2019年12月30日月曜日

 今日は映画を見に行った。
 確か最初の作品を見逃して二作目から見た。あの頃はまだビデオがなくて、見逃してしまうと二作目から見ざるをえなかった。
 あれからほぼ四十年か。やっと終ったという感じか。とりあえず元気玉落ちではなく、フュージョンもなく、普通に終った。でも、きっとまた暗黒面に取り付かれ、独裁政治をするやつって出てくるんだろうな。
 リアルな世界でも、冷戦が終った時はこれで平和になるかと思ったが、いつの間にかまた冷戦みたいになってきている。
 あのとき自分は二十世紀の社会主義の壮大な実験は失敗に終ったと思った。
 「革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決する」というのはなかなか良いアイデアのようにも見えたが、やってみたらみんな貧しくなってしまった。飢餓と粛清と内戦で夥しい数の人間が死んでいった。
 だから、それに変わる道を考えたかった。左翼の人たちもみんなそうするのだと思っていた。歴史の失敗から学ばなくてはいけないし、そのためには過去を反省し、二度と同じ過ちを繰り返すまいという決意が必要だと思っていた。
 でも、未だにあの場所にいつまでもしがみ付いている人たちがいる。曰く、あれは本当の社会主義じゃなかった。ならば本当の社会主義はどこにあるのか、まだないなら考えなくてはいけないのではないか。曰く、アメリカによって潰された。でも実際アメリカの方が自由で豊かではないか。アメリカから学ぶべきものは何もないのか。
 まあ、未だにあの場所にいる人間からすれば、私なんぞは裏切り者なんだろうな。まあ、ネトウヨと呼ばれようがレイシストと呼ばれようが、別にそんなレッテル貼りには興味ない。ただ明日が見たいだけだ。
 何かどうでもいいような話が長くなってしまったが、今日の一句。

 暁の星を追行時雨かな    勇招(『続の原』)

2019年12月29日日曜日

 今日も晴れた寒い一日だった。
 昨日に続き、つれづれに、行方も知れず。

 年わすれしかし太鼓はたたかれじ 如柳(『千鳥掛』)

 ネットで見ると「年忘れ」は鎌倉時代から年末に連歌会を催したところからきているという。出典はよくわからない。
 江戸時代では一年の仕事の終わりの打ち上げだったようだ。
 この時代にはまだ年越し蕎麦はなかったが、年越し蕎麦もまた仕事を終えたときの打ち上げで食べていた。近代だと忘年会と年越し蕎麦は別の行事になっている。
 「年忘れ」は、昔は数え年で、誕生日ではなく正月が来ると年齢が一つ上がるということで、年を取るのを忘れるという意味での「歳忘れ」だった。別にこの一年あったことを忘れるという意味ではない。
 一部の人たちでは歴史を忘れるとはけしからんということで「望年会」をやってたりするが、はたして歴史を忘れているのはどっちだか。
 太鼓をたたかないというのは、本来それほど盛大にやるものではなかったのだろう。挨拶程度に今年も一年お疲れさんという感じのもので、江戸後期になると年越し蕎麦に取って代わられていったのだろう。

 人に家を買はせて我は年忘れ   芭蕉

の句は元禄三年、大津膳所の乙州新宅での句で、

 かくれけり師走の海のかいつぶり 芭蕉

の句とともに詠まれている。カイツブリは鳰(にお)ともいい、琵琶湖に多く生息していたので琵琶湖のことを「鳰の海」ともいう。
 京都から琵琶湖の方へ逃れてきたから、自身をカイツブリに喩えて詠んでいる。
 ここでも隠れ家での年忘れだから、そんなに派手なものではあるまい。
 同じ元禄三年だがこの句より少し前に京都上御霊神社神主示右亭で年忘れ九吟歌仙興行が行われ、

 半日は神を友にや年忘れ     芭蕉

の句を詠んでいる。こちらの方が中世以来の連歌会の伝統を引き継ぐ「年忘れ」だったのだろう。神主さんを友としてこれから半日楽しい時を過ごしましょうという挨拶の句になっている。
 これに対し示右は、

   半日は神を友にや年忘れ
 雪に土民の供物納る       示右

と返す。おそらく「半日」を受けて、この興行の前の半日は地元の氏子さんたちが供物を納めに来たので大忙しでした、満足なおもてなしが出来るかどうか、という意味であろう。
 「太鼓はたたかれじ」のついでだが、江戸時代は鐘や太鼓で時を知らせていたが、いわゆる除夜の鐘というのはなかった。一部では行われていたかもしれないが、全国に一般的に広がったのは近代に入ってからだろう。
 夜中の日付が変わる頃に初詣する習慣ができてから、いつのまに年越し蕎麦も初詣の直前に食べ、除夜の鐘が初詣に集まる人にとっての合図になっていったのではなかったか。
 最近になって除夜の鐘がうるさいという人たちが増えてきたが、鐘そのものよりも深夜に参拝に来る人たちがうるさいのではないかと思う。
 初詣はウィキペディアによれば、

 「江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形であるが、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。」

ということで、初詣の習慣は明治中期以降の鉄道の発達によるものだという。深夜の参拝も鉄道が終夜運転を始めてからではないかと思う。多分に西洋のカウントダウンの影響もあるのではないかと思う。
 江戸時代の大晦日は静かに過ごした。

   心よき年
 恙なく大晦日の寝酒かな     蚊足(『続虚栗』)

 晦日だから当然月もなく、外は真っ暗だったはずだ。さっさと酒飲んで寝るのが一番いい年の暮れだった。
 蚊足の句もう一句。

 晦日晦日や御念の入て大晦日   蚊足(『続虚栗』)

 そんな大晦日の夜、唯一にぎやかな場所があった。

 年の一夜王子の狐見にゆかん   素堂(『続虚栗』)

 王子稲荷神社には一年に一度大晦日の日に狐達が参詣し、狐火を灯したと言われている。

2019年12月28日土曜日

 今年の冬は雨が多いが、今日は冬らしい寒く晴れた一日になった。いつの間にか旧暦でも師走の三日になり、新暦では年の暮れ。
 今日は特にテーマもなくつれづれに。

 下女帯紣ヶ童めが文匣年暮けり  濁水(『庵桜』)

 この句は漢字が難しい。「紣」はなかなかフォントが見つからず、「糸偏に九十」で検索したら出てきた。「綷」の俗字だと言うが、音読みの「サイ、 スイ、 シュツ、 シュチ」はわかったが、「ケ」と送り仮名をふる訓読みがわからない。意味的に解く方ではなく絞めるほうなので、「からげ」だろうか。
 意味は、「漢字辞典オンライン」によると、

 「五色の糸で模様を織り出した絹布。
 混ぜる。混ぜ合わせる。
 綷䌨(すいさい)は、衣擦れの音の形容。」

だという。
 「文匣(ぶんこう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「厚紙に漆を塗って作った手箱。書類や小物を入れるのに用いる。手文庫。」

