2022年3月31日木曜日

 日本には連合軍の戦後処理のために作られた憲法第九条があるため、特に日本で「反戦」という言葉は、単に戦争に反対するというだけの意味ではなく、侵略を受けた際の一切の抵抗を禁じる、という意味を持っている。
 今の日本で「反戦」を口にすることに抵抗があるのは、例えば今回のウクライナの件でも、口ではロシアを非難していても、「反戦」という言葉はウクライナ軍に抵抗をやめて非武装中立を受け入れろというメッセージとして受け取られる危険があるからだ。
 これが例えば、日本がロシアの侵略を受けた場合を考えればいい。「反戦」は奴らの主張からすれば、憲法第九条に反する憲法違反の自衛隊に、一切武力による抵抗をするな、というメッセージになる危険がある。自衛隊の立場からすれば、これを受け入れることができないのは当然だ。
 日本の「反戦」(hansen)≠NO WARなのでそこんとこよろしく。
 この「反戦」勢力が、ロシアと戦う前に人間の盾として立ち塞がり、ロシアの進軍を助けたらどうするのか。それについてのシミュレーションは当然やっておかなくてはならない。
 ただ、基本的にはデモや座り込みなどの行動であれば自衛隊を煩わすようなことではなく、愛国的な市民のカウンターデモで蹴散らすべきだ。奴らは所詮少数派だし、その多くは年寄りだ。そういう場面なら筆者のようの御老体でも役に立てるかもしれない。
 多分日本だけの問題でもないだろう。アメリカやNATOがウクライナへの参戦は愚か、武器供与まで渋る背景にあるのも、反戦=無抵抗という連中が世界的にある程度の数いるからだと見ていい。
 それは例えて言えば、最愛の妻が目の前で凌辱されても、一切手出しをするなという思想だ。
 筆者はもちろん侵略者に対して勇敢に戦うコサックの子孫を支持することで、世界の平和に賛成します。
 あと、「新撰菟玖波祈念百韻」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き。

 初裏、九句目。

   古枝の小萩なほ匂ふ比
 霧のぼる夕日がくれの水晴れて  心恵

 「霧のぼる夕日」というと、

 村雨の露もまだひぬ真木の葉に
     霧たちのぼる秋の夕暮れ
              寂蓮法師(新古今集)

の歌が思い浮かぶ。霧が晴れて行く中に夕日が赤く射す瞬間は、確かに美しい。
 「水晴れて」という言い回しは日文研の和歌検索データベースではヒットしなかった。寂蓮の和歌の山の中の景色を水辺の景色に移し、小萩のまだ匂う季節に当てはめる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 秋の日の夕の河や晴れぬらん
     嵐に消ゆる雲霧の空

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。水辺の霧を読む典拠か。
 十句目。

   霧のぼる夕日がくれの水晴れて
 川そひ舟をさすや釣人      宗砌

 「水晴れて」で水辺が出たので、その景色を付ける。瀟湘八景の漁村夕照であろう。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 河づらにさをさし急ぐ釣人も
     岸の干がたに舟やよすらん

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「釣人(つりびと)」という言葉の典拠か。
 釣人(つりびと)という言葉は、日文研の和歌データベースでは

 かも川のかもの川瀬の釣人に
     あらぬ我が身も濡れまさりけり
              番号外作者(夫木抄)
 鷺のゐる舟かと見れは釣人の
     蓑しろたへにつもる白雪
              正徹(草魂集)

の二例がヒットする。
 十一句目。

   川そひ舟をさすや釣人
 笠にぬふ岩本菅のかりの世に   専順

 釣人の笠は岩本菅で編んだものだった。菅を刈るに仮の世と掛ける。
 この世を仮の世と割り切って、ひょうひょうと生きる釣り人は、『楚辞』の「漁父」を思わせる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 よをすげをいやしき賤がかりのよは
     笠のは伝ふ露ぞ袖ぬる

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。おそらく「仮の世」と「刈る」を掛けることの典拠であろう。

 風そよぐ篠の小笹のかりのよを
     思ふねざめに露ぞこぼるる
              守覚法親王(新古今集)

にも典拠がないわけではない。
 水辺の岩本菅は、

 おもひかは岩本菅を越す浪の
     ねにあらはれて濡るる袖かな
              番号外作者(続千載集)
 浪かかる袖となみせそ磯山の
     岩本菅のねにはたつとも
              番号外作者(新続古今集)

などの例がある。
 十二句目。

   笠にぬふ岩本菅のかりの世に
 のこる桜をかざす夏山      忍誓

 この世は仮の世ということで、桜の花も仮の華やかさにすぎず、いつしか散って夏山となる。
 桜は散っても自分はまだこの仮の世に、簑笠に身をやつしながら生き永らえている。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 桜ちる山路の雨に立ちぬれて
     尋ねもやせん春の行く方

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。何の典拠かよくわからない。
 十三句目。

   のこる桜をかざす夏山
 手向して春や行きけん神まつり  行助

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、賀茂祭とある。賀茂祭は卯月の酉の日に行われ、初夏のものになる。
 「本歌連歌」の本歌は、

 さを姫の神こそ春の手向なれ
     ちれる桜をぬさとはやせば

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。神の手向けの桜を詠む典拠か。
 神祇の桜と言えば、

 ゆふたたみ手向けの山の桜花
     ぬさもとりあへず春風ぞ吹く
              九条道家(新千載集)

の歌があるが、八代集よりはかなり後になる。
 十四句目。

   手向して春や行きけん神まつり
 苗代垣の道の一すぢ       心恵

 卯月の賀茂祭の参道は、まだ田植前の苗代の稲の緑に育つ中の道になる。
 近世だと『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻三十句目に、

   堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり    芭蕉

の句がある。
 「本歌連歌」の本歌は、

 かよふ人野守の道はさまざまに
     苗代垣の末のとほさよ

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「苗代垣」の典拠であろう。
 苗代垣というと、

 しめはふる苗代垣のけしきまで
     植ゑむ田面のほどぞ知らるる
              藤原俊成(俊成五社百首)

の歌があるにはある。
 十五句目。

   苗代垣の道の一すぢ
 賤が屋に靡く霞は煙にて     宗砌

 賤が屋にも今日も煙が立ち、ちゃんと飯が食えていることが知られる。賤が屋の炊飯の煙は春の霞のようにお目出度い。苗代の稲も育ち、今年も豊作を祈るのみ。
 「本歌連歌」の本歌は、

 雲まよふ春されさむし山陰に
     煙ほのかに見ゆる賤が屋

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「賤が屋」の煙の典拠であろう。
 「賤が屋」という言葉はないが、賤の煙を詠んだものに、

 うきわざを柴屋のけぶり山陰に
     たな引くさへもしづのをだ巻
              正徹(草魂集)

の歌がある。
 十六句目。

   賤が屋に靡く霞は煙にて
 今はたこゆる年ぞにぎはふ    専順

 霞を春の初霞として新年の賀歌とする。

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

   貢物許されて國富めるを御覧じて
 高き屋に登りて見れば煙立つ
     民のかまどはにぎはひにけり
              仁徳天皇(新古今集)

で、賤の煙を賀歌に詠む典拠となる。
 十七句目。

   今はたこゆる年ぞにぎはふ
 花薄末葉ほのめく秋の風     忍誓

 秋の風が花薄の穂を越える、とする。

 風越ゆる十市の末を見渡せば
     雲にほのめく小野の茅原
              賀茂季保(正治後度百首)

の歌がある。
 「本歌連歌」の本歌は、

 山賤の梢嵐のゑのこ草
     今はた越えてほに出づるらし

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「風にほのめく」の典拠だろうか。
 ゑのこ草は、

 ゑのこ草をのがころころ穂に出でて
     秋おく露の玉やとるらむ
              藤原為家(夫木抄)

に用例がある。
 十八句目。

   花薄末葉ほのめく秋の風
 袂涼しくうつる稲妻       行助

 秋風に遠い稲妻の光りが袂を照らすと、秋も涼しい季節となる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 秋の野の草の袂が花すすき
     ほに出てまねく袖と見ゆらむ
             在原棟梁(古今集)

だという。
 薄の揺れる姿が人を招いているように見えるという趣向は、俳諧でもしばしば見られるもので、その典拠となる歌には違いない。

 村すすきまねくをみれは出でやらで
     秋のほならす野べのいなづま
             正徹(草魂集)

の歌もある。
 十九句目。

   袂涼しくうつる稲妻
 月にしけ宵のまどほの小夜衣  宗砌

 「まどほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「ま-どほ 【間遠】
  名詞
  ①間隔があいていること。
  ②編み目や織り目があらいこと。」

とある。

 須磨の蜑のしほやき衣をさをあらみ
     まどほにあれや君かきまさぬ
             よみ人しらず(古今集)
 須磨の蜑のまどほのころも夜や寒き
     浦風ながら月もたまらず
             藤原家隆(新勅撰集)

などの用例がある。蜑の衣として詠まれることが多い。
 須磨の月と言えば在原行平か『源氏物語』須磨巻かというところだが、「まどほ」という言葉はそうした須磨の配流か隠棲で配所の月を見るイメージで、海士のまどほの衣を敷いて稲妻の宵に月を待つ、ということになる。
  『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 有明の月待つ宿の袖の上に
     人だのめなる宵の稲妻
             藤原家隆(新古今集)

の歌を引いている。
 「本歌連歌」の本歌は、

 夕されの春間になびく稲妻は
     袂涼しくうつる秋風

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。稲妻の袂涼しくに宵を付ける典拠か。
 ニ十句目。

   月にしけ宵のまどほの小夜衣
 君がおき行く暁はうし     忍誓

 在原行平の海女との恋のイメージで、後朝を付ける。宵の小夜衣に、暁と違えて付ける。
 「本歌連歌」の本歌は、

 暁のうき別れをばしらずして
     逢ふはうれしき宵の手枕

で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」とある。『和歌集心躰抄抽肝要』は二条良基。
 正式な歌集にはないが、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌とするなら、和歌検索データベースでヒットしないのも当然だろう。
 宵に逢う嬉しさに、暁の憂きを対比させる趣向の典拠となる。
 二十一句目。

   君がおき行く暁はうし
 霜枯の野上の宿を名残にて   心恵

 野上はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野上」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 野の上の方。
  ※俳諧・望一後千句(1652)三「うつなく野かみをさはき狂ひ出て とらへをきしもいまたあら駒」
  [2] 岐阜県不破郡関ケ原町の地名。古代、東山道の重要な宿駅。壬申の乱では大海人皇子の本陣があった。」

とある。宿というからには[2]の意味か。近世でも中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿になる。旅体に転じる。
 「本歌連歌」の本歌は、

 冬がれの草の枕の別路に
     野上の宿の跡も忘れず

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「野上の宿」もヒットしないので、この言葉も俗歌の典拠であろう。
 「野上の里」の用例はいくつかある。
 二十二句目。

   霜枯の野上の宿を名残にて
 時雨関もる不破の山道     専順

 冬の野上の宿に時雨の不破を付ける。
 「本歌連歌」の本歌は、

 さゆる夜の軒のいたやにふる時雨
     明けても寒き不破の山みち

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 不破の関の時雨の典拠であろう。
 肖柏の和歌なので、この連歌より後になるが、

 真木の葉のなほいかならむ袖のうへを
     不破の関屋にふる時雨かな
             肖柏(春夢草)

の歌がある。

2022年3月30日水曜日

 染井吉野はまだまだ満開だが、今年は新月と重なっている。去年の今頃は満月だったが。
 久しぶりのオミ株の話題で、東京が四日連続先週比で感染者数が増えている。東京だけの特殊な状況によるものなのか、全国に波及するのか、今のところは何とも言えない。
 死者は去年の十月十四日に一万八千人を越えて、もうそろそろ二万八千人に届くかな。この冬ちょうど一万人という所で、大体例年のインフルエンザの死者数と変わらないレベルに収まった。インフルエンザの流行は今年もなかった。

 さて、春の連歌をもう一巻、『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)から、読んでみようと思う。今度は少し時代が遡って、宗砌の時代の連歌「賦何路連歌」、享徳二年(一四五三年)三月十五日の興行になる。
 時代的には享徳の乱の前年で、世の中は戦国時代に入りつつあった。享徳の乱がおきると、関東に古河公方が誕生し、関東が東西に分断されることになった。
 まだ平和で主要な連歌師がまだ都にいた頃だったからか、宗砌にもとに忍誓、行助、専順、心恵(心敬)など、そうそうたるメンバーが揃っている。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』(一九七九、新潮社)の島津注には、

 「野坂本、京大本には本歌連歌として、各句に本歌をあげるが、出典未詳のものが多く、この百韻の成立とのかかわりについては不審も多いが、一概に後人の偽作として退けられないので、頭注の末尾に本歌として掲げた。」

とある。
 基本的に連歌で本歌を取る時は、八代集の時代までの有名な歌を取るもので、雅語の正しい用例の典拠となる證歌を取る場合でも、八代集までの作者の歌が求められる。
 ところが、ニ十句目の「本歌」が『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、

 「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」

とあるところからすると、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌としたと思われる。
 この本歌連歌の本歌として掲げられている歌の多くは、日文研の和歌検索データベースでヒットしない歌ばかりなのも、勅撰集はもとより、通常の私歌集や歌合せや百首歌千首歌などの類にはない俗歌だとすれば納得できる。
 本来雅語ではない言葉を、俗歌を本歌に用いるというのが、「本歌連歌」の趣旨だったのなら、むしろ雅語の限界を越える意味で俗語を取り入れた、一種の俳諧だった可能性がある。
 とにかくこれは通常の連歌とはかなり異なるもので、正直言って厄介なものを引いてしまったなという感じがする。
 
 発句は、

 咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉    宗砌

 藤はその薄紫の花の咲きっぷりが波のようだということで、藤波と呼ばれ、波に喩えられていて、

   家に藤の花の咲けりけるを、
   人のたちとまりて見けるをよめる
 わが宿にさける藤波立ちかへり
     すぎかてにのみ人の見るらむ
              凡河内躬恒(古今集)
 わがやどの池の藤波さきにけり
     山郭公いつか来鳴かむ
              よみ人しらず
 この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)

など、古くから歌に詠まれている。
 ここではその藤の裏葉が、さながら藤波の玉藻のようだ、とする。
 この発想はオリジナルではなく、日文研の和歌検索では「浪の玉藻」の使用例が、

 磯のうら浪の玉藻のなのりそを
     おのがねに刈るほととぎすかな
              番号外作者(夫木抄)
と、もう一首肖柏の歌があるが、肖柏はこの時代より後になる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 行く春のかたみに咲ける藤の花
     うら葉の色は浪の玉藻か

の歌を挙げているが、野坂本、京大本の「本歌連歌」として記されている歌であろう。出典はわからない。「浪の玉藻」が八代集の雅語ではないため、この言葉の典拠として、当時流布していた俗歌を用いた可能性はある。
 先に述べたように、従来の雅語の限界を越えるための、一つの実験だったとするなら、一種の俳諧と言えよう。
 脇。

   咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉
 春に色かる松の一しほ      忍誓

 松に藤は付け合いで、

 みなぞこの色さへ深き松がえに
     ちとせをかねてさける藤波
              よみ人しらず(後撰集)
 住吉の岸のふぢなみわがやどの
     松のこずゑに色はまさらし
              平兼盛(後撰集)

など、古くから和歌に詠まれている。お目出度い賀歌の体といえよう。
 「松の一しほ」は『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」で、

 ときはなる松の緑も春くれば
     いまひとしほの色まさりけり
              源宗干(古今集)

の歌が引かれているように、元から常緑の松も、春が来れば、なおひとしお緑になる、という意味で、

 それながら春はくもゐに高砂の
     かすみのうへの松のひとしほ
              藤原定家(新後拾遺集)

などの歌にも受け継がれているが、通常は正月の松のひとしほをよむものだが、句の方はそれを藤波の玉藻に松も「ひとしほ」とする。
 第三。

   春に色かる松の一しほ
 嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて  行助

 峰の雪が雨に融けて春が来ると、「松の紅葉」とも呼ばれる雪で白くなった峰の松も緑になる。
 松の紅葉は後になるが「新撰菟玖波祈念百韻」の九十二句目に、

   露分くる秋は末野の草の原
 雪に見よとぞ松は紅葉ぬ     友興

の句があり、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 雪ふりて年の暮れぬる時にこそ
     つひにもみぢぬ松も見えけれ
              よみ人しらず(古今集)

を本歌とする、としている。
 常緑の松は紅葉することはないが、雪で白くなればそれが松の紅葉だ、という意味。この白い雪が解ければ、松は緑の姿を取り戻す。今まで白かっただけに、ひとしお緑に見える。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 松たてる嶺の白雪消え初めて
     のどけき春に色やかるらん

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「消え初めて」の語は、

 この頃は富士の白雪消えそめて
     ひとりや月の嶺にすむらむ
              藤原良経(秋篠月清集)

の歌にも見られるが、用例はきわめて少ない。そのため俗歌を典拠にあまり使われなかった言葉を使ったのであろう。
 四句目。

   嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて
 霞にうすく残る月影       専順

 雪の消えた嶺には霞にうすくなった月が残っている。明け方の空とする。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 静かなる有明の月の春の夜は
     霞にこめて影ぞ残れる

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 この歌の場合は単語ではなく「霞に影が残る」という言い回しを、八代集の雅語以外を典拠に取り込む意図があったのだろう。
 五句目。

   霞にうすく残る月影
 鶯もまだぬる野べの旅枕     心恵

 心恵は心敬と同じ。
 明け方に残る月を見るのを、旅立ちの刻とする。鶯もまだ寝ているか、その声もない。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 春にきて幾夜も過ぎぬ朝戸出に
     鶯きぬる窓の村竹

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 似た歌には、

 鶯のよとこのたけのあさとでに
     いつしかいそぐおのが初声
              定為(嘉元百首)
 人はこぬみ山の里のあさとでに
     かたらひそむる鶯のこゑ
              宗良親王(宗良親王千首)

がある。この場合も単語ではなく、朝の旅立ちの鶯の典拠としての本歌だったのだろう。
 六句目。

   鶯もまだぬる野べの旅枕
 誰か家路も見えぬ明闇      宗砌

 「明闇」は「あけぐれ」。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「夜明け前のまだうす暗い時分。未明。
  出典枕草子 雪のいと高うはあらで
  「あけぐれのほどに帰るとて」
  [訳] 夜明け前のまだうす暗い時分に帰ると言って。」

