今日は鶯の声を聞いた。ミモザが咲き始めた。
令和三年の統計では日本の専業主婦世帯は566万世帯で、共働き世帯は1,247世帯だという。
ここから言えるのは、1,813世帯中566万世帯、つまり日本の専業主婦率は31パーセントになる。専業主婦世帯と共働き世帯の数は九十年代に逆転していて、今も専業主婦世帯は減少し続けている。
ただ、女性の非正規雇用の割合は平成二十九年の統計で55.5パーセントで、平成二年の38.1パーセントから右肩上がりに増えている。
統計の年度は違うが、単純に共働き世帯1,247世帯の55.5パーセントが非正規雇用だとすると、約692万世帯が妻の方が非正規雇用で、非正規でもフルタイム労働の人はいるから、単純にこれが兼業主婦世帯の数とは言えないが、これと専業主婦世帯とを合わせると、1,258万世帯で69パーセントになる。
専業主婦の減少分の多くは、パートなど非正規雇用に移行しただけで、女性の社会進出に繋がってないと見ていい。
日本経済の特殊性を考える時、終身雇用だけでなく、専業・兼業を含めた「主婦率」の高さも考慮する必要がある。日本の「主婦」は世界的に見ても特殊で、家計管理をほぼ全面的に任されていて、特に消費と資産運用に関しては主婦が日本経済の主役だと言ってもいい。
例えば世帯収入を向上させよとしたとき、妻のパート収入は限界があり、特に配偶者控除の関係で130万円が上限で、それ以上働こうという意欲は薄い。そうなると、その分夫への残業増加の圧力になる。これが日本の長時間労働体質の一つの要因となっている。夫に長時間労働を要求してしまうと、家事や育児への参加はそれだけで困難になる。
つまり、家計が悪化すればするほど夫の労働時間が増え、育休などの取りにくい状態が生まれる。妻の方も夫の育児参加か収入の維持かという選択に迫られる。介護に関しても同じことが起こる。
主婦率の高さは日本で個人投資家が増えない原因にもなっている。投資をしようとした場合、夫にはそもそも投資資金がない。ただ月々わずかな小遣いを貰っているだけで、ほとんどは昼食代に消えている。
投資を実際に行うのは「主婦」ということになるが、この主婦に安定志向が強く、家の財産の多くは結局銀行預金に流れている。これが日本の異常なまでの貯蓄率の高さのもとになっている。
主婦制度は終身雇用制度と並んで日本独自の習慣で、日本経済に大きな影響を与えている。給与の上昇よりも雇用の安定を優先し、直接投資をせずに銀行預金を膨れ上がらせる。主婦は何よりも生活の安定を優先する。終身雇用撤廃に最も抵抗しているのは主婦層ではないかと思う。
日本の女性の社会進出が進まない背景にも、この主婦制度が強固で、正規雇用でフルタイムで働く女性というのがいつになっても少数派で、会社のシステムが男中心にならざるを得なくなっている。長時間労働を要求する所帯持ちの男の声を優先させてはみても、長時間労働体質は、残業を稼ぐためのだらだら残業を生み出し、結局生産性を低下させる。
日本独自の主婦制度がある限り、いくら西洋を真似て同じような法律を作っても、結局は実質を伴わない形だけのものになる。それでも日本のフェミニストのほとんどは西洋かぶれで、日本に実情に合った戦略を思いつくことはない。いつまでたってもフェミニストは「日本は遅れてるーーーっ!!」と絶叫するだけのうざい存在にすぎない。
それでは「春がらし」の巻の続き、挙句まで。
名残表、七十九句目。
いかに老翁かすむ岩橋
有難や社頭のとびらあけの春 雪柴
岩橋から葛城一言主神社としたか。ウィキペディアには、
「延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国葛上郡に「葛木坐一言主神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭に際しては幣帛に預かった旨が記載されている。
その後の変遷は不詳。かつては神社東南に神宮寺として一言寺(いちごんじ)があったが、現在は廃寺となっている。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列し、明治16年(1883年)3月に県社に昇格した。」
とある。江戸時代の様子はよくわからない。芭蕉の『笈の小文』には、
「葛城山
猶(なほ)みたし花に明行(あけゆく)神の顔」
