来週は雨になるというから、梅雨の戻りだと思ってたら、台風が来るのか。水不足の解消にはいいけど、「時により過ぐれば民の嘆きなり‥‥」という和歌もあったからな。
それでは「東路記」の続き。
「伊吹山は、美濃、近江の境にあり。大道より見ゆ。名所なり。伊吹の里は近江なり。山の西北にあり。是も名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)
伊吹山というと、
かくとだにえやは伊吹のさしも草
さしも知らじな燃ゆる思ひを
藤原実方(後拾遺集)
の歌は百人一首でもよく知られている。
他に伊吹山を詠んだものには、
秋ををやく色にぞみゆる伊吹山
もえてひさしき下のおもひも
藤原定家(建保名所百首)
伊吹山峰なる草のさしもこそ
忘れじとまで契りおきしか
宗尊親王(続古今集)
などの歌がある。
伊吹の里は、
思ふだにかへらぬ山の桜花
たれか伊吹の里とつけしぞ
清少納言(夫木抄)
の歌がある。
「昔、天武天皇の兵と大友の皇子の兵と、戦有しも、此不破の関なり。大友の皇子、終に打負給ひ、天武天皇、帝位に上り給ふ。清見原の天皇、是なり。慶長五年、治部少輔等の狂徒を亡して天下を治め給ふも、此地なり。古今共に、天下存亡の分れし地なり。又、頼朝十三歳の時、京都の戦ひに打負て関東へ下り給ひしを、平家の士、弥平兵衛が行逢て生捕しも、関が原也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25~26)
前にも「天武帝も野上に陣し給ふ」とあり。そのとき壬申の乱の時に、大海人皇子(後の天武天皇)が野上の行宮から不破に出陣して、桃を全兵士に配って戦いに勝ったということを述べた。
六七二年にここでもう一つの天下分け目の戦いがあり、その翌年に不破の関が置かれたという。天智天皇の第一皇子だった大友の皇子と弟だった大海人皇子との戦いで、この時代の皇位継承のルールはよくわからない。
普通に考えると第一皇子が継ぐのが順当のように思えるが、なぜ弟がという気もする。諸説あるが、ウィキペディアに、
「天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。」
とある。諸説あるようだが、親中派と嫌中派の戦いだったのかもしれない。この時に一度でも日本が中国に朝貢したということがあったらと思うと、大海人皇子の勝利は日本にとって幸いだったことになる。
関ケ原の合戦もまた、壬辰倭乱に失敗した豊臣秀吉の後継者を徳川が討つという形になった。壬申と壬辰の音の一致も奇妙な縁を感じさせる。
まあ、今も右翼がよく言うことだが、日本は半島に係わるとろくなことがない、ということか。近代も含めて。外へ向かう衝動に駆られずに、あくまで縮み志向でいることが日本の繁栄に繋がる。
弥平兵衛は平宗清で、ウィキペディアに、
「平頼盛の家人[5]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。」
とある。このことも後の日本の歴史を大きな分かれ目になった。
「今須と柏原の間に、長久寺と云小里あり。是、美濃と近江のさかひ也。車返しとも云。両国より家を近く作りならべ、其間に小溝を一へだつ。国をへだてて、寝物語をすると云。此故に此所を、「ね物語」ともいふ。〇たけくらべと云所、柏原の辺、近江と美濃の山を左右に見て行所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)
今須と今洲は同じ。今須とその次の柏原宿との間に、美濃国と近江国の境界線がある。長久寺の地名は今は滋賀県の方の地名で、車返し地蔵尊は関ケ原町今須になる。
今も小溝があるという。
分水嶺は滋賀県側にあるが、ここまで行くと美濃側の山は見えなくなる。車返し地蔵尊がある辺りの、今のJR線の踏切がある辺りの旧中山道が、ちょうど右に美濃の山、左に近江の山を見ることになる。
柏原は今もJR東海道本線に柏原駅がある。
「柏原の北六里に、小谷山有。道より見ゆる。山下に小谷と云町有。北国道の宿也。山上に城あと有。むかし浅井備前守長政居城なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)
小谷山(おだにやま)は正確には北西になる。前にも北国街道の名前で出てきた北国脇往還がここを通っていて小谷宿がある。
小谷城はウィキペディアに、
「日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。
戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。」
