2022年7月16日土曜日

 しばらくこの俳話をお休みしようと思う。またいつか。
 家庭連合の問題について言えば、基本的に多額の献金の強要は立派な犯罪なので、司法手段に訴えるべきことで、首相の暗殺は単なる逆恨みにすぎない。
 まあ、悪質な宗教団体については、破防法に抵触しなくても解散命令を出せるような立法措置は必要だと思う。それは国会議員の役目だ。殺害ではなく陳情案件ではないかな。家庭連合が非合法化されていたなら、そこと関係を持ってたことは当然追究されなくてはならない。
 憲法二十条に定められた信教の自由は、憲法十二条の、

 国民は,これ(憲法で規定されている自由や権利:基本的人権)を濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

によって限界づけられているので、公共の福祉に反する宗教はその自由を剥奪することが出来る。それをしなかったのは国会の怠慢といえよう。
 いずれにせよ暗殺はテロ行為であり民主主義への挑戦であり、どのような理由であろうと擁護することはできない。テロに屈したという間違ったメッセージを発しないためにも、国葬はやり遂げなくてはならない。
 まあ、左翼やマス護美の論調というのは基本的に原理原則論によるもので状況判断を無視する。
 状況が変われば状況判断は当然変わる。それを一貫性がないだとか前言と矛盾するだとか言って批判する。
 状況においてはたとえ敵対勢力でも同盟を結ぶこともある。それを「友達」だとかズブズブだとか言ってスキャンダルに仕立て上げる。
 世間を知らない子供は原理原則で判断しがちだが、大人になるにつれて色々な事情が分かってきて、その場その場の状況判断があることを理解する。
 子供の心を忘れないことも大事だが、根っからの子供では困る。日本人が大人であることを信じ、これからも正しい判断をすることを願う。
 筆者も若い頃は太田竜も読んでいたし、中沢新一も読んでいた。でも今はその場所にはいない。かつての社会主義が多くの虐殺事件を生んだことや、密教神秘主義の賛美がオウムの事件を引き起こしたことについて、筆者も責任を感じ心を痛めている。今こうしてあえて政治的な発言するのも、過ちを二度と繰り返してはいけないと思っているからだ。実際未だにあの場所に留まり続けている人たちがいるのは、本当に心苦しい。
 大人になれなかったそうした人たちは本当に危機が迫った時でも、状況もわからずに闇雲に原理原則を言い立てる恐れがある。危機は外にだけでなく内側にもある。
 今や平和にすっかり慣れきって、世界中にこういう大人になれない子供が増えてしまい、それがあまりに美化されてしまっていないか。子供が寄ってたかって騒いでいるだけでは、プーちんは大人だからびくともしないばかりか、かえっていいように利用されてしまう。
 日本にもアメリカにもヨーロッパにも本当に必要なのは、それと渡り合える大人の政治家だ。それを子供たちが寄ってたかって引きずり降ろしてゆく。それができてしまうのは民主主義の弱点でもある。民主主義は民の大人度が試される。
 筆者は最近は大人というよりは老人になったなと感じる。それにふさわしい隠棲を考える時も来た。
 五年たち、十年たち、日本が今でもあることを喜べるように、ほなみんな、きばれや。
 あと、鈴呂屋書庫については今まで通り何か書いたらアップしてゆくのでよろしく。

 それでは「くつろぐや」の巻の続き、挙句まで。

 名残裏、九十三句目。

   名所旧跡とをざかりゆく
 帆柱や八合もつてはしり舟    在色

 合はいろいろなものの割合を示すのに用いられる。山での八合目のように。
 ここではコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「合」の解説」にある、

 「(ニ) 和船の帆を張る程度をいう。帆桁を八分に上げるのを八合といい、五分に上げるのを五合という。」

であろう。
 和船は帆桁(ブーム)が固定されてないため、帆桁の位置で帆の張り具合を調整する。また、帆桁を横に移動させることで、風上に行く時にはヨットのように縦帆にすることもできる。
 停船時には帆桁ごと帆を下ろしているため、出帆することを「帆を上げる」という。
 帆を八合に挙げている状態だと、かなりスピードが出る。
 九十四句目。

