2016年11月30日水曜日

 十一月も今日で終わり明日からは新暦の師走。今年一年も短かった。たいしたこともしない間にもう終わりか。こんなふうに一生って終わっちゃうんだろうな。
 と、気を取り直して、せめて「ゑびす講」の巻くらいは今年中に終わらせよう。

 二十七句目。

   又沙汰なしにむすめ産
 どたくたと大晦日も四つのかね  孤屋

 「どたくた」は「どさくさ」に同じ。「さ」と「た」の交替は、サ行をしばしばthに近い音で発音することから起こるものであろう。「真っ青」が「まっつぁお」なったりするのもその一例。相撲でよく使われる「どすこい」も「どつこい」との交替が成り立つ。「どつこい」は一方で促音化して「どっこい」になる。
 大晦日(おおつごもり)はかつては決算日で、借金取りもこの日に回収しなきゃと走り回っていた。今で言えば年度末の3月31日と大晦日がいっぺんに来たような忙しさだったのだろう。

 大晦日定めなき世の定めかな  西鶴

は談林の俳諧師でもあった井原西鶴の発句。
 大晦日の四つというのはこの場合夜四つ(午後11時ちょい前)か。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「夜いそがしき折ふしに」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「四ツは亥の刻なり。」としている。これに対し『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「昼からの騒ぎに」と朝四つ(午前10時過ぎ)としている。
 どっちにしても大晦日は忙しいことに変わりない。その忙しいさなかに出産となれば、それこそ「どたくた」している。
 わかりやすい句で、『俳諧古集之弁』系では「句作おかし」とだけある。
 季題は「大晦日」で冬。

二十八句目。

   どたくたと大晦日も四つのかね
 無筆のこのむ状の跡さき   利牛

 「無筆」は読み書きのできない人、「このむ」は注文をつけることをいう。日本は中世から識字率が高く、読み書きできない人は庶民といえどもそう多くはなかったし、連歌や俳諧が日本の識字率の向上につながった面もある。
 当時は年賀状はあるにはあったが、年明けていばらくしてから書くことが多く、年内に出さなくてはいけないわけではなかった。大晦日のどたばたしている時にわざわざ書かせる書状というと、借金の催促とか延期願いだとかだろうか。それにしては遅すぎる。
 『俳諧古集之弁』系では「前へ無用なる晦日へ附たり。」とある。前句の大晦日の体に打越の「むすめ産」の用が付いているから、ここで大晦日の用を付けると「用付け」になって、展開に乏しく輪廻気味になる。そのため「無用」、つまり大晦日の出来事としてそれほど必然性のないことを附ける必要があった。
 字の書けない人が手紙の代筆を頼むのは、別に大晦日でなくても良いことで、「むすめ産」のように「こんな時に」というネタにもなっていない。
 代筆を頼む人はお年寄りであったりしたのだろう。繰言が多くてどうにも要領を得ないのは、遺言を代筆する公証人の心境のようなものだろう。その呑気さと世間の大晦日の忙しさを対比したと見た方がいいのかもしれない。
 無季。

2016年11月29日火曜日

 二十五句目。

   塩出す鴨の苞ほどくなり
 算用に浮世を立る京ずまひ    芭蕉

 なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。
 まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。
 幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。
 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。
 京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。
 無季。

 二十六句目。

   算用に浮世を立る京ずまひ
 又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡

 『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。
 算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。
 『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。
 「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。
 無季。「むすめ」は人倫。

2016年11月27日日曜日

 今日も午後から雨。寒い一日だった。
 二十句目。

   新畠の糞もおちつく雪の上
 吹とられたう笠とりに行     利牛

 雪解けの頃に吹く強い春風を付ける。東風(こち)とも呼ばれている。ただ、「東風」という言葉を使わずに東風を表現するところが匂い付けになる。

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ひとごとの魚くさきなり   芭蕉

と同じで、「松山」に「漁師」を付ければ普通の言葉付けだが、漁師と言わずしてそれを匂わせることで、文字通り魚の匂いを付けている。
 「東風」を表に出さないことには、無季の句となり、次の句の展開がしやすくなるというメリットもある。
 句意は明瞭で、前句を背景として、風に吹き飛んだ傘を拾いに行く人を付けている。畑の真ん中で春風に笠を吹き飛ばすのは「あるある」ネタ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の系統は「東風の時候」とだけ記している。
 無季。「笠」は衣装。

 二十一句目。

   吹とられたう笠とりに行
 川越の帯しの水をあぶながり   野坡

 昔の街道は幕府が橋を作らせなかったため、川の水につかりながら徒歩で渡ったのは学校でも習ったことで今更だが、そうして渡る途中に風で笠が吹き飛んで腰まで水につかりながらおそるおそるそれを取りに行くというのは、当時の「あるある」だったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)系は「二句一体にして与奪の意なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「帯しハ腰のあたりといふ義也。」と付け加えている。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)はこれを大井川の川越制度に結び付けているが、川越制度は元禄九年からなので、この俳諧が巻かれた時にはまだなかった。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「驚き恐るべき程にもなき纔(わずか)腰切りの水を、かしましくいふ余情あり。」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「川越人足ともあるものの帯ほどの水を危がるべきや。」とあるが、この両者は明治三年に川越制度が廃止された後の世代なので、川越の実態を知らない。みんなが渡ってたり、普段渡り慣れている所ならともかく、川下に流されていった笠を拾うために道を外れるとなると、急に深みにはまることがあるので危ない。今でも川で遊ぶ人は注意しなくてはならない。
 無季。「川越」は水辺。旅体。「此島」から三句隔てている。

 二十二句目。

   川越の帯しの水をあぶながり
 平地の寺のうすき藪垣    芭蕉

 平地は今では平らな土地という意味だが、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「平地は水辺の体」とあるから、かつては川や干潟を干拓した土地を意味していたのであろう。そのあたりは腰ほどまでの水の流れる用水路が縦横無尽に走り、それを避けながら寺の藪垣を頼りに進むと良かったのだろう。お寺は大概盛り土をしたりしてやや高い所に建てる。「うすき」というところに心細さを感じる。
 これは旅体ではなく、平地に住む人の日常の風景に転じている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)や『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)はお寺が水に流されるのではないかと心配しているが、意外に他は沈んでも寺は残るものだ。お寺の開祖となるようなお坊さんは馬鹿ではない。
 無季。「寺」は釈教。「平地」が式目上の水辺になるのかどうかはよくわからない。

 二十三句目。

   平地の寺のうすき藪垣
 干物を日向の方へいざらせて  利牛

 干物といってもお寺だから魚やイカではなく、柿だとか大根だとかだろう。「いざる」というのは「どかす」「移動させる」という意味。元は膝で歩くことを言ったが、そこからゆっくり移動するという意味に拡大されたようだ。名詞形はやばいので割愛。
 平地の寺で干物を日向に干すのは日常の光景で冬が来たなと感じさせる。日が低くなると薮垣の影になるので、垣から遠ざけたのだろう。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其場ニシテ明ナリ。」としている。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「いざらせて」の「いざる」を接頭語「い」+「去る」で「ゐざる」とは別だとしている。「い」と「ゐ」は江戸時代には既に混同されていて、発音に違いは無かったと思われる。「ゐざる」も「居(ゐ)」+「去る」から来たと言われている。
 無季。「干し菜」は冬の季題だが、干し蕪や干し大根は春の季題で、「干し物」だけでは季題にならない。十三句目の「干葉」も「干し菜」にしなかったのは「淡気の雪」から二句しか離れてなかったからだろう。

 ニ十四句目。

    干物を日向の方へいざらせて
 塩出す鴨の苞(つと)ほどくなり  孤屋

 「塩出す」は保存のために塩漬けにした食品(塩蔵)を塩抜きして戻すことを言う。江戸時代には鴨肉も塩蔵にしていたのだろう。塩漬け肉はかつて世界中にあり、ヨーロッパにも鴨の塩漬けや生ハムがあり、中国にも咸鴨腿というのがある。
 せっかく手に入った鴨肉なので塩出しして食べようと思うと、狭い長屋では置き場所がない。干してある干物をちょっとどける。
 こうしたあるあるネタでさくさく進んでいくあたりが、「軽み」の風の真骨頂なのだろう。こういうネタだと古註の意見もほとんど分かれない。
 無季。「鴨」はここでは食品なので鳥類にはならない。

