今日の写真は二〇一七年四月十六日に山梨県笛吹市で撮影した菜の花と桃の花。桃の産地で、また行って見たいな。
それでは「されば爰に」の巻の続き、挙句まで。
名残表、七十九句目。
先谷ちかき百千鳥なく
音羽山かすみを分て礼返し 正友
前句の谷を逢坂山の大谷として音羽山を出す。
「かすみを分(わけ)て」は、
山高み霞をわけてちる花を
雪とやよその人は見るらん
よみ人しらず(後撰集)
を始めとして和歌に多用される言葉だが、霞を中をかき分けての意味。それを霞を分割して返礼すると転じる。霞の半分を近江に返す。
八十句目。
音羽山かすみを分て礼返し
関のこなたにばさばさあふぎ 松意
音羽山と言えば逢坂の関で、一方で巨大な団扇でバサバサ扇いで、霞を向こう側に追いやろうとしている。
八十一句目。
関のこなたにばさばさあふぎ
俄ぞりかかる藁屋を命にて 一朝
逢坂の関の蝉丸であろう。
世の中はとてもかくても同じこと
宮も藁屋もはてしなければ
蝉丸(新古今集)
の歌はよく知られている。謡曲『蝉丸』では目が不自由という理由で出家させられ、逢坂の関に捨て去られるが、それを俄(にはか)出家とする。
八十二句目。
俄ぞりかかる藁屋を命にて
あはれ今年の中に病功 一鉄
病功を病気の治癒とすると「あはれ」がわからなくなる。病功は病のせいでというくらいの意味か。
「あはれ今年の」の言い回しは、
契りおきしさせもが露を命にて
あはれ今年の秋もいぬめり
藤原基俊(千載集)
の歌によるもので、「命にてーあはれ今年の」のつながりがそのまま生かされている。これは連歌では「うたてには」と呼ばれる。
年内にもはや命も危ないというので、俄出家して死後に備える。
八十三句目。
あはれ今年の中に病功
青表紙かさなる山を枕もと 卜尺
前句の病功を病にかこつけての意味に取り成し、枕元に青表紙本を積み上げ、読書三昧に耽る。この場合の青表紙は仮名草子や浄瑠璃本であろう。
八十四句目。
青表紙かさなる山を枕もと
一ッぷしかたる松の夜あらし 在色
「一ッぷし」は一節で、浄瑠璃本の一節を語ると、嵐の風に松の一節も語る。
八十五句目。
一ッぷしかたる松の夜あらし
色をふくむ二三の糸の片時雨 雪柴
前句の「一ッぷし」を弄斎節などの一節として、三線の二の糸、三の糸がなかなか泣かせる。
八十六句目。
色をふくむ二三の糸の片時雨
君が格子によるとなく鹿 正友
格子は遊郭の張見世の格子であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「張見世」の解説」で、
「遊女屋の入口わきの、道路に面して特設された部屋に、遊女が盛装して並ぶこと。もとは店先に立って客を引いたものが、座って誘客するために考案された方法であろう。したがって客を誘うための行為であるが、遊客が遊女を選定するのに便利なように、座る位置や衣装で遊女の等級や揚げ代がわかるようになっていた。各遊女屋では上級妓(ぎ)を除く全員が夕方から席について客を待ち、客がなければ夜12時まで並んでいた。江戸吉原では、張見世を見て歩く素見(ひやかし)客が多かった。明治中期から東京ほか地方の遊廓(ゆうかく)でも廃止され、かわりに店頭に肖像写真を掲げた。アムステルダムやハンブルクの「飾り窓の女」は、これの海外現代版である。[原島陽一]」
とある。
「よるとなく鹿」は「夜と鳴く鹿」と「寄ると無く」とを掛ける。つまり見るだけで素通りする。
八十七句目。
君が格子によるとなく鹿
文使山本さして野辺の秋 志計
前句を王朝風にして、使いの者に歌などを詠んだ恋文を持たせて、野辺にひっそり暮らす花散里のような女に届けさせる。女の家の辺りでは夜となると鹿が鳴く。
八十八句目。
文使山本さして野辺の秋
衆道のおこり嵯峨の月影 一朝
前句の野辺を嵯峨野とする。
嵯峨というと天和三年刊『風流嵯峨紅葉』があるが、著者は山本八左衛門で、前句の「山本」に掛かるから、延宝期に前身となる作品があった可能性がある。
八十九句目。
衆道のおこり嵯峨の月影
追腹やその古塚の女郎花 松臼
追腹(おひばら)は後を追って腹を切ること。
寛永十七年の藩主細野主膳切害事件は衆道のトラブルによって起きた当時は有名な事件で、伊丹右京が切腹を命じられ、舟川采女がその後を追ったという。
九十句目。
追腹やその古塚の女郎花
千石の家たてりとおもへば 卜尺
主君が腹を切れば臣下も追い腹を切るのは、「士は二君に仕えず」の忠義の話として美化されがちだが、臣下も所領を失い困窮するから、現実的な面もある。「たてり」はこの場合は「絶てり」。
九十一句目。
千石の家たてりとおもへば
倹約を守といつぱ手鼻にて 一鉄
