二十五句目。
塩出す鴨の苞ほどくなり
算用に浮世を立る京ずまひ 芭蕉
なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。
まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。
幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。
『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。
京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。
無季。
二十六句目。
算用に浮世を立る京ずまひ
又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡
『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。
算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。
『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。
「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。
無季。「むすめ」は人倫。
0 件のコメント:
コメントを投稿