2016年11月26日土曜日

 さて、初の懐紙が終わり、二の懐紙の表に入る。
   十九句目

   砂に暖のうつる青草
 新畠の糞もおちつく雪の上   孤屋

 「新畠の雪の上の糞もおちつく」の倒置か。「上」は「かくなる上」のように「あと」という意味がある。「雪ノ解けた後糞もおちつく」という意味に取った方がいいのだろう。
 川原や中洲など川沿いの石や砂でできた土地を開墾して切り開いた畑に雪が積もり、それが解ける頃に肥料をやると土壌が改良され、折から春の青草が生えてくる。大きな川の河口付近は幾筋もの流れに分かれ、その間に無数の砂州が形成される。江戸時代にはこうした土地の開墾が進んでいた。
 肥料を先にやってから雪が積もると、雪の水分で酸欠を起し、肥料の発酵が不十分になって有機酸が発生し、肥料あたりを起こすらしい。肥料は雪の上(後)というのはそういう長年の経験から来た知恵であろう。
 この句に関しては古註の意見はかなり割れている。新畑が川原を開拓した所だということはほぼ一致している。「雪の上」の解釈が割れている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「新畠の 雪ノ上ニ芥土ヲオクトキハ、雪モハヤクキユトゾ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「雪の上は雪の後といふがごとし。」とある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には、「雪の上ニ置し厩肥のしっかりとしたりとなり。」とあるが、この「雪の上ニ」も雪の後にという意味だろう。
 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「配置し厩こえの上に雪降」とある。肥が先で雪が後になっている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「配り置たる糞壌の雪きへて、おちつきしならん。」とあるが、この文章だと肥と雪どっちが先かよくわからない。「雪きへて配り置たる糞壌の」の倒置なら雪の後の肥になる。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には、「新畠はしんはた、糞はこえと訓むべし。」とある。それ以前の古註には読み方が指示されてないので、当初の読み方はよくわからない。新畠は多分「しんはた」で良いのだと思う。「新田」に対しての「新畠」であろう。「糞」は「くそ」なのか「こえ」なのかはよくわからない。ただ、『去来抄』にある「でっちが荷ふ水こぼしけり 凡兆」の句の初案の「糞こぼしけり」の読みが「こえこぼしけり」だったとしたら、ここも「こえ」であろう。
 なお、『去来抄』のこの場所には「凡兆曰、尿糞の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」とある。まあ、「糞」や「尿」はシモネタなので、一座一句と考えた方が良い。
 まあ、だけど芭蕉さんも、

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと  芭蕉
 鶯の餅に糞する縁の先      同

という発句を詠んでいる。『荘子』にも「道はし尿にあり」とある。
 季題は「雪の上」が意味としては雪解けなので春になる。

2016年11月24日木曜日

 今日は寒かった。54年ぶりの降雪とか言っていた。1歳の時にそんなことがあったのか、もちろん記憶はない。淡気(け)の雪というのはこういうのを言うのか、確かに雑談する気にもなれない。

 十五句目。

   馬に出ぬ日は内で恋する
 絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛

 絈(かせ)買についての解説は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にまかせよう。

 「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」

 それが七つ下がりの刻、つまり夕暮れも近い頃になってやってくる。ネットで見ると「午後4時を過ぎたころ」とあったりするが、当時は不定時法なので春分秋分の頃なら四時過ぎだが、夏はもっと遅く冬は早い。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「二句がらみの附ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも「打向ハせて二句がらミに附なしけん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「打向ハセテ二句ガラミニハシタリ。」とある。この三つは大体一致することが多い。これまでからすると幕末のものよりは信頼度が高いが、「二句がらみ」はどうかと思う。
 熟女のうわの空から、馬士と宿屋の女の恋と二句続いたので、ここは恋離れと見て良いのではないかと思う。夫が馬に出ぬ日は一日ラブラブで過ごしていたが、夕暮れになってお邪魔虫でも良いのではないかと思う。
 無季。「絈買」はこの場合人物を指すので人倫。

 十六句目。

 さて、次の十七句目は花の上座で、初裏の月もまだ出ていない。ここで花を呼び出さなくてはいけない。ここはさらっと行きたい所だ。

   絈買の七つさがりを音づれて
 塀に門ある五十石取      孤屋

 ネットで「五十石取り」を検索すると「たそがれ清兵衛」が出てくる。「教えて!goo」の回答によると、武士でも下っ端の方で年収125万円なんていう算定もある。今で言えば相対的貧困家庭か。女房が内職して糸を紡いでいるのだろう。絈買が出来上がった絈を買いに来る。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、には「用体の変なり。」とあり、『弁解』のみ「付意句意明也。」と付け加えている。「音づれて」に「恋する」と用で付いていたのを、訪れる場所である五十石取りの家という「体」を付ける。当時は句意明瞭すぎて解説の必要なしと判断されたか。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「絈買といふより転じ来て、小身侍の家の老婦、又女兄弟などの手業に絈を製りて売なし、日用のたすけとするさまを余情に見せたり。」とある。異論はない。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「塀に門あるは門に塀あるにあらず、簡略なり。」「塀は勿論板塀の古びたるにて、筋塀錬塀などの立派なるにはあらず」とある。「門に塀ある」は立派な門に塀がついているというニュアンスで、「塀に門ある」は粗末な塀に小さな門が付いているというイメージか。
 五十石取りの家があるというだけの単純な句なので、次の句ではどうにでも展開できる。花呼び出しの見本のような句だ。ここまでお膳立てされるとかえって次の芭蕉さんにはプレッシャーかもしれない。
 無季。「門」は居所。「五十石取」は人倫。次の句で人倫は出せない。

 十七句目。

   塀に門ある五十石取
 此島の餓鬼も手を摺月と花  芭蕉

 さあ、お約束で花ばかりか月も出してきました。
 五十石取りとはいえ小さな島ではいっぱしの島奉行で、最も偉くて最も金持ちということもあるが、月花の風流の心を知るということが何より慕われる理由だという、風流の道の宣伝とも取れる。
 隠岐に流罪となった後鳥羽院の、

 我こそは新島守(もり)よ隠岐の海の
    荒き波風心して吹け
              後鳥羽院

あたりの俤を意識したか。
 それにしても島人のことを「餓鬼」だなんて、いくら人倫を出せないからといって、「土人」同様今だったら先住民族差別だって騒ぎになりそうだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句の語勢に情を起し、文に武もある島奉行と見て、いと怪しげなる夷等も心腹したる以為をいへりかん。句作の按配感味すべし。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じだが、「文に武も」のところが「仁徳」になっている。「月と花」とあるのだから『笈の小文』の、

 「風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

にひれ伏したと考えた方が良いと思う。
 なお、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、今だとやはり問題になりそうな文章だ。

 「此句は餓鬼といひ、島といへるに、宜しからぬ海中の荒れたる島の、痩せさらぼひて衣服だに能くも身を被はぬやうなる浅ましき土民をあらはし、しかも其の餓鬼のやうなる者も月花にあくがれ、それを見たしとは念ずるといふことを、餓鬼も手をする月と花とは作れるなり。‥‥略‥‥およそは伊豆の大島、薩摩の種子島あたりを想へるなれど、想像より成れる句にて、もとより確と定めてのことにはあらず。」

 まあ、こういう認識だった時代もあったってことか。
 季題は「月」と「花」だが、月は一年中あるのでこの場合は花を優先して春の句となる。「花」は植物。「月」は天象。「島」は水辺。「餓鬼」は人倫にならない。

 十八句目。

   此島の餓鬼も手を摺月と花
 砂に暖(ぬくみ)のうつる青草  野坡

 打越の島奉行のことを忘れて前句を見れば、単に花咲く月夜をに手を摺る島の先住民族ということになる。あるいは今日で言う「餓鬼」つまり子どものことか。
 季節は春で「砂に青草のぬくみのうつる」を倒置にしてこの句となる。砂浜にも春の草が生えてきて暖かそうに見える、ということか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「踊躍したのしむ姿と見て、花下のけしきをいへるや。」とあり「餓鬼の語を転用して、かつぎの蜑の子どもらの花間に戯れ遊べると見ても変化おかしからん」とある。、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「悦び楽む姿と見て」としていて、後は大体同じ。
 季題は「青草」で春。植物、草類。

2016年11月23日水曜日

 今日は寒い一日で、久しぶりにゆっくり休んだので、「ゑびす講」の巻の方も一気に進んだ。

 十句目

   ひだるきハ殊軍の大事也
 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

 前句の軍仕立てを引きずってはいけない。前句を単なる「腹が減っては軍はできぬ」という慣用句として、冬の寒い中では人もついつい無口になるという情景を付けたと解した方がいい。1977年のヒット曲「津軽海峡冬景色」(作詞:阿久悠)の「北へ帰る人の群れは誰も無口で」みたいなものか。気温が下がると体温を維持するためにそれだけ多くのカロリーを消費するから、どうしても腹が減る。腹が減っては軍はできぬとばかりに人は無口になる。と、そういうわけでこれを軍仕立ての句の続きと見た注釈は残念。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「雪は趣向にして句作に用を結べり。尤、爰に此季を出せる変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも、「淡気の雪ハミぞれならん。是を趣向にして其用を結べり。尤、爰に此季を出せるハ変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。後半はコピペ。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「冬を附タルハ変化の大事ナリ。工夫スベキコトナリ。」とある。
 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)には「其人を見定たる附也。雑談もせぬハひだるきさま成べし。消へ安き淡雪に空腹をとり合ハせたる句作りなり。」とある。
 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「冬の泡しき雪也。」とある。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「淡気の 雪ふり出し、たれだれも寒くおぼえて、雑談もせぬうちに時刻うつりて空腹になる。」とある。
 こうした解釈の方が当を得ている。
 季題は「雪」で冬。降物。六句目の「露霜」から三句隔てている。

