日本がワールドカップ出場を決めたが、テレビが有料のDAZN独占なので、久しぶりにラジオで聞いた。運転手の頃はたまにラジオでサッカーを聞くこともあったが。
橋下さんはようやく現状が認識できたようで何よりだ。意固地にならないところがこの人の良い所だ。
ウクライナの難民がみんな早く故郷に帰れるように、みんなでウクライナ軍を応援しよう。
「ロシアは侵略をやめろ」「国連憲章を守れ」「国際人道法を守れ」とあの党も言っている。世界中のみんなが声を上げ、それがウクライナ軍への多くの国からの武器供与や傭兵やさらには参戦に繋がれば、現実的にロシアの侵略を止める一番の力になる。
それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。
二表、二十三句目。
たたずむかげは春の山風
晴れやらで霞をのこせ空の月 宗仲
風が強いと霞は吹き飛んでしまう。春に月が朧にならずくっきりと見えるというのは、冬のように冷たい風が吹きすさぶ時だ。「のこせ」という言葉で、春が春らしく長閑の日々になることを強く祈る。
今さらに雪降らめやもかげろふの
燃ゆる春日となりにしものを
よみ人しらず(新古今集)
の心と言っていいだろう。春なのに戦争に明け暮れる世に、早く長閑な日々を取り戻したいという願いがあったのかもしれない。
二十四句目。
晴れやらで霞をのこせ空の月
ぬるとも雨としのぶ夜の道 宗祇
空の月が霞んで夜が暗くなった方が良いということで、恋の通い路とする。たとえ雨に濡れるとも月の明るい夜よりはまし。
なかなか良いシリアス破壊だ。
二十五句目。
ぬるとも雨としのぶ夜の道
あとつくる雪には人をとひ侘びて 玄宣
雪が降ると足跡が残って後を着けられてしまう。雨の方がまだいい。
二十六句目。
あとつくる雪には人をとひ侘びて
おもふのみをやこころともせん 宗長
雪に閉ざされ通うことができない。今はただ思い続けることだけが愛の印だ。
二十七句目。
おもふのみをやこころともせん
やる文の数をつくしてよむ歌に 兼載
古今集仮名序に、
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。」
とある。恋の歌も本当に恋しく思う気持ちがあって、それだけを尽くして詠む歌に本当の心がある。
二十八句目。
やる文の数をつくしてよむ歌に
いつひとことのなさけをか見し 宗祇
逆に偽りの文の愛の言葉ばかりで、本当の気持ちを見せてほしい、とする。恋が五句続き、次は他に転じなくてはならない。
二十九句目。
いつひとことのなさけをか見し
山がつをとなりに憑む柴の庵 玄清
山がつを和歌で詠む場合は、山がつは仙人のように春秋を知らず永遠の時間を生きるという文脈か、山がつとても花を愛しホトトギスに涙するという文脈か、自ら山がつに身を落としたという文脈のものが多い。
春は梅夏にしなれは卯の花に
なさけをかこふ山がつの垣
源通親(正治初度百首)
山がつのつゆのなさけをおくとてや
かきほにみする夕顔の花
源通親(正治初度百首)
の歌のように、垣根の花に山がつの情けは見られるのだが、和歌を知らず情けの言葉はない。
まあ、この時代だから山がつはその土地の言葉しか知らず、都の言葉が通じないというのがあったかもしれない。
『水無瀬三吟』七十五句目の、
わすられがたき世さへ恨めし
山がつになど春秋のしらるらん 宗祇
の句も、そうした都の文化を知らないという意味で、戦国時代になって実際に都人がリアル山がつに接する機会が増えたから、こういう感想になったのかもしれない。
三十句目。
山がつをとなりに憑む柴の庵
すめばけぶりも木陰にぞ立つ 友興
山暮らしだから炊飯の煙も木陰に立つ。
三十一句目。
すめばけぶりも木陰にぞ立つ
風の間も落葉ながるる秋の水 恵俊
「風の間」は、
きのふ見て今日見ぬほどの風のまに
あやなくもろき峰のもみぢ葉
西園寺公経(続古今集)
の用例がある。風が吹いている間にという意味。
風が吹いて葉が落ちればその落葉は川を流れて行く。山陰の庵に季節と景色を添える。
三十二句目。
風の間も落葉ながるる秋の水
鹿鳴くたかね時雨ふるらし 兼載
時雨は落葉を染め、風に散り、秋の水が流れる。峰には鹿が鳴く。
時雨は和歌では秋にも詠む。大方紅葉を染める時雨の趣向になる。連歌では秋の季語と重ねることで秋の句になる。
時雨の鹿は、
神無月時雨しぬらし葛の葉の
裏こがる音に鹿も鳴くなり
よみ人しらず(拾遺集)
龍田山もみぢの影に鳴く鹿の
声もしぐれて秋風ぞふく
宗尊親王(夫木抄)
などの歌がある。
三十三句目。
鹿鳴くたかね時雨ふるらし
朝な朝なおく露さむく野はなりて 宗忍
晩秋ということで、朝が来ると毎に野は露寒くなる。前句の高嶺では鹿が鳴き時雨が降ると違えて付ける。
「朝な朝な」は、
朝な朝な籬のきくのうつろへば
露さへ色のかはり行くかな
祐盛法師(千載集)
の用例がある。
三十四句目。
朝な朝なおく露さむく野はなりて
なれこし月もあり明のころ 宗長
月を見て夜を明かし、朝になったとする。
夢の夜にになれこし契り朽ちずして
さめむあしたに逢ふこともかな
崇徳院(玉葉集)
の歌を知っているなら、後朝への取り成しを見越した恋呼出しになる。
三十五句目。
なれこし月もあり明のころ
涙さへ袖の名残やしたふらん 長泰
期待通り、後朝の句とする。
三十六句目。
涙さへ袖の名残やしたふらん
心あさきを見えんかなしさ 慶卜
袖に涙が見えると、気持ちが覚めたなんてとうてい思えない。すっかり気持ちが覚めたと思ってたのに、何で涙なんか出て来るのだろうか。
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