マス護美も最近はロシア側の主張ばかりになってきている。恐れていたことが本当になりつつある。
基本的にはレーニン帝国主義論に基づく米帝史観が相変わらず左翼の間に根強く、今回の戦争をロシア側の宣伝通り、NATOの東進(=米帝の拡大)が原因という立場を取っていることだ。そのためウクライナを永久にNATOから遠ざけ、非武装中立にすることで納得すべきだというものだ。もちろんここにはウクライナ人の意思は全く反映されていない。
ウクライナを非武装中立にすれば、ロシアはウクライナをスルーしてヨーロッパの非NATO加盟国に同じ手を使えることになる。
左翼の印象操作が実際どういうものなのか、一つの例としてネット上の「みんなのミシマガジン」の「ウクライナ侵攻について(藤原辰史)」を読んでみようと思う。藁人形ではなく実際にあるものを叩く必要がある。
基本的には、ロシアの侵略は悪いことだが、我々も同じくらい悪いということで黙らせようという作戦だ。そのためにアメリカと日本と資本主義を悪に仕立て行くというお決まりのパターンが用いられている。日本に対する批判はこれもいつものことだが、誰ということもない実体のない藁人形を攻撃する。
「第一に、ロシアの軍事行動は、純然たる国際法違反です。」
これは大方ほとんどの人が同意していることで、まあ鈴木宗男という例外が多少いる程度のものだ。(「国際法は存在しない」と国会質問の場で発言して炎上した)
「第二に、ロシアとロシア人を同一視してはならないことです。」
これも多くの人が同意していると思う。筆者もロシアのメタルなどを取り上げて、ロシア人を嫌いにならないように説いてきた。ただ、マス護美はごく一部のロシア人への嫌がらせを過大に報道し、あたかもそのような圧倒的な世論が存在するかのような印象操作を行っている。
特にツイッターに類するネットの書き込みというのは毎日無数にあるもので、その中に一つでもあれば、ネットでこういう声が上がっていると報道できる。ないなら作ればいいだけのことだ。
マス護美はこうした手口を何度も用いている。震災の時に朝鮮人が井戸に毒を撒いたというツイットがあっただとか、まあ、一軒でもあったなら嘘ではないというレベル。コロナの時には自粛警察の神話を作り上げたが、筆者はその頃毎日仕事で外を出歩いていたが、そんなもの一度も見たことはない。マス護美はごく少数の声を大きな声であるかのようにでっちあげる。
まあ、嘘だとわかっていても、方便として使えるものは何でも使うという考えなのかもしれないが。
「第三に、プーチンは「クレイジーだ」「病気を抱えている」という言説には最大限の警戒心を持ちたいということです。」
筆者も同感で、プーチンを心神耗弱で無罪にする気なのかと書いたこともある。
まあ、この三点に関しては、ほとんどの国民は納得できると思う。ここで納得させといて、安全な考え方の人だと思わせておいて油断させるのも、作戦の一つなのだろう。
「第四に、では、どういう背景を学ぶべきか。」
といいながらも、
「以下は、新聞や雑誌や書籍を読んだり、あるいは、職場や別組織の研究会でロシアや中東欧の歴史学の専門家たちから学んだりした途中報告ですが、最低でも、NATOと欧米諸国の30年(つまり、冷戦終結後の軍事行為)を考えるべきだということをひしひしと実感します。」
と続ける。
藤原辰史(以下敬称略)がどういう新聞や雑誌や書籍を読んだか大体見当がつく。その情報の内容の多くは「資本主義が悪いことをしてきた」という例だ。
「たとえば、冷戦終結から約10年後の1999年3月、米国大統領のビル・クリントンは、ドイツ首相のゲアハルト・シュレーダーらと共に、ユーゴのセルビア系住民に対するNATOの空爆を国際連合の許可なく実行し、それを78日間にわたって続けました(コソヴォ空爆)。アルバニア人の虐殺を推し進めるユーゴのスロボダン・ミロシェヴィッチをヒトラーに見立て、ユーゴのアルバニア人への弾圧や難民流出を人道的破局である、という論理で空爆を仕掛けました。しかし、この空爆は、セルビア系による民族浄化をかえって悪化させたと言われています。」
これはウクライナの問題と直接関係するものではない。関係ない問題を挿し挟んで議論を混乱させようというもので、筆者はこの問題にコメントするつもりはない。この手の関係ない情報がこの先何度も出て来る。
