家の荷物を整理していたら物置の奥から本が一ケース出てきた。その中には筆者がかつて傾倒していた新左翼の太田竜の著作は出て来るし、ルイ・ケルヴラン「生体による原子転換」なんて本も出てきた。これなんかプレミアつかないかな。
その中に『2025年日本の死』(水木楊、1994、文芸春秋)なんてのも出てきた。今となっては買った記憶も読んだ記憶も失われているが、どの程度予言が当たっているのか気になって、ぱらぱらとめくって読んでみた。
アメリカの新モンロー主義は一九九四年の時点ではっきりと前兆があったんだなと、改めて知った。ただ、この本の予測と違って、新モンロー主義はかなりゆっくりとしたペースだった。911事件が大きくそれを遅らせたのかもしれない。
結果的に新モンロー主義を大胆に進めようとしたトランプさんにしても、北朝鮮問題にはこれまでのどの大統領にもなかったような深い関心を示していた。だから、アメリカの新モンロー主義の本格的な実行はバイデンさんになってからで、それも今年のロシアのウクライナ侵略の時についに来たかという所ではなかったか。
あとロシア連邦の崩壊なんてのもあった。それが起きてたらプーちんはいまなにをやっていたのかな。というか、プーちんが強権でもってそれを防いでしまったということなのか。だとすると英雄だというのもわかる。
日本の国連常任国入り、これは大外れ。憲法改正が防衛力強化ではなく、国連での国際貢献条項の追加という方向で行われる、これも外れ。解釈変更だけで乗り切っちゃったからね。
新日本保守党の台頭というのも、まあ大外れといっていい。自民党も最後まで宏池会の宮沢元首相が居座る形で、反主流派の清和会の影がない。実際には小泉、安倍、麻生がその後の自民党政権の中心となっていったが、これも想像できなかったようだ。
まあ、去年岸田さんになってようやく宏池会に政権が戻ってきたが、バイデンさんの新モンロー主義と同様、今なのかという意味で不吉だ。
特に安倍長期政権の時代で自民党が保守層からリベラル層にまで幅広い支持を受けてしまったことが、保守系新党の動きを封じてきたのかもしれない。安倍さんが辞めた後、自民党は急速に左に寄り始めた。そこで何とかバランスを取っているのが今の宏池会と思うと、これも何だか不吉だ。今まで外れてきた予言が、去年今年になって急にパーツが揃い始めている。
まあ、今回の選挙で出てきた参政党が「新日本保守党」としてこれから大きく成長することがあるのかというと、多分ないと思う。新党くにもりや日本第一党と一部の自民党の離反組が加われば多少は活気づくかもしれないが。パヨチンと一緒で経済音痴というのが一番のネックだ。
まあ、著者が中国の生まれということもあってか、中国に関しては安定している。「日本の死」をもたらすのも、まあ当然ということか。
さて話は変わるが、今回の暗殺はイスラム国のテロと構図が似ている。組織が直接手を下すのではなく、ネット上にデマを広めて、それに反応した誰かが自発的にテロを行うように仕向けるというやり方だ。今や世界のテロの標準となりつつある。それが日本でも起きたということだ。
明らかな殺害予告だと日本でも犯罪として捜査はするが、単に「安倍死ね」だとか「万死に値する」だとか言っただけでは取締りの対象にはならない。それを複数アカウントを作ってネット上の主流の意見であるかのように拡散してゆけば、容易にテロは可能になる。
日本の場合はマス護美もデモ拡散の片棒を担いでいる。
人に対して死ねというのは、たとえ相手がプーちんであったとしても「正当な批判」とは言えない。侮辱罪の適用などの対策を強化しないと、やがて日本はテロの横行する国になる。
日本は厳しい銃規制があるから平和だなんて思わない方が良い。「ないなら作っちゃえ」ってなるだけのことだ。日本の平和は文化の問題で、銃がないから犯罪が少ないのではない。
その平和の文化を作ったのは、あるあるネタの談笑を通じて互いの緊張感を和らげる、俳諧の文化だったといってもいい。あるあるネタは「人情」に対する深い洞察を必要とするもので、理性よりも人情の理解が人の怒りを抑え、平和な世界を作る。
人情は日本人にとっての人権概念だ。俳諧で人情を理解し、「かまわぬ」を広めよう。
それでは「くつろぐや」の巻の続き。
二裏、三十七句目。
公儀の御たづね二千里の月
廻状に初雁金のあととめて 卜尺
雁金と借り金を掛けるのはお約束といったところか。
廻状(くわいじゃう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回状・廻状」の解説」に、
「① =かいぶん(回文)①
※東寺百合文書‐ち・永享九年(1437)四月四日・二十一口方評定引付「去年三月廿一日灌頂院御影供廻状、仏土院被載了」