 十一句目。

   淡気の雪に雑談もせぬ
 明しらむ籠挑灯を吹消して  孤屋

 「籠挑灯」が何なのかは芭蕉の時代にはおそらく自明だったのだろう。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「句意分明ナリ。」とだけある。
 しかし、幕末ともなると、既にわかりにくくなっていたか。ネットで調べても駕籠かきが使う小田原提灯のようなものを駕籠提灯と言ってたり、竹で編んだものに紙を張った看板用の提灯を駕籠提灯と言ってたりする。ただ、幕末明治の註でも概ね駕籠屋の使う小田原提灯系のものということで一致している。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のみ、籠に紙を張った元和の頃(江戸時代初期)の提灯としている。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「籠ハ書損ならん。箱の字成るべし。」とあるが、箱提灯も円筒形の小田原提灯系のもの。
 ここではおそらく駕籠かきの使う円筒形の折りたたみ式の提灯、小田原提灯系のものとし、雑談をせぬ者の位を駕籠かきに取り成しての句だと見て良いと思う。こういう物は場所によって呼び方がいろいろあるので混乱するのだろう。
 当時の旅は一日の距離を稼ぐために未明に出発することも多く、しばらく行って夜が白む頃提灯を黙々と吹き消して仕事を続ける。ついつい「いやー寒いっすねー」「マジ痺れるわー」なんて言いたくなるが、そこはお客さんの前、我慢するのがプロだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「用体の差別といひ句体の虚実に変あり。」とある。打越の「ひだるきハ‥‥」があくまで比喩だったのに対し、提灯を打ち消すとえう実景を付ける。「用体の差別」というのは、「ひだるきハ」の例として、いわば前句が体となり、その用(用例)として「淡気の雪に雑談」が引き合いに出されたのに対し、それを体として付けているという意味か。
 上句下句を合せた時「明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ」となるが、これは「淡気の雪に雑談もせず、明しらむ籠挑灯を吹消して」の倒置。
 無季。夏冬は一応三句まではつづけられるが、一句で捨てる場合が多い。

 十二句目。

   明しらむ籠挑灯を吹消して
 肩-癖(けんぺき)にはる湯屋の膏薬  利牛

 肩癖は肩凝りのこと。湯屋の膏薬については、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に「湯屋、床屋等にて昔は薬を売りしこと間々あり。明治初年、猶ほ湯屋にて按摩膏、角力膏の類を売り居りしなり。」とある。ネットでも大体同じような記事がある。
 これも句意は明瞭で、特に駕籠かきに限らず携帯用の提灯を持ち歩く職業の人が、明け白む頃に湯屋で買った膏薬を張って肩こりに鞭打ち、さあ今日も頑張るぞといった所だろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「前底無用なるより奪て二句一章に作れり。」とある。「前底無用」は前句を必ずしも駕籠かきが旅の途中でという風景を引きずらなくても良い、むしろそれを一度忘れよということではないかと思う。「二句一章」は特に付け筋によらず一首の和歌のように構成したということで良いと思う。
 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句てノ余韻明しらむ迄駕児の物堪し体ト見立、建場に休む間の用を付たり。」とし、「奪て二句一章に作れりト云ハ並物也。」と遅日庵杜哉をディスってる。曲斎はあくまで前句の人物を駕籠かきだとし、その用を付けたのであって、「無用」ではないと主張する。だが、これだと展開が甘くなる。
 無季。

 十三句目。

   肩-癖にはる湯屋の膏薬
 上をきの干葉刻もうハの空   野坡

 「干し葉刻む」で肩に膏薬を張った人物を女性にし、片肌脱いだ熟女の色気に転じている。「うわの空」は肩こりがつらいとも取れるが、誰かのことを思って上の空になっているとも取れる。もちろん恋への展開を予想しての恋呼び出しであろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「肉太なる女の肌ぬぎたる姿ミるがごとし。変化ハ更に自他明か也。」とある。遅日庵杜哉さんは熟女好き。
 これに対し、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「賤の女の四十もこえたるが、肩より胸のあたりまで、きたなく張りちらしたるさまと思ひよせたり。其痛みに堪えかねし余情をうはの空とあしらひたる也。」と言う。幻窓湖中はひょっとして蕪村派(ロリ)?
 無季。

 十四句目。

   上をきの干葉刻もうハの空
 馬に出ぬ日は内で恋する    芭蕉

 恋呼び出しとあっては、それに答えないのは野暮というもの。肩凝りは前句の話で、ここではそれを忘れ、棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている多分若い女性に取り成されている。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。
 位付けの見本の一つとして、『去来抄』はこの句を引いている。

  「上置の干菜刻もうはの空
 馬に出ぬ日はうちで恋する
此前句は人の妻にもあらず、武家町屋の下女にもあらず、宿や問(とひ)や等の下女也なり。」

 ここでは干葉が干菜になっているが意味は同じだろう。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には『去来抄』に関して、「宿屋問屋の下女ト云ハ、食品をしらぬ故也。」と言っているが、幕末と元禄では宿屋の食事事情もかなり違っていることだろう。
 また同書は各務支考の『続五論』を引いてこう記している。「賤しき馬士の恋といへども、上置の干菜に手をとどむといへバ、針をとどめて語るといへる宮女の有様にも、心ハなどか劣らむ。如此ハ恋の本情を見て、恋の風雅を付たりト賛じたり。」とある。この言葉は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)でも引用されている。
 これは賤しき馬士が干し菜を手にとどむということなのか。そうではないだろう。宮女の有様に例えられるのだから、宿屋の娘が干し菜を手にとどむと見るべきだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、傍輩なる男の脚ふミそらして、挑み居る風情ならん。」とある。また、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、「暁台曰く、傍輩なる男の風情と見るべしと。下品なる男女の挑みあひたるさま見えていとをかし。」とある。「挑む」は古語辞典だと「恋の誘いかけ」とあり、宮女の「語る」と同様、それ以上の想像はしないほうが良いのか。源氏物語でも時折「語る」という言葉が出てくる。
 無季。「恋」は恋。「馬」はここでは姿として登場しないので獣類といえるのかどうかは微妙。

2016年11月22日火曜日

 さて、初の懐紙も裏に入り、次が七句目。

   割木の安き国の露霜
 網の者近づき舟に声かけて    利牛

 これはわかりにくい。古註にヒントを得ながら読み解くとしよう。
 まず、露霜を捨てて「割木の安き」を割木舟(薪舟)のこととみなして「近づき舟」とし、海に網を張っている漁師がそれに声をかける。
 露霜を捨てているのは、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)が「此句露霜ト云ヲ付もらしけり。」と指摘している通りで、上句下句合せて読んだとき露霜は特に意味を持っていない。
 「割木の安き」から割木舟を導き出していることは、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「即割木ぶねなり。」とし、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)なども同様の指摘をしている。割木舟は瀬戸内海など松の多い地方で薪を積んで売り歩く船のこと。
 「近づき舟」が近づいてくる舟のことで、網の物の方から舟に近づくのではないことは、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「近づき舟とつづけて読むべし。」とあり、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)にも「沖の通船の近づき船」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「向より走来る舟」とある。
 ただ、何のために漁師が声をかけたかとなると、是もほぼ皆共通して網があるから入らぬように声をかけているという点で一致している。
 ただ、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)のみ、「割木を積し舟人と漁師は、平生心易き近付にと、海原迄と声をかけ船よばひして、語り合うさま也。」としている。
 この句は概ねの解釈に従い、割木の安い国から来た割木舟が近づいてきたので、地元の漁師が網に触らぬように声をかける、としておこう。「露霜」というのは「ちょっとした事件」くらいの意味にとっておくのが良いのかもしれない。
 なお、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「天地を一壺にちぢむるの術ありといハん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「大山を罌粟(けし)の一粒にちぢむる術ありといはん」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「大ナル者ヲ小サナル物ヲチヂムル変化也。」とある。同じことを言っていると思われる。スケールの大きな句という意味か。
 無季。秋が三句続いた後無季に転ずる。「網の者」は人倫、水辺。「舟」も水辺。

 八句目。

   網の者近づき舟に声かけて
 星さへ見えず二十八日     孤屋

 これはわかりやすい。近づき舟が何であれ、星も見えない二十八日の夜だから網の者がこっちに網があるよ、と声をかけている。場面を夜に転じている。
 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は『土佐日記』の正月二十八日の条を踏まえているのではないかと指摘している。本説というほどのものではなく「俤(おもかげ)」といったところか。
 無季。「星」は天象(光物)。四句目の「月」から三句隔てている。

 九句目。

   星さへ見えず二十八日
 ひだるきハ殊軍(ことにいくさ)の大事也 芭蕉

 「ひだるき」は空腹のこと。腹が減っては戦はできぬというのは確かに大事なことだ。
 「也」留めは和歌の体ということで、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「二句一意」とある。
 『俳諧古集之弁』、『俳諧七部集弁解』、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「曽我兄弟の御狩場へ出たつもよう」とある。また、本願寺合戦だという説もある。元ネタをちょっとだけ変えて用いる本説と違い、俤はあくまで何となくそんな雰囲気がする程度のもの。前句の船旅から夜討ちへの転換なので、読者がそれぞれいろいろな夜討ちの場面を思い浮かべるのは、計算済みであろう。
 俳諧は平和主義を本意とするもので、基本的には武勇を賛美したりするものではない。この句も、みんな腹が減っているのに星さえも見えない夜に出陣とは、もののふとは気の毒なものだという情で読んだ方が良いだろう。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)の「暗のまぎれニ、夜討の大将より軍令する腰兵糧の用意ならん。」はその辺がわかってない。明治の軍国主義の解釈か。
 無季。