とある。
 朝早い旅立ちはまだ明闇の頃で、誰の家へ行く道も見えない。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 おもひでの日影のかすむ春なれば
     家ぢの見えず成けり

で文字の欠落があるのか。日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 明闇(あけぐれ)は古い時代の用例も多く、雅語で間違いない。「家路も見えぬ」は日文研の和歌データベースでは『後鳥羽院御集』に一例、「家路の見えず」はゼロで、この言い回しが雅語ではなかったのであろう。
 七句目。

   誰か家路も見えぬ明闇
 真葛原帰る秋もやたどるらん   忍誓

 前句の家路が見えないのをあけぐれだけでなく、葛に覆われた原っぱだからだとする。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 うつろはでしばし篠田の森を見よ
     かへりもぞする葛のうら風
              赤染衛門(新古今集)

で、八代集の歌なので本歌とするには問題はない。
 葛葉の秋風に裏返るを古来和歌に詠んできたので、「葛」に「かへる」は縁語になる。
 葛の葉の「帰る」と「裏返る」の掛詞の典拠として、この歌を用いたのであろう。
 近世の、

 葛の葉のおもて見せけり今朝の霜 芭蕉

の句は、普通は裏を見せる葛がしおらしく面を見せているという意味で、背いてた嵐雪が芭蕉の元に戻ってきた時のしおらしい様子を詠んだ句だった。
 八句目。

   真葛原帰る秋もやたどるらん
 古枝の小萩なほ匂ふ比      行助

 真葛原をたどる頃は小萩の古枝も匂う。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 秋絶えぬいかなる色と吹く風の
     やがてうつろふ本あらの萩

で、

 秋たけぬいかなる色と吹く風に
     やがてうつろふ本あらの萩
              藤原定家(拾遺愚草)

の歌のことであろう。「秋たけぬ」は「秋闌ぬ」で秋も真っ盛りという意味。今日でも「宴たけなわ」という言い回しに名残をとどめている。
 「本あらの萩」は多数の用例があり雅語と見ていい。この場合は「萩のうつろふ」を「小萩なほ匂ふ」の典拠としたと見た方が良いのだろう。
 八代集の時代の作者なので、本歌とするには問題なさそうだが、有名な歌ではないから、ということか。

2022年3月29日火曜日

 まあ、プーちんもアメリカの権威失墜に成功したという意味では、目的の半分は達成したかな。あとは勝負で負けて試合に勝つってところなんだろう。欧米の建前だけの平和主義でロシアに有利な戦後処理をしたら、もう何か次の手を企んでいるんだろうな。
 自由主義と独裁国家の対立図式さえ残っていれば、ロシアにも中国にもやれることはたくさんある。まして、この対立図式で自由主義国家の世論を分断しているんだから、なおさらだ。
 戦いは終わらない。終わらせたくても向こうからやって来る。その都度譲歩して仮初の平和があっても、それはまたすぐに向こうから脅かしてくる。
 自由主義経済の繁栄を最初から捨てる気なら、奴らは何も恐れるものはないし、恐れる理由もない。庶民が飢餓に苦しんでいても、独裁者と指導者層が旨い物食えてれば、独裁国家は成立する。庶民が反乱を起こそうが、圧倒的な軍事力があれば却ってちょうどいい人口調整になる。
 どこで間違ってしまったんだろうか。近代資本主義は生産性を飛躍的に向上させ、いつでも物が溢れかえっていて、足りないもののない世界を作るはずだった。
 飢餓がなくなれば生きるために無理に争うこともなく、平和で自由で豊かな世界があるはずだった。
 結局自分が飢えているわけではなくても、自分より豊かな奴らがいるのは気に食わない。引きずり降ろしてやりたい。そうやって、後は適当な理屈をつけて、人の足を引っ張りたがる奴らが群れになる。
 絶対的貧困がなくなっても、人は相対的貧困に不満を持ち、妬み嫉みがいつしか世界を飢餓と戦乱の支配する世に引き戻して行く。
 それでも戦国時代にも連歌があったように、風流の道は終わらない。
 西鶴の『好色一代女』にこんな一節があった。

 「町人の末々まで、脇指といふ物差しけるによりて、言分・喧嘩もなくて治まりぬ。世に武士の外、刃物差す事ならずば、小兵なる者は大男の力の強さに、いつとても嬲られものになるべき。一腰恐ろしく、人に心を置くによりて、いかなる闇の夜も独りは通るぞとかし。」

 江戸時代が平和だったとはいえ、みんな丸腰で歩いていたわけではなかった。それからすると、今の日本の平和はやはり奇跡なんだ。これを守り切りたい。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き、挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   われも薄の穂に出づるころ
 朝露のおくての門田かたよりて  友興

 晩稲がようやく穂が出る頃、すすきの穂も出る。「かたよる」は穂が垂れて片方に寄ること。
 門田はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「門田」の解説」に、

 「〘名〙 門の近くにある田。家の前にある田。もんでん。かんどだ。
  ※万葉(8C後)八・一五九六「妹が家の門田(かどた)を見むと打ち出来し情(こころ)もしるく照る月夜かも」
  ※源氏(1001‐14頃)手習「門田の稲刈るとて、所につけたる、物まねびしつつ」
  [語誌]班田収授法の令制下で、「かきつた(垣内田)」と「かどた(門田)」には私有が認められた。垣をめぐらすことによって屋敷内の私有田と見なされるという、法の盲点をついた私有田確保の方策として生まれたもの。」

とある。
 八十句目。

   朝露のおくての門田かたよりて
 とこあらはなり鴫のなく声    玄清

 日本にいる鴫はタシギが多く、地面を掘って作った窪みに草を敷いた簡単な巣を作るという。門田の晩稲の片寄る頃には、門の外の普通の稲は刈られてしまい、巣があらわになる。

 夕されば門田の稲葉おとづれて
     芦のまろやに秋風ぞ吹く
              大納言経信(金葉集)

の歌は、百人一首でもよく知られている。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は

 わが門の刈田のおもに臥す鴫の
     床あらはなる冬の夜の月
              殷富門院大輔(新古今集)

の歌を引いて、本歌としている。
 八十一句目。

   とこあらはなり鴫のなく声
 かすかなる水をも月や尋ぬらん  恵俊

 冬枯れで水量が減って、鴫の巣があらわになったとする。ただ、川が干上がるだけでなく、それによって月も水に澄む(棲む)所がない、と洒落る。
 八十二句目。

   かすかなる水をも月や尋ぬらん
 すむをたよりと思ふ山かげ    長泰

 干上がった川ではなく、小さな池の幽かなるとして、月も映る。
 月も水に棲む(澄む)ように、我もまたこの池の水に頼って山陰で隠棲する。
 八十三句目。

   すむをたよりと思ふ山かげ
 松風にいまは心のならびきて   宗長

 松風の音の淋しさにもすっかり今は慣れてしまって、この山陰に長く住んでいるからだとする。
 「すむをたよりと思ふ山かげ」で「松風にいまは心のならびきて」と読んだ方がわかりやすい。「て留」の場合は、こういう後付けが許される。
 八十四句目。

   松風にいまは心のならびきて
 うつろふ花の残るあはれさ    宗祇

 前句を「いまはの心」、つまり「さよならの心」として、松風に散る花を付ける。
 八十五句目。

   うつろふ花の残るあはれさ
 はるばるとふるき宮このかすむ野に 兼載

 「ふるき宮こ」は近江京であろう。
 『平家物語』で平忠度の歌として知られる、

 さざ浪や志賀のみやこはあれにしを
     むかしながらの山ざくらかな
              よみ人しらず(千載集)

の心といえよう。この時代だと、応仁の乱後の京のことも思い浮かんだのだろう。
 八十六句目。

   はるばるとふるき宮このかすむ野に
 すさめしたれを春もこふらん   友興

 「春も」の「も」は力もで「春をこふらん」の強調。
 応仁の乱後の京だろうか、人の心も荒んで、誰が春を乞うだろうか、とする。
 八十七句目。

   すさめしたれを春もこふらん
 ほどもなく人に年こえ年くれて  宗祇

 前句の「すさめし」を疎遠になるという意味に取り成し、「去るものは日々に疎く」の心にする。
 人がなくなってから、何事もなく年月が過ぎて、また年が暮れ、悲しかった春もいつの間にかみんなが待ち望んでいる。
 八十八句目。

   ほどもなく人に年こえ年くれて
 ただ一夜のみかぎりとぞなる   宗忍

 今年も大晦日を残すのみとなる。今年も無事に一年過ぎてという何てこともない句だが、恋への転換を促す恋呼出しでもある。
 八十九句目。

   ただ一夜のみかぎりとぞなる
 おもはずもほのかたらひし旅枕  兼載

 「かたらふ」は恋の文脈では別の意味もある。旅の一夜の行きずりの遊びの恋とする。
 九十句目。

   おもはずもほのかたらひし旅枕
 夢をはかなみえやはわすれん   恵俊

 前句を夢で愛し合ったとし、儚く目覚める。
 九十一句目。

   夢をはかなみえやはわすれん
 露分くる秋は末野の草の原    宗長

 草の原の露は草葉の陰で、死を暗示させる。前句の「夢をはかなみ」を故人を偲ぶ句とする。
 九十二句目。

   露分くる秋は末野の草の原
 雪に見よとぞ松は紅葉ぬ     友興

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 雪ふりて年の暮れぬる時にこそ
     つひにもみぢぬ松も見えけれ
              よみ人しらず(古今集)

を本歌とする、としている。
 常緑の松は紅葉することはないが、雪で白くなればそれが松の紅葉だ、という意味。
 名残裏、九十三句目。

   雪に見よとぞ松は紅葉ぬ
 すさまじき日数をはやくつくさばや 慶卜

 「すさまじ」は秋の季語で、晩秋の吹きすさぶ冷たい風は、早く秋の残りの日数を終わらせようとばかり、雪まで降らせてくる。
 九十四句目。

   すさまじき日数をはやくつくさばや
 ながらへはてむわが身ともなし  宗坡

 いつまでも生きているわけではないから、すさんだ暮しを終わらせて、仏道に出も専念すべき時だが、それでも思い切れないというのが述懐の本意だ。
 九十五句目。

   ながらへはてむわが身ともなし
 君いのる人はとほくとたのむ世に 長泰

 君を単に主君とすると、臣下の私は長生きできないがという嘆きと賀歌の趣旨が合わない。
 ここの君は天皇の治世、君が代のことで、この国が永遠に続いてくれと祈るばかりで、わが残りの命は少なくても、と読んだ方が良いだろう。
 「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」七十六句目にも、

   身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代     心敬

の句がある。同様の心であろう。
 九十六句目。

   君いのる人はとほくとたのむ世に
 しまのほかまで浪よをさまれ   宗祇

 同様に、乱世がはやくおさまることを日本列島だけではなく、世界にまでも目を向ける。永楽帝亡きあとの明の情報もある程度日本に入ってきていたか。朝鮮半島も世宗(セジョン)の最盛期は終わっていた。
 九十七句目。

   しまのほかまで浪よをさまれ
 行く舟にあかでぞむかふ明石方  兼載

 前句の「しまのほか」を、明石の先は「やまとしま」ではないという古代人の見方として用いる。

 天さかる鄙の長路を漕ぎ来れば
     明石のとより大和島見ゆ
              柿本人麻呂(新古今集)

による。
 九十八句目。

   行く舟にあかでぞむかふ明石方
 夜ふくるままにきよき灯     宗長

 「灯」は「ともしび」。
 『伊勢物語』八十七段の芦屋へ行った在原業平の、

 「帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじの男、よむ、

 晴るる夜の星か河辺の蛍かも
     わが住む方の海人のたく火か

とよみて、家に帰り来ぬ。」

による。明石へ向かえば芦屋も通る。そこで芦屋の漁火を見る。
 九十九句目。

   夜ふくるままにきよき灯
 天津星梅咲く窓に匂ひ来て    友興

 前句の「きよき灯」を天津星とする。
 街の灯りのなかった時代の星月夜は真っ暗闇で、窓に咲く梅も姿は見えず、匂いだけが漂って来る。
 挙句。

   天津星梅咲く窓に匂ひ来て
 鶯なきぬあかつきの宿      玄清

 梅に鶯と言えばお約束の春の訪れ。月のない夜明けは元旦であろう。正月の訪れを以て、一巻は目出度く終わる。

2022年3月28日月曜日

 アメリカは結局独裁政治を容認する方針というわけか。そしてその中間に立つ半グレ国家も容認。それで世界平和が保てるなんて本気で思っているのかな。良くても従来の東西対立構造を維持。いつまた火を吹くかわからない状態に逆戻りだ。
 コサック兵は勇敢だが、ヤンキーはチキンというわけか。
 そういえばТінь СонцяにКозаки(コザーキ)という曲があったが、これだけ連日ウクライナのことが報道され、ウクライナに関心が集まっているのに、Козаки(英語でCossack)の話を聞かないのは何でなんだろうか。ウクライナ国歌にもкозацького родуとあるのに。
 ひょっとしてロシア革命の時に赤軍と戦い、あの時もウクライナを独立させようとしたということで、ロシアとロシア贔屓の左翼の間では封印された言葉になっているのか。
 コサックは自由人という意味で、彼らには自由の血が流れている。今のウクライナ兵の勇敢さは、間違いなく彼らの心の中にコサック魂があるからだろう。われわれサムライも負けてはおれんな。われわれも「かまわぬ」魂を。
 中世連歌を読み解くのには、やはり「述懐」という独特なテーマについて考えておく必要がある。これは江戸時代の俳諧では廃れてしまった。
 述懐は釈教と対を成すようなもので、釈教が出家して世を捨てることを説くものなのに対し、述懐は出家への思いはあっても現世に執着する心を描き出す。
 これは産業の未発達な時代に、嫡男以外の男が別の職を見つけるのが難しく、お寺がその受け口になっていたからだ。『曽我物語』でも、兄の十郎は家を継いだが弟の五郎は箱根権現に預けられる。
 家督を持つ側も、ある程度の年齢で引退しないと、息子嫡男の身分が定まらない。そういうわけで、ある年齢になったら出家して来世にに備えるというのが、当時の一般的なライフスタイルだった。
 嫡男はある年齢で出家、それ以外は若くして出家、それによって武家社会の限られたポストが維持されていた。
 だけど出家したくない、その欲求は時として親子兄弟で家督を廻る血で血を洗う争いに発展しかねない。だからこそ、その気持ちをなだめるのが、連歌の述懐の役割だったのではないかと思う。
 子供はたくさん生まれてくるが、所領を告げるポストは一つしかない。余剰な人口はもっぱら軍(いくさ)によって消費されるか、出家して子孫を残すことを断念するかだった。中世の顕密仏教は人口調整のための装置だったのではなかったか。
 江戸時代は都市の発達によって、二男三男でも都会に出て働くことができた。出家の必然性は薄れ、釈教は単なる信心の問題にすぎなくなった。それが述懐というテーマを衰退させ、同時に釈教も形骸化していった理由ではないかと思う。
 あと、「宗伊宗祇湯山両吟」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。

 三裏、六十五句目。

   雨夜のあさ日めぐるさとざと
 昨日より紅ふかき秋の葉に    友興

 秋は一雨ごとに紅葉も深く染まって行く。
 「秋の葉」という言い回しは、

 露すがる草のたもとの秋の葉を
     篠におしなみ渡る夕風
              藤原為家(為家千首)
 いかにせむ霜をまつまの秋の葉の
     よわきにつけてをしまるる身を
              藤原為家(夫木抄)
 松風の声をつたふる秋の葉も
     鹿のそのにやなびきそめけむ
              慈円(夫木抄)

などのわずかな用例があり、また、
 嵐山秋のはちらぬときは木も
     世のさかしるき雪の下折
              正徹(草魂集)
 山もとのかやか乱や秋のはの
     ちりし林の枝のしら雪
              正徹(草魂集)
 閨の上に秋のは落ちて待つ人は
     こすゑの鳥の声そかさなる
              正徹(草魂集)

など、正徹の和歌にも見られる。
 六十六句目。

   昨日より紅ふかき秋の葉に
 菊さくかげはちりもかうばし   長泰

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注によると、紅と塵が寄り合いだという。

 「『流木集』には「くれなゐの塵 紅塵紫陌とて都の事也。讃めて云へる詞也。都は塵も紅に、ちまたの道も紫也と云へり」とある。「紅塵」という名香もあった(『名香目録』)」

とある。
 この場合は菊の周りの落葉も真っ赤で、塵までが香ばしい、という意味になる。
 六十七句目。

   菊さくかげはちりもかうばし
 かずかずの世は長月の猶やへん  宗長

 前句を菊の節句(重陽)の祝言とする。
 「かずかずの世」は齢を重ねた長寿を意味し、寿命の長いと長月を掛ける。重陽は長月九日。
 六十八句目。

   かずかずの世は長月の猶やへん
 露をみるにも老が身ぞうき    宗祇

 祝言から一転して老の嘆きの述懐とする。
 六十九句目。

   露をみるにも老が身ぞうき
 風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍

 露は風に散って消える。風に誘われるは死を暗示する。この露のように儚く風に散ってしまうのかと思うと憂鬱になる。
 七十句目。

   風にだにさそはるるやと待つ暮に
 うはの空にはなどかすぐらん   恵俊

 「うはの空」は、

 玉梓はかけて来たれど雁がねの
     うはの空にも聞ゆなるかな
              よみ人しらず(金葉集)

の古い用例もある。
 中世の、

 あだなりやうはの空なる春風に
     さそはれやすき花の心は
              番号外作者(新後撰集)

の用法がこの句に近い。
 句の方も何に誘われるかは明記されてないが、花とか恋とかを仄めかすものであろう。
 七十一句目。

   うはの空にはなどかすぐらん
 をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清

 ホトトギスはウィキペディアに、

 「望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

とある。都に帰る旅路の半ばにホトトギスの「不如帰去」の声を聞けば、うわの空に通り過ぎるわけにもいかない。しかと聞き留めよ、ということになる。
 七十二句目。

   をちかへりなかば都ぞほととぎす
 みすはみどりの軒のたち花    兼載

 ホトトギスに橘とくれば、

 けさきなきいまだたびなる郭公
     花たちばなにやどはからなむ
              よみ人しらず(古今集)

であろう。
 都へ帰る旅の途中、ホトトギスが鳴いたので橘の軒の宿を借りる。本歌付けになる。
 七十三句目。

   みすはみどりの軒のたち花
 袖ふるる扇に月もほのめきて   宗祇

 これは、

 五月闇みじかき夜半のうたた寢に
     花橘の袖に涼しき
              慈円(新古今集)