「ロシア軍による民間人の殺害も、子どもをミサイルで殺すことも、自分こそが人道的で民主的であるというアピールも愚の骨頂ですが、欧米諸国がイラクやコソヴォで行なった蛮行もその評価から本来は逃れられるようなものではありませんでした。」
過去を持ち出してロシアをさすがに免罪まではしないが、同類として発言する権利がないかのように言い立てる。これは左翼の常套手段だ。日本が侵略されたらどうするのかという今の議論に、いちいち日本は過去侵略戦争を行ったということを持ち出し、あたかも侵略を防いではいけないかのように議論する。
北朝鮮の拉致問題でも、左翼はいちいち戦争中に日本が行った強制連行のことを持ち出してきて、北朝鮮を擁護してきた。
これは例えば一度でも犯罪を犯した前科者は、犯罪にあっても黙っているべきだと言っているようなものだ。過去に犯罪を犯しても立派に更生した人はたくさんいるし、元やくざでも更生して立派な議員になった人もいる。これを一々過去をほじくり返して、「やくざが議員をやっている」と騒ぎ立てるようなものだ。
「何度も繰り返しますが、以上のようなことがロシアの現在の侵攻に正当性を与えるのだと言っているのではありません。あくまで現状理解の背景に過ぎません。」
はいはい、これはお約束の予防線。
「イラク戦争で、アメリカ軍が空爆によってイラクの子どもたちを含む非武装の市民(空爆のバグダードで撮影を続けた綿井健陽監督の映画『Little Birds イラク戦火の家族たち』で、子どもを空爆で三人失った父が頭から血が流れ続け死にゆく子どもを抱えて「これが大量破壊兵器か!」と叫ぶシーンを思い浮かべます)を殺した罪が消えたわけではありませんし、消してはならないと思います。」
これって映画でしょ。映画は歴史ではありません。記録映画であっても事実のほんの一部を切り取って誇張したものにすぎません。
「このような歴史を踏まえることでようやく、私たちは、ロシアの蛮行を、欧米諸国から借りてきた人道主義者の仮面をかぶることなく、心の底から非難し始めることができると思うのです。」
今問題なのは今であって、過去の歴史ではない。まあ、はっきり言って泥棒を非難するのに、泥棒の歴史を知る必要はないわな。ロシアの侵略を非難するのに歴史を知る必要はない。
それにどんなに歴史を勉強したところで、歴史は検証できないし、人間の記憶は容易に変容する。
「欧米諸国から借りてきた人道主義者の仮面」というのはいわゆる人権派意識高い系の人たちの話で、筆者のような肉体労働者上りの人間には何のことだか、って感じだね。そんなものと関係なく、みんな本能でロシアが悪いことくらいわかってるんだ。自分が思想で動いてるから他人も思想で動いているかって、それこそ偏見だ。
まあ、少なくとも筆者は元からそんな仮面を被ってないから、心の底から非難する権利があるということだ。俺も人権派は嫌いだからね。
「第五に、これは旧来の戦争観では追いつかない事態であること。」
昔から世界は刻一刻と変化し、流転してやまないもので、同じ戦争は起こらない。起きるのはいつだって新しい戦争なんだ。旧来の常識で判断することはできない。
「最後に、日本はすでに、ウクライナで起こっていることの当事者である、ということです。」
これも当然のことで、日本だけでなく今や世界がウクライナを盾にして平和を貪っていると言っていい。この盾を失えばどこの国も平和を脅かされる可能性がある。日本も例外ではない。だから防衛について真剣に議論する必要がある。
もちろん藤原辰史はそういう意味で言っているのではなく、日本もいろいろ悪いことをしてきたから黙れってことなんだろうね。
「さらにいえば、いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちは、日本政府を批判する人間を排除し、気に入らない報道に介入して、気に入らない人物を左遷して、日本学術会議の会員から政府批判者を排除して、表現の自由を制限するような人たちを選んできた自分を、どう考えるのでしょうか。」
これは誰のことを言っているのかな。
「プーチンを批判する日本の選挙民たちは」が主語だよね。あんたはここに含まれてないってこと?プーチンを批判しないってこと?それとも「日本の選挙民」ではないってこと?ひょっとして外国籍?
×いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちは
〇いまはプーチンを批判する日本の選挙民たちのある種の人たちは
でしょ。
述語は「どう考えるのでしょうか」だよね。
で、何を?だけど、それが「日本政府を批判する人間を排除し、気に入らない報道に介入して、気に入らない人物を左遷して、日本学術会議の会員から政府批判者を排除して、表現の自由を制限するような人たちを選んできた自分を」だよね。
筆者はこのような人たちを選んだ覚えがない。実際、自民党は政府批判をする人間を排除していないし、だからあんたも堂々と政府を批判してるんだろっ。
日本共産党の綱領には、「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し」とあるけど、これは統一戦線に属さない人は排除されるという意味だよね。こういう党には投票しないようにしている。
「気に入らない報道に介入して」は野党もやっている。「気に入らない人物を左遷して」は誰のことなのかよくわからない。有名な人なの?
日本学術会議については、推薦された人をそのまま認めてたら、偏った思想の人ばかり集まっちゃったから、あれはしょうがないよね。べつに学術会議に入らなければ学問ができないだとか発表できないだとか、そんなことまったくないんだから、表現の自由や学問の自由とは何の関係もない。
まあ、ここまで見れば何を言いたいかはわかるってもので、藤原辰史が「日本の選挙民たち」をひどく見下しているということだけははっきりした。しかも自分はそいつらとは違うんだというエリート意識を持っているってこともね。
「日本の選挙民たち」はみんな米帝とそれと結託した日本政府に洗脳されて、わけもわからずにロシア人をぶっ殺せと言っている、そういう認識なのかな。
まずはっきり言っておきたい。「米帝」なんてものは既に存在しないんだよ。アメリカもその同盟国も長いこと侵略戦争なんてやっていない。資本主義が必然的に侵略戦争を起こすというのは既に解決済みの問題で、今どき侵略戦争をするのは資本主義を国家権力で支配しようとする独裁国家に限定されているんだよ。
だから、日本でもそういう政治はやってはいけない。国家権力が資本を支配下に置こうなどと考えてはいけない。資本は市場原理にゆだね、国家の介入は最低限にするという新自由主義が今の所最善だということを知るべきだ。
「恐怖と直面してもなお言葉を発する人びとを雑多で多方向的な言葉で支えながら、直線的でしかない現状を平面の世界へと変えるための「学び」を、微力ながら続けたいと思っています。」
同じことだけど、「直線的でしかない現状」なんて存在するの?これこそが藁人形ではない?藁人形を叩いて気勢を上げているだけじゃない。
「恐怖と直面しても」がロシアの圧力のことではなく、日本国内にそういう圧力があると思ってるんだったら、それは被害妄想に近いね。
まあ共産主義が嫌われているのは、さすがに時代に合わなくなってるのに、いつまでも古い思想にしがみついて、みんなの足を引っ張っているからで、昔の弾圧とは別物なんだよ。
世界はもっと複雑でいろんな考えの人、いろんな立場の人がいるんだよ。昔の古い説をいつまでも引きずって、自分は大衆とは違うんだというエリート意識で物を言うのは今どき流行らないので、やめた方が良いと思う。
「駄文を連ね、申し訳ありません。つい長くなってしまいました。こういうときこそ、心は煮えたぎっていたとしても、頭を冷やして、学ぶことの意味についてじっくり考えていきたいですね。」
まあ、後半部分は本当に駄文だったね。まあわかっていればいいことだ。人に「知らないなら黙ってろ」というなら、必ず「お前は知っているのか」と突っ込まれるからね。だから「学ぶことの意味についてじっくり考えていきたいですね」と何となく無難に結んだような形をとる。
人間はすべてを知ることはできない。だから人間は多かれ少なかれ無知だ。わからなくても生きていかなくてはならないし、生きてくために常に重要な決断をしなくてはならない。無知は何ら恥じることではないし、無知だから発言権がないというのは間違っている。
とにかくこういう連中は「知らないなら黙ってろ」というのが常套句だ。こういう連中が権力を握れば「知らないなら投票するな」ってことになる。党の思想を学んだ者だけが投票できるように制度を変えていって、必ず独裁国家になる。
それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。
二裏、三十七句目。
雲風なれやかはる朝夕
山里はいつか心のすまざらん 宗祇
変化した止まない雲風に、山里に籠って心を落ち着けようにもなかなか難しい。「心のすまざらん」はここでは心から住むことができない、という意味になる。心付けになる。
