2016年11月6日日曜日

 湯山三吟を鈴呂屋書庫の方にアップしたのでよろしく。他にも水無瀬三吟、文和千句第一百韻もあるし、蕉門の俳諧もあるからそっちもよろしくね。
 連歌の面白さは新しい句が付くとそこにまったく違う世界が開けることで、百韻百句、千変万化して一つとして同じ世界はない。
 だから連歌を読むときには斜めに読み飛ばすのではなく、一句一句立ち止まって、そのつど変化を楽しむ方がいい。
 近代の連句だと、歌仙を三十六行からなる一つの詩みたいに捉え、イメージのシーケンスを味わうということもあるらしいが、連歌や俳諧にはそういう考え方はない。
 よく、連歌、俳諧、連句何が違うのかというと、まったく同じで区別は不要と言う人がいるが、それは例えて言えばジャズもロックもクラッシックもみんな同じ音楽だから同じように楽しめばいいというようなものだ。
 だが、理想はいいが、実際にクラッシックのコンサートに行ってロックコンサートの乗りでイェーッなんてやってたらつまみ出されるから、現実にはジャンルの壁というのは確かに存在する。
 私の書いた連歌や俳諧の解説を読んで興味を持ったからといって、そのつもりで近代連句の会に行ったりすると顰蹙を買うこともあるので注意が必要だろう。私自身、連句のサイトではひどい目にあっている。文学に関してはとかく糞真面目で、笑いとなると親父ギャグレベルの人が多いので注意を要する。やはり連歌・俳諧と近代連句は別物だと考えた方がいい。

 それはともかくとして、文化の日に掛川花鳥園に行ってたくさんフクロウを見てきたので、今日はフクロウ・ミミズクの発句を拾ってみた。

 梟のこゑ拾ひ出す落葉哉   東月

 『奥の細道』の須賀川の所に登場する等躬の撰の『伊達衣』の句。東月は山形の人。
 落ち葉の音に耳を済ませているとかすかにフクロウの声が聞こえてくるのを、「拾い出す」と表現するあたりはなかなかだ。

 梟の咳せくやうに冬ごもり  一旨

 伊勢の乙孝(おとたか)撰『一幅半(ひとのはん)』の句。
 梟の咳というのは「ほうほう」ではなく短く「ほっほっ」と鳴く時の声か。その声にせかされるように冬ごもりの季節がやってくる。

 梟の世を昼にして月見かな  希志

 許六撰『正風彦根体(しょうふうひこねぶり)』の句。
 夜行性のフクロウは人間からすると昼夜が逆転しているので、フクロウからすれば月見をしている今が昼のようなものだという句。
 梟は冬の季題だが秋にも詠む。
 続いて、ミミズクの句。

 木兎も寝に来る冬の案山子哉 等麗

 等躬撰『伊達衣』の句。「等」がつくから等躬の身内か。
 鳥除けのための案山子も稲刈りが終わってしまった後は冬休みか。ミミズクも安心して寝ている。

 木兎の寝よふとすれば時雨哉 乙由

 伊勢の凉菟の撰『皮籠摺』の句。
 ミミズクの声がしてそろそろ寝る頃かと思えば時雨が降ってくる。

 木兎やおもひ切たる昼の面  井境

 これは『猿蓑』の句。井境は尾張の人。
 昼のミミズクは目を細め体を丸くして眠っていることが多く、それが恋の思いを吹っ切って悟りきったような顔をしているように見えるということか。

 みみづくは眠る処をさされけり 牛残

 これも『猿蓑』の句。牛残は伊賀の人。
 ミミズクの昼間眠っている所を見つけると指を指して「あれ、あそこっ」とか言いたくなるということか。

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮   其角

 其角撰『いつを昔』の句。
 これはミミズクを詠んだのではなく、自分自身の蓑笠来た旅姿をミミズクに見立てた句。ただ、昼間のくつろいだミミズクの顔が笑っているようにも見えるところから、そのイメージを自分に重ねたのだろう。
 ふくろう同様、ミミズクも冬だけでなく秋にも詠む。
 フクロウ・ミミズクの句の数はそう多くなかったようだ。芭蕉にフクロウ・ミミズクの句がないのは残念だ。

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