だろう。涼しきを「袖ふるる扇」で具体化し、「夜半」も「月もほのめきて」と具体化する。
 七十四句目。

   袖ふるる扇に月もほのめきて
 まねくは見ずやくるる河つら   恵俊

 前句を、月が川面に沈んで半分になった姿を扇に喩えたとする。

 月かげの重なる山に入りぬれば
     今はたとへし扇をぞおもふ
              藤原基俊(新千載集)

の歌もあるように、扇の風の涼しさはしばしば夏の月に喩えられる。

 よそへつる扇の風やかよふらん
     涼しくすめる山のはの月
              洞院実雄(宝治百首)

の歌もある。

 月に柄をさしたらば良き団扇かな 宗鑑

の句も、こうした和歌の扇を月に喩える例からすればそれほど突飛なものでもなく、『去来抄』に、

 「魯町曰、月を団扇に見立たるも物ずきならずや。去来曰、賦比興は俳諧のみに限らず、吟詠の自然也。」

とあるのも、和歌の時代から月を扇に見立てる例があったからだと思うと、一時の流行ではないというのが納得できる。
 七十五句目。

   まねくは見ずやくるる河つら
 いそがぬをくゆるばかりの山越に 慶卜

 「くゆ」は「悔ゆ」で、山越えの長い道の途中の川で日が暮れてしまい、磯がなかったのが悔やまれる。
 七十六句目。

   いそがぬをくゆるばかりの山越に
 けふをはてなるあらましの道   宗長

 前句を死出の山越えとしたか。
 「あらましの道」はいつか仏道に入ろうという計画のことで、それを急がなかったために、臨終に間に合わなかった。
 七十七句目。

   けふをはてなるあらましの道
 涙などよわき心に残るらむ    宗仲

 これは出家の場面になる。出家をしようと思いは今日遂げられて果てとなる。ここでまだ俗世への未練の涙を流せば、弱い心が揺らいでしまいそうだ。
 七十八句目。

   涙などよわき心に残るらむ
 われも薄の穂に出づるころ    兼載

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 今よりはうゑてだに見し花すすき
     ほにいづる秋はわびしかりけり
              平貞文(古今集)

の歌を引いている。ススキの穂は侘しく、涙を誘う。

 われのみや侘しと思ふ花すすき
     穂にいづるやとの秋の夕暮れ
              源実朝(金槐集)

の歌もある。
 句の方は「我も」と並列の「も」を用いることで、自らの老いて白髪頭になった姿と重ね合わせる。

2022年3月27日日曜日

 あちこちで染井吉野がほぼ満開になった。
 まあ、民主主義国家においては、声を上げることは無駄ではないので、ウクライナに勝利を、世界に平和を。誰かさんも言ってたけど、今はロシア軍叩き潰すしかない。
 自民党から共産党まで揃ってウクライナ支持なら、それにこしたことはない。あとの泡沫政党はどうでもいい。このまま分断の時代が終わらないかな。
 ロシアがミャンマー軍事政権にすり寄っているなら、ミャンマーの民主化勢力や少数民族にも対戦車ミサイルを供給できないのかな。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。

 三表、五十一句目。

   爪木もとむる里のさびしき
 つららゐる垣ねの清水くみ捨てて 玄宣

 「つららゐる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「氷が張る。こおりつく。
  出典平家物語 五・文覚荒行
  「比(ころ)は十二月十日あまりの事なれば、雪ふりつもりつららゐて、谷の小川も音もせず」
  [訳] 季節は十二月十日過ぎのことであったから、雪が降り積もり氷が張って、谷の小川も水音一つしない。」

とあり、今日でいう「つらら(氷柱)」に限定されるものではない。ここでも清水が氷った様をいうもので、まあ、場所によっては氷柱もできているだろう。
 和歌でも用例は多く、

 照る月の光さえゆく宿なれば
     秋の水にもつららゐにけり
              皇后宮摂津(金葉集)
 つららゐし細谷川のとけゆくは
     水上よりや春は立つらん
              皇后宮肥後(金葉集)
 山里の思ひかけぢにつららゐて
     とくる心のかたげなるかな
              藤原経忠(金葉集)
 枕にも袖にも涙つららゐて
     結ばぬ夢を訪ふ嵐かな
              藤原良経(新古今集)

などがある。
 爪木求むるは山籠もりの僧の質素な暮らしで、西行の「とくとくの泉」のような、わずかな水の流れで生活している。その清水も冬になれば氷、それが解ける時に春が来れば、

 岩間とぢし氷も今朝は解け初めて
     苔の下水道もとむらむ
              西行法師(新古今集)

となる。
 五十二句目。

   つららゐる垣ねの清水くみ捨てて
 霜は下葉にむすぶ呉竹      宗祇

 呉竹は中国産のハチクのこと。

 おきまよひかさなる霜におどろけば
     わがよもふけぬ窓のくれたけ
              西園寺公経(道助法親王家五十首)
 霜結ふ窓のくれ竹風すぎて
     夜ごとにさゆる冬の月かげ
              西園寺公相(宝治百首)

など、冬の呉竹も和歌にも多く詠まれている。
 粗末な草庵ではなく、立派な庭の風景になる。
 五十三句目。

   霜は下葉にむすぶ呉竹
 風すぐる跡にさやけき夜半の月  兼載

 前句の所で掲げた西園寺公相の歌が本歌と言ってもいいような感じだ。
 本歌は八代集の時代までのものを良しとはされていたが、実際は中世の和歌も用いられている。はっきり本歌と意識しなくても、感覚的に近いため、似てきてしまうというのもあるかもしれない。
 五十四句目。

   風すぐる跡にさやけき夜半の月
 はつ雁いづら声ぞさきだつ    友興

 夜半の月で秋に転じたため、雁の飛来を付ける。
 初雁は声を詠むもので、あまり姿は詠まない。
 五十五句目。

   はつ雁いづら声ぞさきだつ
 見ぬ空も思ひやらるる秋の暮   慶卜

 「声ぞさきだつ」から姿を見てないということで「見ぬ空」と展開する。

 はつかりのなきこそわたれ世中の
     人の心の秋しうけれは
              紀貫之(古今集)

の歌の心か。
 五十六句目。

   見ぬ空も思ひやらるる秋の暮
 色付きぬらし霧ふかき山     玄清

 前句の「見ぬ空」を霧深くて見えない空とする。
 五十七句目。

   色付きぬらし霧ふかき山
 梢のみ旅のたどりを分くる野に  長泰

 霧の中で旅の宿を探すにも、近くの梢だけしか見えない。その枝は赤く色づいている。
 五十八句目。

   梢のみ旅のたどりを分くる野に
 ゆくゆくかはるをち近の里    宗祇

 「ゆくゆく」は漢詩の「行き行きて」と同様、旅などの淡々とどこまでも行く様を表す。
 梢の中の道をひたすら旅すると、その合間に見える遠近の里も変って行く。
 この巻の十四句目にも、

   そことなく末野のあした鳥鳴きて
 ゆくゆくしるき里のかよひ路   宗坡

の句があった。やや遠輪廻という感じがしなくもない。
 五十九句目。

   ゆくゆくかはるをち近の里
 あだ人のをしへし道はそれならで 恵俊

 「ゆくゆく」には「やがて」という意味もある。
 浮気者の教えてくれた通い路はそれではない。あちこちの里に通い、しょっちゅう道が変わるからだ。
 六十句目。

   あだ人のをしへし道はそれならで
 たがおもかげにうかれきつらん  宗長

 浮気者の彼に直接呼びかける体で、あなたが来るべき所はここではないでしょっ、誰の俤を求めてそんなに浮かれてるの、とする。
 六十一句目。

   たがおもかげにうかれきつらん
 風かすむ春の河辺のすて小舟   友興

 前句の「うかれきつらん」を、舟が浮かんで流れてきたとして、「誰が俤に浮かれ」を導き出す序詞のように付ける。
 六十二句目。

   風かすむ春の河辺のすて小舟
 たまれる水にかはづ鳴くこゑ   兼載

 春の河辺には蛙が鳴く。蛙は井出の玉川など、清流のカジカガエルを読むことが多いが、河辺の蛙も、

 かへるべき道も遠きにかはづ鳴く
     河辺に日をもくらしつるかな
              赤染衛門(弘徽殿女御歌合)

の用例がある。
 六十三句目。

   たまれる水にかはづ鳴くこゑ
 山田さへかへすばかりに雪とけて 宗祇

 山田の蛙は、

 春雨にかはづ鳴くなりいそのかみ
     ふるの山田もときやしるらむ
              藤原信実(弘長百首)

など、いくつか用例がある。蛙が鳴くのは稲作の始まりの合図でもあった。
 六十四句目。

   山田さへかへすばかりに雪とけて
 雨夜のあさ日めぐるさとざと   玄宣

 雨上がりの朝、里の雪はすっかりなくなり、農作業が始まる。

2022年3月26日土曜日

 バイデンさんがポーランドのジェシュフを訪問するということで、月刊ムーの編集長の暮の予言を思い出しちゃったな。台湾有事の方は今の所当たってなくて、ウクライナの方は予言されてなかった。
 ウクライナの善戦の理由の一つに、一人でも操作可能な対戦車ミサイルにあるとも言われている。
 FGM-148ジャベリンはウィキペディアに、

 「主な目標は装甲戦闘車両であるが、建築物や野戦築城、さらには低空を飛行するヘリコプターへの攻撃能力も備える。完全な「撃ちっ放し」(ファイア・アンド・フォーゲット)機能、発射前のロックオン・自律誘導能力、バックブラストを抑え室内などからでも発射できる能力などを特長とする。
 ミサイルの弾道は、装甲車両に対して装甲の薄い上部を狙うトップアタックモードと、建築物などに直撃させるためのダイレクトアタックモードの2つを選択できる。最高飛翔高度は、トップアタックモードでは高度150m、ダイレクトアタックモードでは高度50m である。射程は、初期バージョンでは 2,000m で、最新バージョンでは 2,500m である。ミサイルは、赤外線画像追尾と内蔵コンピュータによって、事前に捕捉した目標に向かって自律誘導される。メーカー発表によれば、講習直後のオペレーターでも94%の命中率を持つという。」

とある。価格はUS$175,203US。
 NLAWもウィキ江ペディアに、

 「NLAWの特徴は、PLOSによる弾道補正によって高い命中精度を得ることができる点である。射手は射撃前に目標に対して3秒程度の照準・追尾を行い、射点から目標に対する距離・角速度を計測することで弾体の飛翔経路に関する情報を取得。その後発射された弾体は慣性航法装置でのジャイロや加速度計により算出される飛翔状況と前述で得た飛翔経路を照らし合わせ、誤差を補正しながら飛翔することで目標へ到達する。このため目標が移動している車両であっても、目標の未来予測位置を計算することで発射された弾体との交わる位置を導き出し、その経路に沿うようにして慣性航法によって飛翔することで命中させる。しかし飛翔経路は射撃前の追尾で得た未来予測位置のため、目標が急停止や不規則な動きを行っている場合は高い命中精度は期待できない。また、予期せぬ目標が出現した場合は追尾せずに即座に撃つことも可能である。」

とある。ユニット価格は US$30,000–33,000。
 一人で戦車に立ち向かえる兵器の普及が、地上戦の戦術を大きく変えつつあるのかもしれない。あるいは戦車の時代が終わるのではないかという声すらもある。
 デモ隊がこれを携帯したら、戦車が来ても怖くないかも。これが大量に出回るようになったら、フロンティアの独裁国家には脅威になるのではないか。民衆と軍隊との力のバランスが変わるかもしれない。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。

 二裏、三十七句目。

   心あさきを見えんかなしさ
 身こそあれ思ひすつべき花ならで 兼載

 「身こそあれ」は、

 花の香に心はしめり折りてみな
     そのひと枝に身こそあらねと
              和泉式部(和泉式部続集)

の歌に用例がある。身は実にに掛けて花と対比させ、花の香に枝を折って文に添えても、その枝に実がないなら自分もそこにはいない、といったところか。
 前句のあなたの心が浅いのはわかってますよ、ということで、身こそあれ、私は折って捨てられる花ではありません、と付ける。
 三十八句目。

   身こそあれ思ひすつべき花ならで
 たれにとはれん春のふる里    玄宣

 前句を、花を捨てられないように、自分もまた捨てることなく生き永らえようという決意とする。
 生きている限り花のもとのこの故郷を捨てたりはしない、たとえ誰も訪ねて来なくても。
 三十九句目。

   たれにとはれん春のふる里
 つれてこし友にはおくれかへる雁 宗長

 故郷に帰っても待つ人はいないと思うと、もう少し旅を続けようかと思う。
 そんな気持ちを遅れて帰る雁に託す。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 北へゆく雁ぞ鳴くなるつれてこし
     数はたらでぞ帰るべらなる
              よみ人しらす(古今集)
 この歌は、
 「ある人、男女もろともに人の國へまかりけり。
 男まかりいたりて、すなはち身まかりにければ、
 女ひとり京へ歸りける道に、歸る雁の鳴きけるを聞きてよめる」
 となむいふ

の歌を引いている。
 四十句目。

   つれてこし友にはおくれかへる雁
 あはれにくるる雲の行く末    恵俊

 先に帰る雁は雲の行末に消えて、日も暮れて行く。
 四十一句目。

   あはれにくるる雲の行く末
 山ふかくすむ人しるき鐘なりて  友興

 山深い里を旅人視点で眺める。こんな山奥にも人が住んでいて、お寺の鐘も鳴る。それを聞きながら、自分はまだ雲の行末へと旅を続ける。
 四十二句目。

   山ふかくすむ人しるき鐘なりて
 世をおどろけと月ぞかたぶく   盛郷

 盛郷は最初の一巡に顔を出さず、ここに一句のみ付けている。飛び入り参加か。
 入相の鐘を明け方の鐘に取り成すのはお約束とも言える。傾く月、西へ行く月は西方浄土の象徴でもある。
 人は皆西方浄土へ渡るものだと諭すかのように、山奥に明け方の鐘が響きわたる。

 あづま野にけぶりの立てるところ見て
     かへりみすれは月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(青葉丹花抄)

の歌を思わせる。
 四十三句目。

   世をおどろけと月ぞかたぶく
 心なき秋のね覚のいかなれや   玄清

 何か悪い夢でも見たのか、思わず意図せずはっと目が覚めると、月が傾いているのが見える。この世はみんな夢だと諭してるかのようだ。
 四十四句目。

   心なき秋のね覚のいかなれや
 たれにしほれと衣うつらん    宗祇

 前句の心なき寝覚めを砧の音に起こされたとする。李白の「長安一片月」のように、誰か愛する人のために衣を打っているのだろうか。

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

を思い起こしての付けで、恋に転じる。
 四十五句目。

   たれにしほれと衣うつらん
 我が身にやうらみもかぎる露のくれ 玄宣

 前句の「たれにしほれ」を反語として、自分だけのためにとし、我が身のみに恨みの涙とする。
 四十六句目。

   我が身にやうらみもかぎる露のくれ
 いのちもいつのあふ事かまつ   長泰

 前句の「うらみもかぎる」を恨みも今日限りにしようという、思い切る時の句として、「いつのあふ事かかまつ」と、待ってばかりもいられないという反語にする。
 四十七句目。

   いのちもいつのあふ事かまつ
 おろかにもいそがざらめや法の道 恵俊

 前句を命がいつまであるかわからないとし、仏法の道に急がないのは愚かだとする。
 四十八句目。

   おろかにもいそがざらめや法の道
 あつめてたかきいさごとぞなる  兼載

 「いさご」は真砂と同様砂のことで、

 塩釜の磯のいさごをつつみもて
     御代の数とぞ思ふべらなる
              壬生忠峯(玉葉集)

の歌がある。砂の数は齢の数に喩えられお目出度いもので、賀歌に多く詠まれる。
 ここでは早く仏道に入れば、憂き世の争い諍いを遁れ、それだけ長生きできるとする。
 四十九句目。

   あつめてたかきいさごとぞなる
 かげとほき山のをのへのひとつ松 宗祇

 高きいさごは高砂(たかさご)なので、尾上の松を付ける。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は

 かくしつつ世をや尽さむ高砂の
     尾上に立てる松ならなくに
              よみ人しらず(古今集)

の歌を引いている。
 五十句目。

   かげとほき山のをのへのひとつ松
 爪木もとむる里のさびしき    宗長

 爪木は仏道に入る者の山籠もりに詠まれるもので、普通に住むなら柴を刈ることになる。

 爪木とる谷の小松もふりにけり
     法のためにとつかへこしまに
              頓阿法師(草庵集)

の歌もある。

2022年3月25日金曜日

 日本がワールドカップ出場を決めたが、テレビが有料のDAZN独占なので、久しぶりにラジオで聞いた。運転手の頃はたまにラジオでサッカーを聞くこともあったが。
 橋下さんはようやく現状が認識できたようで何よりだ。意固地にならないところがこの人の良い所だ。
 ウクライナの難民がみんな早く故郷に帰れるように、みんなでウクライナ軍を応援しよう。
 「ロシアは侵略をやめろ」「国連憲章を守れ」「国際人道法を守れ」とあの党も言っている。世界中のみんなが声を上げ、それがウクライナ軍への多くの国からの武器供与や傭兵やさらには参戦に繋がれば、現実的にロシアの侵略を止める一番の力になる。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。

 二表、二十三句目。

   たたずむかげは春の山風
 晴れやらで霞をのこせ空の月   宗仲

 風が強いと霞は吹き飛んでしまう。春に月が朧にならずくっきりと見えるというのは、冬のように冷たい風が吹きすさぶ時だ。「のこせ」という言葉で、春が春らしく長閑の日々になることを強く祈る。

 今さらに雪降らめやもかげろふの
     燃ゆる春日となりにしものを
              よみ人しらず(新古今集)