② ある事柄を知らせるため、必要な所に配布される書状や書類。
※俳諧・談林十百韻(1675)上「公儀の御たづね二千里の月〈志計〉 廻状に初雁金のあととめて〈卜尺〉」
③ 特に江戸時代に、領主が村々へ年貢取立て、夫役などの用件を通達するための書状。各村の名主(なぬし)はそれに判を押して次の村へ渡し、最後の村(留り村)から発行者(代官所)へもどす。また、村方が独自に出す場合もある。〔島田駿司家所蔵文書‐嘉永六年(1853)四月二五日・館山四ケ浦廻状〕」
とある。借金のトラブルでお尋ね者になったようだ。
三十八句目。
廻状に初雁金のあととめて
明後夕がた雲霧の空 正友
前句の廻状を③の意味に取り成して、取り立ての連絡を債権者の間で回覧する。
三十九句目。
明後夕がた雲霧の空
引入は山の腰もとがつてんか 一朝
引入(ひきいれ)はここでは手引きのこと。腰元は雑用女のことで、そこのところ夜這いを掛けるのに手引きしてくれ、合点か?と手引きを頼む。
四十句目。
引入は山の腰もとがつてんか
泪の滝の水くらはせう 松臼
どうやって腰元を口説くのかと思ったら、泣き落としか。
泪の滝は、
仁和のみかとみこにおはしましける時に、
ふるのたき御覧しにおはしましてかへりたまひけるによめる
飽かずして別るる涙滝にそふ
水まさるとやしもは見るらむ
兼芸法師(古今集)
恋わびて一人伏屋によもすがら
落つる涙や音なしの滝
藤原俊忠(詞花集)
の歌がある。
四十一句目。
泪の滝の水くらはせう
待ぶせやおもひの淵へ後から 雪柴
泪の滝に後ろから押して落してやろうかと待っている。通って来る不実な男を懲らしめてやろうということか。どれだけお前のせいでうちの娘が泣いたと思ってるんだ、という感じで。
四十二句目。
待ぶせやおもひの淵へ後から
いかに前髪比興さばくな 在色
前髪は月代を剃ってないということで稚児や若衆の意味になる。男色の対象。
比興はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「比興」の解説」に、
「[二] (「ひきょ(非拠)」の変化した語。一説に「ひきょう(非興)」とも)
① 非理。不合理。また、不都合なこと。
※古今著聞集(1254)一一「あまりに供米不法に候て、実の物は入候はで、糟糠のみ入てかろく候故に、辻風に吹上られしを、〈略〉比興の事なりとて、それより供米の沙汰きびしくなりて」
② いやしいこと。つまらないこと。とるに足りないこと。そまつなこと。また、そのさま。
※異制庭訓往来(14C中)「只当世様。以二珍躰一為二風情一。以二淳朴一為二比興之義一」
※史記抄(1477)一五「かかる比興なる者を称挙して其任に、不称者をは、挙たる人を罰せんなり」
③ あさましいこと。みっともないこと。また、そのさま。
※今川大双紙(15C前)躾式法事「武士の人は、〈略〉臭きもひけふ也」
④ =ひきょう(卑怯)
※浄瑠璃・平仮名盛衰記(1739)三「ヤア比興(ヒケウ)なり松右ヱ門」
とある。
「比興さばくな」は卑怯なことをするなという意味。
待ち伏せして恋の淵に突き落とそうなどと、何て卑怯な。いいか絶対に押すなよ‥‥。
四十三句目。
いかに前髪比興さばくな
御恩賞今つづまりて九寸五分 志計
恩賞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「恩賞」の解説」に、
「① 功労を賞して、主君が家臣に官位、所領、物品、税の徴収権などを与えること。また、そのもの。
※続日本紀‐神護景雲二年(768)九月辛巳「長谷部文選授二少初位上一。賜二正税五百束一。又父子之際。因心天性。恩賞所レ被事須二同沐一」 〔後漢書‐彭寵伝〕
② 恩恵。神の恵み。また一般に、世話を受けた恩。
※天草本伊曾保(1593)鳩と蟻の事「カノ アリ タダイマノ vonxǒuo(ヲンシャウヲ) ホウジョウズルト ヲモウタカ」
③ 世話になった恩を返すこと。恩返し。報恩。
※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一四「この御おんしゃうの御ために、これまで、御れいにまいりて、御ざあるぞ」
とある。
恩をあだで返すような悪事をしでかしたのだろう。九寸五分は切腹をするときの短刀の長さ。
四十四句目。
御恩賞今つづまりて九寸五分
隠居このかた十徳の袖 一鉄
十徳(じっとく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十徳」の解説」に、
「① 一〇種類の徳。また、多くの徳。
※十訓抄(1252)一「俊頼朝臣は十徳なからん人は判者にあたはずとぞかかれける」