2016年11月21日月曜日

  「ゑびす講」の巻の五句目。

   片はげ山に月をみるかな
 好物の餅を絶やさぬあきの風   野坡

 「片はげ山」はこの際単なる背景として捨てて、月を見る人のイメージから次の句へ展開する。これを位付けという。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)には、「桑門隠者のもやうなど見定、それが有べき一事をのべたり。即換骨の意にして、打越の論なし。季節に無用の用あり。」とある。例によって『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)はほとんど同じ。
 桑門は出家僧で、山に篭って修行している僧の位で付けている。登場人物を番匠から出家僧に変えることで片はげ山の月を見る風景は換骨奪胎され、打越の趣向を離れ、輪廻を免れる。
 「季節に無用の用」というのは、いわゆる「放り込み」と呼ばれる、式目上季語が必要なため特に必然性もなく季語を放り込むことを言っているのだろう。「無用の用」は役に立たないことが役に立つこともあるという『荘子』の言葉。体に障害があるから戦争に取られなくてすむだとか、無能で使えないから権力闘争に巻き込まれないだとか、そういうことを言う。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は、前半はほぼ一緒だが「無用の用」に関しては「秋風トハ季節ノ用フカラ無用ノ用と言モノ也。秋ノ風サビシサヲ含ム。是則用也。」と反論している。秋風の淋しさに桑門隠者の風情があるから放り込みではないとのこと。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「淳撲なる人の隠宅しておもしろくも、おかしくもなく明し居て外出もせず、唯好物の食類などたしなみ置さまを見せたり。<響>」と月見る人の位に踏み込んだ解釈をしている。概ね間違いないと思うが「響」ではなく「位」だと思う。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「劉伯倫が友ならで餅徳頌作る雅人ならむ。」と言っているが、ちょっと漢籍に詳しいことをひけらかしたかったか。劉伯倫の「酒徳頌」はかつては有名だったか。芭蕉の談林時代の『次韻』の「鷺の足」の巻の発句の前書きにも引用されている。ただ、そういう出典関係を知らなくても普通に楽しめるというのが「軽み」のコンセプトなので蛇足。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も『徒然草』の真乗院盛親僧都の三百貫の芋頭のことを引き合いに出しているが、近代のようなもはや桑門隠者そのものが過去のものになって、どういう人たちなのかイメージしにくくなってしまった時代には、こういう解説は役に立つ。『徒然草』の第六十段に出てくる芋頭ばかり食ってるお坊さんだが、ググるとすぐに出てくる有名な話なので、ここでは割愛。
 秋風の頃は収穫前で、前年収穫した米がそろそろ底を尽く頃。米の値も上がり十団子も小粒になる季節だ。その時期でも餅を絶やさないというのはどんなけ餅が好きかという所なのだろう。
 季題は「あきの風」で秋。「餅」は昔は必ずしも正月のものではなかったので無季。ただし餅搗きは冬になる。

 六句目。

   好物の餅を絶やさぬあきの風
 割木の安き国の露霜   芭蕉

 「割木」は薪のこと。鉈で薪割りするから割木。「安き」は安価ではなくやすやすと手に入るという意味だろう。近くに里山があり、薪がいくらでも手に入るような田舎ということか。

秋風に露霜と言葉付けになっている。
 芭蕉があえてこういう言葉付けをするのは、まだ初折の表ということで軽く遣り句で流したかったからだろう。舞台を都から遠く離れた遠国のこととすることで、「好物の餅」はむしろその土地の名物の餅という意味に近いのではないかと思う。赤米か黒米か、あるいは粟稗などの雑穀を混ぜたものか、きっと素朴な味わいの餅があるのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)には、「前句に辺土の風ありと見て、趣向し給ひけん。句作のさびハいふも更に附はたの寛なるをミるべし。季節又妙なり。」とあり、『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「二句の間にかぎりなき世態、まことに解つくすべからず。餅をたやさずくふてゐる人を貧士の驕者と見て、されど割木の安き国にて住よし、とことわりたる也。」とある。「解つくすべからず」というのは単なる遣り句だから特に明確な解もないということなのだと思う。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「コハ翁出羽行脚の事を思出て付られけむ。彼国ハ年中餅料理とて数百品に調して、酒の肴にもせり。」とある。数百品は大袈裟だが、それもあるかもしれない。多分干し餅のことだろう。冬の寒さで天然のフリーズドライとなった餅は保存性が高く秋まで持つ。
 季題は「露霜」で降物。降物というと脇に「時雨」があり、ちょうど三句隔てている。

2016年11月20日日曜日

 今日は足柄峠へ行った。富士山がよく見えた。道了尊へも行った。紅葉が綺麗だった。
 それでは 「ゑびす講」の巻、四句目。

   番匠が樫の小節を引かねて
 片はげ山に月をみるかな    利牛

 第三が原因の「て」で付けたため、四句目も軽く流すようにさくっとつけようとすれば、第三が原因で四句目が結果になるという句になり、そのため脇句の趣向から思いっきり離さなくてはならないという苦しさがある。
 「片はげ山」はおそらく材木を取るために半分伐採した山のことなのだろう。番匠は本来建築だけでなく材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人のことだった。ここでは大工の下働きという江戸時代的な番匠ではなく、律令時代の山から木を切り出していた番匠に取り成しているのであろう。樫の木を半分伐採した所で片禿になった山に月を見ている。
 古代のことなので句もやや古めかしく「かな」で留めている。和歌や発句では珍しくないが、連歌俳諧のつけ句としては珍しい。
 元禄三年の「灰汁桶の」の巻の、

   堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり   芭蕉

の「なり」留めもそうだが、古い時代の素朴な感じを出そうという演出なのだろう。「かな」留め「なり」留めは和歌の体で、付け句の体ではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「古今抄に、番匠といふ詞の古雅なる万葉体の歌と聞なして、見るかなとハいへりけるとぞ。しかれバ論なふ二句一体にして、親疎に与奪の意あり。」とある。
 二句一体というのは付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。「親疎に与奪」というのは、親句にすることで前句に生命を吹き込んでいる、といったような意味か。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)もほぼ同じ。ここでもコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)にも、「片はげ山 前の番匠の句を上の句として、歌のやうに付なしたる也。」とある。
 季題は「月」で秋。連歌では「光物」というが江戸時代の俳諧では「天象」と呼ばれていた。「片はげ山」は山類。
 月の定座を一句引き上げているが、蕉門の俳諧ではよくあることで、七七の短句で月や花を詠むことも蕉門では嫌っていない。そもそも定座というのは連歌の式目には無く、あくまで慣習にすぎないのだから、厳密に守る必要はない。

2016年11月19日土曜日

 さて、それでは「ゑびす講」の巻の第三を見てみよう。

   降てハやすミ時雨する軒
 番匠が樫の小節を引かねて    孤屋

 「番匠(ばんじょう)」は建築現場で大工の下働きをする人。樫の木を鋸で引いていると、小さな節があって堅くて切れないで困っているという情景だろう。うまく切れなくて四苦八苦しているうちに時雨になって、仕事の手を休める。「軒」はここでは今建てている建築物の軒ということになる。
 前句の「やすミ」を雨宿りのことではなく、仕事の手を休めることに取り成して付けている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「やすむの語に出て体用の変あり。」というのはそのことを言うのであろう。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は同一の文章でコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「休ムト言語ヨリ体用ヲワカテリ。」とある。
 軒での「休み」は雨宿りの「休み」なので名詞であって体言、引きかねて「休み」は休むという動詞の活用形なので用言となる。なるほと、古人は文法的な違いをよく観察している。
 これに対して、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は前句の「やすミ」を雨宿りではなく時雨が降っては休むとし、時雨で湿った木を番匠が引きかねてと解する。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「時雨ノ雨ヲイトヒテ、ハヤクシマハントスルニ、樫ノ節引割カネテ。」とする。
 この二つの解釈は一応理由がある。
 連歌も俳諧も第三は「て」で留めることが多い。これは「て」が原因にも結果にも使える便利な言葉だからだ。
 たとえば、

 急に雨降り俺はびしょ濡れ

という句にその原因を「て留め」で付ける。

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 油断して傘を持たずに家を出て

 これだと、

 油断して傘を持たずに家を出て急に雨降り俺はびしょ濡れ

とスムーズにつながる。
 結果を「て留め」で付けると、

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 脱いだ服ストーブの上で乾かして

となる。これだと、

 脱いだ服ストーブの上で乾かして急に雨降り俺はびしょ濡れ

となる。やや違和感はあるものの、上句の「て」で一度間を置き、一首全体が上句と下句で倒置になっていると思えば意味は通る。
 連歌俳諧ではこうした「て留め」で結果を付けることが多い。それは次の句を付ける人が結果を原因としてさくっと次に展開できるからだ。たとえば、

   脱いだ服ストーブの上で乾かして
 布団の上で猫もくつろぐ

のように。
 「番匠が」の句を脇句の原因ではなく結果だと解釈すれば、時雨が降ったので鋸を引きかねたというふうにも読めてしまう。ただ、節で引きかねているのに更に時雨で引きかねているとするのは屋上屋を重ねるようでくどい。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は前句の時雨の降りては休みを鋸の屑のはらはらと落ちては節に引っかかって休みという比喩としている。これを「響き付け」としているが、明治三十年ともなれば蕉門の響き付けが正しく認識されていたかどうかは怪しい。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「時雨する櫨に番匠の鋸挽、樅の小節の厭はしきに渋り働きするさま、ただ是市井の有るところの情景なり。」と単に前句の景色から連想される景色を付けたとする。現代連句の付け方は大体こんなもの。俳諧に非ず。
 冬は三句まで続けることができるが、三句まで続けることは稀で、たいていは一句か二句で終わる。ここでも発句脇と二句で終わり、第三は無季になる。月の定座があるので秋に転じやすくしている。
 「番匠」は人倫。人倫と人倫は打越を嫌うが、発句の「振売」は行為を表すもので人倫ではないのでセーフ。「樫」はこの場合材木なので植物ではない。