と記すのみだった。ウィキペディアの「役小角」の項には、
「役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。」
とある。
特にこの伝説に掛けなくても、普通に神社の境内の岩橋でも良い。老翁は神主か、それとも神の顕現か。
八十句目。
有難や社頭のとびらあけの春
鏡のおもてしろじろと見る 松意
社殿の扉を開ければ、御神体の鏡がある。有難いことだ。
八十一句目。
鏡のおもてしろじろと見る
口中に若衆のいきやみがくらん 志計
衆道の若衆が鏡を見る。
自分の息で鏡が白くなると、意気ではなく息を磨いてるようだ。
前句の「しろじろ」を「じろじろ」という意味にも掛けたか。
八十二句目。
口中に若衆のいきやみがくらん
兼保のたれおもひみだるる 松臼
兼保(かねやす)は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注によると、有名な歯医者だったという。貞享の頃に成立した『雍州府志』に、
「丹波康頼之孫、号兼康、治諸病、特得療歯牙之術、自玆為治口舌之医」
とあるという。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「兼康」の解説」には、
「江戸時代、江戸本郷にあって歯磨き粉、歯痛の薬を売った店。
[補注]「御府内備考‐三三」に「本郷三丁目〈略〉町内東側北木戸際同所四丁目両町境横町を里俗兼康横町と相唱申候」とあり、「本郷も兼康までは江戸の内」などともいわれた。」
とある。
若衆の息を磨くというが、兼康は一体どんな若衆を思っていたのだろうか、とする。
八十三句目。
兼保のたれおもひみだるる
しのび路はつらき余所目の関の住 卜尺
兼保を普通に誰かの名前として、恋路を忍んで関を越えてゆく姿を、関守は他人事ながら辛いだろうな、とする。
八十四句目。
しのび路はつらき余所目の関の住
首たけはまる中の藤川 在色
「首たけ」は首ったけのこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「首丈」の解説」に、
「① (「くびだけ(首丈)」の変化した語) 足もとから、首までの丈。転じて、物事の多くつもること。くびだけ。
※不在地主(1929)〈小林多喜二〉一「五年も六年もかかって、やうやくそれが畑か田になった頃には、然しもう首ったけの借金が百姓をギリギリにしばりつけてゐた」
② (形動) (首の丈まで深くはまるの意から) ある気持に強く支配されること。思いが深いこと。特に、異性にすっかり惚れこんでしまうこと。また、そのさま。くびだけ。
※洒落本・多佳余宇辞(1780)「帰りてへは、首ったけだが」
※わかれ道(1896)〈樋口一葉〉中「質屋の禿頭(はげあたま)め、お京さんに首ったけで」
[語誌](1)近世前期から上方では「くびだけ」の形で用いられ、文字通り首までの長さを表わし、さらに「首丈沈む」「首丈嵌(は)まる」などの言い回しにも見られるように、この上なく物事が多くつもる意、あるいは、深みにはまる意から異性に惚れ込む意で用いられた。
(2)中期以降、江戸を中心に「くびったけ」の形で用いるようになる。江戸ではまた「くびっきり」という言い方もなされた。」
とある。
首までどっぷりつかるという意味で「はまる」というのは、今でも「ゲームにはまる」「アイドルにはまる」などのように用いられている。元は「首丈にはまる」だった。
藤川は「関の藤川」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「関の藤川」の解説」に、
「岐阜県南西端、関ケ原町の旧跡不破関付近を流れる藤古川のこと。藤川。
※古今(905‐914)神あそびの歌・一〇八四「みののくにせきのふぢがはたえずして君につかへん万代までに〈よみ人しらず〉」
とある。前句の関を不破の関とする。「中」は「仲」と掛ける。
八十五句目。
首たけはまる中の藤川
から尻の駒うちなづみけし飛で 一朝
「から尻」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「軽尻・空尻」の解説」に、