の心と言っていいだろう。春なのに戦争に明け暮れる世に、早く長閑な日々を取り戻したいという願いがあったのかもしれない。
 二十四句目。

   晴れやらで霞をのこせ空の月
 ぬるとも雨としのぶ夜の道    宗祇

 空の月が霞んで夜が暗くなった方が良いということで、恋の通い路とする。たとえ雨に濡れるとも月の明るい夜よりはまし。
 なかなか良いシリアス破壊だ。
 二十五句目。

   ぬるとも雨としのぶ夜の道
 あとつくる雪には人をとひ侘びて 玄宣

 雪が降ると足跡が残って後を着けられてしまう。雨の方がまだいい。
 二十六句目。

   あとつくる雪には人をとひ侘びて
 おもふのみをやこころともせん  宗長

 雪に閉ざされ通うことができない。今はただ思い続けることだけが愛の印だ。
 二十七句目。

   おもふのみをやこころともせん
 やる文の数をつくしてよむ歌に  兼載

 古今集仮名序に、

 「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。」

とある。恋の歌も本当に恋しく思う気持ちがあって、それだけを尽くして詠む歌に本当の心がある。
 二十八句目。

   やる文の数をつくしてよむ歌に
 いつひとことのなさけをか見し  宗祇

 逆に偽りの文の愛の言葉ばかりで、本当の気持ちを見せてほしい、とする。恋が五句続き、次は他に転じなくてはならない。
 二十九句目。

   いつひとことのなさけをか見し
 山がつをとなりに憑む柴の庵   玄清

 山がつを和歌で詠む場合は、山がつは仙人のように春秋を知らず永遠の時間を生きるという文脈か、山がつとても花を愛しホトトギスに涙するという文脈か、自ら山がつに身を落としたという文脈のものが多い。

 春は梅夏にしなれは卯の花に
     なさけをかこふ山がつの垣
              源通親(正治初度百首)
 山がつのつゆのなさけをおくとてや
     かきほにみする夕顔の花
              源通親(正治初度百首)

の歌のように、垣根の花に山がつの情けは見られるのだが、和歌を知らず情けの言葉はない。
 まあ、この時代だから山がつはその土地の言葉しか知らず、都の言葉が通じないというのがあったかもしれない。
 『水無瀬三吟』七十五句目の、

    わすられがたき世さへ恨めし
 山がつになど春秋のしらるらん  宗祇

の句も、そうした都の文化を知らないという意味で、戦国時代になって実際に都人がリアル山がつに接する機会が増えたから、こういう感想になったのかもしれない。
 三十句目。

   山がつをとなりに憑む柴の庵
 すめばけぶりも木陰にぞ立つ   友興

 山暮らしだから炊飯の煙も木陰に立つ。
 三十一句目。

   すめばけぶりも木陰にぞ立つ
 風の間も落葉ながるる秋の水   恵俊

 「風の間」は、

 きのふ見て今日見ぬほどの風のまに
     あやなくもろき峰のもみぢ葉
              西園寺公経(続古今集)

の用例がある。風が吹いている間にという意味。
 風が吹いて葉が落ちればその落葉は川を流れて行く。山陰の庵に季節と景色を添える。
 三十二句目。

   風の間も落葉ながるる秋の水
 鹿鳴くたかね時雨ふるらし    兼載

 時雨は落葉を染め、風に散り、秋の水が流れる。峰には鹿が鳴く。
 時雨は和歌では秋にも詠む。大方紅葉を染める時雨の趣向になる。連歌では秋の季語と重ねることで秋の句になる。
 時雨の鹿は、

 神無月時雨しぬらし葛の葉の
     裏こがる音に鹿も鳴くなり
              よみ人しらず(拾遺集)
 龍田山もみぢの影に鳴く鹿の
     声もしぐれて秋風ぞふく
              宗尊親王(夫木抄)

などの歌がある。
 三十三句目。

   鹿鳴くたかね時雨ふるらし
 朝な朝なおく露さむく野はなりて 宗忍

 晩秋ということで、朝が来ると毎に野は露寒くなる。前句の高嶺では鹿が鳴き時雨が降ると違えて付ける。
 「朝な朝な」は、

 朝な朝な籬のきくのうつろへば
     露さへ色のかはり行くかな
              祐盛法師(千載集)

の用例がある。
 三十四句目。

   朝な朝なおく露さむく野はなりて
 なれこし月もあり明のころ    宗長

 月を見て夜を明かし、朝になったとする。

 夢の夜にになれこし契り朽ちずして
     さめむあしたに逢ふこともかな
              崇徳院(玉葉集)

の歌を知っているなら、後朝への取り成しを見越した恋呼出しになる。
 三十五句目。

   なれこし月もあり明のころ
 涙さへ袖の名残やしたふらん   長泰

 期待通り、後朝の句とする。
 三十六句目。

   涙さへ袖の名残やしたふらん
 心あさきを見えんかなしさ    慶卜

 袖に涙が見えると、気持ちが覚めたなんてとうてい思えない。すっかり気持ちが覚めたと思ってたのに、何で涙なんか出て来るのだろうか。

2022年3月24日木曜日

 染井吉野も二分咲きくらいになった。
 昨日のゼレンスキーさんの国会演説は、ニュースでは相変わらず細切れにしてよくわからないものになっているが、全文掲載のサイトもあるので改めて読み返してみた。
 チェルノブイリの話題から入ったのは、単に原発が脅威にさらされたというだけのことではなく、日本でも多くの人たちが故郷を離れて生活していることに思いを馳せて、非難したウクライナ人が無事に故郷に戻れるように、というメッセージに繋がるもので、全体がこのモチーフで構成されていた。

 「またこのウクライナに対する侵略の"津波"を止めるために、ロシアとの貿易禁止を導入し、また各国企業がウクライナ市場から撤退しなければならないです。その闘志がロシア亡命の同志になりますので、ウクライナの復興も考えなければならないです。」

というところに、津波のように襲い掛かってきたロシア軍を食い止め、撤退させ、

 「避難した人たちがそれぞれのふるさとに戻れるようにしなければならないです。日本のみなさんもきっとそういう住み慣れたふるさとに戻りたい気持ちがおわかりだと思います。」

と繋がる。
 ロシア軍を撤退させて、一刻も早く現状を回復させ、更には侵略を一切認めない国際的枠組みを現実的に機能させなくては、この国には平和は訪れない。
 日本にはロシア軍を撤退させる力はないが、その後の国際的枠組みについて、何らかの役割を果たしていかなくてはいけないと思う。国連そのものを作り直す必要があるし、それができないなら、自由主義国だけで国連に代わるものを作るしかない。
 幻に終わった太平洋集団安全保障構想があったが、NATOをウクライナはもとより民主化したロシアにまで拡大し、その一方で日米同盟を含む環太平洋の包括的な共同防衛体制を構築し、それらを統括する機構を作れば、独裁国家を孤立させることができるのではないかと思う。
 太平洋集団安全保障構想の頃は共産主義との戦いだったが、今の時代は独裁体制との戦いだ。

 それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。

 初裏。九句目。

   やどりもみえず人ぞわかるる
 むらあしのこなたかなたに舟さして 恵俊

 「むらあし」は『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注には、

 うちそよぐ水のむら蘆下折れて
     浦寂しくぞ雪ふりにける
              (忠度集)

を用例として挙げている。日文研の和歌検索データベースでは、ヒットしたのは、

 ふる雪のみつのむら蘆下折れて
     音も枯ゆく冬の浦風
              未入力(歌枕名寄)
 たた一木山さは水にふす松の
     葉分におふるこすけ村芦
              正徹(草魂集)

の二軒に留まる。そのうち『歌枕名寄』の歌の方は『忠度集』の歌と一致点が多く、これを本歌としたと思われる。
 句の方は、前句の宿りも見えない別れに、蘆の中で船と船が互いに去って行く情景を付けている。
 十句目。

   むらあしのこなたかなたに舟さして
 風わたる江の水のさむけさ    宗仲

 ここで『忠度集』や『歌枕名寄』の歌を本歌として、江の水に風を添えている。
 十一句目。

   風わたる江の水のさむけさ
 山かげや氷もはやくむすぶらん  宗忍

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

   元久元年八月十五夜和歌所にて
   田家見月といふことを
 風わたる山田の庵をもる月や
     穂波に結ぶ氷なるらむ
              藤原頼実(新古今集)

を引いている。
 山田の庵は山陰にあるもので、山陰の江の水も平地よりも水が氷るのが早い。
 十二句目。

   山かげや氷もはやくむすぶらん
 雪をもよほすをちかたの雲    慶卜

 雪もまた雲の中で結んだ氷だ。
 十三句目。

   雪をもよほすをちかたの雲
 そことなく末野のあした鳥鳴きて 正佐

 をちかた(遠方)に末野が付く。鳥が鳴くと雪が降るという言い伝えでもあるのか。
 十四句目。

   そことなく末野のあした鳥鳴きて
 ゆくゆくしるき里のかよひ路   宗坡

 「ゆくゆくと」は、

    なかされ侍りてのち
    いひおこせて侍りける
 君が住む宿の梢の行く行くと
     隠るるまでに返り見しはや
             道真 贈太政大臣(拾遺集)

などの用例があるが、漢詩の「行き行きて」を思わせる羇旅の体になる。
 末野の果てへと旅を続けると、朝には鳥が鳴いて、里へと続く道がはっきりと見えてくる。
 十五句目。

   ゆくゆくしるき里のかよひ路
 ながめつつ誰もねぬ夜や月の下  宗宣

 宗宣はこれが四句目に続き二句目になる。ようやく連衆が一順したのだろう。
 里の通い路を夜旅していると、今夜は月夜なので誰もが月を詠め、寝ている人はいない。
 十六句目。

   ながめつつ誰もねぬ夜や月の下
 をぎふく風をいかにうらみむ   宗祇

 宗祇も二句目になる。
 誰も寝てないせいか、あの人も通ってくることができない。ただ荻を吹く風の音の凄まじさを恨む。「うらみむ」は風に葉の裏返るのと掛ける。
 水無瀬三吟、二十句目の、

   いたずらに明す夜多く秋ふけて
 夢に恨むる荻の上風       肖柏

の句を思わせる。
 十七句目。

   をぎふく風をいかにうらみむ
 こころより袖にくだくる秋の露  友興

 袖に砕ける露は心の露で、涙のことになる。前句の「をぎふく風のうらみ」に掛かる。
 十八句目。

   こころより袖にくだくる秋の露
 いつはりになすおもひもぞうき  兼載

 袖を濡らす涙を、男の「いつはり」のせいというふうに展開する。「くだくるーおもひ」と繋がる。
 「おもひくだくる」は、日文研の和歌検索データベースだと、

 よるべなき人の心の荒磯に
     おもひくだくるあまの捨て舟
              未入力(延文百首)
 貴船川瀬々に浪よる白玉や
     おもひくだくる蛍なるらむ
              未入力(延文百首)
 誰によりおもひくたくるこころぞは
     知らぬぞ人のつらさなりける
              未入力(亭子院歌合)

の三件がヒットする。思い乱れるの強い言い回しで、ハートブレイクではない。露の玉の乱れるイメージと重ね合されている。
 十九句目。

   いつはりになすおもひもぞうき
 ありふればすてがたき世のやすらひに 宗長

 恋の悩みを述懐に転じるのはよくあるパターンではある。
 「やすらい」はためらいで、長生きはして死が近づいているとはいえ、世を捨てて出家するのもためらわれて、出家への思いも迷っているうちに嘘になってしまった。
 二十句目。

   ありふればすてがたき世のやすらひに
 はかなき年を身にやかさねん   玄清

 出家をためらっているうちに、今年もまだ無駄に一年過ぎてしまった。
 二十一句目。

   はかなき年を身にやかさねん
 もろくちる花と見ながら待ちなれて 長泰

 脆く散る花のように人の命は儚いもので、どうせもう長くないんだからと何もせずにいたら、何年もずるずると無駄な一年をすごすことになる。それを「待ち慣れて」という所が面白い。
 二十二句目。

   もろくちる花と見ながら待ちなれて
 たたずむかげは春の山風     恵俊

 「待ちなれてーたたずむ」と繋がる。山風の吹く中花の散る中を誰か来るのを待っている人を付ける。

   僧正遍照によみておくりける
 さくら花散らば散らなむ 散らずとて
     ふるさと人のきても見なくに
              惟喬親王 (古今集)

の心であろう。

2022年3月23日水曜日

 この前の地震で東北の火力発電所が止まったままで、東電は節電を呼びかけることになったが、そうなる前に何で再生可能エネルギーを拡充してこなかったのか。国民のエネルギーを人質に取って、勝手放題なことしやがって。
 でも日本ではヨーロッパは再生可能エネルギーの利用が進んでいるみたいに報道されてたけど、どうも一部の国だけだったことが暴露されてしまったみたいだね。再生可能エネルギーを使っておけば、ロシア何て怖くなかったんじゃなかったかな。
 まあ、今の石油価格高騰は再生可能エネルギーを広める絶好のチャンスなので、これを逃してほしくないな。麦価高騰も米を見直す絶好のチャーーーーンス。ピンチをチャンスに変える。これ大事。
 ゼレンスキーさんの日本での国会演説は無難に終わり、まあ日本には憲法第九条があるってことは知っているだろうから、過大な要求は無理というのはわかっていたんだろう。ひたすら好感度アップに終始していた感じがした。
 アジアで最初にとは言ってたけど、他が中国、北朝鮮、韓国じゃな。インドも動かなかったし。

 それでは宗祇さんの連歌をもう一巻、同じく『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)から「新撰菟玖波祈念百韻」を読んでいこうかと思う。
 明応四年(一四九五年)一月六日の興行で、湯山三吟の二年半四年後になる。
 「新撰菟玖波祈念」とあるように、これから『新撰菟玖波集』を作るぞという決意表明の興行で、制作発表のプロモーションと言ってもいいかもしれない。
 『宗祇』(奥田勲著、一九八八、吉川弘文館)によれば、『新撰菟玖波集』はこの年の四月から本格的に編纂が始まり、九月末に完成し、九月二十九日に勅撰に准じられたという。
 「准」が付くとはいえ、勅撰集を作るにはそれなりの身分の人の協力が必要で、ここでは三条西実隆が、『菟玖波集』の二条良基に相当する役割を果たすことになる。ただ、二条良基と違うのは、和歌は得意としたものの、連歌の方はそれほどでもなく、ここでも脇だけの参加になっている。
 発句。

 あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山  宗祇

 正月でまだ目出度い頃の新撰菟玖波祈念なので、筑波山の霞に春の目出度さを読むというのは、ほぼお約束と言っていいだろう。
 連歌の起源は日本武尊の東征のとき甲斐の酒折で交わした、

 新はりつくばをこへて幾夜かへぬる 日本武尊
 かがなべて夜には九夜日には十日よ 火燈しの童

の歌にあるとされていたので、連歌のことを菟玖波の道と呼んでいた。
 脇。

   あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山
 新桑まゆをひらく青柳      西

 西とあるのは三条西実隆で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注によれば、興行の二日前の一月四日に宗祇と話し合って決めた句だという。
 発句をあらかじめ伝えて置き、脇を事前に準備するのは、連歌はもとより俳諧でもそんなに珍しいことではなかった。即興の応酬は第三から始まると言ってもいい。
 新桑まゆはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「新桑繭」の解説」に、

 「にいぐわ‐まよ にひぐは‥【新桑繭】
  〘名〙 =にいぐわまゆ(新桑繭)
  ※万葉(8C後)一四・三三五〇「筑波嶺の爾比具波麻欲(ニヒグハマヨ)の衣はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲(ほ)しも」
  にいぐわ‐まゆ にひぐは‥【新桑繭】
  〘名〙 今年の蚕の繭。新しくとれた繭。にいぐわまよ。
  ※貫之集(945頃)七「今年生ひのにひくはまゆの唐衣千代をかけてぞ祝ひそめつる」」

とある。例文の万葉集の歌にも「筑波嶺の新桑まゆ」とあるように、筑波に縁がある。繭と眉を掛けて筑波嶺の新桑繭に青柳の眉も開く、とする。

 筑波嶺のにひくはまゆの絹よりも
     霞のころも春いそぐなり
              藤原家隆(洞院摂政家百首)

の和歌もあり、万葉集一四・三三五〇の歌も『夫木抄』に収録されている。
 第三。

   新桑まゆをひらく青柳
 春の雨のどけき空に糸はへて   兼載

 柳の糸は雨にも喩えられ、春雨に濡れた柳の芽は柳の色を更に映えるものにする。和歌でも、

 梅の花くれなゐにほふ夕暮れに
     柳なひきて春雨ぞふる
              京極為兼(玉葉集)
 ひろさはの池の堤の柳かげ
     みとりもふかく春雨ぞふる
              藤原為家(風雅集)
 
の歌があり、俳諧にも、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

の句がある。
 四句目。

   春の雨のどけき空に糸はへて
 しろきは露の夕暮の庭      玄宣

 糸には貫き留めぬ玉の露が付く。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注も、

 白露に風の吹きしく秋の野は
     つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
              文屋朝康(後撰集)

を引いている。
 春雨の雫を見ていると、空に糸が生えたかのように、夕暮れに庭に白い露を貫き留めている。
 五句目。

   しろきは露の夕暮の庭
 たち出でて月まつ秋の槇の戸に  玄清

 立ち出でて月を見るというのは和歌にも、

 雲の上の豊の明りにたち出でて
     みはしのめしに月を見しかな
              後深草院少将内侍(風雅集)

の歌もあるが、ここでは「立ち出でて待つ」とし、立待月のこととする。
 また、前句の「庭」に槇の戸と付けることで、場面を山奥に転じることになる。
 六句目。

   たち出でて月まつ秋の槇の戸に
 さ夜ふけぬとやちかきむしの音  玄興

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

   待恋といへる心を
 君待つと閨へも入らぬ槇の戸に
     いたくな更けそ山の端の月
              式子内親王(新古今集)

の歌を引いている。
 立ち出でて月を待っているうちに夜も更けて、近くで虫が鳴いている。初表なので恋の情はない。
 七句目。

   さ夜ふけぬとやちかきむしの音
 しらぬ野の枕をたれに憑むらん  長泰

 「憑む」は「たのむ」。
 旅で見知らぬ野を行くのに、誰の宿に泊まれば良いのか。宿が決まらないままに夜は更けてゆく。
 八句目。

   しらぬ野の枕をたれに憑むらん
 やどりもみえず人ぞわかるる   宗長

 当時の旅はまだ宿場も整備されてなくて、連歌師はその土地の領主を頼ることが多かった。
 次は誰の所にということも決まらぬままに、前の宿の人に送ってもらい出発するが、所領の境界まで来ると、見送りの人も帰ってしまい、知らない野に取り残されることになる。