2016年11月18日金曜日

 「ゑびす講」の巻、昨日の続き。
 「振売の」の句は倒置になっているので、それを元に戻すと「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也」となる。恵比寿講から「あはれ」を言い興す。
 連句の場合、去り嫌いなどの式目上のルールがあるため、分類される句材がある。「振売の」の句の季題は「恵比寿講」で冬。冬は一句から三句まで続けることができる。
 「振売」は「振売をする人」という意味では人倫になるが、ここでは「振売」という行為によって売られている雁なので、人倫にはならないと思われる。この辺は杓子定規に、ある言葉が使われていれば自動的に振り分けられるのではなく、実質的な意味で判断した方がいい。談林の頃は季題も句材も形式的扱われていたこともあったが、連歌や蕉門の俳諧では実質的に判断した方がいい。
 「雁」も同様、ここでは肉であって生きてないので生類にはならない。故に「鳥類」ではない。

 さて、それでは次の句、「脇」を見てみよう。

   振売の雁あはれ也ゑびす講
 降てハやすミ時雨する軒    野坡

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「佇ミ居たる風情ならん。句作に哀調を和せりといふべし。」とある。
 「降りては休み」というのは時雨が降ったので雨宿りして休むという意味。時雨が降ったり止んだりというのではない。当時の語感では雨が休むという擬人的な言い回しはほとんどなく、「休む」と言ったらその主語は人だと読んだ方がいい。
 発句が「恵比寿講」から「あはれ」の情を言い興しているので、脇はその情に逆らわず、和すように作る。雁の哀れに時雨の哀れを添える。時雨の雨宿りといえば、

 世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇

の句が思い浮かぶ。
 倒置を元に戻すと、「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也、時雨する軒で降てはやすみ」となる。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、今だったらコピペのように同一の文章。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ説で宗祇の句についても触れている。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「時雨の折々降休みては又降」と時雨が休むとしている。
 他は発句の解釈が異なるため省略する。
 句材の方は、まず「時雨」が冬の季題で降物(ふりもの)。「軒」は居所になる。俳諧は連歌の式目に準じるとはいえ、かなり簡略化され、特に歌仙などの短い形式で行われることが多いため、連歌では五句去りになるものも三句去りくらいにとどめている場合が多い。降物、居所なども俳諧ではおおむね三句去り。

2016年11月17日木曜日

 俳諧連句の面白さを知るには、やはり一巻を一句一句たどってゆくのが一番だが、なにぶん江戸時代のこととなると生活習慣も今と異なり、当時の人がどんなネタで笑っていたのか知るのは難しく、当時のあるあるも今では意味不明になってたりする。
 そういう時役に立つのが古註で、竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)は有難い。
 今回読んでみようと思ったのは、「ゑびす講」の巻。まずはその発句を見てみよう。

   神無月廿日ふか川にて即興
 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていたと思われる。
 元禄6年の神無月二十日に芭蕉は、深川の第三次芭蕉庵(第一次は天和の頃八百屋お七の大火で消失、第二次は『奥の細道』旅立ちの時に人に譲る)で野坡、孤屋、利牛を集め、歌仙興行を行っているが、これもささやかな恵比寿講だったのか。
 「即興」というのは、今日即興演奏とか言う意味での即興とは限らない。文字通り興に即しで、「興」というのは言い興すことで、たとえば桃の花の興で嫁ぐ娘のあでやかさを言い起こしたり、鼠の逃げてゆく様から圧制の苦しみを言い起こしたり、本題に入る前にそれを言い起こすための明白なイメージを与えることを言う。
 この場合は折からの世俗での恵比寿講から何かを言い起こす、恵比寿講の興に即すという意味で用いられていると思われる。
 恵比寿講の興に即すというように、芭蕉の発句は「恵比寿講」という冬の季題で始まる。

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていたのか。
 「雁」は春の季語だが、それは帰る雁を本意本情とするもので、この場合は無季として扱われる。
 単純に考えれば、恵比寿講のために殺生される雁が可哀相という意味でいいのだと思う。仏者で晩年は菜食主義者だった芭蕉としては自然な発想だったと思う。
 『「炭俵」連句古註集』に列挙されている古註の多くはそう解している。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「畚(ふご)のさかなの類ひにはあらで、秋に迎ひ春に送り詩歌の人にもてはやさるれバ、其姿を見其情を思ふにもなどか感慨のなからざらん。しかるを歌舞遊宴の夷講にかけ合せて、無尽の情を含められり手段常ならず。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「雁鴨など買て恵比寿講するは世のならひなるに、都で雁を売て夷講せうとは、さてもさてもあはれなる事よと観想の句なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も同じような解釈。
 その他の意見としては、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の雁(がん)は元(ぐわん)に通じるから、雁を食うことは元銀を食うことになるので縁起が悪く、商人はそれを嫌う。それを知らない田舎物が雁を売り歩くのが哀れだ、としている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)では、雁の鮮度が悪くて、よほど売れなくて生活に困っているんだなという哀れとしている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)では、夷講は鯛を食うもので雁など売っても買う人もいないだろうにと解する。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)もそれと似ていて、「雁の振売、何程の価にもあらざあるべきに、それさへ買手無ければ、しきりに雁や雁やと呼びあるかるるを、蛭子講の賑ひにつけて、雁あはれなりとは興じたるなり。」としている。
 これで見ると、天保までの古い解釈では雁は恵比寿講の時に盛んに食べられていたが、幕末の万延あたりでは食う習慣がなくなっていたのではないかと思われる。これより新しい解釈は、雁など売れもしないのに哀れだという解釈に傾いている。ここは古い解釈に従ったほうがいいと思う。

2016年11月16日水曜日

 昨日の夜のスーパームーンは朧月だったが、今朝のスーパー有明ムーンは澄んでいた。
 有明というと、『炭俵』にこんな句があった。

 在明となれば度々しぐれかな  許六

 関東では時雨ることはほとんどないが、彦根では有明に時雨はお約束なのか。
 同じ『炭俵』の時雨の句。

 黒みけり沖の時雨の行どころ  丈草

 『猿蓑』の時雨あるあるとはまた違った、水墨画の空を墨で暗く塗ったような、遠くから見た沖の時雨の風景を描く絵画的な句だ。
 丈草というと、『続猿蓑』に、

 あら猫のかけ出す軒や冬の月  丈草

の句もある。蕪村の風を先取りするかのような絵画的な句だ。
 『猿蓑』の頃にひととおりあるあるネタが出尽くしてしまったせいだろうか。芭蕉もまた『炭俵』に、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

の句がある。単なるあるあるネタから、ありがちな光景でも視覚的の鮮烈なイメージを狙う方向に発展して行ったのだろう。

2016年11月14日月曜日

 今日はスーパームーンだが、あいにくの雨。何かデジャブ感があるのは、このブログを始めた時に「今日は折りしも十五夜。あいにくの曇り空。」と書いたからか。

 さて、『猿蓑』では、芭蕉の「猿に小蓑を」の句の次には、序文を書いた其角の句が並ぶ。

 あれ聞けと時雨くる夜の鐘の声   其角

 ネットで検索するとトップに出てくるのが山梨県立大学の伊藤洋さんの「芭蕉DB」の

 「時雨の降る夜半、『あの鐘の音を聞いて』と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。」

という註で、この解釈は19世紀の地歌「影法師」の歌詞、

 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声
 寒さによする置炬燵
 ついとろとろとうたた寝の
 夢驚きて甲斐なくも
 しょんぼり二人が差し向かひ
 かきたて見ればともし火の
 曇りがちなる心のうち
 鬢のほつれや寝乱れ髪に
 やつれしゃんしたお前の姿
 私がやせたも道理じゃと
 私が泣けばお前も涙
 ほんにこの身はあるやらないやら
 夢幻の浮世じゃな
 なんとお前は思はんす
 返答しゃんせ影法師

の影響ではないかと思う。実際は男女二人ではなく、影法師だったという落ちになる。
 地歌の場合、この鐘の音は夜明けを告げる鐘であろう。
 この地歌が果たして其角の当初の意図に沿ったものかどうかは定かでない。其角に多い心余って言葉足らずの句で、この句に関しては謡曲『三井寺』ではないかという説も古くからあるようだ。
 謡曲『三井寺』では生き別れになった息子を探しに三井寺にやってきた母が、月夜に浮かれて鐘を撞くという「狂」に、何ごとかと駆けつけた修行僧の中に‥‥というわけだが、季節は時雨の季節ではない。
 ただ、時雨の後の月は古歌にも詠まれているし、本説をとる場合には元ネタをそのまんま使用するのではなく多少変えることになっているので、『三井寺』の可能性はある。
 「鐘」というと明け方の鐘か入相の鐘を詠むことが普通で、時の鐘を詠むことはあまりない。それでいくと夜の鐘は特殊で、そこから『三井寺』を連想が働いたのであろう。
 江戸時代の言語感覚だと、無生物を擬人化した表現というのはそれほど多くない。特に俳諧のような節約された言葉で主語が省略されている場合は、一番常識的に考えられる主語を求めた方がいい。となると、「あれ聞け」と言っているのは時雨や鐘ではない。人間と考えた方がいい。地歌説も三井寺説もその点では古い解釈に属する。これに対し、時雨や鐘の発言とするのは近代的な解釈ではないかと思う。
 三井寺説だと、「あれ聞け」と言われて耳を澄ますと、時雨の雲の切れ間から月が現れ、それに浮かれたかのような狂女の撞く鐘の声が聞こえてくる、ということになる。
 この句が単独ではなく、芭蕉の句の隣に並んだ時には、「あれ聞け」が芭蕉の声であるかのように聞こえるというのも、多分この配列の意図ではないかと思う。巻頭の芭蕉の句の、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けというのをふまえて、あれは幻で聞こえてくるのは時雨来る夜の鐘の声だったと和す、脇句のような働きをしている。
 そして『猿蓑』の三句目からは、芭蕉の断腸の叫びの情を断ち切って、普通に時雨あるあるの句が並ぶことになる。