とある。句には「ブンコ」と振り仮名がふってある。
 「文庫結び」という帯の結び方があるが、関係あるのか。ウィキペヂアには「江戸時代には武家の女性の基本の帯結びだった経歴があり格調が高い。」とある。今でも浴衣帯びを結ぶときの定番だという。
 童には「ワロ」と振り仮名かある。わろ(和郎)だとすると、召使の子供のことで、ここでは下女の子供のことか。
 そうなるとこの句は、年の暮れには下女も子供の帯を文庫結びに結うということか。はずれだったら御免。

 人の命や仙家にも鯸を売ならば  鑯卵(『庵桜』)

 名前も難しい字を書くが「尖った卵」?
 「鯸」は河豚(ふぐ)のこと。
 「河豚を売るならば仙家にも人の命や」の倒置で、河豚の毒に当たれば仙人といえども人のように命を落とすのではないか、という意味でいいのだろう。
 夏の句だが、

 日は東に一鏡西にほととぎす   東行(『庵桜』)

の句は、百年後に詠まれる、

 菜の花や月は東に日は西に    蕪村

の句を髣髴させる。月を「一鏡」と呼ぶのは天文学的にも言い得て妙だ。
 蕪村風にするなら、「ほととぎす日は東にて月は西」だろうか。

   師走の月を
 冬がれは白髪遊女の閨の月    嵐朝(『虚栗』)

 老いた遊女の姿を冬枯れに喩えるのはいかにもだが、こうした遊女に冬の月を添える所に愛情が感じられる。
 何でもかんでも若い娘がいいというのは、まだ本当の遊び人ではない。老いた遊女の境遇に共感できて、それで遊べてこそ夜の帝王の名にふさわしい。

   さまざまに品かはりたる恋をして
 浮世の果は皆小町なり      芭蕉

の句もそんな遊び人の最終形ではないかと思う。老いた小町に愛の手を。

 寒苦鳥孤婦がね覚を鳴音哉    李下(『虚栗』)

 芭蕉庵の芭蕉の木を贈ったという李下さんの句。
 「寒苦鳥(かんくちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。仏教では、怠けて悟りの道を求めない人間にたとえる。かんくどり。」

とある。冬の季語。音的には閑古鳥と紛らわしい。
 怠け者で女の元に通うことしか考えない寒苦鳥。自身を自嘲したか。

 ねさせぬ夜身ヲ鳴鳥の寒苦僧   才丸(『虚栗』)

 「才丸」は「才麿」に同じ。江戸時代には人麿も「人丸」と言った。
 「寒苦鳥」を「寒苦僧」と言い換えて、夜遊びの破戒僧とする。

 貧苦鳥明日餅つこうとぞ鳴ケル  其角(『虚栗』)

 同じ遊び仲間の其角さんだが、寒苦鳥を「貧苦鳥」と言い換えて、明日は餅を搗こうというのだが、はたしてそのお金はあるのか。杉風さんにすがることになるのか。
 
   米つかず餅つかぬ宿は、みづから
   清貧にほこる
 臼寝て閑なる年の夕べ哉     似春(『武蔵曲』)

 「寝て」は「ねせて」か。「閑」はヒマというルビがふってある。まあ、餅はなくても、

 しら粥の茶碗くまなし初日影   丈草

という人もいるから安心していい。

2019年12月25日水曜日

 IR疑惑はついに逮捕者を出し、贈収賄事件となった。
 野党の発言が少ないのは、検察特捜は既に安倍の支配下にあるという幻想のせいで戸惑っているのか。
 今思うと、多分他にもいろいろやばいことがあるのだが、それを隠すためにあえて安全なモリカケの情報を小出しにしていたのかもしれない。野党やマスコミはこの作戦にまんまと乗せられ、囮の藁人形を攻撃していたことになる。流石に検察はそれには引っかからなかったと見るべきか。
 まあ、数々の疑獄事件を起してきた自民党が、そうすぐにクリーンになるはずもないか。
 さて本題に入ろう。
 謎の俳人皷角の発句だが、『虚栗』にはまだある。

 後家耻ぬ嫁星に寐巻かさん事   皷角

 これは七夕の句で、嫁星は織女星、西洋ではベガのこと。
 寐巻は蒲団に袖のついたような夜着とは異なり、薄手の体に纏うものをいうようだ。元禄三年の「半日は神を友にや年忘レ 芭蕉」を発句とする歌仙に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寐巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。ちなみに次の句は『去来抄』にある「なくなくもちいさき草鞋求かね 去来」。
 どういう状況で後家が織女に寐巻を貸すことになったのかはよくわからない。何か出典があるのか。

 傘合羽はぜつり時雨顔なるや   皷角

 はぜ釣は秋の季語で、時雨は冬の季語だが和歌では秋にも詠む。
 傘を被り合羽を着てはぜ釣る人を見ていると、あたかも時雨が降っているかのようだ。

2019年12月24日火曜日

 はぴほりー。
 俳諧の時代にはまだクリスマスは日本に入ってきてなかったので、平常どおりに。

 皷角はどういう人なのかまったくわからないが、天和の頃に活躍した人で、千春撰の『武蔵曲』(天和二年)にも、

 雪の卦や二陰生ズル下駄の跡   皷角

の句がある。雪の上に付いた下駄の後が二が横に二つ並んだ状態で、易の陰が二つ(==)になる。
 この句は捨女の句と伝えられている、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

に似ている。
 『虚栗』の冬の句は前回紹介したが、それ以外の句は、

   在原寺ニて
 美男村の柳はむかしを泣せけり  皷角

 特に説明の必要のない句だ。
 在原寺は奈良の天理市にある不退寺の別名だという。ここには、

 うぐいすを魂に眠るか嬌柳    芭蕉

の句碑があると言うが、同じ『虚栗』の皷角のこの句隣に並んでいる。

   寒食
 木食も香炉に煙なき日なり    皷角

 「寒食(かんしょく)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。」

とある。
 「木食(もくじき)」はウィキペディアに、

 「木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと。木食上人ともいう。」

とある。
 普段から火を用いない木食戒の僧は香炉の火を絶つ日だ、というのだが、本当だろうか。

 唐扇はすねたり和扇ハ艶也渋団  皷角

 中国の扇子が渋団扇を見て「和扇は艶也」といってすねるというのだが、よくわからない。

 葺かへて不破のたびねの紙帳哉  皷角

 「紙帳(しちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。防寒具にも用いた。」

とある。不破の関の破れた板庇も新しく葺いたのかと思ったら、紙帳を張って旅寝しているだけだった。

 あさぢふや地蔵の闇を問蛍    皷角

 これはわりと普通の句。説明の必要はないだろう。

2019年12月23日月曜日

 『虚栗』にあった、よくわからない句。

 不二に目鼻混沌の王死シテより  皷角

 「混沌の王」で検索するといろいろなゲームキャラが出てきてしまう。その中でようやく見つけたのが「荘子『混沌』」だった。『荘子』内篇應帝王篇第七に、

 「南海之帝為倏、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。倏与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。倏与忽、謀報渾沌之徳、曰人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。日鑿一竅、七日而渾沌死。」

