俵万智さんが、「実感のないこと歌になりづらし」という上句にAIで下句を考えさせたら、
実感のないこと歌になりづらし
われに歌ありとうしろ姿に
喝采を受けずにはいられない
という付け句が出てきたという。俵さんは感動したようだが、連歌俳諧を知っているものとしてはまだまだだなと思う。両方とも単純な心付けで変化に乏しい。
AIが連歌や俳諧の付け筋を覚えればもっと面白いと思う。
物付けだと「歌」に例えば「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」(古今集仮名序)の縁で、歌に蛙を付けるとかもできる。
実感のないこと歌になりづらし
蛙に遊ぶ古池もなく
とかいう展開もできる。
前句が嘆きの句なので「咎めてには」というのも使える。
実感のないこと歌になりづらし
ネタがなくても機械頼るな
AIがこんな自虐をすると面白いかも。
そういえば今日は新暦の七月六日、サラダ記念日だ。口語短歌の精神は今の仁尾智さんにも受け継がれている。
それでは「東路記」の続き。
「鳥井本より彦根へゆき、彦根より八幡といふ所にゆき、それより野洲に出る海道有。是を『近江の下道』と云。平地にてよき道なり。沙地なり。列樹の松あり。将軍家御上洛の時は、此道を御通りあり。朝鮮信使来れば、毎度此道を通る。鳥居本より彦根へ一里、彦根より八幡へ六里、八幡より守山へ三里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)
この「近江の下道」は今日では朝鮮人街道という。朝鮮通信使が通ったことでこの名前があるだけで、それ以上の意味はない。チョソンサラム街道と呼んだ方が良いのか。ウィキペディアには、
「朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)は、近江国(滋賀県)に存在した近世の脇街道である彦根道(ひこねみち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名である。中山道(上街道)との比較で下街道・浜街道、あるいは朝鮮人道、唐人街道などともいう。」
とある。
旧中山道は鳥居本を通って山の中を出ると、そのまま真っすぐ高宮へ向かうが、途中で右へ折れて佐和山城跡の南を通って彦根へ向かうのがチョソンサラム街道になる。彦根道とよばれる道が一部国道8号線と並行して通っている。JR彦根駅付近を越えると彦根城の前で左に折れ、荒神山の南を通って安土へと向かう。
ウィキペディアによると、元は織田信長が安土を通るように作った道だという。
「中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が天正4年(1576年)に安土城を築いたときに岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備し、安土城築城後の天正5年(1577年)に城下に宛てた13ケ条の定書において「安土発展のため中山道ではなく、この街道を通ることが原則」とされ、安土落城後に同地を支配した豊臣秀次は八幡建設後町衆に対して同様の定めを公布し、この道の利用を奨励した。」
とある。
「彦根と八幡の間に安土あり。信長公の城あとなり。安土に今も町少有。在家有。八幡と野須の間に、長原と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)
信長亡き後は安土もすっかり寂れ、道だけは朝鮮通信使の通り道として役に立った。まあ、ヒットラーがアウトバーンを残したようなものか。
JRの篠原駅と野洲駅の間に滋賀県野洲市永原という地名が残っている。旧中山道の道からは外れていて、こちらを朝鮮人街道が通っていたのだろう。野洲で旧中山道に合流する。
「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。
此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。
是より観音寺山へ三里あり。東にあたる。越智川へ二里半有。其間に右に書し佐々木明神の社有。篠原の里は守山と草津の間にあり。又、此間に、うね野と云名所あり。野路は、草津と大津の間にあり。此辺より、比良の高峯、比叡の山、八王子、堅田の浦など見ゆる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)
八幡は今の近江八幡で、大津と並ぶ大きな街だった。
八幡山には八幡山城跡がある。今はロープウェイがある。ウィキペディアに、
「八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。」
とある。秀次は秀吉の姉の子で、秀吉の養子になり、秀吉の跡を継いで関白の位に就いたが、秀吉に実子が誕生したことで処分された。
近江蚊帳は近江八幡の名産品で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「近江蚊帳」の解説」に、