2022年3月22日火曜日

 デモが力を持つとすれば、それは「これだけの人数が武器を取って戦ったらどうなるか思い知れ」というデモンストレーションだった時だけだ。
 ところが兵器の発達で近代初期のデモに比べてその効果は限定的になっている。連射式の銃の登場は一人で多くの人を殺害することが可能になった。戦争でも隊列を組んだ行軍から塹壕を掘っての戦いに戦術を変化させた。デモ隊という言葉もあるが、隊列を組んだ行進に威嚇の効果はなくなった。
 丸腰デモ隊が戦車と自動小銃の前にいかに無力だったかは、天安門事件が証明している。
 ゼネストという戦術はハンストのようなもので、自分自身に跳ね返ってくる捨て身の戦法になる。これは決意の強さをアピールするだけで、デモと同様、武力闘争になった時の軍のモラルの高さをアピールするにとどまる。
 動物の戦いでも威嚇だけで勝負を決めればお互い体を痛めつけずに済む。本来こうした民衆闘争は、実際に武装蜂起しなくても、威嚇だけで相手をひるませて、互いに兵の損失をなくすという知恵だったのだろう。
 ただ、兵器の進歩で軍隊と民衆との間に明白な装備の差が生じてしまったとき、威嚇が威嚇にならなくなってしまった。ウクライナが香港やミャンマーの真似をしなかったのは正しい。
 例え世界中で反戦デモが巻き起こったとしても、そのデモがその国の軍隊を動かす力がないなら、ロシア軍に対抗するすべもない。だから「反戦デモ」では駄目なんだ。「反ロシアデモ」でなくてはならない。
 ロシア人も平和デモで無駄に命を捨てない方が良い。デモを煽っている人たちは彼らがミンチにされても責任取れるのか。
 それにしてもマス護美はロシア軍快進撃の大本営発表ばかりだね。ロシア側の情報を報道し、ロシア贔屓の学者にコメントさせる。まあ、戦争でもコロナでも恐怖を煽れば売り上げアップってことかな。日本の大衆はそんな馬鹿ではないけどね。
 あと、『源氏物語』絵合巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。それと桐壺巻の方も少し書きなおしました。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。挙句まで。
 今この時期に連歌を読むのに特に意図はなかったが、よくよく考えると俳諧や源氏物語は平和な時代の文学だが、宗祇の時代の連歌は戦国時代の文学で、今の状況に合っているのかもしれない。名だたる武将をも虜にしたという連歌とは一体何だったのか。
 殺伐とした時代に忘れがちな人間の優しい心を、思い出させてくれるから、なのかもしれない。「たけきもののふのこころをなぐさめ」と古今集仮名序にもある。

 名残表、七十九句目。

   かへるやいづこすまの浦浪
 秋ははや関越えきぬと吹く風に   宗伊

 須磨の関もまた和歌に多く詠まれれいる。ここでは須磨の関を越えて行く流人とする。

 秋風の関吹き越ゆるたびごとに
     声うち添ふる須磨の浦波
               壬生忠見(新古今集)

の歌もあるが、秋風に関を越えるというと、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
               能因法師(後拾遺集)

の歌も思い浮かぶ。
 八十句目。

   秋ははや関越えきぬと吹く風に
 引く駒しるし霧の夕かげ      宗祇

 関はここでは逢坂の関のような山の中の関で、ひっきりなしに荷物を積んだ馬が通る。その姿が霧の中でもはっきりと見える。
 八十一句目。

   引く駒しるし霧の夕かげ
 とやだしのたかばかりしき一夜ねん 宗伊

 「とやだし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥屋出」の解説」に、

 「〘名〙 鳥屋ごもりをしていた鷹を、その時期が終わって鳥屋から出すこと。とやいだし。
  ※正治初度百首(1200)冬「暮ぬ共はつとやたしのはし鷹をひとよりいかが合せざるべき〈小侍従〉」

とある。
 ここでは鷹ではなく鳥屋出の鷹に掛けて「竹葉(たかは)」を導き出し、竹の葉を敷いた仮の寝床で一晩寝る、とする。駒引く人の仮の宿とする。
 八十二句目。

   とやだしのたかばかりしき一夜ねん
 月にとまるも山はすさまじ     宗祇

 前句を鳥屋出の鷹の「鷹場(たかば)」に一夜寝んということにして、月の照らす山に泊まるとする。
 八十三句目。

   月にとまるも山はすさまじ
 岩の上に身を捨衣重ねわび     宗伊

 岩の上に身を捨てる」というのは世捨て人となって岩屋で暮らすということで、「身を捨て」から「捨て衣」を導き出し、それを重ね着する。なぜなら山は冷(すさ)まじいからだ。
 捨て衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「捨衣」の解説」に、

 「〘名〙 着る人もなく打ち捨てられた衣服。また、一説に、死人に衣をそえて捨てること。
  ※後撰(951‐953頃)恋三・七一八「すずか山いせをのあまのすてごろもしほなれたりと人やみるらむ〈藤原伊尹〉」

とある。
 八十四句目。

   岩の上に身を捨衣重ねわび
 苔の下とも誰をちぎらん      宗祇

 岩窟の苔の中で誰かに恋して契りを結ぶことなどあるだろうか。
 八十五句目。

   苔の下とも誰をちぎらん
 この世だにあふせもしらず渡川   宗伊

 前句の「苔の下」を「草葉の陰」などと同様の死後の世界のこととして、生きてる間に逢えないなら、せめて来世でもこの川を渡って逢いに行きたい、とする。入水の暗示とも言えよう。
 「誰をちぎらん」は「あなただけですよ」という意味になる。
 八十六句目。

   この世だにあふせもしらず渡川
 涙の水のなほまされとや      宗祇

 逢うことのできない涙の水はこの川にも勝る。
 八十七句目。

   涙の水のなほまされとや
 引きとめぬ江口の舟のながれきて  宗伊

 江口の遊女に関しては、コトバンクの「世界大百科事典内の江口の遊女の言及」に、

 「…江口の地が史上にその名を知られるのは,交通の要衝であることから生み出された遊興施設の存在であり,なかでも観音,中君,小馬,白女,主殿をはじめとする遊女が,小端舟と呼ばれる舟に乗って貴紳の招に応じたことは,当時の日記が多く物語る。住吉社や熊野等への参詣時における貴族と遊女の交流の中から,芸能や文学が生み出されており,《十訓抄》に〈江口の遊女妙は新古今の作者也〉とみえるのをはじめ,《梁塵秘抄口伝集》に〈其おり江口・神崎のあそび女ども今様を唱その声又かくべつなり。(中略)昔は江口・神崎の流と云て,いま江口・神崎に有所の伝来の今様ハ〉等とある。…」

とある。『新古今集』の、

   天王寺に參り侍りけるに俄に雨降りければ
   江口に宿を借りけるに貸し侍らざりければよみ侍りける
 世の中をいとふまでこそ難からめ
     假のやどりを惜しむ君かな
                西行法師
   返し
 世をいとふ人とし聞けば假の宿に
     心とむなと思ふばかりぞ
                遊女妙

の問答や、謡曲『江口』でも知られている。古典の題材であり、この当時はどうだったかはよくわからない。
 前句の「涙の水」の水に掛けて、舟に乗ってやって来る江口の遊女の涙とする。
 八十八句目。

   引きとめぬ江口の舟のながれきて
 見れば伊駒の雲ぞ明け行く     宗祇

 江口は今の東淀川区の辺の淀川沿いで、東には生駒山がある。ここは景色と時候で流す。
 八十九句目。

   見れば伊駒の雲ぞ明け行く
 花やまづいとも林ににほふらん   宗伊

 「いとも」は強調の言葉で、今日でも「いとも簡単」という言い回しに名残がある。
 生駒の尾越しの桜は中世の和歌に頻繁に詠まれていて、

 難波人ふりさけ見れは雲かかる
     伊駒の岳の初桜花
               九条行家(弘長百首)
 伊駒山あたりの雲と見るまでに
     尾越しの桜花咲きにけり
               九条教実(夫木抄)
 咲きにけり雲のたちまふ生駒山
     花の林の春のあけほの
               藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。雲や林とともに詠むものだった。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『伊勢物語』六十七段を引いていて、そこでは雪が降った白い林を花に喩えて、

 昨日けふ雲のたちまひかくろふは
     花のはやしを憂しとなりけり

の歌が見られる。これが元になって歌枕になったのだろう。
 九十句目。

   花やまづいとも林ににほふらん
 春に声する鳥の色々        宗祇

 花の林に鳥の声は、

 暮れてゆく春の契もあさ明の
     花のはやしの鳥のこゑかな
               正徹(草魂集)

の歌がある。「花鳥」という言葉もあり花と鳥は対になるものだが、花の林に鳥は珍しい題材だったのだろう。
 九十一句目。

   春に声する鳥の色々
 袖かへすてふの舞人折をえて    宗伊

 雅楽の『胡蝶楽』であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胡蝶楽」の解説」に、

 「雅楽の曲名。高麗楽で、高麗壱越調(こまいちこつちょう)の童舞。四人の小童が背に胡蝶の羽をつけ、山吹の花を挿頭(かざし)にし、手に山吹の花枝を持って舞うもの。「迦陵頻」と対で舞われることが多い。平安時代、延喜六年(九〇六)または延喜八年宇多法皇が童相撲御覧の時、藤原忠房が作曲したという。舞は敦実(あつみ)親王の作。胡蝶。蝶。胡蝶の舞。〔二十巻本和名抄(934頃)〕」

とある。春に舞われた。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『源氏物語』胡蝶巻の、

 「春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。」

を引いている。
 作者の紫式部の胡蝶の舞は知っていて、それをもっと豪華にという所で物語の中で、童の数を倍の八人にし、残りの四人に鳥の舞を舞わせたのであろう。
 前句の鳥をその鳥の舞とすると、源氏物語のこの場面になる。
 九十二句目。

   袖かへすてふの舞人折をえて
 あそぶもはかなたはぶれも夢    宗祇

 胡蝶といえば『荘子』の「胡蝶の夢」。胡蝶も舞の感想のように、こうやって楽しく遊ぶのも、みんな夢なんだろうな、とする。
 名残裏。九十三句目。

   あそぶもはかなたはぶれも夢
 いくほどと命のうちをおもふらん  宗祇

 これから先どれほど生きられるかと思うと、遊んでも楽しみ切れないし、戯れてもどこか上の空になってしまう。
 九十四句目。

   いくほどと命のうちをおもふらん
 あすをまたんもしらぬ恋しさ    宗伊

 明日には死ぬかと思っても、恋しさは変わらない。
 九十五句目。

   あすをまたんもしらぬ恋しさ
 いたづらにたのめし月を独みて   宗祇

 前句の「明日を待たん」を単純に明日は通って来るかと愛しい人を待つ女心として、今日は月だから来てくれるだろうか、とする。
 九十六句目。

   いたづらにたのめし月を独みて
 秋風つらくねやぞあれ行く     宗伊

 月を見ていつかは来てくれると待ち続けて、また今年も秋が来て、年々閨も荒れ果てて行く。『源氏物語』蓬生であろう。
 九十七句目。

   秋風つらくねやぞあれ行く
 虫の音や軒のしのぶみにだるらん  宗祇

 「軒のしのぶ」というと、

 百敷や古き軒端のしのぶにも
     なほあまりある昔なりけり
               順徳院(続後撰集)

の歌も思い浮かぶ。
 宮中に限らなくても、荒れていく屋敷の軒端のしのぶにも昔を偲ぶ、となる。
 九十八句目。

   虫の音や軒のしのぶみにだるらん
 はのぼる露のたかき荻はら     宗伊

 「葉のぼる露」というと、

 草の原葉のぼる露をやがてまた
     しづくに見せて月落ちにけり
               飛鳥井雅縁(為尹千首)
 雨おもき籬の竹の折れかへり
     くたれ葉のぼる露の白玉
               藤原為家(藤河五百首)

などの歌がある。
 露というと萩の下露で、荻というと荻の上風だが、荻の葉のぼる露の発想は珍しい。
 九十九句目。

   はのぼる露のたかき荻はら
 閑なる浜路のしらす霧晴れて    宗祇

 荻はらを白洲の荻原として、水辺に転じる。霧が晴れて光が差し込むと、露がきらきら輝く。
 挙句。

   閑なる浜路のしらす霧晴れて
 島のほかまでなびく君が代     宗伊

 浜路の白洲は雅歌だと、真砂の砂の数を「君」の長寿に喩えることが多いが、ここでは霧が晴れてはるか遠くまで見渡せることで、「君」の支配する地域の広さとし、一巻は目出度く終わる。

2022年3月21日月曜日

 思うに、声そのものは大した力はない。大勢の人が声を上げた所で、それはただ音響的にうるさいというだけにすぎない。
 ただそれが憎悪の声となり、今にも物理的に、つまり暴力を以てして自分に掛かって来るのではないかという恐怖を与えた時、初めて力を持つ。
 デモ隊がいても、いくら数が多くても、おとなしく平和的にデモをしている限り、それが実際に何の圧力になるのか。こいつらがひょっとしたらみんな武器を持って反乱を起こすかもしれないとなった時、民衆の声というのは大きな意味を持つ。
 平和的なデモをやっている時に、一部が暴徒化するのを批判する人もいるが、暴徒化するくらいでないと、少なくとも警察や軍隊などの暴力装置に守られた人に恐怖を与えることはできない。
 暴徒化すれば、当然暴力によって鎮圧され、逮捕され、処刑される。その覚悟なしに力を持つというのは、結局無理なのではないか。
 江戸時代の百姓一揆も、首謀者は処刑された。ただ、その処刑と引き換えに要求が認められることも多かったという。百姓一揆というのも一つの取引だった。何の代償も払わずに要求を通すなんてことはできなかった。それはいつの世も同じなのかもしれない。
 自分を安全な場所に置いての抗議行動には元々大した力はない。だからといって大衆の支持のない暴力行為(テロ活動)は、権力の圧倒的な力の前に無駄死にに終わる。大衆も当然テロと戦う国家権力を支持する。だが、大衆が味方してくれるような暴力なら、勝ち取るものもある。
 今の人が長い平和の中でボケて忘れてしまったことではないかと思う。民衆運動が本当に力を持つというのは、いつでも暴力に変換できる時だけだったんだと思う。
 まあ、十五パーセントの人たちが蜂起したところで、返り討ちに合うだけだからやめた方が良い。残りの八十五パーセントが支持する国家権力に捻り潰されるだけだ。八十五パーセントの側の暴力なら国家を動かせるはずだが、今の時代はこの力を平和主義の名のもとに封じられていると言っていいのではないかと思う。香港もミャンマーも。そして、ロシアも中国も。
 ロシアの民衆も一度はレーニン像を引きずり降ろしている。でも今のロシア人はプーチンを引きずり下ろすことはできなかった。その平和主義の幻想に守られていたプーチンが、自らそれを壊した。さあ、これから世界はどうなるのか。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 三裏、六十五句目。

   行き過ぎかねついもが住かた
 草むすぶ枕の月を又やみん     宗祇

 妹のもとに帰りたい気もあるが、旅の虫がまたうずく。「草枕」を分解して「草むすぶ枕」とする。
 六十六句目。

   草むすぶ枕の月を又やみん
 やどれば萩もねたる秋の野     宗伊

 草を枕の文字通りの野宿をすれば、萩も添い寝する。萩は枝が枝垂れることから「臥す」ものとされている。
 六十七句目。

   やどれば萩もねたる秋の野
 露かかる山本がしは散りやらで   宗祇

 柏の露は「濡(ぬ)る、寝(ぬ)る」に縁がある。

 朝柏ぬるや川辺のしののめの
     思ひて寝れば夢に見えつつ
               よみ人しらず(新勅撰集)
 嵐吹く原の外山の朝柏
     ぬるや時雨の色にいでつつ
               西園寺実氏(道助法親王家五十首)

などの歌にも詠まれている。
 秋の野の野宿は柏の露にも寝(ぬ)れば、萩の露にも濡れる。
 六十八句目。

   露かかる山本がしは散りやらで
 ふりそふ霰音くだくなり      宗伊

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、

 閨の上に片枝さしおほひ外面なる
     葉廣柏に霰降るなり
               能因法師(新古今集)

の歌を引いている。
 「音くだく」という言葉は日文研の和歌検索だと二例ヒットする。

 霰降る谷の小川に風さえて
     とけぬ氷の音くだくなり
               未入力(建仁元年十首和歌)
 雲寒き嵐の空に玉散りて
     降るや霰の音くだくなり
               未入力(延文百首)

 六十九句目。

   ふりそふ霰音くだくなり
 寄る浪もさぞなかしまが磯がくれ  宗祇

 「さぞなかしま」は「さぞな鹿島」。

 浦人も夜や寒からし霰降る
     鹿島の崎の沖つしほかぜ
               二条為氏(新後撰集)

の歌があるように鹿島に霰は縁がある。鹿島神宮は海からやや離れていて、位置の鳥居は霞ケ浦の北浦にある。鹿島の崎はここではなく、銚子から見た利根川の対岸にある浜崎のことだという。
 七十句目。

   寄る浪もさぞなかしまが磯がくれ
 さほぢをゆけば川風ぞ吹く     宗伊

 佐保路は奈良の東大寺から西大寺を結ぶ一条大路の辺りで、コトバンクの「世界大百科事典内の佐保路門の言及」には、

 「…また,奈良市街北方の丘陵地を佐保山というが,元正・聖武天皇,光明皇后や藤原不比等・武智麻呂,大伴氏一族などが葬られており,奈良時代の葬地としては一等地であったらしい。なお,平城京一条大路は佐保大路とも呼ばれ,その東端に当たる東大寺転害(てがい)門は佐保路門と呼ばれていた。中世には,条里の里名に佐保里がみえ,これは現在の多門町付近に相当する。…」

とある。川風は佐保川の風か。
 東大寺には春日大社が隣接していて、鹿島大社と同じ武甕槌命が祀られていて、武甕槌命が鹿島から奈良に来る時に、白鹿に乗ってきたと言われている。そのため春日大社の鹿は神使として保護されている。
 佐保川の川の流れに遠い鹿島の磯を偲ぶ。
 七十一句目。

   さほぢをゆけば川風ぞ吹く
 ときあらふ衣やほすもしほるらん  宗祇

 衣を干すというと、

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
     衣干すてふ天の香具山
               持統天皇(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られている。天の香具山は飛鳥京の方で平城京の奈良からは遠いが、和歌の世界では一緒に扱われがちだった。

 佐保姫の名に負ふ山も春来れば
     かけて霞の衣干すらし
               藤原為家(続拾遺集)
 佐保姫の衣干すらし春の日の
     光に霞む天の香具山
               宗尊親王(続後拾遺集)

の歌のように、春日の佐保路で佐保姫の衣を干すという連想は別に変ではない。
 佐保姫の衣を干すが、湿った川風に却って湿ってしまったか、とする。
 七十二句目。

   ときあらふ衣やほすもしほるらん
 涙の袖をぬぎもかへばや      宗伊

 干してもすぐに濡れる衣を悲しみの涙の衣とし、そろそろ脱ぎ変えなければいけないと、思いを断ち切ろうとする。失恋の涙としてもいいのだが、恋の意図は明確ではない。
 七十三句目。