 南海の帝は倏、北海の帝は忽、中央の帝は渾沌という。倏と忽は時々渾沌の地で合い、混沌のもてなしに何かお返しをしようと相談した。
 人には七つの穴があり見たり聴いたり食べたり息したりしている。渾沌にだけはそれがない。穴を開けてみたらどうか。
 一日一つづつ穴をあけていったら七日目に渾沌は死んだ。

 これが出典である事に間違いはないだろう。
 ところで「不二に目鼻」とは何だろうか。
 これは混沌=崑崙とし、西王母のいる崑崙山と対になる、東王父のいる蓬莱山に例えられる富士山にも穴を開けたらどうかと、そういう発想だったのではないか。
 渾沌に七つの穴が開いて死んだ後、次は富士にも目鼻を開けてゆけば‥‥、そういう句だったのでは。
 同じく『虚栗』の皷角の句。

 雪ヲ吐て鏡投けり化粧姫     皷角

 化粧姫はよくわからないが、雪を吐くなら雪女のようなものか。自分の顔を見るのが嫌なのか鏡を投げ捨てる。

2019年12月21日土曜日

 文学、芸術、およそ創作物から受ける感動の正体はそう簡単につかめるものではない。
 芭蕉が古池の句を詠めたのは、おそらく偶然だっただろう。ちょうど談林調、天和調を経て、古典回帰を進めてきた時期だっただけに、芭蕉は古典の情を新味ある題材で詠んだ所に成功の原因を求め、『奥の細道』の旅での曾良との会話からおそらく最初の不易流行説は生まれたのだろう。
 去来の『去来抄』や土芳の『三冊子』が伝える不易流行論はこの元禄二年冬からの猿蓑調の時代のもので、その後芭蕉はこの考えを変えていった。
 不易流行説では古典の本意本情と俗情を区別した。この区別にはおそらく李退渓の四端七情の説が影響していたと思われる。李退渓は藤原惺窩や林羅山の朱子学に大きな影響を与えていたから、それが朱子学系の神道を学んだ曾良を通して芭蕉に伝わったとしてもおかしくはない。
 気から来る既発のその場限りの情を流行とし、その背後に求めたのが理から来る未発の四端を不易の本意本情だった。この本意本情は時代を超えて普遍であるため、古典から学習できると考えた。
 ただ、実際に句が与える感動は、必ずしも古典に通じるものではない。むしろ出典に寄りかかった句は古臭く、元禄時代の人々の生活に必ずしもフィットするものではなかった。そこから芭蕉はあえて古典の出典をはずしていこうとした。
 ちょうど上方から江戸に下った時期、芭蕉は「軽み」という形でそれを試し、新たな理論を模索したのだろう。
 許六にはもはや不易流行を説くことはなかった。むしろこれまでの常識を破るような「底を抜く」句を求めた。
 そして再び上方に上り、支考と『続猿蓑』の編纂を進めていく中で虚実の論が作られていった。「実」はもはや古典に添ってはいない。ただ、それがはっきりと形を現す前に芭蕉はこの世を去った。
 だが、今それを推測するなら、それは各自の体験の中の本当に深いかけがえのない感動であり、それを引き出す虚だけが必要だったのではなかったかと思う。

2019年12月20日金曜日

 さて、今年もたくさん俳諧を読んできた。一応振り返ってみると、

 一月二十日から一月二十七日まで「洗足に」の巻
 二月十日から二月二十八日まで「此梅に」の巻
 三月十六日から三月二十一日まで「鰒の非」の巻
 四月十三日から四月二十六日まで「八九間」の巻(二種)
 五月十二日から五月十六日まで「杜若」の巻
 六月十七日から六月三十日まで「いと凉しき」の巻
 七月三日から七月七日まで「温海山や」の巻
 七月八日から七月十五日まで「忘るなよ」の巻
 八月十二日から八月二十九日まで「哥いづれ」の巻
 九月六日から九月十五日まで「実や月」の巻
 九月十八日から九月二十三日まで「名月や」の巻
 九月二十九日から十月十二日まで「松風に」の巻
 十月十三日から十月二十日まで「あれあれて」の巻
 十一月二十日から十一月二十六日まで「鳶の羽も」の巻
 十一月二十八日から十二月四日まで「凩の」の巻
 十二月十日から十二月十八日まで「枇杷五吟」

と十五巻になる。
 まあこれはゲームで言えばレベル貯めのようなもので、読む方は退屈かもしれない。
 今日はネットで話題になったGotch.aka後藤正文さんのこのツイットを読んでみようかと思う。

 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。一方で、俺は数十万円もするマイクで歌を録音してる。引き裂かれるよ。落ち込むよ。」(Gotch @gotch_akg 12月16日)

 たとえば目の前に餓えている子供がいるとしたら、心を痛めない人はいないと思うし、少なくともその時は何とかしてあげたいと思うだろう。
 それはたとえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中に富士川で捨て子を見つけ、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

と詠んだことを思い起こすこともできる。
 ただ、こうして捨て子を目の前にしたときには断腸の声をあげても、実際その後芭蕉が捨て子のために何かをやろうだとか、孤児院のようなものを考案するということもなく、その後特に捨て子を詠むこともなかった。こうした反応もまたよくあるというか普通のことだ。
 人は目の前にある物については理由もなく感情を強く突き動かされたりすることもある。ただ、その瞬間が終ればたいてい速やかに忘れ去られてゆく。ちょうどさっきまで見ていた夢が、眼が醒めてしまうと思い出せなくなるようなものだ。
 ただ、こうした記憶は何かの弾みでフラッシュバックすることもある。特に言葉や芸術作品には、人の大事な記憶をフラッシュバックさせる働きを持つことがある。
 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。」という言葉は、最初に「例えば」とあるように、実際にこの子供を目の前にしたのではなく、これは人から聞いた話ではないかと思う。似たような話を認定NPO法人カタリバのページで見つけた。

