2016年11月8日火曜日

 今は雨が降っている。これは寒冷前線の通過で、この雨が止むと西高東低の冬型になり、多分木枯らしが吹くのだろう。
 東京生まれで横浜育ちの私としては、冬というと大体晴れた日が続き空気が乾燥していて、雨と言えば時折その冬型の気圧配置が崩れた時くらいだった。だから、長いこと「時雨」というのが何のことかわからなかった。
 若い頃鹿児島で6年過ごした時、冬になると天気がいいのに夕方と朝方に決まって雲が出てきて一雨降るのが不思議だった。後になって古典を読むようになって、ああこれが時雨だったんだと思った。
 時雨は日本海や東シナ海のような日本列島の大陸側の海が暖められて発生した雲によるものらしく、日本海の遠い横浜では縁がなかったのだろう。
 時雨の句と言えばやはり一番有名なのはこれだろうか。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 これは伊賀山中での句で、琵琶湖の北にそれほど高い山がないせいか、日本海で発生した時雨の雲は滋賀、京都そして伊賀の方にもやってくるのだろう。
 芭蕉のこの句はかつては古池の句と並ぶ芭蕉の代表作で、この句ができたことを記念して去来と凡兆を中心に蕉門の総力を上げて作ったのが撰集『猿蓑』だった。『猿蓑』は軽みの風に至る前の蕉風確立期の蕉門の集大成と言っても良く、俳諧史上の一つの頂点とも言える。
 『猿蓑』の序文は其角が書いている。

 「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫p.173~174)

 俳諧の集を作るのは、昔も今も一緒でこの道を広く世に知らしめる必要のできた時で、俳諧は見えないものを見せるという幻術であり、句に魂が入ってなければそれは単なる幻にすぎない。(要するに、句自体が人々の脳内に作り出す世界は虚構にすぎなくても、そこには見えない真実が表現されてなければならない。)
 長く人々に愛され、流行して止まぬものの中にも変わらないものがあることを人々に知らしむる。儒教で言う五常の徳(仁・義・礼・智・信)はもとより、『中庸』に「苟不至德、至道不凝焉。(苟し至德ならざれば、至道凝らず。)」とあるように、心に至徳をもたらすための修行でもある。
 『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」では、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったという。反魂の術が完全でなかったからだ。
 それと同じように、俳諧も魂がこもればアイウエオの響きも整い、様々な名吟が生まれる。
 芭蕉翁はただ俳諧に魂を入れなければと思い、『奥の細道』の行脚を終えて、伊勢から故郷の伊賀へ向かう時、伊賀越えの山中で猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れた所たちまち断腸の思いを叫ぶこととなった。まさに身の毛のよだつほど恐ろしい幻術だ。
 これを元にこの集を作り、「猿蓑」と名付けることとなった。この序文もこの趣旨に応じて共鳴し、撰者の去来と凡兆に求められるがままに書くこととなった。

 この句は、今日なら単に冬の冷たいにわか雨に打たれたサルの姿が可哀相で、雨具を欲しがっているように見えた、ぐらいの解釈になりがちだ。そこに、サルだから蓑ではなく「小蓑」といった所が洒落てるだとか、動物への愛情が感じられるといった評が加わったりする。
 そこには「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」という其角の感動はどこにもない。まして、そのために門人一同集まって撰集を作ろうとしたあれがなんだったのか、残念ながら伝わってこない。
 まず、其角が「猿に小蓑を着せて」と言っていることに注意しておこう。
 句はあくまで「ほしげ也」と言っているだけで、小蓑がもらえたとは書いてない。そこから、近代的で合理的な感性は、これはあくまで雨に打たれたサルを描いたもので、「ほしげ也」は作者の主観にすぎない、ということになる。だが、当時の人はむしろ、書かれてないにもかかわらず蓑笠を着たサルの姿が浮かんでしまったという、そこに感動したのではないかと思う。
 マイナーイメージだとか、言わずして言うとかいうと何てこともないが、見えないものを見せるというのが幻術の基本だ。
 そしてそれが単なる「ゆめにゆめみる」ような意味のない妄想ではなく、何か大事なことをい意味していたということが重要なのではないかと思う。それが何だったか、確かに今日のわれわれの感覚では再現することは難しい。だが、それを再現するということが、この句を本当の意味で「読む」ということではないかと思う。
 「蓑笠」の持つ意味については、歴史学者の網野善彦の指摘によれば、中世から江戸時代にかけて蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だったという。今日であれば、お百姓さんを想像するかもしれないが、蓑笠は決して農民の普段着ではなく、田植えの時に着る一首の晴れ着だったという。
 猿に小蓑を着せるというのは、サルを卑賤なものであるとともに聖なるものでもあるという二重性を持たせていた可能性がある。詳しくは次回に。

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