「① 江戸時代の宿駅制度で本馬(ほんま)、乗掛(のりかけ)に対する駄賃馬。一駄は本馬の積荷量(三六~四〇貫)の半分と定められ、駄賃も本馬の半額(ただし夜間は本馬なみ)を普通としたが、人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに、五貫目までの荷物をうわのせすることができた。からじりうま。かるじり。
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)一「歩(かち)にてゆく人のため、からしりの馬・籠のり物」
② 江戸時代、荷物をつけないで、旅人だけ馬に乗り道中すること。また、その馬。その場合、手荷物五貫目までは乗せることが許されていた。からじりうま。かるじり。
※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「追分よりから尻(シリ)をいそがせぬれど」
※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)四「このからしりにのりたるは、〈略〉ぶっさきばおりをきたるお侍」
③ 馬に積むべき荷のないこと。また、その馬。空荷(からに)の馬。からじりうま。かるじり。
※雑兵物語(1683頃)下「げに小荷駄が二疋あいて、から尻になった」
④ 誰も乗っていないこと。からであること。
※洒落本・禁現大福帳(1755)五「兄分(ねんしゃ)の憐(あはれみ)にて軽尻(カラシリ)の罾駕(よつで)に取乗られ」
とある。ここでは空の馬であろう。藤川の前でどうしようか迷いつつも、意を決して川の飛びこそうとした。その結果、首まで川にどっぷりつかってしまった。
「首たけはまる」を文字通りの意味としての恋離れになる。
八十六句目。
から尻の駒うちなづみけし飛で
とある朽木をこすはや使 正友
前句の「から尻」を①の宿駅制度の本馬とする。急ぎの使者を乗せ、道を塞ぐ朽木を飛び越して行く。
八十七句目。
とある朽木をこすはや使
すり火打きせる袋にがらめかし 松意
すり火打は火打石で、煙管の袋をガラガラさせる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「がらめかす」の解説」に、
「〘他サ四〙 (「めかす」は接尾語。「からめかす」とも) がらがらと音をたてる。
※平治(1220頃か)中「六波羅まで、からめかして落ちられけるは、中に、優にぞみえたりける」
※日葡辞書(1603‐04)「Garamecaxi, u, aita(ガラメカス)〈訳〉上にあげた物(振鈴・鈴・将棋の駒・胡桃)を鳴らす。また、他のあらゆるやかましい音を立てさせる」
[補注]「日葡辞書」以前の例については清濁は不明。」
とある。
朽木を飛び越える時に煙管袋がガラガラ音を立てる。
八十八句目。
すり火打きせる袋にがらめかし
こまもの店にわたる夕風 一鉄
前句の煙管袋はこまもの屋の店にぶら下がっていて、夕風にガラガラ音を立てる。
八十九句目。
こまもの店にわたる夕風
寺町の鐘に命のおもはれて 松臼
寺町はお寺の多く集まる地域で、京の京極の寺町通りがよく知られている。お寺が多く、いくつもの鐘が物悲しくて命の儚さを思わせる。このあたりのこまもの店にも夕風が物悲しい。
九十句目。
寺町の鐘に命のおもはれて
かつしきのわかれ又いつの世か 雪柴
「かつしき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「喝食」の解説」に、
「① (「喝」は唱えること) 禅宗で、大衆(だいしゅ)に食事を知らせ、食事について湯、飯などの名を唱えること。また、その役をつとめる僧。のちには、もっぱら有髪の小童がつとめ、稚児(ちご)といった。喝食行者(かっしきあんじゃ)。
※永平道元禅師清規(13C中)赴粥飯法「施食訖。行者喝食入。喝食行者先入二前門一。向二聖僧一問訊訖。到二住持人前一。〈略〉面向二聖僧一問訊訖。又手而立喝食」
※咄本・百物語(1659)下「五山の喝食(カッシキ)、連句に心を入て他事なし。さる人いふやうは、ちごかっしきなどは、又やはらかなる道をも御がくもんありたるよし
② 能面の一つ。①に似せて作ってある。額に銀杏(いちょう)の葉形の前髪をかいた半僧半俗の少年の面。「東岸居士(とうがんこじ)」「自然居士(じねんこじ)」「花月(かげつ)」などに用いる。前髪の大きさにより大喝食、中喝食、小喝食などの種類がある。