 「良太くんのお母さんは、介護施設で働いています。
 離婚後、介護の仕事をしながら3人の子どもを育ててきました。

 2日に1度は夜勤があります。
 夜勤のあとも少しだけ仮眠をとったあと、また昼から仕事する毎日…。

 夜勤がない日も、残業がとにかく多く、夜、家にいられることがほとんどないそうです。
 それでも、厳しい家計を支えていくために、仕事を減らすことはできません。

 良太くんは、小学生の頃から、ご飯も1人、夜寝る時も1人でした。
ほぼ毎日コンビニのお弁当か、スーパーでお惣菜を買います。」

 多くの人はこの文章で、多少は不憫を感じるにしても、それほど心を痛めることもないだろう。なぜならこれは「情報」だからだ。目の前にその子供がいるわけではないからだ。
 情報である以上、自分で見て確認したわけではない。だからこの情報をたとえ本当のことだと信じたにせよ、そこに浮かんでくる映像は過去の記憶を繋ぎ合わせただけのもので、はっきりとしたものではない。「まあ、こういう人はいそうだな」くらいで終ることが多い。
 ただ、この言葉であっと心を痛める人がいたなら、それは以前にこういう人に会ったことのある人ではないかと思う。このとき言葉は単なる情報ではなく、過去の体験をフラッシュバックさせる一つの刺激となる。
 芸術には確かにこういう効果がある。普通の人には安っぽい失恋ソングに聞こえるような歌でも、今しがた失恋したばかりの人には、それがまるで自分のことのように聞こえ、涙が出てくることもある。
 勧誘というのはこうした効果を巧みに利用する。貧しい子供の話をしても、だれもがそれに食いついてくるわけではない。ほとんどの人は「ああそうですか」で終ってしまう。だが、片っ端からいろんな人に声をかければ、稀に自分の体験をフラッシュバックさせ、感銘の涙を浮かべる。そういう人に「こうすればいい」というと、ころっとなる確立が高い。
 カタリバは多分真面目で地道な活動をしている団体だから問題はないと思うが、昔の左翼だったら、それこそ革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決するという方に持って行っただろう。ある意味左翼の人たちにとって、こういう貧困の物語は左翼に勧誘されたきっかけとして、だれしも体験していることなのかもしれない。
 人の純粋な心の痛みも、導きようによっては爆弾を作って戦う人間を育てたりもする。だから貧困の物語を単なる情報としてあえて感情を抑えて放置するのも、そうした危険に対する防衛反応なのかもしれない。
 眼前から離れ、ひとたび情報の一つとなった言葉は、大概の場合真偽不明の情報として、一つのお話として、フィクションとして記憶される。
 フィクションというのは、物事を考える時に貴重なモデルを提供するもので、そのストックは多ければ多いほうがいい。そのため有史以前、文字以前の社会でもたくさんの物語が存在する。しばしばそうした物語は社会全体で共有される神話にもなる。
 フィクションはそれゆえ多様で相矛盾するものを多く持っていたほうがいい。一つのフィクションがモデルとして役に立たない時に、すぐ代わりが用意できるからだ。
 芭蕉や支考の虚実論の中で「虚」と呼ばれるのもそういうものではないかと思う。言葉によって伝えられる様々な情報、自然や人情や現実の様々な事象はすべて虚であり、ならば何が実だというと、その言葉に感動した時にはその気持ちが実なのではないかと思う。
 言葉は一つの情報でありフィクションにすぎない。ただ、その言葉に感動した時、その感動は外からやってきたのではない。自分自身の忘れかけていた重要な体験がフラッシュバックしたのであり、感動は内からやってくる。虚がきっかけになって自分の中にあった実が引き出される。それが虚を以て実を行うではないかと思う。
 先の「猿を聞く人」の句で言えば、句自体は虚だが、芭蕉が捨て子を見たときに感じた惻隠の情は実だったし、この句を聞いて断腸の思いになる人がいたら、その人の中にも実が引き出されたことになる。
 こうやって作品が偶発的にであれ、その人の心の底にある大切な感情を思い出させることができたなら、芸術はやはり捨てたものではない。
 音楽にもそれはあるはずだ。
 普段フィクションとして処理していた貧困の子供の物語を、あるときあたかも眼前にいるかのように思い出させ、心を痛ませてくれたとしたら、その芸術には価値がある。
 そして、同じ音楽を聴きながら、隣の人も涙を流していたとしたら、その人は自分の体験とはまったく別の体験を思い出して泣いているのは間違いないのだが、それでも「お前もか」「我も」「我も」ということで共鳴し合うことが出来る。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の句も、おそらくこの句のテーマは蛙でもなければ水音でもなく、廃墟、あるいは廃村だったのではないかと思う。
 かつて幸せに暮らしていた人たちが、何かの不幸でいつの間にかいなくなってしまい、荒れ放題の土地に池が残されている。そこで何らかの実体験をフラッシュバックさせた人が何人もいたのだろう。そこで「お前もか」「我も」「我も」ということになっていったのではなかったか。
 「そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。」と後藤さんは言うが、そういう社会を思い出させ、体験を共有させることができるのも音楽ではないかと思う。数十万円のマイクは何ら恥じることではない。
 別に貧困をテーマにした歌を作れということではない。なぜなら何がその重要な体験をフラッシュバックをさせることができるのかなんて誰にもわからないし、それは人によっても違うし、偶然性のほうがはるかに強い。
 偶然を呼び込むにはむしろ必要なのは多様性だ。いろいろな歌があっていろいろな芸術があったほうがいい。一つの立場の歌ではなく、様々な矛盾する歌があったほうがいい。そのたくさん街にあふれる歌の一つを作ることが、結局一番尊いことなのではないかと思う。
 世の中に無数の音楽が溢れ、音楽業界が盛況を究め、数十万円もするマイクが使われる状態のほうが、権力者の与える決まった歌しか歌ってはいけない社会よりはるかに心を豊かにし、貧困問題も解消に向うのではないかと思う。

2019年12月18日水曜日

 カジノを含む統合型リゾート(IR)をめぐって何やら不正な中国マネーが動いているようだ。特捜が動いているから、捜査の進展を見守りたいが、ひょっとしたら何か大きなものがあるかもしれない。
 横浜市はそれまで白紙だったIR誘致を一転させて誘致に踏み切ったし、安倍政権は習近平を国賓として招聘するし、おかしなことはたくさんある。
 山口敬之の不起訴については当初から安倍の圧力だということで騒がれていて、そのせいで強姦事件としてではなく、安倍の陰謀の方で盛り上がってしまっていた。
 ただ思うに、山口敬之ってそんな一国の首相が政治生命を危険に曝してまで救わなければならないような、そんな凄い人なのかと思うと、ありそうにないような気がする。強姦の方は知らんが。
 まあ、いろいろとあった今年ももう二週間を残すのみ。「枇杷五吟」も今日で終わり。

 二裏。
 三十一句目。

   松にきあはす唐崎の茶屋
 初しぐれ居士衣をかぶる折もあり 牧童

 「居士衣(こじえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「隠者や僧侶などが着る衣服。居士ごろも。」とある。日本では僧衣の意味で用いられることが多いが、中国では道家の衣裳も含まれる。
 居士の語源はウィキペディアには「『(家に)居(を)る士』であり、仕官をしない読書人の意である。」とある。正岡子規も子規居士を名乗っていた。
 急なにわか雨には僧衣を頭にかぶって、近くにある茶屋に駆け込むこともある。
 三十二句目。

