2016年11月17日木曜日

 俳諧連句の面白さを知るには、やはり一巻を一句一句たどってゆくのが一番だが、なにぶん江戸時代のこととなると生活習慣も今と異なり、当時の人がどんなネタで笑っていたのか知るのは難しく、当時のあるあるも今では意味不明になってたりする。
 そういう時役に立つのが古註で、竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)は有難い。
 今回読んでみようと思ったのは、「ゑびす講」の巻。まずはその発句を見てみよう。

   神無月廿日ふか川にて即興
 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていたと思われる。
 元禄6年の神無月二十日に芭蕉は、深川の第三次芭蕉庵(第一次は天和の頃八百屋お七の大火で消失、第二次は『奥の細道』旅立ちの時に人に譲る)で野坡、孤屋、利牛を集め、歌仙興行を行っているが、これもささやかな恵比寿講だったのか。
 「即興」というのは、今日即興演奏とか言う意味での即興とは限らない。文字通り興に即しで、「興」というのは言い興すことで、たとえば桃の花の興で嫁ぐ娘のあでやかさを言い起こしたり、鼠の逃げてゆく様から圧制の苦しみを言い起こしたり、本題に入る前にそれを言い起こすための明白なイメージを与えることを言う。
 この場合は折からの世俗での恵比寿講から何かを言い起こす、恵比寿講の興に即すという意味で用いられていると思われる。
 恵比寿講の興に即すというように、芭蕉の発句は「恵比寿講」という冬の季題で始まる。

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていたのか。
 「雁」は春の季語だが、それは帰る雁を本意本情とするもので、この場合は無季として扱われる。
 単純に考えれば、恵比寿講のために殺生される雁が可哀相という意味でいいのだと思う。仏者で晩年は菜食主義者だった芭蕉としては自然な発想だったと思う。
 『「炭俵」連句古註集』に列挙されている古註の多くはそう解している。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「畚(ふご)のさかなの類ひにはあらで、秋に迎ひ春に送り詩歌の人にもてはやさるれバ、其姿を見其情を思ふにもなどか感慨のなからざらん。しかるを歌舞遊宴の夷講にかけ合せて、無尽の情を含められり手段常ならず。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「雁鴨など買て恵比寿講するは世のならひなるに、都で雁を売て夷講せうとは、さてもさてもあはれなる事よと観想の句なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も同じような解釈。
 その他の意見としては、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の雁(がん)は元(ぐわん)に通じるから、雁を食うことは元銀を食うことになるので縁起が悪く、商人はそれを嫌う。それを知らない田舎物が雁を売り歩くのが哀れだ、としている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)では、雁の鮮度が悪くて、よほど売れなくて生活に困っているんだなという哀れとしている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)では、夷講は鯛を食うもので雁など売っても買う人もいないだろうにと解する。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)もそれと似ていて、「雁の振売、何程の価にもあらざあるべきに、それさへ買手無ければ、しきりに雁や雁やと呼びあるかるるを、蛭子講の賑ひにつけて、雁あはれなりとは興じたるなり。」としている。
 これで見ると、天保までの古い解釈では雁は恵比寿講の時に盛んに食べられていたが、幕末の万延あたりでは食う習慣がなくなっていたのではないかと思われる。これより新しい解釈は、雁など売れもしないのに哀れだという解釈に傾いている。ここは古い解釈に従ったほうがいいと思う。

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