今の終身雇用制と主婦制に関して、今も自民党政府は緩やかな解体を志向している。働き方の多様化と一億総活躍社会は安倍政権時代に打ち出されたもので、今も自民党は基本的にこれを継続している。
問題は野党の方なんだが、例によって革命のための「方便」を駆使して、自民党がやるから、資本主義だからという理由であの手この手で難癖付けては反対してきた。一億総活躍社会に至っても「一億」の単語が戦争中の「一億総自決」を連想されるとか、内容と全く関係ない理由で反対の声を上げてきた。
この手の方便はいつものことで、資本主義の憲法改正は反対だが、革命憲法なら許すとか、アメリカと同盟する再軍備には反対だがアメリカと戦う軍隊ならいいとか、ロシアや中国の核兵器はアメリカに対抗するためのクリーンな核だだとか、常に繰り返してきたことだ。
内容がどのようなものであれ、革命の主体が行うなら善で、資本主義の立場に立つものは悪だという単純な理屈によって成り立っている。
そのため、今の左翼野党は必然的に終身雇用制と主婦制の擁護に回らざるを得ない。しかもこの擁護は本心ではなく方便だ。そのため改革はいつまでたっても前進しない。
「株価は上がったが国民は貧しくなった」なんて言っているが、国民が株を買わないように全力で妨害していたのはどこの誰だったか。
まあ、革命を起こす側からすれば、金持ちがより金持ちになり貧乏人がより貧乏になる世界にしなくては革命が起こせない、という単純な理由がある。その意味では奴らの思惑はある程度成功している。ただそれが国民にとって良いことなのかどうかだ。
つまり、国民をとにかく困らせて、その責任を政府におっ被せれば革命が起こせる、というだけのことだ。「とにかく自公が嫌がることを」というのは、同時に国民を困らせることにもなっている。維新の会と国民民主はさすがにこの馬鹿げたやり方に愛想をつかしたが、立憲は今の泉代表の指導力では難しい。
実際、ウクライナ問題でもロシアを非難するのではなく安倍元首相を非難して、ロシア侵略の責任を安倍さんにおっ被せようなどと、いくら何でも茶番だ。防具提供にすら反対している。ウクライナ以前にまず日本を非武装中立化しようとしている連中だから、まあ仕方ない。
ウクライナ人は騙されない方が良い。奴らのロシア糾弾は「方便」だ。奴らの本音は「反戦=ウクライナの早期降伏」だ。
革命政党は今はおとなしくしているが、マス護美と連携しながら、じわじわとウクライナの非武装中立が和平交渉の落とし所であるかのように誘導してゆく。それが奴らの言う「戦争反対」だ。
まあ、日本だけではないだろう。世界中に奴らの仲間はいる。アメリカでもヨーロッパでもそういった連中はいくらでもいるだろうけど、「戦争反対」というスローガンの裏の意味には気づいた方が良い。
地球全土を一つの帝国が支配したなら、確かに戦争はないかもしれない。それは誰も帝国に逆らえない状態だ。戦争さえなければ人は幸福になれるかと言ったら、そんなことはない。自由のない平和は監獄と一緒だ。
ロシアと直接戦うとなると大変なことだが、表向きロシアを非難するふりしながら独裁国家を援護している「内なる敵」と戦うことなら、我々にもできるのではないかと思う。
それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。
二表、二十三句目。
春のはつせは奥もしられず
天つ袖ふるの中道うちかすみ 宗伊
初瀬に布留の中道と名所で展開する。
いそのかみふるのなか道なかなかに
見すはこひしと思はましやは
紀貫之(古今集)
など、歌に詠まれている。
「天つ袖」は「ふる」に掛かる枕詞で、
天つ袖ふるの山なる榊葉に
宮のしらゆふかくる卯のはな
世尊寺行能(夫木抄)
あまつ袖ふる白雪にをとめこが
雲の通ひ路花ぞちりかふ
藤原家隆(壬二集)
などの用例がある。
二十四句目。
天つ袖ふるの中道うちかすみ
野をしろたへの雪も消えけり 宗祇
「ふる」に「雪」が縁語となる。「うちかすみ」に雪も消えると付く。
二十五句目。
野をしろたへの雪も消えけり
鷺のとぶ入江をさむみ雨はれて 宗伊
「鷺のとぶ」は、
鷺のとぶ川辺の穂蓼くれなゐに
ひかげさびしき秋の水かな
衣笠家良(新撰和歌六帖)
の歌に用例がある。
野の雪に鷺の入江と違えて付ける。
二十六句目。
鷺のとぶ入江をさむみ雨はれて
水にむかへば山ぞ暮れ行く 宗祇
景物が多くて身動きのとりにくい所を、夕暮れの時候を付けて軽く流した感じの句に思える。
二十七句目。
水にむかへば山ぞ暮れ行く
底にすむ月なりけりなます鏡 宗伊
「ます鏡」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「真澄鏡」の解説」に、
「[1] 〘名〙
① 「ますみ(真澄)の鏡」の略。
※古今(905‐914)冬・三四二「ゆくとしのをしくもある哉ますかがみ見るかげさへにくれぬと思へば〈紀貫之〉」