   涙の袖をぬぎもかへばや
 をしまじよ物おもふ身の春の暮   宗祇

 「をしまじよ」の上五は、

 をしまじよさくら許の花もなし
     ちるべきためのいろにもあるらん
               藤原定家(拾遺愚草)
 をしまじよくもゐの花になれもせず
     けふぬぎかふる春のころもて
               藤原家隆(壬二集)

など、和歌にも用いられる。花が散り春が行くのは本来惜しむべきものだが、それを惜しまないということろに、春らしい春の来なかった嘆きが表現される。
 憂鬱で悲しい春だったなら、春が行くのも惜しまない。早く夏の衣に着替えて、気分も一新したい。
 七十四句目。

   をしまじよ物おもふ身の春の暮
 よはひかたぶき月ぞかすめる    宗伊

 春が惜しまねばならないほど良いものでなかったのを、老化のせいとする。春の月は霞がかかって朧になるものだが、目が悪くなったこととも掛ける。
 七十五句目。

   よはひかたぶき月ぞかすめる
 おどろけば花さへ夢のみじか夜に  宗祇

 「おどろく」と「夢」はしばしば対になって用いられる。

 窓近きいささむら竹風吹けば
     秋におどろく夏の夜の夢
               徳大寺公継(新古今集)

 夢から覚めたようなはっとする感じを「おどろく」と表現するのは、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
               藤原敏行(古今集)

の発展させた用法なのだろう。秋風に驚くのは、夏の夢が覚めたからだとし、この用法は和歌の世界では定着してゆく。
 宗祇の句も春の花も短い夜の夢として、はっと夢から覚めておどろけば、いつの間にか年老いていた、となる。
 七十六句目。

   おどろけば花さへ夢のみじか夜に
 鳴きて過ぐなり山ほととぎす    宗伊

 春の花は夢と過ぎ去り、夏の短い夜ともなればホトトギスが鳴く。
 七十七句目。

   鳴きて過ぐなり山ほととぎす
 恋ひわぶる故郷人は音もせで    宗祇

 ホトトギスはウィキペディアに、

 「後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

とある。
 ついに長年の念願かなって故郷に戻ることができたが、そこは荒れ果てていて住む人もなく、ホトトギスだけが「不如帰去」と鳴いている。
 七十八句目。

   恋ひわぶる故郷人は音もせで
 かへるやいづこすまの浦浪     宗伊

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、『源氏物語』須磨巻の、

 「煙のいとちかくときどき立ちくるを、これやあまのしほやくくならんとおぼしわたるは、おはしますうしろの山に、柴といふものふすぶるなりけり。
 めづらかにて、

 山がつのいほりにたけるしばしばも
     こととひこなんこふる里人」

 (時々煙がすぐそばまで漂ってくるのを、これが海人の塩焼く煙なのかと思ってましたが、住んでいる所の後の山で柴を焼いている煙でした。
 ついつい見入ってしまい、

 山がつの庵で焼いてる芝しばも
     尋ねてきてよ都の人)

の歌を引いている。芝を焼くから「しばしばことこひこなん」を導き出す。
 宗伊の句の方は、前句を都の人がなかなか訪ねて来ないという意味にして、須磨での源氏の境遇を思い描いて、「かへるやいづこ」とする。

2022年3月20日日曜日

 今日は染井吉野が咲いているのを見た。河津桜もまだ散りきらぬうちの開花で、いろんな花が圧縮されて咲いている。
 アメリカやNATOがウクライナを見捨てたが、ロシアも今の所中国から見捨てられた状態で、思ったよりロシア軍が弱かったせいか、力が拮抗してしまった感じもする。
 やれ生物兵器だ化学兵器だ核開発だとわめいているのも、ネオナチ呼ばわりしているのも、負けた時の言い訳で、侵略ではなくテロとの戦いだったで逃げるつもりなんだろう。デマなので絶対に真に受けるな。
 マス護美の言葉だが、「一方的に主張」はデマを本当かもしれないと誤解させるための言葉で、「一方的に主張=デマ」でOK。
 NATOの東進説も「米帝」の存在を信じない人間には何の説得力もない。今はまだ世界中のパヨチンもだんまりを決め込むしかないだろうな。昨日のあれも基本的には同志に対しての、「まだもう少し黙っていろ」という合図だとも言える。
 ゼレンスキーさんのアメリカでの演説だが、真珠湾のくだりは、

 Remember Pearl Harbor, terrible morning of Dec. 7, 1941, when your sky was black from the planes attacking you. Just remember it.

 このあとに、911に関してこう続く。

 Remember September the 11th, a terrible day in 2001 when evil tried to turn your cities, independent territories, in battlefields, when innocent people were attacked, attacked from air, yes. 

 真珠湾に関しては「your sky was black」という詩的な表現と「attacking you」という単純な事実に留めているのに対し、911については「a terrible day」「evil tried」「innocent people were attacked」といった無垢な市民に向けた邪悪なという価値判断が入っている。
 多分これを読解力のない三文作家が読めば、この二つがごっちゃになっちゃうんだろうな。
 古谷経衡の「ゼレンスキー演説「真珠湾攻撃」言及でウクライナの支持やめる人の勘違い」という記事は特にひどい。
 何が駄目かって、まずゼレンスキー演説の文脈を無視してゼレンスキーが、あたかも真珠湾攻撃と911を同列に論じたかのように印象操作をしていることだ。これで右翼をいきりたたせ、ウクライナ支持層の分断を図る作戦なんだろう。
 ゼレンスキーさんのドイツでの演説はNATO加盟を拒絶した張本人相手だから、かなり厳しいことを言ってたね。エーベルバッハ少佐がこぐまのミーシャと戦ってた時代が懐かしい。結局この壁を壊すことは難しいんだって、それはピンクフロイドだっけ。

 After all it's not easy,
 Banging your heart against some mad bugger's wall.
    ('Outside The Wall'Pink Floyd)

 まさか西側の人間が壁を作る側に回るとは、あの頃は思わなかった。
 まあ、でも東西の壁をなくすのに一ついい方法がある。それはプーチンを排除してロシアが民主主義を回復したなら、ロシアをNATOに加盟させることだ。全部NATOになっちゃえば東西の壁はなくなる。

 あと、十六日の日記の延徳三年(一四九二年)は(一四九一年)の間違いでした。気をつけます。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 三表、五十一句目。

   みちくるしほの山ぞくもれる
 朝ごとの梢をそむつ秋の霜     宗伊

 毎朝降りる霜を満ち来る潮に喩えたか。秋の霜が毎日のように降りれば、梢の紅葉も色を増し、潮が満ちて来るかのように地面や下草を白く染めて行く。
 「霜曇り」という言葉があり、「精選版 日本国語大辞典「霜曇」の解説」に、

 「〘名〙 霜の降るような寒い夜、空の曇ること。霜が雪、雨などと同じく、空から降るものと考えられていたところからの語。霜折れ。
  ※万葉(8C後)七・一〇八三「霜雲入(しもくもり)すとにかあらむひさかたの夜わたる月の見えなく思へば」

とある。
 霜が降りるのは山が曇るからだとする。
 五十二句目。

   朝ごとの梢をそむつ秋の霜
 いく夕露の野をからすらむ     宗祇

 朝の霜に夕露と違えて付けて、霜は梢を染めて露は野を枯らす。対句的なので相対付けと言った方が良いか。
 五十三句目。

   いく夕露の野をからすらむ
 哀なり床に鳴きよるきりぎりす   宗伊

 古語の「きりぎりす」はコオロギのこと。
 野の草が枯れればコオロギも棲家をなくし、床にやってくる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、

 秋ふかくなりにけらしなきりぎりす
     ゆかのあたりにこゑ聞ゆなり
               花山院(千載集)

の歌を引いている。
 五十四句目。

   哀なり床に鳴きよるきりぎりす
 夜寒の宿のいねがての空      宗祇

 床に鳴くコオロギを聞いたのを、旅の宿での眠れない一夜とする。
 五十五句目。

   夜寒の宿のいねがての空
 とひくべき夢は月をやうらむらん  宗伊

 あの人がやって来るのをせめて夢にでも見たいというのに、夜寒の上に月は空に煌々と照って眠れない。
 五十六句目

   とひくべき夢は月をやうらむらん
 みゆるとすればかへる面かげ    宗祇

 見る夢は来てくれる夢ではなく、帰って行く夢ばかりだ。
 五十七句目。

   みゆるとすればかへる面かげ
 なき跡にたくかのけぶり又立てて  宗伊

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注に「反魂香の心なるべし」という西順注(江戸時代の注)を挙げている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「反魂香・返魂香」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (中国の漢の武帝が李夫人の死後、香をたいてその面影を見たという故事による) 焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現わすことができるという、想像上の香。武帝の依頼により方術士が精製した香で、西海聚窟州にある楓に似た香木反魂樹の木の根をとり、これを釜で煮た汁をとろ火にかけて漆のように練り固めたものという。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※宴曲・宴曲集(1296頃)三「いかなる思ひなりけん、反魂香に咽びし、煙の末の面影」 〔白居易‐李夫人詩〕
  [2] 謡曲。
  [一] 鎌倉の商人何某の娘は、去年都へのぼったままの父を慕って都へいそぐ途中、尾張の宿で旅の疲れのために死ぬ。折しも同じ宿のとなりの部屋に泊まり合わせていた父がこれを知り、森の御僧と呼ばれる高僧のもとに娘の死体を運んで回向を頼む。父が僧から譲られた反魂香を焚くと娘の亡霊が現われる。廃曲。不逢森(あわでのもり)。
  [二] 闌曲の一つ。観世流。(一)のクセの部分を謡物として独立させたもの。漢王が李夫人の死をいたみ反魂香を九華帳の中に焚くと、夫人の姿が現われる。
  [語誌]白居易「李夫人詩」を通して日本の文学も早くから影響を受け、「源氏物語‐総角」の「人の国にありけむ香の煙ぞいと得まほしく思さるる」をはじめ、「唐物語」、謡曲の「花筐」や「あはでの森」などに見られる。さらに近世には反魂香の趣向をいれた歌舞伎「けいせい浅間嶽」が大当たりをとったところから、浅間物と称される同趣向の浄瑠璃、歌舞伎などが数多く作られた。」

とある。
 この本説を取らなくても、仏前に香を焚いて故人の俤を見るという追善の句になる。
 五十八句目。

   なき跡にたくかのけぶり又立てて
 仏やたのむ声をしるらむ      宗祇

 同じく追善の句で、仏様に祈る声を亡き人は聞いてくれるだろうか、とする。
 五十九句目。

   仏やたのむ声をしるらむ
 老いてなほくる玉のをのかずかずに 宗伊

 年とってもやはり死にたくないもので、魂を繋ぎとめている緒を手繰り寄せて生に執着する。そんな衆生の声を仏様は知っているのだろうか。
 いくら仏さまに祈っても、やはり死は逃れられない。
 六十句目。

   老いてなほくる玉のをのかずかずに
 落つるもいく瀬滝のみなかみ    宗祇

 滝の落ちる水は、雫の玉を糸が貫き留めている様に喩えられる。

 なつひきの滝の白糸繰りはへて
     たまのを長く貫けるしらたま
               藤原家隆(壬二集)

 老いてなお生に執着する気持ちは、滝の上の水のようなもので、いつかは落ちて行くものだ。

 玉のをの長かりけるも春の日の
     暮れかたきこそ思ひしらるる
               正徹(草魂集)

の歌もある。春の日の長いと言ってもいずれは落ちて行く。
 六十一句目。

   落つるもいく瀬滝のみなかみ
 龍のぼるながれに桃の花浮きて   宗伊

 鯉は瀧を登り龍となる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鯉の滝登り」の解説」に、

 「① (「後漢書‐党錮伝・李膺」の「以二声名一自高、士有レ被二其容接一者、名為二登龍門一」、およびその注の「三秦記曰、河津一名龍門、水険不レ通、魚鼈之属、莫レ能レ上、江海大魚薄二集龍門下一数千、不レ得レ上、上則為レ龍也」による語。黄河の急流にある龍門という滝を登ろうと、多くの魚が試みたが、わずかなものだけが登り、龍に化すことができたという故事から) 鯉が滝を登ること。
  ※虎寛本狂言・鬮罪人(室町末‐近世初)「山をこしらへまして、夫へ滝を落しまして、鯉の滝上りを致す所を致しませう」
  ② 人の栄達、立身出世のたとえ。→登龍門。
  ※評判記・吉原人たばね(1680頃)ながと「なかとの君を、こいのたきのほりと出ぬれ共」

とある。
 登った先にはきっと不老不死の桃の咲く仙境があるのだろう。
 六十二句目。

   龍のぼるながれに桃の花浮きて
 うつるみの日のはらへをぞする   宗祇

 「みの日のはらへ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「巳の日の祓」の解説」に、

 「中国の故事にならって三月の最初の巳の日に行なった祓。人形(ひとがた)に、身についた罪・けがれ・わざわいなどを移して川や海に流し捨てたもの。上巳の祓。《季・春》
  ※大鏡(12C前)五「三月巳日のはらへに、やがて逍遙し給とて」

とある。今日のひな祭りの元となっている。
 干支では辰の次が巳。龍が昇っていた後は巳の日となり、桃の花を飾って巳の日の祓をする。
 六十三句目。

   うつるみの日のはらへをぞする
 ひぢかさの雨うちかすむかへるさに 宗伊

 「ひぢかさの雨」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「肘笠雨」の解説」に、

 「〘名〙 (後に「ひじがさあめ」とも。肘を頭の上にかざして笠のかわりとする以外にしのぎようがない雨の意) にわか雨。ひじかさのあめ。ひじあめ。
  ※宇津保(970‐999頃)菊の宴「ひぢかさあめふり、神なりひらめきて」

とある。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『源氏物語』須磨巻を引いている。須磨滞在中の巳の日の祓で陰陽師を呼んで御祓いをさせる場面があり、

 「うみのおもてはうらうらとなぎわたりて、行へもしらぬに、こしかたゆくさきおぼしつづけられて、

 やほよろづ神も哀と思ふらん
  おかせる罪のそれとなければ」

 (海面は光りに溢れ波風もおだやかで、この先どこへ行くとも知れず、過去や未来をずっと思っては、

 やおよろずの神も哀れに思うはず
     何一つ罪を犯してないので)

という状態だったところ、

 「とのたまふに、にはかに風ふき出でて、空もかき暮れぬ。
 御はらへもしはてず、たちさわぎたり。
 ひぢがさ雨とかふりきて、いとあわたたしければ、みな返り給はんとするに、笠もとりあへず、さるこころもなきに、よろづ吹きちらし、又なき風なり。」
 (なんて言っていたら、急に風が吹き出して空も黒い雲に覆われました。
 御祓いも中断して大騒ぎです。
 「肘笠雨」とかいうにわか雨が降り出し、みんな大慌てになれば、帰ろうにも笠を被る暇もなく、これまでにない予想もしなかったような強風が吹き荒れました。)

ということになった。
 この場面を想起させる『源氏物語』の本説付けになる。
 六十四句目。

   ひぢかさの雨うちかすむかへるさに
 行き過ぎかねついもが住かた    宗祇

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注には催馬楽による付けだという。

 「婦(いも)が門夫(せな)が門 行き過ぎかねてや我が行かば 肱笠の肱笠の雨もや降らなむ 郭公(しでたをさ)雨やどり笠やどり 舍りてまからむ郭公(しでたをさ)」

というもので、妹が家の門の前に来て、通り過ぎたくない、寄って行きたい、肱笠雨でも降らないかな、という歌だ。
 ここでは、肱笠雨が降ったのだから妹が住む方に寄っていこう、となる。

2022年3月19日土曜日

 マス護美も最近はロシア側の主張ばかりになってきている。恐れていたことが本当になりつつある。
 基本的にはレーニン帝国主義論に基づく米帝史観が相変わらず左翼の間に根強く、今回の戦争をロシア側の宣伝通り、NATOの東進(=米帝の拡大)が原因という立場を取っていることだ。そのためウクライナを永久にNATOから遠ざけ、非武装中立にすることで納得すべきだというものだ。もちろんここにはウクライナ人の意思は全く反映されていない。
 ウクライナを非武装中立にすれば、ロシアはウクライナをスルーしてヨーロッパの非NATO加盟国に同じ手を使えることになる。
 左翼の印象操作が実際どういうものなのか、一つの例としてネット上の「みんなのミシマガジン」の「ウクライナ侵攻について(藤原辰史)」を読んでみようと思う。藁人形ではなく実際にあるものを叩く必要がある。
 基本的には、ロシアの侵略は悪いことだが、我々も同じくらい悪いということで黙らせようという作戦だ。そのためにアメリカと日本と資本主義を悪に仕立て行くというお決まりのパターンが用いられている。日本に対する批判はこれもいつものことだが、誰ということもない実体のない藁人形を攻撃する。

 「第一に、ロシアの軍事行動は、純然たる国際法違反です。」

 これは大方ほとんどの人が同意していることで、まあ鈴木宗男という例外が多少いる程度のものだ。(「国際法は存在しない」と国会質問の場で発言して炎上した)

 「第二に、ロシアとロシア人を同一視してはならないことです。」

 これも多くの人が同意していると思う。筆者もロシアのメタルなどを取り上げて、ロシア人を嫌いにならないように説いてきた。ただ、マス護美はごく一部のロシア人への嫌がらせを過大に報道し、あたかもそのような圧倒的な世論が存在するかのような印象操作を行っている。
 特にツイッターに類するネットの書き込みというのは毎日無数にあるもので、その中に一つでもあれば、ネットでこういう声が上がっていると報道できる。ないなら作ればいいだけのことだ。
 マス護美はこうした手口を何度も用いている。震災の時に朝鮮人が井戸に毒を撒いたというツイットがあっただとか、まあ、一軒でもあったなら嘘ではないというレベル。コロナの時には自粛警察の神話を作り上げたが、筆者はその頃毎日仕事で外を出歩いていたが、そんなもの一度も見たことはない。マス護美はごく少数の声を大きな声であるかのようにでっちあげる。
 まあ、嘘だとわかっていても、方便として使えるものは何でも使うという考えなのかもしれないが。

