これまでの戦争は基本的には経済的な動機があった。増え続ける余剰人口を食わせていかなくてはいけないというものだ。
今のロシアにも中国にもその必然性が何もない。動機があるとすれば冷戦でアメリカに負けた恨みくらいだ。となると、今の戦争は独裁者のみプレイ可能なゲームになったのだろうか。
経済的な動機のない、最初から経済なんてどうなってもいいというゲームなら、経済制裁は何の意味もない。
国益のための戦いでないから、交渉の材料もない。
ここまでやれば終わりという勝利条件自体が設定されてないから、停戦交渉に意味はない。基本的には世界を征服するまで終わりがない。
やっていることは愉快犯に近いので、基本的には単純な暴力以外に止める方法がないのではないかと思う。
こんな空虚なゲームに死んでゆく沢山の人たちっていったい何なんだ。まるでNPCを相手にしているかのような戦争だ。とにかく嫌な予感しかしない。
それでは「東路記」の続き。
「蛍谷は、勢多と石山の間なり。四月下旬の比、此谷より夜ごとに蛍おびただしく飛出て、橋の南北にとびちり、数万の蛍、又一所にあつまり、丸くかたまりて空にあがり、其かたまり、水の上におちてちると云。毎夜かくのごとし。漸々、日をおふて川下へ下る。宇治にては五月上旬の比、蛍多きさかりなちろ云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)
勢田の蛍船は俳諧でも詠まれている。『談林十百韻』の「青がらし」の巻十句目に、
火影立へついの外に飛蛍
でんがくでんがく宇治の川舟 執筆
の句があり、蛍見物に人が集まってくると、そこに味噌田楽を売る声も響き渡る。
芭蕉も元禄三年の幻住庵滞在の頃、勢田川の蛍船に乗って、
蛍見や船頭酔うておぼつかな 芭蕉
の句を詠んでいる。
蛍は勢田から宇治にかけて広く楽しめたので、そのつど蛍見物の船で賑わったようだ。
〇勢田より大津の札のつじまで、一里半あり。大津、松本、膳所、此三所は町つづきたるやうにて別也。勢多と膳所の間、粟津が原なり。今井四郎兼平が墓あり。木曾義仲の墓は、膳所の民家のうらにあり。道の南也。柿の木二本、其しるしにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)
大津、松本、膳所は今はいずれも大津市で一つになっている。昔は町は繋がっていても別々という名古屋と熱田、福岡と博多のような状態だったのだろう。
大津は宿場町で、蕉門では智月・乙州の親子がいた。
松本は港町で、元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、
花さくを旅すく人もなかりけり
舟ならべたる松本の春
の句もあった。ここには風流人は少なかったのだろう。松本に棲んでいた丈草も膳所を拠点としていた。膳所の門人と智月・乙州・丈草の間に何となく距離感があるのは、すぐ近くだけど別の町と認識されていたからなのだろう。
膳所はこの後芭蕉がやって来て、近江蕉門の中心地になる。元禄三年の幻住庵滞在に続き、木曽義仲の墓の隣に無名庵を構え、終には自らも木曽義仲の墓の隣で眠ることになった。
義仲寺はウィキペディアに、
「江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 - 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。」
とある。貞享元年の時点では義仲寺はまだなく、木曽義仲の墓は民家の裏にあり、柿の木二本だけがその印だった。
「松本の辺、湖のはたより、ひゑの山、坂本、八王子、堅田、志賀、唐崎の一松、三井寺の上の長等山など見えて、好景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)
この記述からしても、当時の松本の湊は今の大津港より南東の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールの辺りだったのではないかと思う。今残っている松本の地名もこっちに近い。
「大津の八町坂の右に、関の明神あり。此神は、蝉丸なりと云。いぶかし。此社のほとりに関の清水とてあり。但、古人の説には、関の清水のあり所たしかならずと見えたり。
左の方に関寺あり。其先に、昔、相坂の関の有し所あり。此上の山は相坂山也。関の小川も此辺ならん。家隆の歌に、『立帰りなを相坂にいしまゆく関の小川の花の白波』。経家の歌に、『紅に関の小川はなりにけり音羽の山に紅葉ちるらし』。音羽の山は清水寺の山をいへども、相坂の南の山をも、音羽山といふ。又、比叡山にも音羽のたきあり。関山と云も相坂山なり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)
大津宿を出るとすぐに関蝉丸神社下社があり、逢坂山の山の中に入って行く。
白河の関にも関の明神があり、本来関の明神は関所毎にあったのだろう。ただ、逢坂の関に関しては関蝉丸(せきせみまる)神社になっている。
貞享の頃はまだ「関の明神」と呼ばれていたのだろう。今は完全に蝉丸に乗っ取られた形になっている。
あふさかの関のし水に影見えて
今やひくらんもち月のこま
紀貫之(拾遺集)
の歌にも詠まれている。朝廷に八月十五日に献上される馬を詠んでいる。
その後も、
こえて行くともやなからむあふ坂の
せきのし水のかげはなれなば
源定房(千載集)
逢坂の関の清水のなかりせば
いかでか月の影をとめまし
藤原顕輔(続拾遺集)
などの歌に詠まれている。
今の関蝉丸神社下社にも関の清水の跡というのがあるが、本当にここだったかどうかははっきりしない。
現代だと、坂を登ってゆくと関蝉丸神社上社があり、その先の右に逢坂山弘法大師堂があるが、いわゆる関寺はない。ウィキペディアに、
「関寺(世喜寺、せきでら)は、かつて近江国逢坂関の東(滋賀県大津市逢坂2丁目付近)にあったとされる寺院。現在は存在しないが、長安寺がその跡地に建てられているとする説がある。」
とあるが、現在の長安寺は関蝉丸神社下社よりも大津宿に近い所にある。
逢坂の関跡は坂山弘法大師堂よりも先で、京阪京津線大谷駅よりは手前にある。大谷駅の近くには、ここにも蝉丸神社拝殿がある。
この辺りも谷なっていて、関の小川があったのだろう。引用された、
立ち帰りなほ逢坂にいしまゆく
関の小川の花の白波
藤原家隆(壬二集)
紅に関の小川はなりにけり
音羽の山に紅葉ちるらし
藤原経家(六百番歌合)
の歌の外にも、
音羽山紅葉散るらし逢坂の
関の小川に錦おりかく
源俊頼(金葉集)
の歌があり、『歌枕名寄』にも見られる。
音羽山は逢坂の関の南にあり今は真下を東海道新幹線が通っている。
関山を詠んだ歌は、
関山の峰の杉むらすぎゆけど
近江は猶ぞはるけかりける
よみ人しらず(後撰集)
の歌がある。
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