② 氷を鏡にたとえた語。
※班子女王歌合(893頃)「冬寒み水の面に懸くるますかがみ疾くも割れなむ老い惑ふべく〈作者不詳〉」
[2] 枕
① 鏡に写る影の意で「影(かげ)」にかかる。
※後撰(951‐953頃)離別・一三一四「身をわくる事のかたさにます鏡影許をぞ君にそへつる〈大窪則善〉」
② =まそかがみ(二)③
※金槐集(1213)秋「天の原ふりさけ見ればますかかみきよき月夜に雁なきわたる」
[補注]「ますみ(真澄)の鏡」の略とする意見が通説だが、「万葉集」によく見られる「まそかがみ」の転とも考えられる。」
とある。
ここでは「ます鏡」は鏡のような水面を喩えたもので、前句の「水にむかへば」に掛かる。
夕暮れになれば月も登り、鏡のような水面に月が映る。
二十八句目。
底にすむ月なりけりなます鏡
心のちりをはらふ秋かぜ 宗祇
澄む月を真如の月とし、それを映す心の鏡の塵を払う、として釈教に展開する。
二十九句目。
心のちりをはらふ秋かぜ
身をしれば木の葉にふれる露もうし 宗伊
秋風は心の塵を払ってくれるが、それでも悟ることなく俗世に留まる我が身にあっては、木の葉に降った露が風に打ち払われるかのような涙涙で、辛いことばかりだ。述懐に転じる。
三十句目。
身をしれば木の葉にふれる露もうし
門さしこもる蓬生の道 宗祇
蓬生は、
いかでかはたづねきつらん蓬ふの
人もかよはぬわか宿のみち
よみ人しらず(拾遺集)
八重葎さしこもりにし蓬生に
いかでか秋のわけてきつらむ
藤原俊成(千載集)
などの歌にも詠まれ、草に埋もれた荒れ果てた宿を連想させる。
前句を草に埋もれた家でひっそりと暮らす悲哀とする。
三十一句目。
門さしこもる蓬生の道
いかにせむあやめも分かぬ物おもひ 宗伊
蓬生というと『源氏物語』蓬生巻の末摘花で、門を閉ざした荒れ果てた家で男を待ち続ける姿になる。
「あやめも分かぬ」は「あやめも知らぬ」と同様で、
郭公なくや五月のあやめぐさ
あやめも知らぬ恋もするかな
よみ人しらず(古今集)
今日来れどあやめも知らぬ袂かな
昔を恋ふるねのみかかりて
上西門院兵衛(新古今集)
などの歌に詠まれている。
三十二句目。
いかにせむあやめも分かぬ物おもひ
うかれて出づるたそがれの空 宗祇
たそがれ(黄昏)は「誰そ彼」で、前句の「あやめも分かぬ」を誰かもわからない恋とする。
おそらく『源氏物語』空蝉巻の源氏の君であろう。真っ暗の部屋の中で、間違えて誰かもわからずに抱いてしまった、そんな浮かれた心を「たそがれの空」とする。
ただ、言葉自体に手掛かりが乏しく、「前句に付きがたく候」という注は、その言いおおせぬ感を言うのであろう。
三十三句目。
うかれて出づるたそがれの空
魂とみよやそなたに行くほたる 宗伊
胸焦がす思いが蛍となって愛しい人の元へ飛んで行くという趣向は、
もの思へば沢のほたるを我が身より
あくがれにける魂かとぞみる
和泉式部(後拾遺集)
辺りから始まったものか。
都都逸の、
恋に焦がれて鳴く蝉よりも
鳴かぬ蛍が身を焦がす
の起源も、
音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ
鳴く虫よりもあはれなりけれ
源重之(後拾遺集)
にあるのではないかと思う。
三十四句目。
魂とみよやそなたに行くほたる
あしやのなだはすむ人もなし 宗祇
『新潮日本古典集成33 連歌集』の注に、『伊勢物語』八十七段が引用されている。
芦屋にやってきた在原業平が、
「帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじの男、よむ、
晴るる夜の星か河辺の蛍かも
わが住む方の海人のたく火か
とよみて、家に帰り来ぬ。」
という話で、漁火を蛍に喩えている。
いさり火の昔の光ほの見えて
蘆屋の里に飛ぶ蛍かな
藤原良経(新古今集)
の歌もこの趣向によるものであろう。
『伊勢物語』の本説というよりは、藤原良経の歌を本歌とした付けで、芦屋の里を尋ねてきたけれど、今は棲む人もなく漁火の昔も程遠く、蛍だけが業平の時代の魂を見せてくれる、という意味ではないかと思う。
近代の名だたる高級住宅地の芦屋も、こんな時代もあった。
三十五句目。
あしやのなだはすむ人もなし
世の中のたちゐを波のさわぎにて 宗伊
「たちゐ」は立ったり座ったりということ。ここでは波の立と掛けて、都は何かと騒がしいが、芦屋の灘は棲む人もないと違えて付ける。
『源氏物語』須磨巻のような、宮中の騒動を逃れて隠棲する様であろう。
三十六句目。
世の中のたちゐを波のさわぎにて
雲風なれやかはる朝夕 宗祇
前句の「波のさわぎ」を受けて、世の中は雲風のようなもので、朝夕で目まぐるしく変わっていくと応じる。
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