③ 昔、主に武家で元服までの童子が用いた髪型の一種。頭の頂の上で髪を平元結(ひらもとゆい)で結い、さげ髪にして肩のあたりで切りそろえる。
④ 歌舞伎の鬘(かつら)の一つ。もとどりを結んでうしろにたらした髪型。「船弁慶」の静、「熊谷陣屋」の藤の方など時代狂言で高位の女性の役に用いる。
※歌舞伎・茨木(1883)「花道より真柴白のかっしき鉢巻、唐織の壺折、檜木笠を斜に背負ひ、杖を突き出来り」
⑤ 女房詞。書状の宛名の書き方で、貴人に直接あてないで、そば人にあてる場合に使用される。
※御湯殿上日記‐文明一四年(1482)七月一〇日「めてたき御さか月宮の御かた、おか殿御かつしき御所、ふしみとの〈略〉一とにまいる」
[語誌](①について) 「庭訓往来抄」では「故に今に至るまで鉢を行之時、喝食、唱へ物を為る也」と注する。また、「雪江和尚語録」によれば、後世は有髪の童児として固定していたようである。」
とある。ここでは①の意味だが、「もっぱら有髪の小童がつとめ、稚児(ちご)といった。」とあるように、お寺の稚児との別れで、恋に転じる。
九十一句目。
かつしきのわかれ又いつの世か
身が袖に出舟うらまん今日の月 在色
喝食から謡曲『自然居士』への展開か。身売りした少女を助けるべく、人買い船に乗り込んでゆく。
少女が自ら身売りした金で買って寄進した衣を手にして自然居士は、
「身の代衣恨めしき、身の代衣恨めしき、浮世の中をとく出でて、先考先妣諸共に、同じ台に生まれんと読み上げ給ふ自然居士墨染の袖を濡らせば、数の聴衆も色色の袖を濡らさぬ、人はなし袖を濡らさぬ人はなし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.50581-50590). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の場面が「身が袖に」になり、「出舟うらまん」ということで近江の大津松本へと向かう。最初の方に、
「夕の空の雲居寺、月待つ程の慰めに」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.50541-50542). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とあり、月の夜だった。
九十二句目。
身が袖に出舟うらまん今日の月
悋気いさかひ浜荻の声 志計
浜荻は伊勢の浜荻で、難波では芦という。
難波の芦は古くから和歌に詠まれて、
難波潟みじかき葦のふしの間も
あはでこの世を過ぐしてよとや
伊勢(新古今集)
の歌は百人一首でも知られているが、芦の声は特に詠まれてはいない。荻の上風は寂しげで物凄いものとして和歌の題材にはなっていあ、
浜荻(芦)の声はそういうわけで和歌の趣向ではなく、俳諧の言葉として、ここでは悋気いさかいの騒ぎ立てる声として用いられている。
前句を行ってしまった男への恨みとして、そうなるに至った嫉妬を廻るいさかいの声を付ける。
名残裏、九十三句目。
悋気いさかひ浜荻の声
あたら夜の床をひやしてうき思ひ 正友
「あたら夜」は明けるのが勿体ないような夜のことだが、それが嫉妬から来るいさかいで一人寝る夜になってしまった。
九十四句目。
あたら夜の床をひやしてうき思ひ
此子のなやみうばがいたづら 卜尺
乳母が男を引き入れたりして遊んだりしているが、せっかくの夜を育てている子供が邪魔をする。
「いたづら」は多義だが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「徒・悪戯」の解説」には、
「② 性愛に関する行為、感情などを主として否定的にいう語。
(イ) 性に関してだらしがないこと。みだらであるさま。好色な感じ。
※咄本・内閣文庫本醒睡笑(1628)七「若き女房の徒(イタヅラ)さうなるあり」
(ロ) 性的な衝動。異性に対する思い。
※浮世草子・好色五人女(1686)一「恥は目よりあらはれ、いたづらは言葉にしれ」
(ハ) (━する) 男女間の、道にはずれた関係。不品行な行為。特に、夫婦でない男女がこっそりあうこと。不義。密通。姦通。
※浄瑠璃・山崎与次兵衛寿の門松(1718)中「もし私にいたづらあらば、先の相手を切りも殺しもなさる筈」