   初しぐれ居士衣をかぶる折もあり
 吹て通りし夜の尺八       乙州

 居士衣をかぶって雨宿りをしていると、深編笠(あみがさ)を被った虚無僧が悠然と歩いてゆく。
 三十三句目。

   吹て通りし夜の尺八
 旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて  小春

 亭主はこの場合は宿屋の主であろう。「頼ミ」というのは只で泊めてもらうということか。
 三十四句目。

   旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて
 薬を削る床の片隅        魚素

 この場合の「頼ミ」は、旅の途中で病気になったので、宿の主人に医者を呼んでくれるように頼んだということか。
 三十五句目。

   薬を削る床の片隅
 うぐひすは杜子美に馴るる花の陰 北枝

 杜子美は杜甫のこと。
 杜甫に花と鶯というと、「重過何氏五首 其一」の「花妥鶯捎蝶 溪喧獺趁魚」や、

   江畔獨步尋花七絕句 其六
 黃四娘家花滿蹊 千朵萬朵壓枝低
 留連戲蝶時時舞 自在嬌鶯恰恰啼

といった詩句がある。その杜甫の「江村」という詩のなかに「多病所須唯薬物 微躯此外更何求」という詩句がある。
 挙句。

   うぐひすは杜子美に馴るる花の陰
 山と水との日々の春       牧童

 「日々」は「にちにち」と読む。「日日是好日」という言葉もあるように、花の下で杜甫が鶯と戯れれ、山水に囲まれながら、毎日が良い春の日だとこの一巻も目出度く結ぶ。

2019年12月16日月曜日

 昨日は赤羽へPagan Metal Horde vol.4を見に行った。Ethereal Sin、PAGAN REIGN、EINHERJER、Týrどれも最高だった。
 どれもお国柄とか感じられて面白かった。聞いていてその国の景色が浮かんでくるような気がした。Ethereal Sinは日本のバンドで今回は黒の陰陽師姿で登場。音楽は世界を繋ぐ。
 それでは「枇杷五吟」の続き。

 二十五句目。

   扨々野辺の露のいろいろ
 簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く 北枝

 これは謡曲『烏帽子折』の本説か。
 鞍馬寺を飛び出した牛若丸は商売で東国に向う金売り吉次の従者となる。このとき追っ手を欺くため烏帽子を新調することになる。
 そして美濃の国赤坂の宿で熊坂長範盗賊団から吉次を守る。
 謡曲『熊坂』ではこのときの戦いの場面が描かれる。そして最後は、

 「苔の露霜と。消えし昔の物語。」

と結ばれる。
 簀戸はこの場合宿の夏用の扉、簀戸門であろう。
 簀戸(すど)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど)。
  2 ヨシの茎で編んだすだれを障子の枠にはめこんだ戸。葭戸(よしど)。《季 夏》
  3 土蔵の網戸。
  4 「簀戸門(すどもん)」の略。」

とある。
 二十六句目。

   簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く
 ゆるさぬものか妹が疱瘡     牧童

 簀戸の烏帽子を被った番人は、疱瘡神から妹(妻)を守ろうとしている。
 疱瘡の原因のわからなかった古代の人は疱瘡神によるものと考え、武威でもって守れるものと考えた。
 江戸時代後期の浮世絵でも疱瘡神と戦った源為朝の絵が盛んに描かれた。
 二十七句目。

   ゆるさぬものか妹が疱瘡
 うつくしき袂を蠅のせせるらん  乙州

 前句の「ゆるさぬものか」を疱瘡神ではなく蠅に対しての言葉とする。「せせる」は今日の「せせら笑う」に名残を留めるような「からかう」という意味でも使うが、虫が刺したりたかったりする場合にも用いる。
 「うつくし」には愛しいという意味もある。
 二十八句目。

   うつくしき袂を蠅のせせるらん
 食打こぼす郭公かな       小春

 袖に蠅が来るのをこぼした飯のせいだとする。
 二十九句目。

   食打こぼす郭公かな
 酔狂は坂本領の頭分       魚素

 坂本は近江坂本か。比叡山の東側で今も比叡山に登るケーブルカーの発着点になっている。比叡山の門前町で里坊が建ち並び、栄えていた。戦国時代には明智光秀の坂本城もあった。
 江戸時代には幕府領となり、遠国奉行の指揮下で大津代官が治めていた。
 最初の大津代官大久保長安はウィキペディアによると、「無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。」との逸話があるという。
 三十句目。

   酔狂は坂本領の頭分
 松にきあはす唐崎の茶屋     北枝

 「にきあはす」は「に・来あわす」か。
 坂本は唐崎の松でも有名だ。
 坂本領のお偉いさんが唐崎の松を見に来たか、庶民の来るような茶屋にひょっこり現れたりする。

2019年12月14日土曜日

 仲間を信じるというのは大事なことだ。疑ってばかりだと人と人との信頼関係は崩れ、ただ暴力と恐怖が支配することになる。
 だが人を疑うことも必要だ。世の中はいい人ばかりではないし、いい人であっても知らず知らずの内にその人を傷つけてたり、あるいはとんでもない所に追い詰めていたのに気がつかなかっただけかもしれない。表向きの微笑みは必ずしも真実とは限らない。
 金八先生の「贈る言葉」(海援隊)では「信じられぬと嘆くより/人を信じて傷つく方がいい」と歌っているが。自分が傷ついたりする程度で済むなら確かにそうだ。あるいは裏切られて殺されても覚悟はできていると言うなら、それはその人の考え方で済む。
 だが、もしそれが大切な家族や仲間を巻き込むことになったなら、さらには地域全体や国家や民族を巻き込むことになったなら、信念だからで済ますこともできない。
 だからといって、国家や民族を巻き込むレベルで人を疑ってばかりいたら、間違いなく戦争で多くの人が死ぬ。
 それが難しいところだ。信じすぎるのは馬鹿だが、疑いすぎるのは危険だ。
 アフガニスタンで起きた中村哲さんをはじめとする六人の殺害。中村さんは人を信じる人だったようだ。だが、完全なまでに行動を読まれ待ち伏せされていた事件は、内通者があった可能性もあるし、犯人グループの背後に組織が関与しているとしたら、今後も残された仲間達が襲撃される危険もある。
 誰でも人の気持ちはわかるが、だからといって完全にわかるということはない。その完全でないというところから、いつだって人は争い、悲劇を繰り返してきた。
 どこまで人を信じればいいのか、どこまで人を疑えばいいのか、もちろん答なんてない。ただ、誰もがそれをそれぞれの直感で判断しているだけだ。
 多分憲法第九条もそういう問題なのだと思う。
 なんか重い話になってしまったが、あの事件からずっともやもやしていることだった。

 それでは気分を変えて「枇杷五吟」の続き。

 二表。
 十九句目。

   人は思ひに角おとす鹿
 春の日に開帳したる刀自仏    魚素

 刀自(とじ)は戸主(とぬし)のことで、年長の女性や主婦を意味する。京都嵯峨野の祇王寺の仏壇には祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像がある。
 女性の仏像は珍しく吉祥天、弁財天、鬼子母神などの天女系くらいしかない。
 いずれにせよ有難い刀自仏のご開帳とあれば、人々は感銘し、鹿も角を落とす。
 二十句目。

   春の日に開帳したる刀自仏
 交々にたかる飴うち       北枝

 秘仏のご開帳とあればたくさんの人が訪れ、縁日となり露店が並ぶ。飴を目の前で鉈などで打って小さくして売る実演販売では人だかりが絶えない。
 二十一句目。

   交々にたかる飴うち
 馬盥額に成までやり置て     牧童

 「交々」は「かはるがはる」。
 「馬盥(うまたらひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 馬を洗うのに用いる、大きなたらい。ばたらい。」

