2022年3月10日木曜日

 「ロシアを嫌いにならないで」という声もあるようで、まあロシアのメタルは嫌いじゃないよ。Aq bure、Grai、これはタタールスタンだったか。ロシアというと、前に来日したPAGAN REIGNを見た。
 Wolfmareは前によく聞いていて、Herlapingという曲は「リーーんごーーの花ほころーびー」って歌いたくなる。
 あとSvartby、Troll Bends Fir、Beer Bear、Rogatiy Kolokol、CD持ってるよ。
 Beer BearのЗа незримой чертойの間奏に入っている楽器がいい音だなと思って、これがパンドゥーラとの出会いだった。Тінь СонцяのІван Лузанがゲスト参加していて、ロシア語でИван Сонцесвіт Лузанとクレジットされている。
 あとベラルーシも嫌いじゃないよ。LutavierjeのCD持ってるよ。
 ミュージシャンに罪はないと思うけど、でも侵略戦争は駄目、絶対。

 それでは引き続き『談林十百韻』から、第三百韻を読んでみようと思う。第三百韻までが春の発句になる。

 いざ折て人中見せん山桜     雪柴

 山桜というと、

 もろともにあはれと思へ
     山桜花よりほかに知る人もなし
              行尊(金葉集)

の歌は百人一首でもよく知られている。その知る人もない山桜を見せて進ぜよう、というわけだ。
 山の中にひっそりと咲く花は、貞節を重んじる儒教では蘭の花の役割だが、日本では隠遁者に、山奥にひっそり咲く山桜のイメージになる。
 江戸の市井に潜んでいる市隠たちに、俳諧の席でその姿を現してやろうではないか、という意気込みもあってのことだろう。
 脇。

   いざ折て人中見せん山桜
 懐そだちの谷のさわらび     正友

 「懐そだち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「懐育」の解説」に、

 「〘名〙 懐に抱かれて育つこと。親の手許で大切に養育されること。
  ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「十六七になっても親の懐(フトコロ)そだちとて恋の道にうとく」

とある。
 前句の山桜に谷の早蕨を添える。山を降りる隠士が娘を連れてきたようなイメージだ。でも、早蕨は花見の酒の肴に食べられてしまうが。
 第三。

   懐そだちの谷のさわらび
 鼻紙の白雪残る方もなし     松意

 早蕨に雪解け、懐に鼻紙での展開で、親に甘やかされて育ったから、懐の金もすぐに使い果たしてしまったのだろう。懐には鼻紙すら残っていない。
 四句目。

   鼻紙の白雪残る方もなし
 楊枝の先に風わたる也      卜尺

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「『男女ともに楊枝さしと云へるもの昔はなく、はながみの間に入るまでなり』(嬉遊笑覧)。」

とある。
 鼻紙がなければ楊枝が風にさらされる。『荘子』の「唇竭則歯寒(唇がなければ葉が寒い)」の心だろう。
 五句目。

   楊枝の先に風わたる也
 朝ぼらけ氷をたたく手水鉢    松臼

 風が氷を叩くという趣向は和歌にもあり、

 池水のさえはてにける冬の夜は
     氷をたたく芦のした風
              藤原為家(為家千首)

の歌などがある。前句の楊枝を柳の枝と取り成し、その風が朝の手水鉢の氷を叩く。
 六句目。

   朝ぼらけ氷をたたく手水鉢
 なぐる一銭霜に寒ゆく      在色

 「氷をたたく」というと、

 もとめけるみ法の道の深ければ
     氷をたたく谷川の水
              藤原定家(続拾遺集)

の歌もある。

 岩間とぢし氷も今朝は解け初めて
     苔の下水道もとむらむ
              西行法師(新古今集)

の歌を踏まえたものであろう。谷川の水が氷りを割って流れ出す道を求めるように、我もまた氷を叩いて仏道を求めんという歌だ。
 寺の手水鉢の氷の解けるのに道を求める、ということにして賽銭を投げる。
 七句目。

   なぐる一銭霜に寒ゆく
 今日の月宿かる橋にあめ博奕   志計

 「あめ博奕」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「飴宝引」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飴宝引」の解説」に、

 「〘名〙 子供相手の飴売りが飴を賞品にして子供に引かせる福引き。《季・新年》
  ※雑俳・三尺の鞭(1753)「能ひ日和・あめ宝引も一里出る」

とある。
 ただ、ここでは正月でもない月の頃の飴博奕なので、大人向けのものもあったか。商品も大人向けのものなのだろう。本当に当たりがあるのかどうか怪しいもんだが。
 八句目。

