と、聞こえしは、浦風なりけり高松の浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15597-15603). Yamatouta e books. Kindle 版. )
を引いている。
謡曲は八島の合戦の後の朝嵐だが、それを城の攻防戦で城は炎上して朝が来る場面に作り直す。
朝嵐という言葉は、
朝嵐山の陰なる川の瀬に
波寄る芦の音の寒けさ
後嵯峨院(続古今集)
など、和歌にも用いられる。
二十六句目。
落城や朝あらしとぞなりにける
はや馬はいはい松の下道 一鉄
落城の知らせを届ける早馬が駆け抜けて行く。
二十七句目。
はや馬はいはい松の下道
此浦に今とりどりの生肴 正友
新鮮な魚介が浜に上がると、早馬でそれを江戸に届ける。「とりどり」は「今獲れた」と掛けている。
鎌倉を生きて出けむ初鰹 芭蕉
の句は後の元禄五年の句とされている。鎌倉は昔から街道が整備されていたから、早馬を飛ばすにはよかったのだろう。
二十八句目。
此浦に今とりどりの生肴
酢樽にさはぐ沖津しら波 松意
生肴には酢を用いる。刺身は昔は膾にして食べるのが普通だった。
二十九句目。
酢樽にさはぐ沖津しら波
半切や入日をあらふそめ物屋 松臼
前句の酢樽を染物の定着剤に用いる酢とする。
半切(はんぎり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「半切」の解説」に、
「① 半分に切ったもの。
※島津家文書‐慶長三年(1598)正月晦日・豊臣氏奉行衆連署副状「半弓之用心に、半切之楯数多可レ有二用意一旨、被二仰遣一候」
② 能装束の袴の一つ。形は大口袴に似て裾短とし、金襴、緞子(どんす)などにはなやかな織模様のあるもの。荒神・鬼畜などの役に用いる。はんぎれ。〔易林本節用集(1597)〕
③ 歌舞伎衣装の一つ。広袖で丈(たけ)が短く、地質に錦または箔(はく)を摺り込んだもので、主に荒事役に用いる。はんぎれ。
※歌舞伎・男伊達初買曾我(1753)一「五郎時致、半切、小手、臑当」
④ (半桶・盤切) 盥(たらい)の形をした、底の浅い桶(おけ)。はんぎりのおけ。はんぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑤ =つりごし(釣輿)」
とある。この場合は④の桶のことか。海に沈む夕日が波を染めて行く様を、染色に用いる桶に喩える。
三十句目。
半切や入日をあらふそめ物屋
上京下京しぐれふり行 卜尺
京は染物屋が多い。友禅は有名だ。
時雨に濡れた紅葉の入日に輝く美しさは、和歌にも詠まれている。
時雨降るみむらの山のもみぢ葉は
誰がおりかけし錦なるらむ
大江匡房(新勅撰集)
夕時雨雲の途絶えは日影にて
錦をさらす峰のもみぢ葉
飛鳥井雅孝(文保百首)
などがある。
三十一句目。
上京下京しぐれふり行
ひかれ者木の葉衣を高手小手 在色
ひかれ者は刑場に連れてかれる罪人で、高手小手は後ろ手に縛りあげることをいう。
木の葉衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木葉衣」の解説」に、
「① 木の葉を編んで作った衣。仙人などの着る衣という。
※三人妻(1892)〈尾崎紅葉〉前「祖先建国の始末をおもひ、黒木の柱、木葉衣(コノハコロモ)、鳥獣の肉の摸傚(かた)にて行かば一入(ひとしほ)好かるべきに」
② 紅葉した木の葉が身に落ちかかるさまを衣服に見たてていう。このはぎぬ。《季・冬》
※謡曲・雨月(1470頃)「木の葉の雨の音づれに、老いの涙もいと深き、心を染めて色々の、木の葉衣の袖の上」
とある。②の意味で前句の「時雨」を受ける。
三十二句目。
ひかれ者木の葉衣を高手小手
神農のすゑ似せくすりうり 一朝
捕まったのは偽物の薬売りだった。木の葉衣に仙人の衣の意味もあるので「神農」が付く。
三十三句目。
神農のすゑ似せくすりうり
なで付の額を見ればこぶ二つ 一鉄
撫で付け髪という髷を結わずに油で撫でつけただけのオールバックのような髪型は、医者に多かった。こぶ二つというのは薬が効かなかったので袋叩きにあったのだろう。
仮名草子『竹齋』の、
目の玉のぬけあがるほと叱られて
このむめ法師すごすごとゆく
といったところか。
三十四句目。
なで付の額を見ればこぶ二つ
鬼が嶋よりやはら一流 雪柴
前句の撫で付け髪を柔術の達人とする。修行の時にできたのか、額に瘤が二つあるが、それがまるで鬼のようだ。
三十五句目。
鬼が嶋よりやはら一流
辻喧嘩度々に鎮西八郎兵衛 松意
鎮西八郎は源為朝のことで、ウィキペディアに、
「源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。」
とある。
ここではオリジナルではなく、江戸時代の巷の鎮西八郎のような奴という意味で鎮西八郎兵衛になる。
延宝六年の「さぞな都」の巻八十句目でも、
熊坂も中間霞引つれて
山又山や三国の九郎助 信徳
の句があり、源九郎義経を江戸時代設定に直して九郎助にしている。
三十六句目。
辻喧嘩度々に鎮西八郎兵衛
公儀の御たづね二千里の月 志計
お尋ね者になって捕まり、流罪になって二千里の彼方で月を見る。
二千里の月は白楽天の、
八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九 白居易
銀台金闕夕沈沈 独宿相思在翰林
三五夜中新月色 二千里外故人心
渚宮東面煙波冷 浴殿西頭鐘漏深
猶恐清光不同見 江陵卑湿足秋陰
の詩による。
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