アメリカは結局独裁政治を容認する方針というわけか。そしてその中間に立つ半グレ国家も容認。それで世界平和が保てるなんて本気で思っているのかな。良くても従来の東西対立構造を維持。いつまた火を吹くかわからない状態に逆戻りだ。
コサック兵は勇敢だが、ヤンキーはチキンというわけか。
そういえばТінь СонцяにКозаки(コザーキ)という曲があったが、これだけ連日ウクライナのことが報道され、ウクライナに関心が集まっているのに、Козаки(英語でCossack)の話を聞かないのは何でなんだろうか。ウクライナ国歌にもкозацького родуとあるのに。
ひょっとしてロシア革命の時に赤軍と戦い、あの時もウクライナを独立させようとしたということで、ロシアとロシア贔屓の左翼の間では封印された言葉になっているのか。
コサックは自由人という意味で、彼らには自由の血が流れている。今のウクライナ兵の勇敢さは、間違いなく彼らの心の中にコサック魂があるからだろう。われわれサムライも負けてはおれんな。われわれも「かまわぬ」魂を。
中世連歌を読み解くのには、やはり「述懐」という独特なテーマについて考えておく必要がある。これは江戸時代の俳諧では廃れてしまった。
述懐は釈教と対を成すようなもので、釈教が出家して世を捨てることを説くものなのに対し、述懐は出家への思いはあっても現世に執着する心を描き出す。
これは産業の未発達な時代に、嫡男以外の男が別の職を見つけるのが難しく、お寺がその受け口になっていたからだ。『曽我物語』でも、兄の十郎は家を継いだが弟の五郎は箱根権現に預けられる。
家督を持つ側も、ある程度の年齢で引退しないと、息子嫡男の身分が定まらない。そういうわけで、ある年齢になったら出家して来世にに備えるというのが、当時の一般的なライフスタイルだった。
嫡男はある年齢で出家、それ以外は若くして出家、それによって武家社会の限られたポストが維持されていた。
だけど出家したくない、その欲求は時として親子兄弟で家督を廻る血で血を洗う争いに発展しかねない。だからこそ、その気持ちをなだめるのが、連歌の述懐の役割だったのではないかと思う。
子供はたくさん生まれてくるが、所領を告げるポストは一つしかない。余剰な人口はもっぱら軍(いくさ)によって消費されるか、出家して子孫を残すことを断念するかだった。中世の顕密仏教は人口調整のための装置だったのではなかったか。
江戸時代は都市の発達によって、二男三男でも都会に出て働くことができた。出家の必然性は薄れ、釈教は単なる信心の問題にすぎなくなった。それが述懐というテーマを衰退させ、同時に釈教も形骸化していった理由ではないかと思う。
あと、「宗伊宗祇湯山両吟」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「新撰菟玖波祈念百韻」の続き。
三裏、六十五句目。
雨夜のあさ日めぐるさとざと
昨日より紅ふかき秋の葉に 友興
秋は一雨ごとに紅葉も深く染まって行く。
「秋の葉」という言い回しは、
露すがる草のたもとの秋の葉を
篠におしなみ渡る夕風
藤原為家(為家千首)
いかにせむ霜をまつまの秋の葉の
よわきにつけてをしまるる身を
藤原為家(夫木抄)
松風の声をつたふる秋の葉も
鹿のそのにやなびきそめけむ
慈円(夫木抄)
などのわずかな用例があり、また、
嵐山秋のはちらぬときは木も
世のさかしるき雪の下折
正徹(草魂集)
山もとのかやか乱や秋のはの
ちりし林の枝のしら雪
正徹(草魂集)
閨の上に秋のは落ちて待つ人は
こすゑの鳥の声そかさなる
正徹(草魂集)
など、正徹の和歌にも見られる。
六十六句目。
昨日より紅ふかき秋の葉に
菊さくかげはちりもかうばし 長泰
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注によると、紅と塵が寄り合いだという。
「『流木集』には「くれなゐの塵 紅塵紫陌とて都の事也。讃めて云へる詞也。都は塵も紅に、ちまたの道も紫也と云へり」とある。「紅塵」という名香もあった(『名香目録』)」
とある。
この場合は菊の周りの落葉も真っ赤で、塵までが香ばしい、という意味になる。
六十七句目。
菊さくかげはちりもかうばし
かずかずの世は長月の猶やへん 宗長
前句を菊の節句(重陽)の祝言とする。