「近江(滋賀県)の特産である蚊帳。蒲生(がもう)郡八幡(はちまん)および坂田郡長浜を主産地とし、それぞれ八幡蚊帳、長浜蚊帳(浜蚊帳)とよばれた。八幡では早く天正(てんしょう)年間(1573~92)から奈良蚊帳を売買する商人がいたが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)ころになると地元の麻糸を買い集めて蚊帳を織らせ、八幡蚊帳として売り出すようになった。寛永(かんえい)(1624~44)になると越前(えちぜん)(福井県)から大量の麻糸を輸入して生産するに至り、1639年(寛永16)には町内蚊帳屋17軒、1653年(承応2)ころには仲間の「えびす講」で申合せを定めるまでに発展した。また寛文(かんぶん)年間(1661~73)には八幡から長浜に製作技術が伝わり、農家の副業として隆盛に赴いた。八幡蚊帳の盛期は享保(きょうほう)・元文(げんぶん)(1716~41)ころで、仲間も古組・新組・新々組の3組計47名に上った。」
とある。
二代目西川甚五郎が寛永の頃に麻を萌黄色に染めて朱色の縁を付けた蚊帳を売り出し、これが蚊帳の定番になったという。
君が春蚊屋はもよぎに極りぬ 越人
の句が『去来抄』にある。萌黄色の蚊帳が不動であるように、君への思いも変らないという恋の誓いを歳旦に寄せて詠んでいる。
観音寺山は安土の方に戻ることになり、東になる。越智川は愛智川か。佐々木明神(沙沙貴神社)もこの方角にある。
篠原はJRの駅があるが、武佐宿と守山宿の間にある。鏡山の西側一帯に大篠原、小篠原の地名がある。うね野は、
近江より朝たち来ればうねの野に
田鶴ぞ鳴くなる明けぬこの夜は
大歌所御歌(古今集)
田鶴の棲む冬の荒田の畝の野に
ひとむら薄一夜宿貸せ
藤原家隆(洞院摂政家百首)
などの歌に詠まれている。場所は定かでない。
野路は草津宿の少し先にある。JR南草津駅の辺りになる。ここまで来ると琵琶湖の向こうの山々がよく見える。
比良の高峯は瀟湘八景にも「比良暮雪」があり、『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻三十句目に、
青天に有明月の朝ぼらけ
湖水の秋の比良のはつ霜 芭蕉
の句がある。
比良の南が比叡山になる。八王子山は比叡山の手前の低山で、堅田は比良の麓の琵琶湖の細くなっている所で近江八景に「堅田落雁」がある。
堅田の浮御堂では元禄四年の、
堅田既望
安々と出でていさよふ月の雲 芭蕉
錠明て月さし入よ浮御堂 同
の句がある。
「鈎里、草津の東に在。将軍義尚の陣所也。延徳元年此所に卒す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)
鈎(まがり)里は今の栗東市に下鈎・上鈎という地名が残っている。ちなみに栗東市(りっとうし)という名称は古代の栗太郡の東部という意味で、『和名類聚抄』では「栗本郡」と記されているという。栗の巨木の伝説に関係があるのか。
足利義尚の鈎陣所がここにあった。ウィキペディアに、
「応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。」
とある。
「瀬田の橋の下の川は、近江国中の水、ことごとく湖に入て其末流也。是より宇治へ流れ、淀にいづ。勢多より石山へ、半里余有。石山のしもに、供御の瀬あり。かちにてもわたる。
其下に、しし飛と云所あり。両岸の間を大河流れ、其岩の間近き故、鹿、此所をとび渡ると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29~30)
近江の国に降った雨や雪は琵琶湖に流れ込み、その琵琶湖の水は勢田川から出て行く。今は天ヶ瀬ダムから下が宇治川になる。橋本で桂川や木津川と合流して淀川になる。
文和千句第一百韻、九十九句目に、
ふたつの川ぞめぐりあひぬる
佐保山の陰より深し石清水 良基
の句があるが、これは佐保山から流れ出た木津川の水が、桂川・宇治川の二つの水と廻り合うという意味になる。この合流点の橋本に石清水八幡宮がある。
瀬田の唐橋のすぐ南に石山寺がある。
供御の瀬はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「供御瀬」の解説」に、
「滋賀県大津市田上黒津(たなかみくろづ)町付近にあった浅瀬。天皇や将軍の食膳(しょくぜん)に供するため、黒津の浅瀬に田上の網代(あじろ)を設けて氷魚(ひうお)(アユの稚魚)をとったことからこの名が生まれたと伝えられる。また瀬田川唯一の徒渉(としょう)地で戦略的な要地でもあった。膳所(ぜぜ)藩は網代経営を表向きの理由として兵を常駐させ、瀬田橋の破壊に備えた。現在では瀬田川の浚渫(しゅんせつ)工事や南郷洗堰閘門(あらいぜきこうもん)設置で水没した。[高橋誠一]」
とある。
黒津は大戸川と勢田川の合流点辺りの地名で、店の名前などには「田上」の地名も残っている。グーグルアースで見ると合流点は土砂が堆積して細くなっていて、浅瀬が残っているように見える。かつてはこれがもっと広く、広い浅瀬を形作っていたのだろう。
一九六一年、黒津の浅瀬に南郷洗堰が作られ、その上の方は今は漫々と水をたたえている。
おそらく合流点の東側の広い田んぼは、かつては低湿地で遊水池の役割を果たしていたのだろう。ここが干拓されてしまうと、そこの水害を防ぐために堰が必要になる。そういう事情だったのではなかったか。
田上の川下は一転して山の間を流れるようになる。大石は小さな盆地になっていてそこに鹿跳橋があり、この谷が今も鹿跳渓谷と呼ばれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