 時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那

 ひと時雨来た後だろうか、魦漁の舟が慌てて引き上げてきたせいで、きちんと並んで泊ってない。ありそうなことだ。

 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋   丈草

 勢田の橋を幾人か慌ててかけてゆく。あるある。

 鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀

 大名行列で先頭を切って勇ましく鑓を振りたてる鑓持ちが、冷たい雨の中でもそれでも振り立てているのが、何かミスマッチで可笑しい。これも時雨あるあるといえよう。

 広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎  史邦

 京都嵯峨野の広沢の池では時雨で人もいなくなり、沼太郎(ヒシクイ)だけがぽつんと時雨に打たれている。これもありそうなことだ。

 舟人にぬかれて乗し時雨かな    尚白

 これは雨にかこつけて、川が増水して渡れなくなるから乗ってった方がいいよと言われて乗ったところ、時雨だからすぐに止んでしまったということか。これもあるあるネタ。
 こういった句はわかりやすく、素直に笑える。芭蕉・其角の句に対し、これが当時の当世風といったところだったのだろう。ただ、こればかりだと飽きてくるから、次は、

   伊賀の境に入て
 なつかしや奈良の隣の一時雨    曾良

 これは旅体の句。芭蕉の句も伊賀山中だったことも思い起こされる。連句で言えば、ここでひとまず遣り句して一休みという所か。
 このように『猿蓑』の句の配列はなかなか芸が細かくて楽しませてくれる。

2016年11月13日日曜日

 今日は千葉市美術館で「浦上玉堂父子」展を見た。そちらの話題はmixiの方で。
 時雨は冬の季題だが、紅葉を染める時雨は秋のものだった。

 龍田河紅葉はながる神なびの
    みむろの山に時雨ふるらし
              文武天皇
 しら露も時雨もいたくもる山は
    下葉のこらずいろづきにけり
              紀貫之

といった歌が『古今集』に見られる。初時雨も前回書いたように、秋に詠まれている。
 連歌の発句でも、秋の季題と重ねて秋の句として詠まれることもあった。

 長月や山どりのおのはつ時雨  智蘊
 露にみよ青葉の山ぞ初しぐれ  宗祇

 冬の時雨も『古今集』では詠まれている。

   貞観の御時、
   万葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければ、
   よみてたてまつりける
 神な月時雨ふりおけるならの葉の
    名におふ宮のふるごとぞこれ
              文屋有季
   はゝがおもひにてよめる
 神な月しぐれにぬるゝもみぢばは
    ただわび人のたもとなりけり
              凡河内躬恒

 さらに『後撰集』では、

 神無月ふりみふらずみさだめなき
    時雨ぞ冬のはじめなりける
             よみ人知らず
   山に入とてよめる
 神無月時雨ばかりを身にそへて
    しらぬ山路に入ぞかなしき
             増基法師

 時雨の定めなさ、そして旅の僧に冷たく苦しく降りつける時雨の趣向は、『新古今集』の、

 世にふるは苦しきものを槇の屋に
    安くもすぐる初時雨かな
             二条院讃岐
 冬を浅みまだき時雨と思ひしを
    堪へざりけりな老いの涙も
             清原元輔

といった歌に受け継がれてゆく。
 さらに、時雨の晴れ間の月を見出すことによって、より冷えさびた趣向へと高められてゆく。

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
    心あるべき初時雨かな
             西行法師
 たえだえに里わく月の光かな
    時雨を送る夜半のむら雲
             寂蓮法師

 連歌発句の、

 月は山風ぞしくれににほの海 二条良基

もこの系列にある。
 老いた旅の僧に定めなき時雨の苦しさは、「降る」「経る」「古る」の縁を見出すことで、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句に凝縮されてゆくことになる。
 芭蕉にも、「猿に小蓑」の句のほかに、『笈の小文』の旅立ちの句、

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

の句や、元禄四年の、

 宿借りて名を名乗らする時雨かな 芭蕉

 元禄五年の、

 けふばかり人も年よれ初しぐれ 芭蕉

の句がある。いずれも宗祇の時雨を引き継いでいる。

2016年11月10日木曜日

 昨日は木枯らしが吹き、今日はさらに冷えまさる日だった。それでは、初しぐれの句の続き。

 日本の文化の大きな特徴として考えられるのは、職人文化だということだ。
 今日でも「ものづくり」がしきりに叫ばれ、技術はあってもビジネスモデルがないだとか言われるし、長時間労働体質も職人文化の、一つの技能に生涯命を賭けるべしという古くからのモラルが関係していると思われる。
 それはおそらく日本の国の成り立ちが大陸から渡ってきた職能集団によるもので、職能集団が土着の狩猟民族や農耕民族を統治する所に最初の朝廷が立てられたことに由来するものであろう。
 そのため、職人芸能の人たちは直接天皇に結び付けられ、皇族を祖先とする神話を持ち、天皇の供御人とされてきた。彼らは租税の免除と諸国往来の自由を認められていた。
 中世にあっては彼らは寺社勢力と結びつき、公界を中心とした文化を生み出していった。連歌もその一つであり、能や茶道もこうした場から生まれた。
 芭蕉の『笈の小文』の冒頭の、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という言葉も、自らをこうした中世の公界の文化の継承者に位置づけるものと見ていい。
 しかし、江戸時代になると、こうした公界を自由に往来していた職人芸能の人たちに定住を命じ、その中の一部は非人弾左衛門(だんざえもん)の支配下に置かれ、士農工商の身分のさらに下に置かれるようになった。そこには歌舞伎役者も含まれていた。
 芭蕉は、

  節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉  芭蕉
  節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉    同
  から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内   同
  納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)  同
  年々(としどし)や猿に着せたる猿の面   同

といった句を詠んでいるように、節季候(せきぞろ)、鉢叩(はちたた)き、空也念仏(くうやねんぶつ)、猿引(さるひ)きなど、卑賤視された人々に常に目を向けていた。
 芭蕉が一所不住を誓い旅に出るようになったのも、かつての中世の公界の精神に自らを同化させようとしてたからではないかと思われる。
 江戸幕府の政策の中で抑圧されてゆくかつての公界の精神を、芭蕉は蓑笠を失い雨に打たれるがままになったサルの姿に託したのではなかったか。
 芭蕉は延宝八年(一六八〇)に深川に隠棲し、天和二年(一六八二)の春には談林俳諧のリーダーだった西山宗因が死去している。宗因もまた旅に生涯を送る最後の連歌師の一人とも言える人物だった。芭蕉はそんな中で旅への思いを募らせてゆく。
 その天和二年の冬の句、

   手づから雨のわび笠をはりて
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな    芭蕉

は、中世連歌の大成者宗祇法師の発句、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな    宗祇

のオマージュだった。
 「ふる」は時雨の「降る」と、歳を取っていくという意味の「世に経る」との掛詞になっている。年老いてゆく苦しみは冷たい時雨の雨に打たれる苦しみと二重写しになり、そんな中で雨宿りにほっと一息つく、人生は苦しくもあればこうした幸せな瞬間もある、そんな句だ。
 『去来抄』には芭蕉の言葉として、「上に宗因なくば、未だに貞門のよだれをぬぐうべし」と記されている。芭蕉は宗因を尊敬してたし、宗因との出会いがなければ蕉門の俳諧も生まれなかったであろう。その宗因の本職は連歌師であり、旅に生きたその姿はいにしえの宗祇法師にも重なるものがあったのではないかと思う。
 天和二年は芭蕉にとっての大きな転機となった年で、各務支考が後に記す所によれば、この年の春に「古池の句」の着想を得ているし、暮れには八百屋お七の大火で芭蕉庵は炎上し、芭蕉自身も隅田川に飛び込んで難を逃れている。
 このあと芭蕉庵再建までの間甲斐で過ごしたのが、最初の旅とも言える。
 そして二年後の貞享元年(一六八四)の秋、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。
 このたびの途中で、先の「笠もなき」の句のほかに、

 この海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ 芭蕉
 草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ  芭蕉

の句も詠んでいる。この年は生類哀れみの令の始まった年でもあり、野犬がやがて大きな問題になっていく頃でもあった。
 そして元禄二年の『奥の細道』の旅の途中では、

    洞(ほら)の地蔵にこもる有明
  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

の句を詠んでいる。古来楓や蔦の葉を赤く染めてゆくのは時雨で、

 小倉山秋の梢の初しぐれ
   今いくかありて色に出でなむ
               藤原為相
 初しぐれ降るほどもなくしもとゆふ
   葛城山は色づきにけり
          仁和寺後入道法親王覚性

などの古歌もある。それをサルの涙が染めるとした所に、この年の冬に詠む「猿も小蓑を」の句の原型ともいえるモチーフを感じさせる。
 芭蕉は中世の公界の文化に憧れ、自らも中世連歌師のように旅をしようと試み、古人の魂に同化しようとした時、そこにあったのは、江戸時代の身分制度の下での蓑笠を失い時雨に打たれるがままの自分の姿だった。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 猿が叫んだのはあの頃の公界の文化を、公界の自由と人としての権利を返してくれ、ということではなかったか。
 猿は江戸時代の儒家神道では猿田彦大神として最高神として祀られている。猿田彦大神は道祖神や青面金剛とも習合し、庚申待ちは江戸時代の庶民に広がり、今日でも至る所に庚申塔を見ることができる。
 初しぐれに叫んだサルは蓑笠を着た聖なる猿の幻想を生み、その姿は芭蕉の終生崇拝していた道祖神の姿でもあり、江戸幕府の精神的支柱でもある儒家神道の猿田彦大神の姿にも重なる。まさにそれが「俳諧の神」だったのではないか。