千石を賜り立派な屋敷を建てたが、見栄を張り過ぎたか、倹約を強いられる。鼻紙が勿体ないということで、手鼻をかむ。
「いつぱ」はよくわからない。一派か一把か。
九十二句目。
倹約を守といつぱ手鼻にて
水風呂よりも寧洗足 松意
水風呂は今のような湯船のお湯に浸かるタイプの風呂で、この時代はそれまで主流の蒸し風呂と入れ替わる時期だった。
水風呂は最初はお寺に多かったのだろう。お寺ではまず足を洗うことから。
名残裏、九十三句目。
水風呂よりも寧洗足
旅衣幾日かさねて気むづかし 志計
長旅では足も汚れる。「気むづかし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気難」の解説」に、
「① 気分がすぐれない。うっとうしい。また、何かをするのがわずらわしい。
※俳諧・談林十百韻(1675)上「水風呂よりも寧洗足〈松意〉 旅衣幾日かさねて気むつかし〈志計〉」
※人情本・春色梅美婦禰(1841‐42頃)初「夫とも貴君もお気欝(キムヅカシ)くは明日でもよろしふござゐます」
② 自我が強く神経質で、容易に人に同調しない。
※人情本・英対暖語(1838)四「客人の中に、寔に気むづかしいお客があって」
とある。①の意味は「むつかし」の古い意味による。
体がだるくて、何をするのにも億劫だから、足も洗わなくてはならないけど、それより湯船にゆっくり浸かりたい。
九十四句目。
旅衣幾日かさねて気むづかし
その沢のほとりあと付枕 松臼
「その沢のほとり」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』に『伊勢物語』九段とある。
「三河の国八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなれば、橋を八つわたせるよりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木のかげにおり居て」
とあって、あの有名な、
唐衣きつつ馴にしつましあれば
はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
在原業平
に繋がる。
旅で疲れているのに「かきつはた」の五文字を頭にして歌を詠めなんて、無茶振りされて、八橋を後付けで歌枕にして、この地を有名にしようという魂胆だったか。
九十五句目。
その沢のほとりあと付枕
切どりはにげて野中の朝朗 一朝
朝朗は「あさぼらけ」。
「切どり」は切取強盗のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切取強盗」の解説に、
「〘名〙 (「きりどりごうどう」「きりどりごうとう」とも) 人を切り殺して金品を奪い取ること。また、その人。切取り。
※黄表紙・化物太平記(1804)上「きりどりごうどうをなして世をわたりける」
とある。
前句の付枕を枕付(まくらづけ)のこととしたか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「枕付」の解説」に、
「〘名〙 死者の枕頭に供えること。また、そのもの。
※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)五「死人にそなへし枕づけのぐもつ」
とある。
沢の辺で仲間が切取強盗に斬られ、それを弔う。
九十六句目。
切どりはにげて野中の朝朗
代官殿へひびく松風 雪柴
切取強盗は捕まらず、代官様も困っている。松風の音が空しい。
九十七句目。
代官殿へひびく松風
つき臼を民のかまどに立ならべ 在色
前句の「ひびく」を搗き臼の音とする。精米に用いる。
飢饉か災害の時であろう。代官様の計らいで救援物資として玄米と搗き臼が支給され、その音は代官様の耳にも届くことだろう。
九十八句目。
つき臼を民のかまどに立ならべ
難波の京に大力あり 一鉄
大力は「だいぢから」とルビがある。力持ちのこと。
前句から、
貢物許されて國富めるを御覧じて
高き屋に登りて見れば煙立つ
民のかまどはにぎはひにけり
仁徳天皇御歌(新古今集)
の歌の連想で、舞台を仁徳天皇の時代の難波京(難波高津宮)としたのだろう。
あの時代に搗き臼を並べたのだから、さぞかし力持ちがいたのだろう。
九十九句目。
難波の京に大力あり
連俳や何を問ても花衣 松意
前句を難波や京に大きな力を持つ者がいる、としてこれを宗因とする。
挙句。
連俳や何を問ても花衣
一座の崇敬万年の春 正友
最後は一座感謝をこめて、万歳をことほいで一巻は目出度く終了する。
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