今日は南足柄へ春めき桜を見に行った。前に行ったときは、ちょうどコロナの影響が出始めた一昨年だった。
ちょうど満開の春めき桜は花が玉のようにまとまって咲くので、なかなか密度があって圧倒される。春めきのぽんぽん桜花なだれ。
猫一匹、狩川を渡るのを見た。石伝い浅瀬や渡る猫の恋。
ついでに松田町の河津桜も見た。既に散り始めていて緑の葉も混じっていた。富士山が幽かに見える程度に空は霞んでいた。下草の菜の花も鮮やかだった。菜の花の上半分や青い空。世界の平和を我々に替って守ってくれているウクライナの人たちには、いくら感謝しても足りない。自分に何ができるのかと思う所もあるが、戦う気概は忘れてはいけない。
最後に秦野のおかめ桜を見た。こちらも良く咲いていた。今年は河津桜が遅れたせいで、三つの桜を同時に見ることができた。
来年も世界が滅んでいませんように。
それでは次は連歌の方を読んで行こうかと思う。連句は蕉門だけ単独で見るよりも、連歌の時代からの長い歴史てみた方が良い。
それに、連歌は未開の分野で、連歌師の生涯などの研究はかなり進んでいるものの、作品については素人の火燵記事でも何とかなりそうだ。グーグル先生を頼りに読んでいこうかと思う。
別にこんなしがない素人が、何か学問的な功績をなんて思ってはいない。これを一つのバネにして、プロの研究者が奮起するのを期待したい。
今回読むのは「宗伊宗祇湯山両吟」で、『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)による。
宗祇が応仁の乱の頃、東国へ下向し、その時に白河を旅して『白河紀行』を記したことは前に見てきた。
そのあと三島で東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受け、文明五年(一四七三年)に美濃で古今伝授を終了したあと京へ戻ったことも、「『宗祇終焉記』を読む」の中で述べた。「宗伊宗祇湯山両吟」はその後のことになる。
京に種玉庵を開いたこれからの時代が宗祇の円熟期になる。長享二年(一四八八年)の水無瀬三吟興行。延徳三年(一四九一年)の湯山三吟興行は、宗祇の連歌の頂点とも言える。
「宗伊宗祇湯山両吟」はそれよりやや早い文明十四年(一四八二年)の二月とされている。場所は有馬温泉で十年後の湯山三吟と同じ。文明十二年(一四八〇年)の『筑紫道記』の旅よりは後になる。
宗伊はネット上の島津忠夫さんの「宗祇と宗伊」に、
「杉原伊賀守賢盛(法名宗伊)は、応水二十五年(一四一八)の生まれで、応永二十八年の生まれの宗祇より、わずかに三歳の年長に過ぎないことが先ず注意せられる。」
とある。僅か三歳年長とはいえ、宗祇よりもかなり早くから京で活躍していたようだ。宗祇が遅咲きだったということもあるのか、この両吟は大先輩に胸を借り、そして乗り越えようという意欲作だったのかもしれない。
発句は、
鶯は霧にむせびて山もなし 宗伊
「むせぶ」というと、今日でも「むせび泣く」という言葉があるように、悲しみに声を詰まらせている、という印象を与える。
春を告げる目出度いはずの鶯が、霧にむせて悲しい声を上げ、霧のせいで山すら見えない。ホワイトアウトした中、鶯のむせび泣きだけが聞こえる。何とも悲し気な発句だ。
応仁の乱から享徳の乱への乱れた国の状況を憂いているのか、あるいは別の悲しい事情のある興行だったのか、定かではない。ただ、宗伊がこの二年後に亡くなることを考えると、この興行が永の別れになるという雰囲気もあったのかもしれない。
霧にむせぶ鶯に関しては、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は『和漢朗詠集』の、
咽霧山鴬啼尚少 穿沙蘆笋葉纔分
霧に咽(むせ)ぶ山鶯は啼くことなほ少(まれ)なり、
沙(いさご)を穿つ蘆笋(ろじゆん)は葉わづかに分てり、
を引いている。
脇。
鶯は霧にむせびて山もなし
梅かをるのの霜寒き比 宗祇
鶯に梅は定番だとしても、霧の山に「霜寒き比」と冬の寒さで応じている。梅は咲いたけど未だに冬のような寒さで、鶯も霧にむせび泣いてます、と発句の心に寄り添っている。
この阿吽の呼吸には、二人だけの知る何かがあったのかもしれない。
第三。
梅かをるのの霜寒き比
もえそむる草のかきほは色付きて 宗伊
俳諧の両吟だと、脇と第三は同じ人が詠むが、この時代にはまだそういう様式はなかったか。享禄五年(一五三二年)の聴雪・宗牧両吟「享禄五年正月十八日住吉法楽何船」では宗牧が脇と第三を詠み、聴雪が四句目と五句目を詠むという様式が見られる。
「かきほ」は垣根のことだが、和歌では「山がつのかきほ」として用いられることが多い。
うぐひすの今朝なく時ぞ山がつの
かきほも春にあふ心ちする
四条宮下野(玉葉集)
の歌もある。
前句の霜寒き中の梅を山がつの家の梅とし、貧しい中にも春が来ている心に転じる。
四句目。
もえそむる草のかきほは色付きて
いり日の庭の風のしづけさ 宗祇
前句の「色付きて」を緑に色づくのではなく、入日に赤く色づくとして、風の静けさを添える。
五句目。
いり日の庭の風のしづけさ
中空に月待つ雲や帰るらん 宗伊
「中空」は空の真ん中だが、うわの空の意味もある。
雲に覆われていた空も夕暮れには晴間も見えてきて、入日の射す頃には中空の雲も消えて行く。心の雲もそれとともに晴れてゆくか。
六句目。
中空に月待つ雲や帰るらん
時雨るる秋のさ夜ぞふけ行く 宗祇
雲の晴れるのを時雨の後として、時間を夜更けとする。
しぐれつる眞屋の軒端のほどなきに
やがてさし入る月のかげかな
藤原定家(千載集)
月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
心あるべき初時雨かな
西行法師(新古今集)
のあど、時雨の雲が晴れての月はしばしば和歌に詠まれている。
ここでは中空に応じて、夜更けの月とする。
七句目。
時雨るる秋のさ夜ぞふけ行く
いなばもるかりほの床にめもあはで 宗伊
「めもあはで」は眠れないという意味。
「かりほの床」という言葉は、
秋田
露むすぶわさだのほくみ打ちとけて
かりほのとこにいやはねらるる
蓮性(宝治百首)
田家雨
むらさめにとまふきそへよみ山田の
かりほの床は露もこそもれ
九条行家(宝治百首)
など、和歌に用いられている。
山田の露の漏るかりほの床は眠れないものだった。「かりほの床」を落ちぶれた旅人の一時的な宿とする。
八句目。
いなばもるかりほの床にめもあはで
やどりや出づる人さわぐなり 宗祇
前句の「めもあはで」を目も合わせずに出て行く人としたか。
田家
もる民はかりほの床のいねがてに
思ひやあかす年のなりほひ
正徹(草魂集)
の歌もあり、旅人が眠れない所に追い打ちをかけて、稲を守る民も何かと騒がしい。
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