2016年11月9日水曜日

 海の向こうではトランプ大統領が爆誕したとのこと。それについては鈴呂屋書庫の日記の方に譲るとして、ここでは風流の話をメインに。
 蓑笠が雨具ではなく晴れ着あることは、芭蕉の次の句からも読み取れる。

 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠  芭蕉
 降らずとも竹植ゑる日は蓑と笠  芭蕉
 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら  芭蕉

 「たふとさや」の句は三井寺で卒塔婆小町の絵を見たときの句で、真蹟懐紙が残され、そこには少々長い前書きがある。

   あなたふとあなたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし。
   いかなる人が語伝え、いづれの人かうつしとどめて、
   千歳のまぼろし、今爰に現ず。其かたちある時は
   たましゐ又爰にあらむ。みのも貴し、かさもたふとし
 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠
   応定光阿闍梨之覓

 卒塔婆小町は能の演目の一つでもあり、年老いた小野小町が卒塔婆の上に座って登場する。絵にはおそらく蓑笠を着た小野小町が描かれていたのであろう。蓑笠は落ちぶれた小野小町の卑賤さを現すと同時に聖なる存在であることをも表す。それゆえ「あなたふとあなたふと」となる。
 「降らずとも」の「竹植ゑる日」というのは、旧暦5月13日の竹酔日のことで、この日に竹を植えると枯れないと言われていた。それゆえ「竹植ゑる日」は夏の季語となるわけだが、『去来抄』によれば芭蕉が見つけた季語で、「季節の一ツもさがし出だしたらんは後世によき賜也なり」という芭蕉の言葉を紹介している。この句も蓑笠が雨具ではなく晴れ着であることを示している。
 「年暮れぬ」の句は『野ざらし紀行』の旅の句で、自らの旅姿を詠んだ物。旅もまた非日常であり「ハレ」といえよう。
 蓑笠は世間一般の日常的な世界からの逸脱であり、それはドロップアウトでもあると同時に世俗のしがらみからの自由を得ることでもある。そこから卑賤は自由、何者にも囚われない聖なるものをも意味する。
 網野善彦によれば、農民が一揆を起こすときも蓑笠を着たという。
 こうした賎と聖との両義性は、わらわ髪、頭巾、柿帷子、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩にも見られる。それらは両義的な意味で「お目出度い」というわけだ。
 これに対して、蓑笠の喪失を訴える句も存在する。

 笠もなき我をしぐるるかこは何と  芭蕉

 これも『野ざらし紀行』の旅の途中で詠んだ句だが、『野ざらし紀行』には登場しない。
 笠もなく冷たい雨にずぶぬれになっている姿は以下にも惨めだ。この感覚は近代に入っても受け継がれている。「雨の中傘をささずに」といったフレーズは演歌などでもありがちなフレーズだし、井上陽水の『傘がない』という歌もあった。

 笠島はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 これは『奥の細道』のなかで、藤中将実方の塚のある笠島を探した時の句だ。笠島という地名に掛けて、五月雨にぬかるんだ道を笠を探して歩くイメージが重ねあわされている。
 「猿も小蓑をほしげ也」というフレーズも、雨の中で笠もなく濡れるがままになっている姿を描き出しているという点では、この二つの句の延長線上にある。
 蓑笠は日常的世俗的な世界を追放される時の、家はなくても雨露をしのぐことを許す、いわば人間としての最低限の権利でもあり、自由の証でもあった。それがないということは、日本人にとってはもはや人間であることを否定されてるような惨めさを感じさせる。西洋人にはそういう感覚はないようだ。雨の多い風土が生んだ感覚だろう。
 謡曲『蝉丸』では、皇子でありながら目が不自由だという理由で逢坂山に捨てられる蝉丸の宮を描いている。その時臣下の藤原清貫は蝉丸に蓑笠杖のセットを与えている。

 清貫:この御有様にては、なかなか盗人の恐れもあるべければ、御衣を賜はって、蓑といふものを参らせ上げ候。
 蝉丸:これは雨にきる田蓑の島と詠み置きたる、蓑といふものか。
 清貫:また雨露の御為なれば、同じく笠を参らする。
 蝉丸:これは御侍御笠と申せと詠み置きつる、笠といふものよのう。
 清貫:又この杖は御身地しるべ、御手にもたせ給ふべし。
 蝉丸:げにこれをつくからに、千年の坂も越えなんとかの遍照が詠みし杖か。

 蝉丸は事実はともかくとして、琵琶法師の祖先とも言われている。実際、中世の芸能や職人の集団には、たいてい皇室を祖先とし、それを自らの技術の独占の理由とする伝承を持っていることが多く、このときの蓑笠杖のセットも、天皇の供御人としての身分を保証するものだったのであろう。
 蓑笠は中世の「公界」と深く結びついたものだったと思われる。(続く)

2016年11月8日火曜日

 今は雨が降っている。これは寒冷前線の通過で、この雨が止むと西高東低の冬型になり、多分木枯らしが吹くのだろう。
 東京生まれで横浜育ちの私としては、冬というと大体晴れた日が続き空気が乾燥していて、雨と言えば時折その冬型の気圧配置が崩れた時くらいだった。だから、長いこと「時雨」というのが何のことかわからなかった。
 若い頃鹿児島で6年過ごした時、冬になると天気がいいのに夕方と朝方に決まって雲が出てきて一雨降るのが不思議だった。後になって古典を読むようになって、ああこれが時雨だったんだと思った。
 時雨は日本海や東シナ海のような日本列島の大陸側の海が暖められて発生した雲によるものらしく、日本海の遠い横浜では縁がなかったのだろう。
 時雨の句と言えばやはり一番有名なのはこれだろうか。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 これは伊賀山中での句で、琵琶湖の北にそれほど高い山がないせいか、日本海で発生した時雨の雲は滋賀、京都そして伊賀の方にもやってくるのだろう。
 芭蕉のこの句はかつては古池の句と並ぶ芭蕉の代表作で、この句ができたことを記念して去来と凡兆を中心に蕉門の総力を上げて作ったのが撰集『猿蓑』だった。『猿蓑』は軽みの風に至る前の蕉風確立期の蕉門の集大成と言っても良く、俳諧史上の一つの頂点とも言える。
 『猿蓑』の序文は其角が書いている。

 「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫p.173~174)

 俳諧の集を作るのは、昔も今も一緒でこの道を広く世に知らしめる必要のできた時で、俳諧は見えないものを見せるという幻術であり、句に魂が入ってなければそれは単なる幻にすぎない。(要するに、句自体が人々の脳内に作り出す世界は虚構にすぎなくても、そこには見えない真実が表現されてなければならない。)
 長く人々に愛され、流行して止まぬものの中にも変わらないものがあることを人々に知らしむる。儒教で言う五常の徳(仁・義・礼・智・信)はもとより、『中庸』に「苟不至德、至道不凝焉。(苟し至德ならざれば、至道凝らず。)」とあるように、心に至徳をもたらすための修行でもある。
 『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」では、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったという。反魂の術が完全でなかったからだ。
 それと同じように、俳諧も魂がこもればアイウエオの響きも整い、様々な名吟が生まれる。
 芭蕉翁はただ俳諧に魂を入れなければと思い、『奥の細道』の行脚を終えて、伊勢から故郷の伊賀へ向かう時、伊賀越えの山中で猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れた所たちまち断腸の思いを叫ぶこととなった。まさに身の毛のよだつほど恐ろしい幻術だ。
 これを元にこの集を作り、「猿蓑」と名付けることとなった。この序文もこの趣旨に応じて共鳴し、撰者の去来と凡兆に求められるがままに書くこととなった。

 この句は、今日なら単に冬の冷たいにわか雨に打たれたサルの姿が可哀相で、雨具を欲しがっているように見えた、ぐらいの解釈になりがちだ。そこに、サルだから蓑ではなく「小蓑」といった所が洒落てるだとか、動物への愛情が感じられるといった評が加わったりする。
 そこには「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」という其角の感動はどこにもない。まして、そのために門人一同集まって撰集を作ろうとしたあれがなんだったのか、残念ながら伝わってこない。
 まず、其角が「猿に小蓑を着せて」と言っていることに注意しておこう。
 句はあくまで「ほしげ也」と言っているだけで、小蓑がもらえたとは書いてない。そこから、近代的で合理的な感性は、これはあくまで雨に打たれたサルを描いたもので、「ほしげ也」は作者の主観にすぎない、ということになる。だが、当時の人はむしろ、書かれてないにもかかわらず蓑笠を着たサルの姿が浮かんでしまったという、そこに感動したのではないかと思う。
 マイナーイメージだとか、言わずして言うとかいうと何てこともないが、見えないものを見せるというのが幻術の基本だ。
 そしてそれが単なる「ゆめにゆめみる」ような意味のない妄想ではなく、何か大事なことをい意味していたということが重要なのではないかと思う。それが何だったか、確かに今日のわれわれの感覚では再現することは難しい。だが、それを再現するということが、この句を本当の意味で「読む」ということではないかと思う。
 「蓑笠」の持つ意味については、歴史学者の網野善彦の指摘によれば、中世から江戸時代にかけて蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だったという。今日であれば、お百姓さんを想像するかもしれないが、蓑笠は決して農民の普段着ではなく、田植えの時に着る一首の晴れ着だったという。
 猿に小蓑を着せるというのは、サルを卑賤なものであるとともに聖なるものでもあるという二重性を持たせていた可能性がある。詳しくは次回に。