   帆柱や八合もつてはしり舟
 すばる満時沖の汐さい      松臼

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注によると、「すばるまん時子(ね)八合」という諺があったという。ネット上を見ると「すばるまん時粉八合」という信州の諺があるらしい。子八合が元で粉八合は蕎麦作りに当てはめた派生形か。
 昴(すばる)はプレアデス星団のことで、東洋では二十八宿の一つで白虎七宿の中央に位置する。黄道上の最も北に位置するため、子の方角の八合という意味だったのだろう。
 昴が夕暮れに見えるのは冬で、その頃の満潮に船出する。
 九十五句目。

   すばる満時沖の汐さい
 久堅の天地同根網の魚      雪柴

 「天地与我同根、万物与我一体」は『碧巌録』の雪竇(せっちょう)禅師の言葉だという。梵我一如の境地を言う。
 どの魚もみな一つということで、一網打尽にする。
 九十六句目。

   久堅の天地同根網の魚
 七歩のうちにたつ鰯雲      一鉄

 天地同根ということで、海には鰯が網にかかり、空には鰯雲が出る。
 お釈迦さまは生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという。海の鰯と空の鰯雲を指し示して唯我独尊というところか。
 九十七句目。

   七歩のうちにたつ鰯雲
 棒手ぶりそのままそこに卒中風  一朝

 棒手ぶりはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「棒手振」の解説」に、

 「〘名〙 魚、青物などを天秤棒(てんびんぼう)でかついで、振売りすること。また、その商人。ふりうり。ぼてふり。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「七歩のうちにたつ鰯雲〈一鉄〉 棒手ふりそのままそこに卒中風〈一朝〉」

とある。
 卒中風は脳卒中で、魚屋が魚を担いで七歩もあるかないうちに脳卒中で倒れた。魚屋だけに紫雲ではなく鰯雲が天から御迎えに来る。
 九十八句目。

   棒手ぶりそのままそこに卒中風
 家主所謂大法四あり       松意

 「大法四(よつ)あり」は四箇の大法のことか。熾盛光法・七仏薬師法・普賢延命法・安鎮法の四つで、かつて宮廷で行われたという。
 前句の脳卒中で倒れた人の蘇生祈願であろう。魚屋の家主の家に伝わる方式がある。
 九十九句目。

   家主所謂大法四あり
 一町の公事あひ半花散て     志計

 一町は十反で約1ヘクタールになる。この広さの田んぼの所有権を争って公事(訴訟)が長引き、桜の花の散る苗代の季節になる。このままでは田植ができなくなり、困ったものだ。『春の日』の「雁がねも」の巻三十一句目にも、

   砧も遠く鞍にいねぶり
 秋の田のからせぬ公事の長びきて 越人

の句があり、裁判の長さは今も昔も変わらなかったようだ。
 前句の「大法四」を法律が多くてややこしいという意味に取り成したか。
 挙句。

   一町の公事あひ半花散て
 証拠正しきうぐひすの声     正友

 和歌では鶯が鳴くと花が散ると言われた。

 鶯のなく野辺ごとに来て見れば
     うつろふ花に風ぞふきける
              よみ人しらず(古今集)
 吹く風を鳴きてうらみよ鶯は
     我やは花に手だにふれたる
              よみ人しらず(古今集)

 そこから鶯の羽が風を起こして花を散らせているのではないかという嫌疑が掛けられる。

 こづたへばおのが羽風に散る花を
     誰におほせてここら鳴くらむ
              素性法師(古今集)

 それに対して、

 しるしなき音をも鳴くかな鶯の
     ことしのみ散る花ならなくに
              凡河内躬恒(古今集)

と、鶯が鳴こうが鳴くまいが毎年花は散っていると抗弁する。
 まあ、状況証拠だけで証拠不十分といった所だが、挙句の方は「証拠正しき」として結ぶ。まあ、裁判というのは時として不条理なものだ。

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