 「第三に、プーチンは「クレイジーだ」「病気を抱えている」という言説には最大限の警戒心を持ちたいということです。」

 筆者も同感で、プーチンを心神耗弱で無罪にする気なのかと書いたこともある。
 まあ、この三点に関しては、ほとんどの国民は納得できると思う。ここで納得させといて、安全な考え方の人だと思わせておいて油断させるのも、作戦の一つなのだろう。

 「第四に、では、どういう背景を学ぶべきか。」

といいながらも、

 「以下は、新聞や雑誌や書籍を読んだり、あるいは、職場や別組織の研究会でロシアや中東欧の歴史学の専門家たちから学んだりした途中報告ですが、最低でも、NATOと欧米諸国の30年(つまり、冷戦終結後の軍事行為)を考えるべきだということをひしひしと実感します。」

と続ける。
 藤原辰史(以下敬称略)がどういう新聞や雑誌や書籍を読んだか大体見当がつく。その情報の内容の多くは「資本主義が悪いことをしてきた」という例だ。

 「たとえば、冷戦終結から約10年後の1999年3月、米国大統領のビル・クリントンは、ドイツ首相のゲアハルト・シュレーダーらと共に、ユーゴのセルビア系住民に対するNATOの空爆を国際連合の許可なく実行し、それを78日間にわたって続けました(コソヴォ空爆)。アルバニア人の虐殺を推し進めるユーゴのスロボダン・ミロシェヴィッチをヒトラーに見立て、ユーゴのアルバニア人への弾圧や難民流出を人道的破局である、という論理で空爆を仕掛けました。しかし、この空爆は、セルビア系による民族浄化をかえって悪化させたと言われています。」

 これはウクライナの問題と直接関係するものではない。関係ない問題を挿し挟んで議論を混乱させようというもので、筆者はこの問題にコメントするつもりはない。この手の関係ない情報がこの先何度も出て来る。

 「ロシア軍による民間人の殺害も、子どもをミサイルで殺すことも、自分こそが人道的で民主的であるというアピールも愚の骨頂ですが、欧米諸国がイラクやコソヴォで行なった蛮行もその評価から本来は逃れられるようなものではありませんでした。」

 過去を持ち出してロシアをさすがに免罪まではしないが、同類として発言する権利がないかのように言い立てる。これは左翼の常套手段だ。日本が侵略されたらどうするのかという今の議論に、いちいち日本は過去侵略戦争を行ったということを持ち出し、あたかも侵略を防いではいけないかのように議論する。
 北朝鮮の拉致問題でも、左翼はいちいち戦争中に日本が行った強制連行のことを持ち出してきて、北朝鮮を擁護してきた。
 これは例えば一度でも犯罪を犯した前科者は、犯罪にあっても黙っているべきだと言っているようなものだ。過去に犯罪を犯しても立派に更生した人はたくさんいるし、元やくざでも更生して立派な議員になった人もいる。これを一々過去をほじくり返して、「やくざが議員をやっている」と騒ぎ立てるようなものだ。

 「何度も繰り返しますが、以上のようなことがロシアの現在の侵攻に正当性を与えるのだと言っているのではありません。あくまで現状理解の背景に過ぎません。」

 はいはい、これはお約束の予防線。

 「イラク戦争で、アメリカ軍が空爆によってイラクの子どもたちを含む非武装の市民(空爆のバグダードで撮影を続けた綿井健陽監督の映画『Little Birds イラク戦火の家族たち』で、子どもを空爆で三人失った父が頭から血が流れ続け死にゆく子どもを抱えて「これが大量破壊兵器か!」と叫ぶシーンを思い浮かべます)を殺した罪が消えたわけではありませんし、消してはならないと思います。」

 これって映画でしょ。映画は歴史ではありません。記録映画であっても事実のほんの一部を切り取って誇張したものにすぎません。

 「このような歴史を踏まえることでようやく、私たちは、ロシアの蛮行を、欧米諸国から借りてきた人道主義者の仮面をかぶることなく、心の底から非難し始めることができると思うのです。」

 今問題なのは今であって、過去の歴史ではない。まあ、はっきり言って泥棒を非難するのに、泥棒の歴史を知る必要はないわな。ロシアの侵略を非難するのに歴史を知る必要はない。
 それにどんなに歴史を勉強したところで、歴史は検証できないし、人間の記憶は容易に変容する。
 「欧米諸国から借りてきた人道主義者の仮面」というのはいわゆる人権派意識高い系の人たちの話で、筆者のような肉体労働者上りの人間には何のことだか、って感じだね。そんなものと関係なく、みんな本能でロシアが悪いことくらいわかってるんだ。自分が思想で動いてるから他人も思想で動いているかって、それこそ偏見だ。
 まあ、少なくとも筆者は元からそんな仮面を被ってないから、心の底から非難する権利があるということだ。俺も人権派は嫌いだからね。

 「第五に、これは旧来の戦争観では追いつかない事態であること。」

 昔から世界は刻一刻と変化し、流転してやまないもので、同じ戦争は起こらない。起きるのはいつだって新しい戦争なんだ。旧来の常識で判断することはできない。

 「最後に、日本はすでに、ウクライナで起こっていることの当事者である、ということです。」

 これも当然のことで、日本だけでなく今や世界がウクライナを盾にして平和を貪っていると言っていい。この盾を失えばどこの国も平和を脅かされる可能性がある。日本も例外ではない。だから防衛について真剣に議論する必要がある。
 もちろん藤原辰史はそういう意味で言っているのではなく、日本もいろいろ悪いことをしてきたから黙れってことなんだろうね。

 「さらにいえば、いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちは、日本政府を批判する人間を排除し、気に入らない報道に介入して、気に入らない人物を左遷して、日本学術会議の会員から政府批判者を排除して、表現の自由を制限するような人たちを選んできた自分を、どう考えるのでしょうか。」

 これは誰のことを言っているのかな。
 「プーチンを批判する日本の選挙民たちは」が主語だよね。あんたはここに含まれてないってこと?プーチンを批判しないってこと?それとも「日本の選挙民」ではないってこと?ひょっとして外国籍?

 ×いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちは
 〇いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちのある種の人たちは

でしょ。
 述語は「どう考えるのでしょうか」だよね。
 で、何を?だけど、それが「日本政府を批判する人間を排除し、気に入らない報道に介入して、気に入らない人物を左遷して、日本学術会議の会員から政府批判者を排除して、表現の自由を制限するような人たちを選んできた自分を」だよね。
 筆者はこのような人たちを選んだ覚えがない。実際、自民党は政府批判をする人間を排除していないし、だからあんたも堂々と政府を批判してるんだろっ。
 日本共産党の綱領には、「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し」とあるけど、これは統一戦線に属さない人は排除されるという意味だよね。こういう党には投票しないようにしている。
 「気に入らない報道に介入して」は野党もやっている。「気に入らない人物を左遷して」は誰のことなのかよくわからない。有名な人なの?
 日本学術会議については、推薦された人をそのまま認めてたら、偏った思想の人ばかり集まっちゃったから、あれはしょうがないよね。べつに学術会議に入らなければ学問ができないだとか発表できないだとか、そんなことまったくないんだから、表現の自由や学問の自由とは何の関係もない。
 まあ、ここまで見れば何を言いたいかはわかるってもので、藤原辰史が「日本の選挙民たち」をひどく見下しているということだけははっきりした。しかも自分はそいつらとは違うんだというエリート意識を持っているってこともね。
 「日本の選挙民たち」はみんな米帝とそれと結託した日本政府に洗脳されて、わけもわからずにロシア人をぶっ殺せと言っている、そういう認識なのかな。
 まずはっきり言っておきたい。「米帝」なんてものは既に存在しないんだよ。アメリカもその同盟国も長いこと侵略戦争なんてやっていない。資本主義が必然的に侵略戦争を起こすというのは既に解決済みの問題で、今どき侵略戦争をするのは資本主義を国家権力で支配しようとする独裁国家に限定されているんだよ。
 だから、日本でもそういう政治はやってはいけない。国家権力が資本を支配下に置こうなどと考えてはいけない。資本は市場原理にゆだね、国家の介入は最低限にするという新自由主義が今の所最善だということを知るべきだ。

 「恐怖と直面してもなお言葉を発する人びとを雑多で多方向的な言葉で支えながら、直線的でしかない現状を平面の世界へと変えるための「学び」を、微力ながら続けたいと思っています。」

 同じことだけど、「直線的でしかない現状」なんて存在するの?これこそが藁人形ではない?藁人形を叩いて気勢を上げているだけじゃない。
 「恐怖と直面しても」がロシアの圧力のことではなく、日本国内にそういう圧力があると思ってるんだったら、それは被害妄想に近いね。
 まあ共産主義が嫌われているのは、さすがに時代に合わなくなってるのに、いつまでも古い思想にしがみついて、みんなの足を引っ張っているからで、昔の弾圧とは別物なんだよ。
 世界はもっと複雑でいろんな考えの人、いろんな立場の人がいるんだよ。昔の古い説をいつまでも引きずって、自分は大衆とは違うんだというエリート意識で物を言うのは今どき流行らないので、やめた方が良いと思う。

 「駄文を連ね、申し訳ありません。つい長くなってしまいました。こういうときこそ、心は煮えたぎっていたとしても、頭を冷やして、学ぶことの意味についてじっくり考えていきたいですね。」

 まあ、後半部分は本当に駄文だったね。まあわかっていればいいことだ。人に「知らないなら黙ってろ」というなら、必ず「お前は知っているのか」と突っ込まれるからね。だから「学ぶことの意味についてじっくり考えていきたいですね」と何となく無難に結んだような形をとる。
 人間はすべてを知ることはできない。だから人間は多かれ少なかれ無知だ。わからなくても生きていかなくてはならないし、生きてくために常に重要な決断をしなくてはならない。無知は何ら恥じることではないし、無知だから発言権がないというのは間違っている。
 とにかくこういう連中は「知らないなら黙ってろ」というのが常套句だ。こういう連中が権力を握れば「知らないなら投票するな」ってことになる。党の思想を学んだ者だけが投票できるように制度を変えていって、必ず独裁国家になる。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 二裏、三十七句目。

   雲風なれやかはる朝夕
 山里はいつか心のすまざらん    宗祇

 変化した止まない雲風に、山里に籠って心を落ち着けようにもなかなか難しい。「心のすまざらん」はここでは心から住むことができない、という意味になる。心付けになる。
 三十八句目。

   山里はいつか心のすまざらん
 秋ぞ涙に驚かれぬる        宗伊

 秋に驚くと言えば、

   秋立つ日よめる
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞ驚かれぬる
               藤原敏行(古今集)

ということになるが、むしろ杜甫の『春望』の、「感時花濺涙 恨別鳥驚心」の心であろう。
 戦火に山里に遁れても心はすっきりとしない。秋が来たのを涙ながらに驚く。
 この場合は「心の澄まざらん」になる。
 三十九句目。

   秋ぞ涙に驚かれぬる
 しのぶべき思ひを月に我みえて   宗祇

 隠していた恋心も、明るい月の下で涙する姿を見られてしまえば人に知られてしまう。涙ぐんでいたら急に差し込む月明りに驚く。
 四十句目。

   しのぶべき思ひを月に我みえて
 行けどもあはぬ夜こそ長けれ    宗伊

 前句の「しのぶべき思ひ」を隠していた思いではなく、女のもとに忍んで行く男の思いとする。
 月の光にこっそり行くつもりがバレてしまい、結局逢うことができず長い夜を悶々と過ごす。
 四十一句目。

   行けどもあはぬ夜こそ長けれ
 おぼつかな夢路いづくにまよふらん 宗祇

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、

 思ひやるさかひはるかになりやする
     迷ふ夢路に逢ふ人のなき
               よみ人しらず(古今集)

の歌を引いている。
 夢の中で魂があの人に逢い行くのだが、どこをどう迷ってしまったのか、いつまでたってもたどり着けない。
 夢ではありがちなもので、思うように足が動かなかったり、いつの間に場面が変わってしまったりして、なかなか目的を遂げることができないというのはよくあることだ。
 四十二句目。

   おぼつかな夢路いづくにまよふらん
 もろこしばかり遠ざかる中     宗伊

 前句の夢路を比喩として、二人の距離が唐土ほども遠ざかってしまっている、とする。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注の引いている、

 唐土も夢に見しかば近かりき
     思はぬなかぞはるけかりける
               兼藝法師(古今集)

の歌は、唐土は遠いようでも夢の中では二人の仲よりも近いというものだが、ここでは夢路にも迷う恋なら唐土ほど遠い、となる。夢路・唐土の縁を用いながらも独自の展開をしている。
 四十三句目。

   もろこしばかり遠ざかる中
 ふかく入る人やは出でんよしの山  宗祇

 恋の相手の男は出家して吉野に籠ってしまった。大峰を越えて熊野まで行ってしまえばもう戻っては来ないだろう、ということで、唐土ほどの距離の中となる。
 四十四句目。

   ふかく入る人やは出でんよしの山
 花にかさなるおくのみねみね    宗伊

 吉野が出たからには、下句であっても花に行くのは必然だ。もっともこの頃はまだ「花の定座」は確立されてなかった。
 吉野の桜に、これから深く入って行く大峰などの峰々を背景とする。
 四十五句目。

   花にかさなるおくのみねみね
 桜ちるあとのしら雲日は暮れて   宗祇

 前句の「花にかさなる」を桜の散った後の雲が、散る前の花の雲にイメージの上で重なる、とする。
 四十六句目。

   桜ちるあとのしら雲日は暮れて
 宿とひゆけば春雨ぞふる      宗伊

 桜散った後の花見の帰り道とする。
 四十七句目。

   宿とひゆけば春雨ぞふる
 誰が里にふしてかほさむ旅の袖   宗祇

 宿場の整備されていなかった時代の連歌師の旅は、その土地の館など有力者の家を頼って泊めてもらうことが多かった。「誰が里」はどの領主のところへ、ということだろう。連歌師のリアルな旅が感じられる。
 四十八句目。

   誰が里にふしてかほさむ旅の袖
 柴たきわぶる夜はふけにけり    宗伊

 前句をいつかは誰かの里に行って、と取り成して、今夜は野宿で柴を焚いて夜を明かす。
 四十九句目。

   柴たきわぶる夜はふけにけり
 千鳥たつあら磯かげに風吹きて   宗祇

 磯辺の野宿は流刑人などの風情になる。
 五十句目。

   千鳥たつあら磯かげに風吹きて
 みちくるしほの山ぞくもれる    宗伊

 「しほの山」は差出の磯のセットになって、賀歌に見られるお目出度い歌枕になっている。千鳥が「ちよ」「やちよ」と鳴くというのがその理由のようだ。山梨県の塩山がそれだとされているが、あまり今でいう磯のイメージはない。
 地名を見ると内陸でも「崎」だとか「伊勢」とかつく場所があるから、かつては川べりも磯と呼んでいたか。
 千鳥に塩の山はその意味で付け合いではあるけど、縁として引いているだけで賀歌の心ではない。あら磯に風吹いて山も曇るというのは祝うものでもないし、「満ち来る塩」と掛けて「塩の山」となると、明らかに海辺の潮の山だ。
 当時の「塩の山」に何か口伝があったのかもしれない。

2022年3月18日金曜日

 今の終身雇用制と主婦制に関して、今も自民党政府は緩やかな解体を志向している。働き方の多様化と一億総活躍社会は安倍政権時代に打ち出されたもので、今も自民党は基本的にこれを継続している。
 問題は野党の方なんだが、例によって革命のための「方便」を駆使して、自民党がやるから、資本主義だからという理由であの手この手で難癖付けては反対してきた。一億総活躍社会に至っても「一億」の単語が戦争中の「一億総自決」を連想されるとか、内容と全く関係ない理由で反対の声を上げてきた。
 この手の方便はいつものことで、資本主義の憲法改正は反対だが、革命憲法なら許すとか、アメリカと同盟する再軍備には反対だがアメリカと戦う軍隊ならいいとか、ロシアや中国の核兵器はアメリカに対抗するためのクリーンな核だだとか、常に繰り返してきたことだ。
 内容がどのようなものであれ、革命の主体が行うなら善で、資本主義の立場に立つものは悪だという単純な理屈によって成り立っている。
 そのため、今の左翼野党は必然的に終身雇用制と主婦制の擁護に回らざるを得ない。しかもこの擁護は本心ではなく方便だ。そのため改革はいつまでたっても前進しない。
 「株価は上がったが国民は貧しくなった」なんて言っているが、国民が株を買わないように全力で妨害していたのはどこの誰だったか。
 まあ、革命を起こす側からすれば、金持ちがより金持ちになり貧乏人がより貧乏になる世界にしなくては革命が起こせない、という単純な理由がある。その意味では奴らの思惑はある程度成功している。ただそれが国民にとって良いことなのかどうかだ。
 つまり、国民をとにかく困らせて、その責任を政府におっ被せれば革命が起こせる、というだけのことだ。「とにかく自公が嫌がることを」というのは、同時に国民を困らせることにもなっている。維新の会と国民民主はさすがにこの馬鹿げたやり方に愛想をつかしたが、立憲は今の泉代表の指導力では難しい。
 実際、ウクライナ問題でもロシアを非難するのではなく安倍元首相を非難して、ロシア侵略の責任を安倍さんにおっ被せようなどと、いくら何でも茶番だ。防具提供にすら反対している。ウクライナ以前にまず日本を非武装中立化しようとしている連中だから、まあ仕方ない。
 ウクライナ人は騙されない方が良い。奴らのロシア糾弾は「方便」だ。奴らの本音は「反戦=ウクライナの早期降伏」だ。
 革命政党は今はおとなしくしているが、マス護美と連携しながら、じわじわとウクライナの非武装中立が和平交渉の落とし所であるかのように誘導してゆく。それが奴らの言う「戦争反対」だ。
 まあ、日本だけではないだろう。世界中に奴らの仲間はいる。アメリカでもヨーロッパでもそういった連中はいくらでもいるだろうけど、「戦争反対」というスローガンの裏の意味には気づいた方が良い。
 地球全土を一つの帝国が支配したなら、確かに戦争はないかもしれない。それは誰も帝国に逆らえない状態だ。戦争さえなければ人は幸福になれるかと言ったら、そんなことはない。自由のない平和は監獄と一緒だ。
 ロシアと直接戦うとなると大変なことだが、表向きロシアを非難するふりしながら独裁国家を援護している「内なる敵」と戦うことなら、我々にもできるのではないかと思う。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 二表、二十三句目。

   春のはつせは奥もしられず
 天つ袖ふるの中道うちかすみ    宗伊

 初瀬に布留の中道と名所で展開する。

 いそのかみふるのなか道なかなかに
     見すはこひしと思はましやは
               紀貫之(古今集)

