2016年11月5日土曜日

 さて、湯山三吟も残す所あと三句。
 まず九十八句目から。

   心をもそめにし物を桑門
 いでばかりなるやどりともなし 宗長

 この句もさらっと心(意味)で付けている。
 「心をもそめにし」の心に執着するものを長年住み慣れた家のこととし、この世は皆仮の宿に過ぎないのだと思ってはみても、とてもそんな気にはなれないとする。出家するとはいえ、住み慣れた家をあとにするのは心残りだ。
 次ぎ、九十九句目。

   いでばかりなるやどりともなし
 露のまをうき古郷とおもふなよ    宗祇

 これは「咎めてには」という付け方で、前句がその前の句、つまり打越の心を受けて素直に付いているときに、それを否定する句をつなげることで展開を図ることができる。決して前句の作者を咎めているのではない。あくまでゲームとしての咎めにすぎない。
  水無瀬三吟には咎めてにはの句が三句ある。

   慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き
 今さらに一人ある身を思うなよ 肖柏

   老の行方よ何にかからむ
 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏

   身のうきやども名残こそあれ
 たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

といずれも肖柏の句だが、その前句は、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇

   見しはみな故郷人の跡もなし
 老いの行方よ何にかからむ  宗祇

   草木さへふるきみやこの恨みにて
 身のうきやども名残こそあれ 宗長

といずれも前句に逆らわずに素直に心で付けている。こういう句の後に咎めてにはは一つのパターンなのだろう。
 「露」が出て、季節は秋に転じる。次は挙句ということでこれは月呼び出しでもある。
 そしてその挙句。

   露のまをうき古郷とおもふなよ
 一むら雨に月ぞいさよふ    肖柏

 近世になると花の定座が挙句の手前と定まり、判で押したように最後は春で締めくくることになる。月で締めくくるというのは中世連歌ならではの面白さでもある。
 生きていくというのは様々な人間との軋轢の中で苦しいことも多い。だが、それもにわか雨のようなもので、涙の後には月も出るというところか。
 そういうわけで、苦しくても頑張って生きてゆきましょう。いつかきっといいことあるよ。そう思いながらね。
 人生でやり残したことが、これで一つ減った。

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