   今日の月宿かる橋にあめ博奕
 馬士籠かき秋の雲介       一鉄

 月に雲ということで雲助を出す。雲助はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雲助」の解説」に、

 「① 江戸時代、住所不定の道中人足。宿駅で交通労働に専従する人足を確保するために、無宿の無頼漢を抱えておき、必要に応じて助郷(すけごう)役の代わりに使用したもの。くも。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「雲助のたな引空に来にけらし〈信徳〉 幽灵(ゆうれい)と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉」
  ② 下品な者や、相手をおどして暴利をむさぼる者などをののしっていう。
  ※甘い土(1953)〈高見順〉「気の弱そうなこの男が、一時は『雲助』とまで言われた流しの運転手を、よくやれたものだ」

とある。
 宿場の橋のあるあたりに仕事を終えて戻ってきた人たちだろう。例文にもあるが、延宝五年冬の「あら何共なや」の巻八十一句目に、

   かた荷はさいふめてはかぐ山
 雲助のたな引空に来にけらし   信徳

の句がある。
 こうした職業の人たちの一部に、悪い奴もいたのだろう。近代でもトラックやタクシーの運転手の蔑称として用いられている。
 初裏、九句目。

   馬士籠かき秋の雲介
 御上使や勢ひ猛にわたる鴈    一朝

 御上使はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「上使」の解説」に、

 「① 幕府、朝廷、主家など上級権力者から公命を帯びて派遣される使い。
  ※百丈清規抄(1462)一「達魯花赤は監郡ぞ。日本の上使と云やうな官人也」
  ② 江戸幕府から諸大名などに将軍の意(上意)を伝えるために派遣した使者。先方の身分などによって、老中、奏者番、高家(こうけ)、小姓、使番などが適宜任ぜられた。
  ※男重宝記(元祿六年)(1693)一「あるひは上意(じゃうゐ)、上使(シ)、上聞、上覧などと、公方家には上の字を付ていふ也」

とある。
 雲助なんておとなしいもので、人を蹴散らしてゆく御上使の方がよっぽど乱暴だ。秋の雲に雁が付くが、隊列を組んでるということで御上使を狩りに喩えるが、随分乱暴な雁もいたものだ。
 十句目。

   御上使や勢ひ猛にわたる鴈
 草木黄みすでに落城       執筆

 猛烈な勢いで通り過ぎて行く御上使は、落城を知らせるためのものだった。
 十一句目。

   草木黄みすでに落城
 獄門の眼にそそぐ露時雨     正友

 落城し、城主は獄門さらし首になる。前句の「草木黄み」に泪の「露時雨」を添える。
 十二句目。

   獄門の眼にそそぐ露時雨
 にせ金ふきし跡のうき雲     雪柴

 「贋金はどこの国、いつの時代にもあるもので、ウィキペディアには、

 「日本では古くは私鋳銭と呼ばれ、大宝律令にはこれを処罰する規定が定められているが、和同開珎発行後に最高刑が死罪まで引き上げられた。私鋳銭とは、日本の朝廷が発行した貨幣以外の貨幣を指すものとされ、平安時代末期には宋銭などの渡来銭が私鋳銭にあたるかどうかについて、貴族や明法家などの間で議論された。実際に渡来銭を私鋳銭と同じとみなして宋銭禁止令が発令されたこともある。だが、皇朝十二銭以後、日本政府が貨幣を発行することはなくなり、一方で貨幣経済の発達により社会からは一定の貨幣供給量が求められることとなり、不足する貨幣を渡来銭で補う以外に選択肢はなかった。渡来銭を流通させてもなお貨幣供給量は不足し、私鋳銭の鋳造は日本全国でごく一般的に行われた。江戸幕府による三貨体制の確立にいたって、銭貨の私鋳はすべて贋金として禁止された。」

とある。銭の鋳造はコストの点であまり割の良いものではない。むしろ通貨供給の不足を防ぐ意味もあって、中世では容認されるような所もあったのだろう。
 金は真鍮、銀は鉛や錫などで、オリジナルから鋳型を取れば、容易に作れたのではないかと思う。そのため贋金は後を絶たず、そのために獄門さらし首にして見せしめにする必要もあったのだろう。
 十三句目。

   にせ金ふきし跡のうき雲
 看板に風もうそぶく虎つかひ   卜尺

 見世物小屋だろうか。看板に「虎使い」とあっても嘘っぽい。
 捕まらずにすんだか、下っ端で釈放された贋金作りが、その後も地方を転々と浮雲のような生活をしては、怪しげな見世物小屋を出す。
 十四句目。

   看板に風もうそぶく虎つかひ
 十郎なまめき          松意

 元から下七がなかったようだ。意図的な伏字で、まあ御想像に、ということか。
 前句の虎を『曽我物語』の遊女虎御前とするが、「看板に」とあるから、野郎歌舞伎の虎御前役の女形であろう。曾我の討入よりも十郎と虎御前とのチョメチョメの場面の方が人気を博してたりして。二流の劇団だとありそうなことだ。
 十五句目。