とある。直径二尺以上の浅い盥で、これに似ているというところから馬盥(ばたらい)という茶碗や生花に使う水盤もある。
 平たいものなので底に絵や字を書けば額にできなくもない。放置され、使えなくなった馬盥は、実際に額に転用されることがあったのか。ここでは目出度く飴屋の看板になったのだろう。
 二十二句目。

   馬盥額に成までやり置て
 越の毛坊が情のこはさよ     乙州

 「毛坊」は毛坊主で、髪を伸ばした百姓でありながら僧の役割を果たす俗僧のこと。家の門に掲げた山額が盥でできてたりしたか。「こはし」には強情という意味がある。
 二十三句目。

   越の毛坊が情のこはさよ
 月の前痛む腹をば押さすり    小春

 毛坊主は俗僧ゆえ妻帯しているのが普通で、臨月の痛む腹を押しさすって産婆さんが来るのを待つ。「月の前」は月が照る中という両方の意味がある。
 二十四句目。

   月の前痛む腹をば押さすり
 扨々野辺の露のいろいろ     魚素

 これはひょっとしてシモネタか。下痢して野糞して本来の野辺の露と別の露が、ということか。大友克洋に「つゆのあとさき」という漫画があったが。

2019年12月13日金曜日

 今日は一日曇っていて寒かった。
 日本が二度目の化石賞ということで、何でこうなってしまうのか。
 日本には再生可能エネルギーの高度な技術があるし、それに必要な資源(太陽光、地熱、水力、潮力、風、バイオ燃料の原料になる物)にも恵まれている。やろうと思えばいつでも脱炭素社会を作れる。
 それをやらない最大の理由は、東京電力、関西電力など少数の電力会社が一つの地域の電力事業を独占しているからだ。
 こうした電力会社は収益率の高い大規模発電所による一括供給というモデルを変えようとしない。そのため原発か火力かという二択に陥ってしまう。自民党は電力会社と癒着し、民主党も電力会社の労組の票が欲しい。そのため今までの政治は基本的にこの二択以外の決断はできなかった。
 福島の原発事故で脱原発の世論が高まったとき、民主党の野田政権は脱原発に舵を切ったが同時に火力発電所の大増設を打ち出してしまった。この政策はそのまま自民党の安倍政権に受け継がれた。
 バイオ燃料が普及しないのも、石油業界の寡占体制に原因がある。
 日本にはミドリムシからジェット燃料を製造する技術があり、これが大々的に行われればトゥンベリさんも堂々と飛行機で移動できるようになるだろう。
 日本はやろうと思えばいくらでもCO2を削減できる。それをやらないのは与野党揃っての政治の貧困だが、まあ、政治家をいくら批判した所で前へ進めるわけでもない。
 日本はノーベル賞受賞者もたくさん輩出しているし、イグノーベル賞に至ってはほとんど独壇場といってもいい。頭が良くて柔軟性もある。ただ、いくら才能のある人間がたくさんいても、それを政策提言へと集約する事ができていない。トゥンベリさんに叱られちゃうね。

 今言えることはこれくらいなので、「枇杷五吟」の方に行ってみようか。

 十五句目。

   無欲にまつる精霊の棚
 布袋にも能似し人の踊出     北枝

 「能」は「よく」と読む。
 盆踊りの場面だが、布袋さんに似ているのならデブにちがいない。踊る安禄山みたいなものか。
 十六句目。

   布袋にも能似し人の踊出
 伏見の月のむかしめきたり    牧童

 伏見人形の布袋さんの縁で付けたか。伏見人形はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代初期の元和(げんな)年間(1615~24)には、すでに人形製作販売の伏見商人仲間(同業組合)が存在していた。一般には関ヶ原の戦いで敗亡した宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陪臣(ばいしん)、鵤(いかるが)幸右衛門が、深草の里に隠棲(いんせい)、土人形をつくり生業としたのが始まりと伝えられている。また、東福寺門前の焼き物師、人形屋幸右衛門に、伏見稲荷大社に近い臨済宗東尊寺開山堂の布袋(ほてい)座像を模してつくらせたのがおこりとする説もある。」

とある。
 また伏見というと、『看聞日記』永享三年(一四三一)七月に即成院で異形風流の念仏踊りが行われたという記録がある。(『洛北における盆の風流灯籠踊り』福原敏男、国立歴史民俗博物館研究報告第112集2004年2月)
 伏見にかつての秀吉の時代の栄光はないが、昔ながらの盆踊りが月の下で行われている。
 十七句目。

   伏見の月のむかしめきたり
 花はちる物を見つめて涙ぐみ   乙州

 「物」は幽霊か、それとも昔の伏見の幻か。伏見の月に花は散り、昔を思い出すと悲しい。
 十八句目。

   花はちる物を見つめて涙ぐみ
 人は思ひに角おとす鹿      小春

 鹿は春先に角が抜け落ちる。
 花が散れば人は物思いに涙ぐみ、鹿は涙ではなく角を落とす。

2019年12月12日木曜日

 今日は旧暦の十一月十六日で満月だ。朝も夜も月が見えた。
 山地の紅葉は終りかけて、今は街中であざやかな紅葉の赤を目にする。
 それでは「枇杷五吟」の続き。

 九句目。

   あだなる恋にやとふ物書
 埒明ぬ神に歩みを運びかけ    魚素

 「埒」は馬場の策のこと。加茂の競馬の時になかなか柵が開かない(競技が始まらない)というところから「埒があかぬ」という言葉ができたという説もある。
 「歩(あゆみ)を運ぶ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 出かける。わざわざ行く。また、歩行する。
 ※今昔(1120頃か)四「年老い身羸(つか)れて、歩を運ぶと云へども、其の道堪難(たへがた)し」
 ※滑稽本・風来六部集(1780)里のをだ巻評「木場の岡釣には太公望も歩(アユミ)をはこび、三十三間堂の大矢数には養由基も汗を流す」
  ② 神仏などに参詣する。参拝におもむく。
 ※平家(13C前)一〇「我朝の貴賤上下歩(アユミ)をはこび、〈略〉利生にあづからずといふ事なし」

とあり、この場合はそのまま②の意味でいいのだろう。
 「埒明ぬ」は終止形で一回切れて、埒が明かないので神に祈りに行こうとしたが、その前に恋文を代筆してもらう。
 十句目。

   埒明ぬ神に歩みを運びかけ
 池のすぽんの甲のはげたり    北枝

 「すぽん」は鼈(すっぽん)のこと。亀だけど甲羅は柔らかい。英語ではsoft-shelled turtleというらしい。「甲(こう)のはげたり」は脱皮のことか。
 神社の池に亀がいることはよくあるが、昔はスッポンもいたのか。
 十一句目。