「かずかずの世」は齢を重ねた長寿を意味し、寿命の長いと長月を掛ける。重陽は長月九日。
六十八句目。
かずかずの世は長月の猶やへん
露をみるにも老が身ぞうき 宗祇
祝言から一転して老の嘆きの述懐とする。
六十九句目。
露をみるにも老が身ぞうき
風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍
露は風に散って消える。風に誘われるは死を暗示する。この露のように儚く風に散ってしまうのかと思うと憂鬱になる。
七十句目。
風にだにさそはるるやと待つ暮に
うはの空にはなどかすぐらん 恵俊
「うはの空」は、
玉梓はかけて来たれど雁がねの
うはの空にも聞ゆなるかな
よみ人しらず(金葉集)
の古い用例もある。
中世の、
あだなりやうはの空なる春風に
さそはれやすき花の心は
番号外作者(新後撰集)
の用法がこの句に近い。
句の方も何に誘われるかは明記されてないが、花とか恋とかを仄めかすものであろう。
七十一句目。
うはの空にはなどかすぐらん
をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清
ホトトギスはウィキペディアに、
「望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」
とある。都に帰る旅路の半ばにホトトギスの「不如帰去」の声を聞けば、うわの空に通り過ぎるわけにもいかない。しかと聞き留めよ、ということになる。
七十二句目。
をちかへりなかば都ぞほととぎす
みすはみどりの軒のたち花 兼載
ホトトギスに橘とくれば、
けさきなきいまだたびなる郭公
花たちばなにやどはからなむ
よみ人しらず(古今集)
であろう。
都へ帰る旅の途中、ホトトギスが鳴いたので橘の軒の宿を借りる。本歌付けになる。
七十三句目。
みすはみどりの軒のたち花
袖ふるる扇に月もほのめきて 宗祇
これは、
五月闇みじかき夜半のうたた寢に
花橘の袖に涼しき
慈円(新古今集)
だろう。涼しきを「袖ふるる扇」で具体化し、「夜半」も「月もほのめきて」と具体化する。
七十四句目。
袖ふるる扇に月もほのめきて
まねくは見ずやくるる河つら 恵俊
前句を、月が川面に沈んで半分になった姿を扇に喩えたとする。
月かげの重なる山に入りぬれば
今はたとへし扇をぞおもふ
藤原基俊(新千載集)
の歌もあるように、扇の風の涼しさはしばしば夏の月に喩えられる。
よそへつる扇の風やかよふらん
涼しくすめる山のはの月
洞院実雄(宝治百首)
の歌もある。
月に柄をさしたらば良き団扇かな 宗鑑
の句も、こうした和歌の扇を月に喩える例からすればそれほど突飛なものでもなく、『去来抄』に、
「魯町曰、月を団扇に見立たるも物ずきならずや。去来曰、賦比興は俳諧のみに限らず、吟詠の自然也。」
とあるのも、和歌の時代から月を扇に見立てる例があったからだと思うと、一時の流行ではないというのが納得できる。
七十五句目。
まねくは見ずやくるる河つら
いそがぬをくゆるばかりの山越に 慶卜
「くゆ」は「悔ゆ」で、山越えの長い道の途中の川で日が暮れてしまい、磯がなかったのが悔やまれる。
七十六句目。
いそがぬをくゆるばかりの山越に
けふをはてなるあらましの道 宗長
前句を死出の山越えとしたか。
「あらましの道」はいつか仏道に入ろうという計画のことで、それを急がなかったために、臨終に間に合わなかった。
七十七句目。
けふをはてなるあらましの道
涙などよわき心に残るらむ 宗仲
これは出家の場面になる。出家をしようと思いは今日遂げられて果てとなる。ここでまだ俗世への未練の涙を流せば、弱い心が揺らいでしまいそうだ。
七十八句目。
涙などよわき心に残るらむ
われも薄の穂に出づるころ 兼載
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、
今よりはうゑてだに見し花すすき
ほにいづる秋はわびしかりけり
平貞文(古今集)
の歌を引いている。ススキの穂は侘しく、涙を誘う。
われのみや侘しと思ふ花すすき
穂にいづるやとの秋の夕暮れ
源実朝(金槐集)
の歌もある。
句の方は「我も」と並列の「も」を用いることで、自らの老いて白髪頭になった姿と重ね合わせる。
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