今日はスーパームーンだが、あいにくの雨。何かデジャブ感があるのは、このブログを始めた時に「今日は折りしも十五夜。あいにくの曇り空。」と書いたからか。
さて、『猿蓑』では、芭蕉の「猿に小蓑を」の句の次には、序文を書いた其角の句が並ぶ。
あれ聞けと時雨くる夜の鐘の声 其角
ネットで検索するとトップに出てくるのが山梨県立大学の伊藤洋さんの「芭蕉DB」の
「時雨の降る夜半、『あの鐘の音を聞いて』と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。」
という註で、この解釈は19世紀の地歌「影法師」の歌詞、
あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声
寒さによする置炬燵
ついとろとろとうたた寝の
夢驚きて甲斐なくも
しょんぼり二人が差し向かひ
かきたて見ればともし火の
曇りがちなる心のうち
鬢のほつれや寝乱れ髪に
やつれしゃんしたお前の姿
私がやせたも道理じゃと
私が泣けばお前も涙
ほんにこの身はあるやらないやら
夢幻の浮世じゃな
なんとお前は思はんす
返答しゃんせ影法師
の影響ではないかと思う。実際は男女二人ではなく、影法師だったという落ちになる。
地歌の場合、この鐘の音は夜明けを告げる鐘であろう。
この地歌が果たして其角の当初の意図に沿ったものかどうかは定かでない。其角に多い心余って言葉足らずの句で、この句に関しては謡曲『三井寺』ではないかという説も古くからあるようだ。
謡曲『三井寺』では生き別れになった息子を探しに三井寺にやってきた母が、月夜に浮かれて鐘を撞くという「狂」に、何ごとかと駆けつけた修行僧の中に‥‥というわけだが、季節は時雨の季節ではない。
ただ、時雨の後の月は古歌にも詠まれているし、本説をとる場合には元ネタをそのまんま使用するのではなく多少変えることになっているので、『三井寺』の可能性はある。
「鐘」というと明け方の鐘か入相の鐘を詠むことが普通で、時の鐘を詠むことはあまりない。それでいくと夜の鐘は特殊で、そこから『三井寺』を連想が働いたのであろう。
江戸時代の言語感覚だと、無生物を擬人化した表現というのはそれほど多くない。特に俳諧のような節約された言葉で主語が省略されている場合は、一番常識的に考えられる主語を求めた方がいい。となると、「あれ聞け」と言っているのは時雨や鐘ではない。人間と考えた方がいい。地歌説も三井寺説もその点では古い解釈に属する。これに対し、時雨や鐘の発言とするのは近代的な解釈ではないかと思う。
三井寺説だと、「あれ聞け」と言われて耳を澄ますと、時雨の雲の切れ間から月が現れ、それに浮かれたかのような狂女の撞く鐘の声が聞こえてくる、ということになる。
この句が単独ではなく、芭蕉の句の隣に並んだ時には、「あれ聞け」が芭蕉の声であるかのように聞こえるというのも、多分この配列の意図ではないかと思う。巻頭の芭蕉の句の、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けというのをふまえて、あれは幻で聞こえてくるのは時雨来る夜の鐘の声だったと和す、脇句のような働きをしている。
そして『猿蓑』の三句目からは、芭蕉の断腸の叫びの情を断ち切って、普通に時雨あるあるの句が並ぶことになる。
時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那
ひと時雨来た後だろうか、魦漁の舟が慌てて引き上げてきたせいで、きちんと並んで泊ってない。ありそうなことだ。
幾人かしぐれかけぬく勢田の橋 丈草
勢田の橋を幾人か慌ててかけてゆく。あるある。
鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀
大名行列で先頭を切って勇ましく鑓を振りたてる鑓持ちが、冷たい雨の中でもそれでも振り立てているのが、何かミスマッチで可笑しい。これも時雨あるあるといえよう。
広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎 史邦
京都嵯峨野の広沢の池では時雨で人もいなくなり、沼太郎(ヒシクイ)だけがぽつんと時雨に打たれている。これもありそうなことだ。
舟人にぬかれて乗し時雨かな 尚白
これは雨にかこつけて、川が増水して渡れなくなるから乗ってった方がいいよと言われて乗ったところ、時雨だからすぐに止んでしまったということか。これもあるあるネタ。
こういった句はわかりやすく、素直に笑える。芭蕉・其角の句に対し、これが当時の当世風といったところだったのだろう。ただ、こればかりだと飽きてくるから、次は、
伊賀の境に入て
なつかしや奈良の隣の一時雨 曾良
これは旅体の句。芭蕉の句も伊賀山中だったことも思い起こされる。連句で言えば、ここでひとまず遣り句して一休みという所か。
このように『猿蓑』の句の配列はなかなか芸が細かくて楽しませてくれる。
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