2016年11月7日月曜日

 ネットを探してたら、其角自撰句集『五元集』に、

   旅思 二句
 みゝつくの独笑ひや秋の昏     其角
 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり  同

とあった。一つは前回紹介したが、もう一句も同じように自分の旅姿を詠んだものと思われる。
 もう一つ、『五元集』の春の所に、

 梟にあはぬ目鏡や朧月     其角

の句があった。例によって企画の句はわかりにくい。ここでも自分を梟に例えているのだろうか、あるいは梟と同化しているのか。夜目の利く梟でも眼鏡が合わなければ月も朧に見える。つまり、「眼鏡をかけているように見える梟もその眼鏡が合ってないのか、月が朧に見える」と言うような意味なのだろう。
 近代俳句だが、

 ふくろうの声ふところの孤独かな  窓秋

の句は何か惹かれるものがある。窓秋の句は近代俳句の中では前衛として扱われているが、案外ポップでわかりやすい句が多い。写生句か象徴詩かという近代俳句の枠組みに収まらないため、前衛として扱われているのだろう。
 「ふくろう」と「ふところ」が何となく韻を踏んでいるのか踏んでないのかの微妙なつながりで、それに「こどく」と畳み掛ける言葉遊びが面白いし、情景としても梟の声を聞くようなところではきっと山奥で一人っきりなのだろう。梟の声にはっと我に帰り、孤独はいつでも自分の懐にあることを自覚する、という意味か。

2016年11月6日日曜日

 湯山三吟を鈴呂屋書庫の方にアップしたのでよろしく。他にも水無瀬三吟、文和千句第一百韻もあるし、蕉門の俳諧もあるからそっちもよろしくね。
 連歌の面白さは新しい句が付くとそこにまったく違う世界が開けることで、百韻百句、千変万化して一つとして同じ世界はない。
 だから連歌を読むときには斜めに読み飛ばすのではなく、一句一句立ち止まって、そのつど変化を楽しむ方がいい。
 近代の連句だと、歌仙を三十六行からなる一つの詩みたいに捉え、イメージのシーケンスを味わうということもあるらしいが、連歌や俳諧にはそういう考え方はない。
 よく、連歌、俳諧、連句何が違うのかというと、まったく同じで区別は不要と言う人がいるが、それは例えて言えばジャズもロックもクラッシックもみんな同じ音楽だから同じように楽しめばいいというようなものだ。
 だが、理想はいいが、実際にクラッシックのコンサートに行ってロックコンサートの乗りでイェーッなんてやってたらつまみ出されるから、現実にはジャンルの壁というのは確かに存在する。
 私の書いた連歌や俳諧の解説を読んで興味を持ったからといって、そのつもりで近代連句の会に行ったりすると顰蹙を買うこともあるので注意が必要だろう。私自身、連句のサイトではひどい目にあっている。文学に関してはとかく糞真面目で、笑いとなると親父ギャグレベルの人が多いので注意を要する。やはり連歌・俳諧と近代連句は別物だと考えた方がいい。

 それはともかくとして、文化の日に掛川花鳥園に行ってたくさんフクロウを見てきたので、今日はフクロウ・ミミズクの発句を拾ってみた。

 梟のこゑ拾ひ出す落葉哉   東月

 『奥の細道』の須賀川の所に登場する等躬の撰の『伊達衣』の句。東月は山形の人。
 落ち葉の音に耳を済ませているとかすかにフクロウの声が聞こえてくるのを、「拾い出す」と表現するあたりはなかなかだ。

 梟の咳せくやうに冬ごもり  一旨

 伊勢の乙孝(おとたか)撰『一幅半(ひとのはん)』の句。
 梟の咳というのは「ほうほう」ではなく短く「ほっほっ」と鳴く時の声か。その声にせかされるように冬ごもりの季節がやってくる。

 梟の世を昼にして月見かな  希志

 許六撰『正風彦根体(しょうふうひこねぶり)』の句。
 夜行性のフクロウは人間からすると昼夜が逆転しているので、フクロウからすれば月見をしている今が昼のようなものだという句。
 梟は冬の季題だが秋にも詠む。
 続いて、ミミズクの句。

 木兎も寝に来る冬の案山子哉 等麗

 等躬撰『伊達衣』の句。「等」がつくから等躬の身内か。
 鳥除けのための案山子も稲刈りが終わってしまった後は冬休みか。ミミズクも安心して寝ている。

 木兎の寝よふとすれば時雨哉 乙由

 伊勢の凉菟の撰『皮籠摺』の句。
 ミミズクの声がしてそろそろ寝る頃かと思えば時雨が降ってくる。

 木兎やおもひ切たる昼の面  井境

 これは『猿蓑』の句。井境は尾張の人。
 昼のミミズクは目を細め体を丸くして眠っていることが多く、それが恋の思いを吹っ切って悟りきったような顔をしているように見えるということか。

 みみづくは眠る処をさされけり 牛残

 これも『猿蓑』の句。牛残は伊賀の人。
 ミミズクの昼間眠っている所を見つけると指を指して「あれ、あそこっ」とか言いたくなるということか。

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮   其角

 其角撰『いつを昔』の句。
 これはミミズクを詠んだのではなく、自分自身の蓑笠来た旅姿をミミズクに見立てた句。ただ、昼間のくつろいだミミズクの顔が笑っているようにも見えるところから、そのイメージを自分に重ねたのだろう。
 ふくろう同様、ミミズクも冬だけでなく秋にも詠む。
 フクロウ・ミミズクの句の数はそう多くなかったようだ。芭蕉にフクロウ・ミミズクの句がないのは残念だ。

2016年11月5日土曜日

 さて、湯山三吟も残す所あと三句。
 まず九十八句目から。

   心をもそめにし物を桑門
 いでばかりなるやどりともなし 宗長

 この句もさらっと心(意味)で付けている。
 「心をもそめにし」の心に執着するものを長年住み慣れた家のこととし、この世は皆仮の宿に過ぎないのだと思ってはみても、とてもそんな気にはなれないとする。出家するとはいえ、住み慣れた家をあとにするのは心残りだ。
 次ぎ、九十九句目。

   いでばかりなるやどりともなし
 露のまをうき古郷とおもふなよ    宗祇

 これは「咎めてには」という付け方で、前句がその前の句、つまり打越の心を受けて素直に付いているときに、それを否定する句をつなげることで展開を図ることができる。決して前句の作者を咎めているのではない。あくまでゲームとしての咎めにすぎない。
  水無瀬三吟には咎めてにはの句が三句ある。

   慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き
 今さらに一人ある身を思うなよ 肖柏

   老の行方よ何にかからむ
 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏

   身のうきやども名残こそあれ
 たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

といずれも肖柏の句だが、その前句は、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇

   見しはみな故郷人の跡もなし
 老いの行方よ何にかからむ  宗祇

   草木さへふるきみやこの恨みにて
 身のうきやども名残こそあれ 宗長

といずれも前句に逆らわずに素直に心で付けている。こういう句の後に咎めてにはは一つのパターンなのだろう。
 「露」が出て、季節は秋に転じる。次は挙句ということでこれは月呼び出しでもある。
 そしてその挙句。

   露のまをうき古郷とおもふなよ
 一むら雨に月ぞいさよふ    肖柏

 近世になると花の定座が挙句の手前と定まり、判で押したように最後は春で締めくくることになる。月で締めくくるというのは中世連歌ならではの面白さでもある。
 生きていくというのは様々な人間との軋轢の中で苦しいことも多い。だが、それもにわか雨のようなもので、涙の後には月も出るというところか。
 そういうわけで、苦しくても頑張って生きてゆきましょう。いつかきっといいことあるよ。そう思いながらね。
 人生でやり残したことが、これで一つ減った。

2016年11月1日火曜日

 今日は午前中雨が振り午後からは晴れた。
 夕暮れの空は大気が安定しているのか、地平線付近は赤みは少なくやや緑がかかり、その上の色をなくした空に爪で引っ掻いたような細い三日月が見えていた。今日は旧暦だと神無月の三日。もう冬だ。
 さて、それでは湯山三吟の続きで、今日は九十五句目から。

   誰よぶこどり鳴きて過ぐらん
 おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁   宗長

 「らん」は前句では疑問の意味だったが、お約束通りここでは反語となる。呼子鳥が鳴いて通り過ぎたかと思ったがそうではない、帰ろうと飛び去った天津雁の飛行ルートが霞んでいたためにその姿が見えなかったからそう思っただけだった、という意味になる。
 九十六句目。

   おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁
  さこそは花を跡の山ごえ    宗祇

 「思い立つ」を「思い断つ」に取り成し、花の咲く山を跡にして越え去ってゆく旅人の心情の句とする。「思い断つ雲路も霞むぞ、天津雁、さこそは花を跡の山ごえ」の倒置となる。相変わらず高度な「てには」の使い方で付けてくれる。
 惜しむ気持ちを振り切ろうとすると雲路も霞む、天津雁よ、お前こそは花を跡にして山を越えて行く、という意味になる。
 九十七句目。

   さこそは花を跡の山ごえ
 心をもそめにし物を桑門     肖柏

 この付け句はわかりやすい。
 前句の「花を跡の山ごえ」をいろいろな世俗への執着を断ち切って世捨て人になることの例えと取り成す。
 心にいろいろ執着するものがあっただろうに世捨て人、それこそは花を跡にしての山越えだ、という意味になる。