とある。
「醒が井の宿は、山中也。宿の北に川あり。其川上に黒田村あり。醒井より八町あり。鴨の長明が歌一首あり。此所にてよめるか。又、余湖のうみの辺にも黒田村あり。
醒井の水は、古来名を得し処也。昔、日本武尊東征し給ひし時、伊吹山にて大蛇を踏で通り給ひしに、山中を雲霧おこりて甚くらかりしが、尊、山を出給ひて御心地わづらはしかりければ、此水をのみて即醒給ひぬ。是によつて、醒が井と云。尊の腰かけ給ふ石あり。日本武尊は景行天皇の御子、仲哀天皇の御父なれば、八幡の祖父也。
醒井より長浜へ行道あり。六里あり。長浜は湖のはた也。町あり。秀吉公も信長公の時、初は爰に居給ふ。〇梓の杣、醒井の東、梓村と云所に有。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26~27)
JR東海道線は近江長岡の方を大きく迂回するが、旧中山道は今の国道21号に近いルートを通っている。JRも近江長岡駅の次は醒ヶ井駅になる。周囲はまだ低山に囲まれている。
宿場の北にある川は天野川で、JR線に沿って流れている。近江長岡駅周辺は昔は東黒田村があった。ウィキペディアに、
「東黒田村(ひがしくろだむら)は、滋賀県坂田郡にあった村。現在の米原市の東部、天野川の中流域、東海道本線・近江長岡駅の周辺にあたる。」
とある。
黒田の里というと、
をちこちも今はた見えずむばたまの
黒田の里の夕闇の空
冷泉為相(夫木抄)
の歌がある。
鴨長明の歌というのは、ネット上の稲田利徳さんの『正徹「なぐさめ草」(松平文庫本)注釈(上)』によると、
めにたてぬ人なかりけりむば玉の
くろ田の河によれる白波
鴨長明(歌枕名寄)
の歌だという。正徹は美濃の木曽川町黒田の辺りで、
夜もすがら光は見せよむば玉の
黒田の里に咲ける卯の花
墨染の黒田の早苗取る賤や
夕をかけて袖濡らすらむ
の歌を詠み、そのあとに、
「此(の)所は、古き歌枕などによめる歌見えず。黒田川はあれども美濃の国とかや、尋(ぬ)べし。」
と記している。黒田の里の位置ははっきりしなかったようだ。『東路記』もまた、「又、余湖のうみの辺にも黒田村あり」と記して、ここかどうか確証はなかったようだ。
余湖の海の黒田村は琵琶湖の北にある小さな余呉湖の辺りで、黒田官兵衛の故郷とも言われている近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の方であろう。黒田神社、黒田観音寺、黒田安念寺などの名前にも残っている。
醒井の水は居醒(いさめ)の清水(しみず)とも呼ばれている。コトバンクの「デジタル大辞泉プラス「居醒の清水」の解説」に、
「滋賀県米原市にある湧水。「いさめのしみず」と読む。名称は、「日本書紀」や「古事記」に日本武尊が病を癒すために用いた水と記されていることから。環境省が2008年に選定した「平成の名水百選」のひとつ。」
とある。
日本武尊が伊吹山で牛のような大きな白い猪に出くわし、そこで、
「ここに言挙して詔りたまひしく、『この白猪の化れるは、その神の使者ぞ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。』とのりたまひて騰りましき。ここに大氷雨を零らして、倭健命を打ち惑はしき。‥‥略‥‥故、還り下りまして、玉倉部の清泉に到りて息ひましし時、御心稍に寤(さ)めましき。故、その清泉を號けて、居寤の清泉と謂ふ。」
とある。
「八幡の祖父也」とあるのは、八幡神と応神天皇は一つのものとされていることによる。母の神功皇后とともに三韓征伐と結びつけられて軍神とされていた。八幡神は道鏡事件の時に今の万世一系の皇統の道を確立させるような神託を下したことで、皇統と軍神の両面で信仰され、八幡神社は日本で一番多い神社となった。
新羅(シルラ)とは三韓征伐を通じて間接的にかかわっているものの、八幡神を新羅起源とする根拠はない。
旧中山道は醒井を出ると米原へ行かずに今の高速道路に沿って番場宿へ行くため、北国街道はこの途中から分岐することになる。木ノ本で北国脇街道に合流することになるが、その手前に秀吉の長浜城があった長浜がある。
柏原と醒井の間に梓ノ関遺跡がある。この辺りが梓の杣のある梓村だったのだろう。
津のくににすみ侍りけるを、
みのの国にくたる事ありて、
あつさの山にてよみ侍りける
宮木ひく梓の杣をかきわけて
難波の浦を遠ざかりぬる
能因法師(千載集)
明日より梓の杣にたつ民も
君につかふとみや木ひくらし
花山院師継(宝治百首)
などの歌に詠まれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