2022年3月23日水曜日

 この前の地震で東北の火力発電所が止まったままで、東電は節電を呼びかけることになったが、そうなる前に何で再生可能エネルギーを拡充してこなかったのか。国民のエネルギーを人質に取って、勝手放題なことしやがって。
 でも日本ではヨーロッパは再生可能エネルギーの利用が進んでいるみたいに報道されてたけど、どうも一部の国だけだったことが暴露されてしまったみたいだね。再生可能エネルギーを使っておけば、ロシア何て怖くなかったんじゃなかったかな。
 まあ、今の石油価格高騰は再生可能エネルギーを広める絶好のチャンスなので、これを逃してほしくないな。麦価高騰も米を見直す絶好のチャーーーーンス。ピンチをチャンスに変える。これ大事。
 ゼレンスキーさんの日本での国会演説は無難に終わり、まあ日本には憲法第九条があるってことは知っているだろうから、過大な要求は無理というのはわかっていたんだろう。ひたすら好感度アップに終始していた感じがした。
 アジアで最初にとは言ってたけど、他が中国、北朝鮮、韓国じゃな。インドも動かなかったし。

 それでは宗祇さんの連歌をもう一巻、同じく『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)から「新撰菟玖波祈念百韻」を読んでいこうかと思う。
 明応四年(一四九五年)一月六日の興行で、湯山三吟の二年半四年後になる。
 「新撰菟玖波祈念」とあるように、これから『新撰菟玖波集』を作るぞという決意表明の興行で、制作発表のプロモーションと言ってもいいかもしれない。
 『宗祇』(奥田勲著、一九八八、吉川弘文館)によれば、『新撰菟玖波集』はこの年の四月から本格的に編纂が始まり、九月末に完成し、九月二十九日に勅撰に准じられたという。
 「准」が付くとはいえ、勅撰集を作るにはそれなりの身分の人の協力が必要で、ここでは三条西実隆が、『菟玖波集』の二条良基に相当する役割を果たすことになる。ただ、二条良基と違うのは、和歌は得意としたものの、連歌の方はそれほどでもなく、ここでも脇だけの参加になっている。
 発句。

 あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山  宗祇

 正月でまだ目出度い頃の新撰菟玖波祈念なので、筑波山の霞に春の目出度さを読むというのは、ほぼお約束と言っていいだろう。
 連歌の起源は日本武尊の東征のとき甲斐の酒折で交わした、

 新はりつくばをこへて幾夜かへぬる 日本武尊
 かがなべて夜には九夜日には十日よ 火燈しの童

の歌にあるとされていたので、連歌のことを菟玖波の道と呼んでいた。
 脇。

   あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山
 新桑まゆをひらく青柳      西

 西とあるのは三条西実隆で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注によれば、興行の二日前の一月四日に宗祇と話し合って決めた句だという。
 発句をあらかじめ伝えて置き、脇を事前に準備するのは、連歌はもとより俳諧でもそんなに珍しいことではなかった。即興の応酬は第三から始まると言ってもいい。
 新桑まゆはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「新桑繭」の解説」に、

 「にいぐわ‐まよ にひぐは‥【新桑繭】
  〘名〙 =にいぐわまゆ(新桑繭)
  ※万葉(8C後)一四・三三五〇「筑波嶺の爾比具波麻欲(ニヒグハマヨ)の衣はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲(ほ)しも」
  にいぐわ‐まゆ にひぐは‥【新桑繭】
  〘名〙 今年の蚕の繭。新しくとれた繭。にいぐわまよ。
  ※貫之集(945頃)七「今年生ひのにひくはまゆの唐衣千代をかけてぞ祝ひそめつる」」

とある。例文の万葉集の歌にも「筑波嶺の新桑まゆ」とあるように、筑波に縁がある。繭と眉を掛けて筑波嶺の新桑繭に青柳の眉も開く、とする。

 筑波嶺のにひくはまゆの絹よりも
     霞のころも春いそぐなり
              藤原家隆(洞院摂政家百首)

の和歌もあり、万葉集一四・三三五〇の歌も『夫木抄』に収録されている。
 第三。

   新桑まゆをひらく青柳
 春の雨のどけき空に糸はへて   兼載

 柳の糸は雨にも喩えられ、春雨に濡れた柳の芽は柳の色を更に映えるものにする。和歌でも、

 梅の花くれなゐにほふ夕暮れに
     柳なひきて春雨ぞふる
              京極為兼(玉葉集)
 ひろさはの池の堤の柳かげ
     みとりもふかく春雨ぞふる
              藤原為家(風雅集)
 
の歌があり、俳諧にも、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

の句がある。
 四句目。

   春の雨のどけき空に糸はへて
 しろきは露の夕暮の庭      玄宣

 糸には貫き留めぬ玉の露が付く。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注も、

 白露に風の吹きしく秋の野は
     つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
              文屋朝康(後撰集)

を引いている。
 春雨の雫を見ていると、空に糸が生えたかのように、夕暮れに庭に白い露を貫き留めている。
 五句目。

   しろきは露の夕暮の庭
 たち出でて月まつ秋の槇の戸に  玄清

 立ち出でて月を見るというのは和歌にも、

 雲の上の豊の明りにたち出でて
     みはしのめしに月を見しかな
              後深草院少将内侍(風雅集)

の歌もあるが、ここでは「立ち出でて待つ」とし、立待月のこととする。
 また、前句の「庭」に槇の戸と付けることで、場面を山奥に転じることになる。
 六句目。

   たち出でて月まつ秋の槇の戸に
 さ夜ふけぬとやちかきむしの音  玄興

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

   待恋といへる心を
 君待つと閨へも入らぬ槇の戸に
     いたくな更けそ山の端の月
              式子内親王(新古今集)

の歌を引いている。
 立ち出でて月を待っているうちに夜も更けて、近くで虫が鳴いている。初表なので恋の情はない。
 七句目。

   さ夜ふけぬとやちかきむしの音
 しらぬ野の枕をたれに憑むらん  長泰

 「憑む」は「たのむ」。
 旅で見知らぬ野を行くのに、誰の宿に泊まれば良いのか。宿が決まらないままに夜は更けてゆく。
 八句目。

   しらぬ野の枕をたれに憑むらん
 やどりもみえず人ぞわかるる   宗長

 当時の旅はまだ宿場も整備されてなくて、連歌師はその土地の領主を頼ることが多かった。
 次は誰の所にということも決まらぬままに、前の宿の人に送ってもらい出発するが、所領の境界まで来ると、見送りの人も帰ってしまい、知らない野に取り残されることになる。

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