   池のすぽんの甲のはげたり
 橋普請木の切レさがす役に付   牧童

 橋普請はコトバンクの「世界大百科事典内の橋普請の言及」に、

 「とくに堤川除(かわよけ)・用水・道橋等の普請において,周辺村落が費用を出して行った工事を自普請というのに対し,領主側が費用を負担して行った工事をいう。幕領における河川・用水等の管理は元来代官の任務で,1687年(貞享4)の勘定組頭・代官への布達に,灌漑用水普請は高100石に人足50人まで百姓自普請で行うこと,この人数を超えるときには人足扶持を支給すること,堤川除普請は人数の多少にかかわらず扶持米を支給すること,また金銀入用はいずれの普請についても支給すること,竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え,ない所は代金を支給すること等と規定され,橋普請は街道筋の場合,長短に限らず幕府が出費し,在郷の場合は原則として所役とすることとされた。こののち増大した御普請費用は幕府の財政状態の悪化により問題化し,1713年(正徳3)には町人等の請負工事を禁じて,なるべく百姓自普請で行うことを令した。」

とある。
 「竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え」とあるところから、代官様が木切れを探すこともあったのか。前句の「甲のはげたり」が何となく代官様の禿げ頭を連想させる。
 十二句目。

   橋普請木の切レさがす役に付
 昼寝せぬ日のくせのむか腹    乙州

 普請の時の代官様は今で言えば現場監督のようなものなのか。結構雑務が多くて昼休みも満足が取れない。それでいらいらして職人に当り散らしたりする。困ったものだ。
 十三句目。

   昼寝せぬ日のくせのむか腹
 むら薄おほふ隣の味噌くさき   小春

 昔は各家庭で味噌を作っていて、「手前味噌」なんて言葉もあるということはよく言われるが、発酵食品なだけに加減を間違えると雑菌が混じって悪臭を放つ。
 この場合の薄に覆われた隣人は物事に頓着しない世捨て人で、いわゆる草庵だったのかもしれない。だとすると金山寺味噌の可能性もある。
 十四句目。

   むら薄おほふ隣の味噌くさき
 無欲にまつる精霊の棚      魚素

 精霊棚はお盆の祭壇。昔は屋外に置かれていた。お供えは殺生を嫌い野菜や果物を供える。味噌漬けを供えることもあったのか。

2019年12月11日水曜日

 今日も夕方雨が降った。時雨というには暖かく、遠くでは稲妻が光っていた。秋なのか冬なのかよくわからない。
 異常気象というと、一体何が正常なのかという問題はあるが、やはり温暖化の影響はあるのか。
 そういえばトゥンベリさんに向きになる大人が多い。それこそ大人気ないというかガキの喧嘩だ。
 確かに子供なのは事実だが、まあこれから地道に勉強を積み重ねて、大人になった時に立派な活動家に成長して欲しいものだ。
 情熱に任せて真っ直ぐ進んでいけるのは若さの特権だが、それを利用しようとする悪い大人達もたくさんいるのは現実だ。使い捨てにされ、最後は生贄になんてことにならなければいいが。
 西洋の文化の根底には一人を生贄に奉げてでも世界を救うという発想が根強いのだろう。イエス・キリストがまさにそれだし。
 「天気の子」はそれを否定しているし、日本のアニメでは犠牲は避けられないという場面でいかにそれを回避するかというところで盛り上げるものが多い。「シンゴジラ」もたった一人のおばあさんのために攻撃をやめた。そういうわけで日本からトゥンベリさんのようの人が出ることはないのではないかと思う。

 それはまあともかくとして「枇杷五吟」の続き。
 四句目。

   道草の旅の牝馬追かけて
 足の灸のいはひかへりし     魚素

 灸は「やいと」と読む。
 「いはひかへりし」はわかりにくい。『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)の大内初夫注では「足の灸治の祝いに出掛けていた人が帰って来たの意か。」とある。
 「いはふ」は自動詞だと今日の祝うと同じような意味だが、他動詞の「斎(いは)ふ」だと身を清める、忌み慎む、大切に守る、という意味になる。「かへる」には今でも「静まり返る」と言うように、強調の意味がある。
 おそらく前句の旅の場面から「足三里の灸」を付けたのではないかと思う。足三里は膝下にあるツボだが、この言葉は『奥の細道』の冒頭にも、

 「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破れをつゞり笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて‥‥」

とある。
 旅でついついはしゃいで牝馬を追いかけたりしたから足を痛めて、足に灸をして身を慎みことになった、ということではないかと思う。
 五句目。

   足の灸のいはひかへりし
 さかやきの湯の涌かぬる夕月夜  北枝

 「さかやき」は「月代」の字を当てる。『去来抄』「修行教」には風国の句(実際は蘭国の句)として、

 名月に皆月代を剃にけり

の句を廓内(くるわのうち)の句としている。つまり誰でも思いつきそうな、ということか。
 元禄の頃は額を剃り上げるあの月代(さかやき)が広く定着した時代で、月代という字を当てるから、月に月代がてかてか光ってなんてオヤジギャグのような句は誰でも思いつくようなものだ、ということだったのだろう。
 これに対し去来は、

 名月に皆剃立て駒迎へ

と直したという。月代の語を句の裏に隠し、「駒迎へ」という旧暦八月に東国から朝廷へと献上される馬を役人が逢坂の関に迎えに行く儀式を、別に付けている。名月に駒迎えなら廓外になるというわけだ。
 北枝のこの句も、さかやきを剃るための湯のなかなか涌かないという、月から直接連想できないことを加えることで、月にてかる月代の月並さを免れている。
 前句の足の灸で身動き取れないことから、月代を剃る湯もうまく沸かせない、と付ける。昔は湯を沸かすにも薪を運んでくべたり、それなりに動かなくてはならなかった。今みたいな給湯器はない。
 六句目。

   さかやきの湯の涌かぬる夕月夜
 髭籠の柿を見せてとりをく    牧童

 「髭籠(ひげこ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 細く割った竹や針金で編んで、編み残した端をひげのように延ばしてあるかご。端午の幟(のぼり)の頭につけたり、贈り物などを入れるのに用いた。どじょうかご。ひげかご。」

とある。
 月夜の訪問客が髭籠に柿を入れて持ってきたのだろう。月代の湯がなかなか涌かず、なかなか出てこない主人にその柿を一応見せるだけ見せて置いて帰る。
 初裏。
 七句目。

   髭籠の柿を見せてとりをく
 陣小屋の秋の余波をいさめかね  乙州

 「陣小屋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 軍兵の駐屯する小屋。小屋がけの陣屋。」

とある。
 「いさむ」には励ますという意味もある。陣小屋の兵士達が暮秋を惜しみ悲しむのを励ますこともできずに、髭籠の柿を見せるだけで置いていくとなるわけだが、「秋の余波(なごり)」は比喩で、負け戦で犠牲者が出たことを言っているとも思える。
 八句目。

   陣小屋の秋の余波をいさめかね
 あだなる恋にやとふ物書     小春

 秋を失恋の秋とし、それでも思い切れずに代筆する人を雇って恋文を書かせる。前句の「秋の余波をいさめかね」を暮秋の悲しみを禁じえずという意味に取り成す。

2019年12月10日火曜日

 さて、次はどの巻を読もうかという所で、蕉門だけど芭蕉の参加していないものを選んでみた。『新撰都曲』と同じく、『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)からで、北枝編の『卯辰集』(元禄四年刊)から枇杷五吟を見てみよう。
 メンバーは『奥の細道』にも登場する加賀の北枝、それにその兄の牧童、近江蕉門の乙州、加賀の小春(しょうしゅん)は曾良の『旅日記』の七月二十四日の所に、