   十郎なまめき
 挙屋入たがひにゑいやと引力   在色

 挙屋は遊郭の揚屋。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「揚屋入」の解説」に、

 「〘名〙 遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。
 ※俳諧・談林十百韻(1675)上「挙屋入たがひにゑいやと引力に〈在色〉 成ほどおもき恋のもと綱〈松臼〉」

とある。
 この頃の遊郭は双方の同意を必要としたので、「たがひにゑいやと引力」となる。
 「たがひにゑいやと引力」の言葉は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、謡曲『八島』の、

 ツレ「景清追つかけ三保の谷が、
 シテ「着たる兜の錣を摑んで、
 ツレ「後へ引けば三保の谷も、
 シテ「身を遁れんと前へ引く。
 ツレ「互ひにえいやと、
 シテ「引く力に、地鉢附の板より、引きちぎつて、左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官、お馬を汀にうち寄せ給へば、佐藤継信能登殿の矢先にかかつて」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15435-15452). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。三保の谷は謡曲では四郎となっているが、『平家物語』では十郎になっているという。

野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15435-15452). Yamatouta e books. Kindle 版. 
 十六句目。

   挙屋入たがひにゑいやと引力
 成ほどおもき恋のもと綱     松臼

 もと綱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「元綱」の解説」に、

 「〘名〙 車などに綱をつけて引く時の、その綱のもとの方。また、それを引く人。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「挙屋入たがひにゑいやと引力に〈在色〉 成ほどおもき恋のもと綱〈松臼〉」

とある。「えいや」と引くというので、車を引くイメージにする。
 十七句目。

   成ほどおもき恋のもと綱
 上り舟やさすが難所の泪川    一鉄

 もと綱を船を引く綱とし、恋の舟の難所は泪川だとする。
 泪川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「涙川」の解説」に、

 「[1] 涙が多く流れることを、川にたとえた語。川のように流れる涙。涙の川。
  ※班子女王歌合(893頃)「人知れずしたに流るるなみだがはせきとどめなむ影やみゆると」
  [2] 地名。伊勢国の歌枕。和訓栞に、一志郡の川という。
  ※後撰(951‐953頃)離別・一三二七「男の伊勢の国へまかりけるに 君がゆく方に有りてふ涙河まづは袖にぞ流るべらなる」

とある。
 十八句目。

   上り舟やさすが難所の泪川
 さかまく水に死骸たづぬる    志計

 泪川に浮かぶ舟は入水した人を探している。『源氏物語』の浮舟であろう。二人の男に板挟みになって入水するというのは古くからの物語のパターンで、『万葉集』そういう設定で歌を競わせるというのがある。また、『竹取物語』は入水はしないが月が冥府の象徴であるなら、このパターンになる。
 十九句目。

   さかまく水に死骸たづぬる
 すつぽんは波間かき分失にけり  雪柴

 「鼈人を食わんとして却って人に食わる」という言葉があるが、かつては人を食うと考えられていたのだろうか。噛みついたら放さないとはよく言われるが。
 ニ十句目。

   すつぽんは波間かき分失にけり
 からさけうとき蓼の葉の露    一朝

 「からさけうとき」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、『徒然草』三十段の「骸(から)は気うとき山の中におさめて」のもじりとある。
 元ネタだと屍(しかばね)のことで、打越に被ってしまうので、この意味にとることはできない。
 「けうとき」は気味が悪いという意味もあるので、スッポンの殻(甲羅)は柔らかくて気味が悪いという意味になり、波間をかき分け、蓼の生い茂る中に逃げていった、とする。
 ホンタデ(本蓼)やマタデ(真蓼)とも呼ばれるヤナギタデは水辺の湿地に生え、高さ50センチメートルほどになる。葉を蓼味噌にして食べる。
 すっぽんも美味なので、逃げられたのは残念だ。
 二十一句目。

   からさけうとき蓼の葉の露
 楽や月花同じ糂粏瓶       松臼

 楽は「たのしみ」とルビがある。糂粏瓶(じんだがめ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「糂粏瓶」の解説」に、

 「〘名〙 ぬかみそを入れるかめ。
  ※米沢本沙石集(1283)四「秦太瓶(シンタカメ)一つ也とも、執心とどまらん物は、棄つ可きとこそ心得て侍れ」

とある。この場合は中身は糠味噌ではなく蓼味噌だろう。
 前句は空になったら困る蓼の葉の露(蓼味噌)と取り成される。
 二十二句目。

   楽や月花同じ糂粏瓶
 世間をよそに春の山風      正友

 春の桜に月もそろう楽しみに、糠味噌の瓶一つということで、ぬか漬けだけの質素な生活をする世捨て人として、世間を余所に、とする。

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