三十八句目。
山里はいつか心のすまざらん
秋ぞ涙に驚かれぬる 宗伊
秋に驚くと言えば、
秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる
藤原敏行(古今集)
ということになるが、むしろ杜甫の『春望』の、「感時花濺涙 恨別鳥驚心」の心であろう。
戦火に山里に遁れても心はすっきりとしない。秋が来たのを涙ながらに驚く。
この場合は「心の澄まざらん」になる。
三十九句目。
秋ぞ涙に驚かれぬる
しのぶべき思ひを月に我みえて 宗祇
隠していた恋心も、明るい月の下で涙する姿を見られてしまえば人に知られてしまう。涙ぐんでいたら急に差し込む月明りに驚く。
四十句目。
しのぶべき思ひを月に我みえて
行けどもあはぬ夜こそ長けれ 宗伊
前句の「しのぶべき思ひ」を隠していた思いではなく、女のもとに忍んで行く男の思いとする。
月の光にこっそり行くつもりがバレてしまい、結局逢うことができず長い夜を悶々と過ごす。
四十一句目。
行けどもあはぬ夜こそ長けれ
おぼつかな夢路いづくにまよふらん 宗祇
『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、
思ひやるさかひはるかになりやする
迷ふ夢路に逢ふ人のなき
よみ人しらず(古今集)
の歌を引いている。
夢の中で魂があの人に逢い行くのだが、どこをどう迷ってしまったのか、いつまでたってもたどり着けない。
夢ではありがちなもので、思うように足が動かなかったり、いつの間に場面が変わってしまったりして、なかなか目的を遂げることができないというのはよくあることだ。
四十二句目。
おぼつかな夢路いづくにまよふらん
もろこしばかり遠ざかる中 宗伊
前句の夢路を比喩として、二人の距離が唐土ほども遠ざかってしまっている、とする。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の注の引いている、
唐土も夢に見しかば近かりき
思はぬなかぞはるけかりける
兼藝法師(古今集)
の歌は、唐土は遠いようでも夢の中では二人の仲よりも近いというものだが、ここでは夢路にも迷う恋なら唐土ほど遠い、となる。夢路・唐土の縁を用いながらも独自の展開をしている。
四十三句目。
もろこしばかり遠ざかる中
ふかく入る人やは出でんよしの山 宗祇
恋の相手の男は出家して吉野に籠ってしまった。大峰を越えて熊野まで行ってしまえばもう戻っては来ないだろう、ということで、唐土ほどの距離の中となる。
四十四句目。
ふかく入る人やは出でんよしの山
花にかさなるおくのみねみね 宗伊
吉野が出たからには、下句であっても花に行くのは必然だ。もっともこの頃はまだ「花の定座」は確立されてなかった。
吉野の桜に、これから深く入って行く大峰などの峰々を背景とする。
四十五句目。
花にかさなるおくのみねみね
桜ちるあとのしら雲日は暮れて 宗祇
前句の「花にかさなる」を桜の散った後の雲が、散る前の花の雲にイメージの上で重なる、とする。
四十六句目。
桜ちるあとのしら雲日は暮れて
宿とひゆけば春雨ぞふる 宗伊
桜散った後の花見の帰り道とする。
四十七句目。
宿とひゆけば春雨ぞふる
誰が里にふしてかほさむ旅の袖 宗祇
宿場の整備されていなかった時代の連歌師の旅は、その土地の館など有力者の家を頼って泊めてもらうことが多かった。「誰が里」はどの領主のところへ、ということだろう。連歌師のリアルな旅が感じられる。
四十八句目。
誰が里にふしてかほさむ旅の袖
柴たきわぶる夜はふけにけり 宗伊
前句をいつかは誰かの里に行って、と取り成して、今夜は野宿で柴を焚いて夜を明かす。
四十九句目。
柴たきわぶる夜はふけにけり
千鳥たつあら磯かげに風吹きて 宗祇
磯辺の野宿は流刑人などの風情になる。
五十句目。
千鳥たつあら磯かげに風吹きて
みちくるしほの山ぞくもれる 宗伊
「しほの山」は差出の磯のセットになって、賀歌に見られるお目出度い歌枕になっている。千鳥が「ちよ」「やちよ」と鳴くというのがその理由のようだ。山梨県の塩山がそれだとされているが、あまり今でいう磯のイメージはない。
地名を見ると内陸でも「崎」だとか「伊勢」とかつく場所があるから、かつては川べりも磯と呼んでいたか。
千鳥に塩の山はその意味で付け合いではあるけど、縁として引いているだけで賀歌の心ではない。あら磯に風吹いて山も曇るというのは祝うものでもないし、「満ち来る塩」と掛けて「塩の山」となると、明らかに海辺の潮の山だ。
当時の「塩の山」に何か口伝があったのかもしれない。
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