という意味がある。
九十五句目。
此子のなやみうばがいたづら
青き物又ある時はつまみ喰 一鉄
ある程度大きくなった子であろう。未熟者でつまみ食いなどをする。
前句の「いたづら」を悪戯ではなく徒(いたづら)の方として、乳母がほったらかしにしているという意味にする。
九十六句目。
青き物又ある時はつまみ喰
盆に何々むすび昆布あり 一朝
むすび昆布は今でもおでんなどに入れる昆布を結んだもので、盆の上に乗せた結び昆布や青物をつまみ食いする。
九十七句目。
盆に何々むすび昆布あり
岩代の野辺に宗匠座をしめて 雪柴
前句の結び昆布を岩代の松に見立てる。岩代の松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「岩代松・磐代松」の解説」に、
「和歌山県南西部、みなべ町の浜の松。有間皇子にちなむ結び松のこと。歌枕。
※菟玖波集(1356)恋中「むすぶ文にはうは書もなし 岩代の松とばかりは音信れて〈信照〉」
とある。
『万葉集』には、
有間皇子、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐白の浜松が枝を引き結び
まさきくあらばまたかへり見む
家にあれば笥に盛る飯を草まくら
旅にしあれば椎の葉に盛る
とあるが、この出典とはあまり関係なく、昆布を結ぶ、ということからその縁として「岩代」の地名を導き出す。
岩代の宗匠は陸奥岩城の猪苗代兼載のことか。北の方だから昆布があるだろう、ということなのだろう。
九十八句目。
岩代の野辺に宗匠座をしめて
たのむうき世の夢の追善 在色
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、
熊野へ詣で侍りしに岩代の王子に
人々の名など書き附けさせて
しばし侍りしに拝殿の長押に書き付け侍りし時
岩代の神は知るらむしるべせよ
頼む憂き世の夢のゆく末
よみ人しらず(新古今集)
を引いている。この歌の縁で、岩代の宗匠が追善連歌興行を行ったとする。
九十九句目。
たのむうき世の夢の追善
一通義理をたてたる花軍 志計
一通は「ひととほり」。
花軍(はないくさ)は貞徳の『俳諧御傘』に、
「正花也、春也。是は玄宗と楊貴妃と立別、花にて打ちあひあそばれし事と云へり。」
とある。ただ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「花軍」の解説」には、
「① はなばなしく戦うこと。はなばなしい戦い。
※籾井家日記(1582頃)四「明日にも当城へ敵の乱れ入りて候はば、搦手口をば請取りて花軍を致すべきと存ずる」
② 花の枝で打ち合う遊戯。唐の玄宗が、侍女を二組に分けて花の枝で戦わせたという故事が有名。はなずもう。はなくらべ。《季・春》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
③ 花を出し合ってその優劣を競うこと。《季・春》
※浮世草子・好色二代男(1684)三「敵無の花軍(ハナイクサ)」
④ 花と花との戦争。花の精と花の精との合戦。草花を擬人化したものによる想像上の戦い。謡曲「花軍」、御伽草子「草木太平記」などに描かれている合戦。
※叢書本謡曲・花軍(1541頃)「必ず恨みの花軍、夢中にまみえ申さん」
とあり、この場合は①であろう。
亡き人を弔って敵を討つ、いわゆる弔い合戦を美化して「花軍」とはいうが、そんなのもただの建前だったりする。本当の軍はそんなきれいごとではない。
挙句。
一通義理をたてたる花軍
その七本のすゑの鑓梅 松意
前句の花軍を③の意味の取り成し、花の優劣を競う遊びとして一巻は目出度く終わる。
ものが軍だけに「鑓梅」の優勝。槍梅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「槍梅」の解説」に、
「〘名〙 ウメの一品種。花は白く、やや淡紅色を帯びる。
※仮名草子・尤双紙(1632)下「名所誹諧発句しなじな〈略〉やり梅のながえやつづくみこし岡」
とある。真っすぐに上に伸びた枝に咲く梅を、文様などで「槍梅」ということもある。
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