など、歌に詠まれている。
 「天つ袖」は「ふる」に掛かる枕詞で、

 天つ袖ふるの山なる榊葉に
     宮のしらゆふかくる卯のはな
               世尊寺行能(夫木抄)
 あまつ袖ふる白雪にをとめこが
     雲の通ひ路花ぞちりかふ
               藤原家隆(壬二集)

などの用例がある。
 二十四句目。

   天つ袖ふるの中道うちかすみ
 野をしろたへの雪も消えけり    宗祇

 「ふる」に「雪」が縁語となる。「うちかすみ」に雪も消えると付く。
 二十五句目。

   野をしろたへの雪も消えけり
 鷺のとぶ入江をさむみ雨はれて   宗伊

 「鷺のとぶ」は、

 鷺のとぶ川辺の穂蓼くれなゐに
     ひかげさびしき秋の水かな
               衣笠家良(新撰和歌六帖)

の歌に用例がある。
 野の雪に鷺の入江と違えて付ける。
 二十六句目。

   鷺のとぶ入江をさむみ雨はれて
 水にむかへば山ぞ暮れ行く     宗祇

 景物が多くて身動きのとりにくい所を、夕暮れの時候を付けて軽く流した感じの句に思える。
 二十七句目。

   水にむかへば山ぞ暮れ行く
 底にすむ月なりけりなます鏡    宗伊

 「ます鏡」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「真澄鏡」の解説」に、

 「[1] 〘名〙
  ① 「ますみ(真澄)の鏡」の略。
  ※古今(905‐914)冬・三四二「ゆくとしのをしくもある哉ますかがみ見るかげさへにくれぬと思へば〈紀貫之〉」
  ② 氷を鏡にたとえた語。
  ※班子女王歌合(893頃)「冬寒み水の面に懸くるますかがみ疾くも割れなむ老い惑ふべく〈作者不詳〉」
  [2] 枕
  ① 鏡に写る影の意で「影(かげ)」にかかる。
  ※後撰(951‐953頃)離別・一三一四「身をわくる事のかたさにます鏡影許をぞ君にそへつる〈大窪則善〉」
  ② =まそかがみ(二)③
  ※金槐集(1213)秋「天の原ふりさけ見ればますかかみきよき月夜に雁なきわたる」
  [補注]「ますみ(真澄)の鏡」の略とする意見が通説だが、「万葉集」によく見られる「まそかがみ」の転とも考えられる。」

とある。
 ここでは「ます鏡」は鏡のような水面を喩えたもので、前句の「水にむかへば」に掛かる。
 夕暮れになれば月も登り、鏡のような水面に月が映る。
 二十八句目。

   底にすむ月なりけりなます鏡
 心のちりをはらふ秋かぜ      宗祇

 澄む月を真如の月とし、それを映す心の鏡の塵を払う、として釈教に展開する。
 二十九句目。

   心のちりをはらふ秋かぜ
 身をしれば木の葉にふれる露もうし 宗伊

 秋風は心の塵を払ってくれるが、それでも悟ることなく俗世に留まる我が身にあっては、木の葉に降った露が風に打ち払われるかのような涙涙で、辛いことばかりだ。述懐に転じる。
 三十句目。

   身をしれば木の葉にふれる露もうし
 門さしこもる蓬生の道       宗祇

 蓬生は、

 いかでかはたづねきつらん蓬ふの
     人もかよはぬわか宿のみち
               よみ人しらず(拾遺集)
 八重葎さしこもりにし蓬生に
     いかでか秋のわけてきつらむ
               藤原俊成(千載集)

などの歌にも詠まれ、草に埋もれた荒れ果てた宿を連想させる。
 前句を草に埋もれた家でひっそりと暮らす悲哀とする。
 三十一句目。

   門さしこもる蓬生の道
 いかにせむあやめも分かぬ物おもひ 宗伊

 蓬生というと『源氏物語』蓬生巻の末摘花で、門を閉ざした荒れ果てた家で男を待ち続ける姿になる。
 「あやめも分かぬ」は「あやめも知らぬ」と同様で、

 郭公なくや五月のあやめぐさ
     あやめも知らぬ恋もするかな
               よみ人しらず(古今集)
 今日来れどあやめも知らぬ袂かな
     昔を恋ふるねのみかかりて
               上西門院兵衛(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 三十二句目。

   いかにせむあやめも分かぬ物おもひ
 うかれて出づるたそがれの空    宗祇

 たそがれ(黄昏)は「誰そ彼」で、前句の「あやめも分かぬ」を誰かもわからない恋とする。
 おそらく『源氏物語』空蝉巻の源氏の君であろう。真っ暗の部屋の中で、間違えて誰かもわからずに抱いてしまった、そんな浮かれた心を「たそがれの空」とする。
 ただ、言葉自体に手掛かりが乏しく、「前句に付きがたく候」という注は、その言いおおせぬ感を言うのであろう。
 三十三句目。

   うかれて出づるたそがれの空
 魂とみよやそなたに行くほたる   宗伊

 胸焦がす思いが蛍となって愛しい人の元へ飛んで行くという趣向は、

 もの思へば沢のほたるを我が身より
     あくがれにける魂かとぞみる
               和泉式部(後拾遺集)

辺りから始まったものか。
 都都逸の、

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 鳴かぬ蛍が身を焦がす

の起源も、

 音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ
     鳴く虫よりもあはれなりけれ
               源重之(後拾遺集)

にあるのではないかと思う。
 三十四句目。

   魂とみよやそなたに行くほたる
 あしやのなだはすむ人もなし    宗祇

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注に、『伊勢物語』八十七段が引用されている。
 芦屋にやってきた在原業平が、

 「帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじの男、よむ、

 晴るる夜の星か河辺の蛍かも
     わが住む方の海人のたく火か

とよみて、家に帰り来ぬ。」

という話で、漁火を蛍に喩えている。

 いさり火の昔の光ほの見えて
     蘆屋の里に飛ぶ蛍かな
               藤原良経(新古今集)

の歌もこの趣向によるものであろう。
 『伊勢物語』の本説というよりは、藤原良経の歌を本歌とした付けで、芦屋の里を尋ねてきたけれど、今は棲む人もなく漁火の昔も程遠く、蛍だけが業平の時代の魂を見せてくれる、という意味ではないかと思う。
 近代の名だたる高級住宅地の芦屋も、こんな時代もあった。
 三十五句目。

   あしやのなだはすむ人もなし
 世の中のたちゐを波のさわぎにて  宗伊

 「たちゐ」は立ったり座ったりということ。ここでは波の立と掛けて、都は何かと騒がしいが、芦屋の灘は棲む人もないと違えて付ける。
 『源氏物語』須磨巻のような、宮中の騒動を逃れて隠棲する様であろう。
 三十六句目。

   世の中のたちゐを波のさわぎにて
 雲風なれやかはる朝夕       宗祇

 前句の「波のさわぎ」を受けて、世の中は雲風のようなもので、朝夕で目まぐるしく変わっていくと応じる。

2022年3月17日木曜日

 これは昨日の写真。


 あと、『談林十百韻』の「されば爰に」の巻「青がらし」の巻「いざ折て」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 初裏、九句目。

   やどりや出づる人さわぐなり
 ふす鳥をかり声ちかき山のかげ   宗祇

 ここで宗祇が二句続けて上句下句を交代する。
 ふす鳥はうつ伏している鳥で、足を畳んで休んでいる鳥もこう表現するのであろう。前句の宿を出た人たちは狩りのために外に出て行った。
 騒ぐと逃げちゃいそうだけ、鷹狩の場合は逃げようとして飛び立ったところを鷹に襲わせる。犬を使って飛び立たせる。
 十句目。

   ふす鳥をかり声ちかき山のかげ
 わけくる雪ぞ跡をあらはす     宗伊

 狩りというと雪で、

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ    救済

の句は当時はよく知られていたのだろう。
 冬の雪を踏む分けて行く旅をしていると、辺りから狩りの声が聞こえてくる。
 十一句目。

   わけくる雪ぞ跡をあらはす
 くろかみの中半うつろふ年々に   宗祇

 前句の雪を白髪の比喩とする。
 黒髪も歳とともに白髪混じりになり、頭髪をかき分けると白髪があらわになる。
 十二句目。

   くろかみの中半うつろふ年々に
 恋しさまさるたらちねのかげ    宗伊

 白髪の増えた母(たらちね)が、余計に恋しくなる。
 十三句目。

   恋しさまさるたらちねのかげ
 身のいかにならむもしらず世に住みて 宗祇

 前句の母は既に亡くなり、思い出の中でますます恋しくなる、とする。
 そして我もまた年老いて後世のことが気にはなるものの、出家することもなく、未だに俗世にしがみついている。述懐の見本のような句だ。
 十四句目。

   身のいかにならむもしらず世に住みて
 とすれば涙袖にかかれる      宗伊

 「とすれば」という言葉は、

 袖の上にとすれはかかる涙かな
     あないひしらす秋の夕暮れ
               宗尊親王(続古今集)

など和歌に用例がある。
 前句を、この先どうなるかわからないこの世間で、として、ふいに涙が溢れて来る、とする。述懐とも恋ともつかない曖昧な句で、やや展開にあぐねた遣り句気味の句になっている。
 十五句目。

   とすれば涙袖にかかれる
 たのめただ待たぬもつらき夜半の空 宗祇

 ここは恋に転じるしかないだろう。男の通って来るのを待つ夜も辛いが、待たなくてもよくなって、つまり完全に切れてしまうと、それもまた辛い。
 十六句目。

   たのめただ待たぬもつらき夜半の空
 おきゐる戸ぐちあけやしなまし   宗伊

 憎しみ合って別れた後、あの男が未練たらたらで、ストーカーみたいにまた訪ねて来ないかと思うと、それも辛い。
 十七句目。

   おきゐる戸ぐちあけやしなまし
 月みればいづくともなき鐘なりて  宗祇

 前句を自分の意志で戸を開けよう、と取り成し、月を見ているうちの夜が明けて戸を開ける、とする。
 十八句目。

   月みればいづくともなき鐘なりて
 秋のとまりにおくる舟人      宗伊

 明け方ということで秋の港に船で旅立つ人を見送る。
 「舟人」は、

 誰としも知らぬ別れのかなしきは
     松浦の沖を出づる舟人
               藤原隆信(新古今集)

のように、離別の歌に用いられる。松浦は中国へ渡る舟の出る所だった。
 十九句目。

   秋のとまりにおくる舟人
 行く雁の旅の誰をか友ならむ    宗祇

 舟に乗って遠ざかる旅人を雁の渡りに喩えて、雁が列を組んで飛ぶように誰か友がいればいいのだが、とする。
 ニ十句目。

   行く雁の旅の誰をか友ならむ
 ひとりのみねをこゆる夕暮     宗伊

 一人で峰を越える旅人の、友のないことの嘆きとする。
 二十一句目。

   ひとりのみねをこゆる夕暮
 古寺は花のかげだにかすかにて   宗祇

 一人峰を越える旅人を出家して寺に入る者とする。峰を越えると目指す古寺とそれを囲む桜が幽かに見えて来る。
 二十二句目。

   古寺は花のかげだにかすかにて
 春のはつせは奥もしられず     宗伊

 前句の古寺を長谷寺とする。名所の花とする。

2022年3月16日水曜日

 今日は南足柄へ春めき桜を見に行った。前に行ったときは、ちょうどコロナの影響が出始めた一昨年だった。
 ちょうど満開の春めき桜は花が玉のようにまとまって咲くので、なかなか密度があって圧倒される。春めきのぽんぽん桜花なだれ。
 猫一匹、狩川を渡るのを見た。石伝い浅瀬や渡る猫の恋。
 ついでに松田町の河津桜も見た。既に散り始めていて緑の葉も混じっていた。富士山が幽かに見える程度に空は霞んでいた。下草の菜の花も鮮やかだった。菜の花の上半分や青い空。世界の平和を我々に替って守ってくれているウクライナの人たちには、いくら感謝しても足りない。自分に何ができるのかと思う所もあるが、戦う気概は忘れてはいけない。
 最後に秦野のおかめ桜を見た。こちらも良く咲いていた。今年は河津桜が遅れたせいで、三つの桜を同時に見ることができた。
 来年も世界が滅んでいませんように。



 それでは次は連歌の方を読んで行こうかと思う。連句は蕉門だけ単独で見るよりも、連歌の時代からの長い歴史てみた方が良い。
 それに、連歌は未開の分野で、連歌師の生涯などの研究はかなり進んでいるものの、作品については素人の火燵記事でも何とかなりそうだ。グーグル先生を頼りに読んでいこうかと思う。
 別にこんなしがない素人が、何か学問的な功績をなんて思ってはいない。これを一つのバネにして、プロの研究者が奮起するのを期待したい。
 今回読むのは「宗伊宗祇湯山両吟」で、『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)による。
 宗祇が応仁の乱の頃、東国へ下向し、その時に白河を旅して『白河紀行』を記したことは前に見てきた。
 そのあと三島で東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受け、文明五年(一四七三年)に美濃で古今伝授を終了したあと京へ戻ったことも、「『宗祇終焉記』を読む」の中で述べた。「宗伊宗祇湯山両吟」はその後のことになる。
 京に種玉庵を開いたこれからの時代が宗祇の円熟期になる。長享二年(一四八八年)の水無瀬三吟興行。延徳三年(一四九一年)の湯山三吟興行は、宗祇の連歌の頂点とも言える。
 「宗伊宗祇湯山両吟」はそれよりやや早い文明十四年(一四八二年)の二月とされている。場所は有馬温泉で十年後の湯山三吟と同じ。文明十二年(一四八〇年)の『筑紫道記』の旅よりは後になる。
 宗伊はネット上の島津忠夫さんの「宗祇と宗伊」に、

 「杉原伊賀守賢盛(法名宗伊)は、応水二十五年(一四一八)の生まれで、応永二十八年の生まれの宗祇より、わずかに三歳の年長に過ぎないことが先ず注意せられる。」

とある。僅か三歳年長とはいえ、宗祇よりもかなり早くから京で活躍していたようだ。宗祇が遅咲きだったということもあるのか、この両吟は大先輩に胸を借り、そして乗り越えようという意欲作だったのかもしれない。
 発句は、

 鶯は霧にむせびて山もなし    宗伊

 「むせぶ」というと、今日でも「むせび泣く」という言葉があるように、悲しみに声を詰まらせている、という印象を与える。
 春を告げる目出度いはずの鶯が、霧にむせて悲しい声を上げ、霧のせいで山すら見えない。ホワイトアウトした中、鶯のむせび泣きだけが聞こえる。何とも悲し気な発句だ。
 応仁の乱から享徳の乱への乱れた国の状況を憂いているのか、あるいは別の悲しい事情のある興行だったのか、定かではない。ただ、宗伊がこの二年後に亡くなることを考えると、この興行が永の別れになるという雰囲気もあったのかもしれない。
 霧にむせぶ鶯に関しては、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は『和漢朗詠集』の、

 咽霧山鴬啼尚少 穿沙蘆笋葉纔分

 霧に咽(むせ)ぶ山鶯は啼くことなほ少(まれ)なり、
 沙(いさご)を穿つ蘆笋(ろじゆん)は葉わづかに分てり、

を引いている。
 脇。

   鶯は霧にむせびて山もなし
 梅かをるのの霜寒き比      宗祇

 鶯に梅は定番だとしても、霧の山に「霜寒き比」と冬の寒さで応じている。梅は咲いたけど未だに冬のような寒さで、鶯も霧にむせび泣いてます、と発句の心に寄り添っている。
 この阿吽の呼吸には、二人だけの知る何かがあったのかもしれない。
 第三。

   梅かをるのの霜寒き比
 もえそむる草のかきほは色付きて 宗伊

 俳諧の両吟だと、脇と第三は同じ人が詠むが、この時代にはまだそういう様式はなかったか。享禄五年(一五三二年)の聴雪・宗牧両吟「享禄五年正月十八日住吉法楽何船」では宗牧が脇と第三を詠み、聴雪が四句目と五句目を詠むという様式が見られる。
 「かきほ」は垣根のことだが、和歌では「山がつのかきほ」として用いられることが多い。

 うぐひすの今朝なく時ぞ山がつの
     かきほも春にあふ心ちする
              四条宮下野(玉葉集)

の歌もある。
 前句の霜寒き中の梅を山がつの家の梅とし、貧しい中にも春が来ている心に転じる。
 四句目。

   もえそむる草のかきほは色付きて
 いり日の庭の風のしづけさ    宗祇

 前句の「色付きて」を緑に色づくのではなく、入日に赤く色づくとして、風の静けさを添える。
 五句目。

   いり日の庭の風のしづけさ
 中空に月待つ雲や帰るらん    宗伊

 「中空」は空の真ん中だが、うわの空の意味もある。
 雲に覆われていた空も夕暮れには晴間も見えてきて、入日の射す頃には中空の雲も消えて行く。心の雲もそれとともに晴れてゆくか。
 六句目。

   中空に月待つ雲や帰るらん
 時雨るる秋のさ夜ぞふけ行く   宗祇

 雲の晴れるのを時雨の後として、時間を夜更けとする。

 しぐれつる眞屋の軒端のほどなきに
     やがてさし入る月のかげかな
              藤原定家(千載集)
 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
     心あるべき初時雨かな
              西行法師(新古今集)

のあど、時雨の雲が晴れての月はしばしば和歌に詠まれている。
 ここでは中空に応じて、夜更けの月とする。
 七句目。

   時雨るる秋のさ夜ぞふけ行く
 いなばもるかりほの床にめもあはで 宗伊

 「めもあはで」は眠れないという意味。
 「かりほの床」という言葉は、

   秋田
 露むすぶわさだのほくみ打ちとけて
     かりほのとこにいやはねらるる
               蓮性(宝治百首)
   田家雨
 むらさめにとまふきそへよみ山田の
     かりほの床は露もこそもれ
               九条行家(宝治百首)

など、和歌に用いられている。
 山田の露の漏るかりほの床は眠れないものだった。「かりほの床」を落ちぶれた旅人の一時的な宿とする。
 八句目。

   いなばもるかりほの床にめもあはで
 やどりや出づる人さわぐなり    宗祇

 前句の「めもあはで」を目も合わせずに出て行く人としたか。

   田家
 もる民はかりほの床のいねがてに
     思ひやあかす年のなりほひ
               正徹(草魂集)

の歌もあり、旅人が眠れない所に追い打ちをかけて、稲を守る民も何かと騒がしい。