② 室町時代の脇縫いの小素襖(こすおう)の通称。四幅袴(よのばかま)とあわせて用い、将軍供奉の走衆以下の召具(めしぐ)が着用した。また、江戸時代の儒者・医者・俳諧師・絵師などの外出着。道服の一種で、黒紗の類で仕立てるのを例とした。
※教言卿記‐応永一三年(1406)一〇月一九日「倉部十徳之体、当世之風体云々。重能・資能同体也」
とある。ここでは②の後半の御隠居さんが着るような外出着で、昔は御恩賞の長刀を差していたが、いまはそれが縮まって九寸五分の短刀を持ち歩いている。
四十五句目。
隠居このかた十徳の袖
貝がらの内をたのしむ名膏あり 正友
膏薬は貝殻に入れて持ち歩いた。膏薬は傷薬などが多かった。
半俗の膏薬入は懐に
臼井の峠馬ぞかしこき 其角
の句が後の『嵯峨日記』にある。蝦蟇の油がよく知られている。延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻九十七句目に、
蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
千年の膏薬既に和らぎて 桃青
の句もある。九十八句目に、
千年の膏薬既に和らぎて
折ふし松に藤の丸さく 桃青
とあるように、小田原の藤の丸という膏薬屋の膏薬も名膏だったようだ。
もっとも、延宝六年の「さぞな都」の巻七十四句目、
膏薬に木の実のうみや流覧
よこねをろしに谷深き月 信徳
のように「よこね」という梅毒のために腫れたリンパ節を抑える膏薬もあったようだ。
四十六句目。
貝がらの内をたのしむ名膏あり
蒔絵に見ゆる棚先の月 松意
貝殻の内側の真珠質はは螺鈿細工に用いられる。貝殻に蒔絵を施すこともある。
この場合は名膏の膏薬入れに蒔絵がしてあってそれを楽しんでたら、店先の月までが蒔絵に見えてくる、という意味であろう。
四十七句目。
蒔絵に見ゆる棚先の月
町人の奢をなげく虫の声 松臼
町人の店先に蒔絵を施した豪華な調度が並び、贅沢だなあと虫が嘆く。
四十八句目。
町人の奢をなげく虫の声
庄屋九代のすへの露霜 卜尺
九代続いた庄屋もドラ息子の道楽で今は空家になって荒れ果てている。
四十九句目。
庄屋九代のすへの露霜
花の木や抑これはさかい杭 在色
荒れ果てた家に花といえば『伊勢物語』第四段の、
「またの年の睦月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて行て、立て見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣て、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏りて、去年を思ひ出て詠める。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
と詠て、夜のほのぼのと明るに、泣く泣く帰りにけり。」
であろう。
庄屋の境界の杭の代りに木を植えるということは、よくあったことなのだろうか。
五十句目。
花の木や抑これはさかい杭
国まはりする春の山風 一朝
「国まはり」は「国廻り派遣」のことか。ウィキペディアに、
「元和元年11月19日、徳川家康は武家諸法度・一国一城制が遵守されているかを確かめるために、3年に1度諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出したが、会津地方への監察が1度行われたのみに終わった。8年後の元和9年(1623年)に、徳川秀忠は豊後国に配流された甥(娘婿)松平忠直の状況視察を目的として「国目付」を派遣しているが、これも「国廻り派遣」の1種であった。本格的な派遣再開は徳川家光が親政を始めて1年後の寛永10年1月6日(1633年)に慶長日本図の校訂を理由として「国廻り派遣」を行うことを決め、2月8日に、小出吉親・市橋長政・溝口善勝・小出三尹・桑山一直・分部光信の6名の譜代大名格を正使として各地に派遣したのが最初とされている。この際には副使として使番・小姓組あるいは書院番に属する旗本からそれぞれ1名ずつが付けられた。彼らは地図の校訂を行うと同時に当時既に構想されていた参勤交代実施時の大名行列のルートを確認する意図があったとされている。
その後、再びこの制は途絶えていたが、徳川家綱の代に入った寛文4年4月5日に全ての大名に対して領知朱印状が交付され(寛文印知)、同年に宗門改が全ての領主に対して義務付けられた。それらの実施状況を確かめる事を名目として寛文7年閏2月18日に諸国巡見使の制が導入されたのである。」
とある。国と国との境の境杭がなくて、この花の木が境杭の代りだと説明する。
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