 「快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。」

とある。もう一人の魚素についてはよくわからない。同じ『卯辰集』に、

 行雲のうつり替れる残暑哉    魚素

の発句がある。
 さて枇杷五吟の発句。

 凩やいづこをならす枇杷の海   牧童

 同じ琵琶湖の凩というところで、前回に見た、

 凩の果はありけり海の音     言水

を思わすところがある。
 琵琶湖はウィキペディアには「湖の形が楽器の琵琶に似ていることがわかった江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。」とあるが、元禄四年に「枇杷の海」が既に用いられている。
 レファレンス事例詳細には、「『琵琶湖』という名前が文献に初めて現れるのは16世紀初頭、室町時代の後期です。」とある。また、名前の由来について、「名前は竹生島にまつられている弁才天がもつ楽器の琵琶に湖の形が似ていることに由来します。また、琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波の音がよく似ていたからともいわれています。」とある。
 この由来からすると、言水の「海の音」は凩の掻き鳴らす琵琶の音だったのかもしれない。
 牧童の句も同じネタになってしまうが、凩が琵琶を鳴らすにしても、弦のない琵琶湖のどこを掻き鳴らすのだろうという句だ。
 これに対し、近江の乙州が脇を付ける。

   凩やいづこをならす枇杷の海
 西もひがしも蕪引空       乙州

乙州が脇を詠み、発句に琵琶湖が詠まれているところから、大津での興行と思われる。
 乙州について、ウィキペディアには、

 「元禄2年(1689年)家業により加賀金沢に滞在中『奥の細道』旅中の松尾芭蕉と邂逅した。同年12月芭蕉を大津の自邸に招待し、以降上方滞在中の芭蕉を度々招き、また義仲寺の無名庵や幻住庵に滞在中の芭蕉の暮らしを姉智月尼と共に世話をした。」

とあるが、この興行も元禄二年の冬だったのかもしれない。
 発句の「いづこ」を受けて「西もひがしも」とし、琵琶の弦はないが蕪が収穫期を迎えているとする。「凩」に「空」が付く。
 第三。

   西もひがしも蕪引空
 道草の旅の牝馬追かけて     小春

 「牝馬」は「ざうやく」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」では騲駅という字が当てられ、「『騲』は牝馬、『駅』は宿駅の馬の意」とある。
 これとは別に同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、雑役馬(ぞうやくうま)があり、こちらは。

 「乗用には使わないで、いろいろな雑用に使う牝馬(めすうま)。駄馬。雑役。」

とある。
 句の意味からすると、旅に用いる馬だから宿駅の牝馬だろう。ただ、「追かけて」とあるからやはり乗用ではなく、旅の荷物だけを乗せた馬なのか。
 「西もひがしも」は「西も東もわからない」ということか。道草してたら迷ってしまい、どっちを見ても蕪畑でどっちに行けばいいのやら。

2019年12月8日日曜日

 『新撰都曲』で、そんなに句数は多くないけど目に付くのは「網代守」だ。
 「網代」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にいくつか意味が載っているが、この場合は、

 「湖や川に柴(しば)や竹を細かく立て並べ、魚を簀(す)の中へ誘い込んでとる仕掛け。冬の宇治川の氷魚(ひお)漁が古くから有名。《季 冬》」

になる。宇治川だけでなく近江の方でも行われていて、『幻住庵記』にも、

 「ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」

とある。前に「幻住庵記」を読んだときに、

 「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、

 田上や黒津の庄の痩男
     あじろ守るとて色の黒さよ

という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。」

と書いた。
 『万葉集』の歌といえば、

 もののふの八十やそ宇治川の網代木に
     いさよふ波の行くへ知らずも
               柿本朝臣人麻呂

の歌は今日でもよく知られている。
 「網代守」を詠んだ歌は少ないが、

 つきせじな八十宇治川の網代守
     よる年波のひをかぞふとも
               藤原家隆

がある。
 それでは『新撰都曲』から、

 色黒し京に猶見ぬ網代守    千春

 網代守の日焼けした色の黒さは、誰しも知ってるものだったのだろう。『近江與地志略』の歌でも黒さが詠まれている。
 「幻住庵記」の黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」も黒を二回重ねて、間接的に網代守の黒さを匂わせていると見ていいのではないかと思う。

 橋姫や物云かはす網代守    友益

 橋姫は古くは、

 さむしろに衣かたしき今宵もや
     我をまつらん宇治の橋姫
             よみ人知らず(古今集)

の歌にも詠まれている。『源氏物語』にも橋姫の巻があって、薫の詠む、

 橋姫の心を汲みて高瀬さす
     棹のしづくに袖ぞ濡れぬる

の歌がある。
 橋姫は宇治の橋の守り神であるとともに、いつも誰かを待っているようだ。
 宇治の網代守なら、そんな橋姫とも面識があって、会話を交わしたりしているのではないか、と疑いの「や」を用い、橋姫は網代守と物云かはしたりするのだろうか、と詠む。
 網代守にはどこか仙人のような人間離れしたイメージがあったのだろう。

 火の影や人にてすごき網代守  言水

 「すごし」というのはぞくっとする感覚で、恐かったり気味が悪かったりすさんでいたり、何か日頃馴染んだよく知ったものがないようなときに用いられる。こうしたことばは昔の「いみじ」や今の「やばい」のように、逆にいい意味に転じて用いられることが多い。いまの「すごい」はそこから来ている。
 「人にて」というところに、やはりひょっとして人間じゃないんじゃないかという感じが込められている。でも人間だと言い切るところは言水さんらしい。

 只一つこはぜき高し網代守   一酔

 「こはぜき」は「声咳」のこと。静かな河原では咳をする声がひときわ大きく聞こえる。

2019年12月7日土曜日

 『新撰都曲』を読んでいると牛の句が結構目立つ。京都にはそんなに牛が多かったのだろうか。
 京都ではないが、歌川広重の『東海道五拾三次之内大津』には牛が荷車を曳く様子が描かれている。京都近辺では古代道路の名残で、牛が通れるような広い舗装道路が多かったのかもしれない。

 牛の毛の折レぬ曲らぬ時雨かな  加柳

 牛の毛は雨をはじくというから、雨で毛が折れたり曲がったりすることがあるのかはよくわからない。
 この句は牛の毛のように折れぬ曲がらぬと読むこともできる。
 ちなみに毛雨は霧雨のこと。牛だけに「もう雨」?

 寝ざめては牛の地を聞時雨哉   都雪

 馬は立って寝ることもあるが、牛は大体横になって寝る。「食べてすぐ寝ると牛になる」という諺も牛の寝姿から来たのだろう。
 牛が早朝に目覚めると、耳元で時雨が地面を打つ音が聞こえる。牛の気持ちになった句だ。

 早今朝は牛の息見る冬野哉    正之

 寒い朝は吐く息が白くなるが、牛の息も白くなる。

 熊痩て牛に楽ある深雪哉     可雪

 雪が降ると熊は痩せて、牛は襲われる心配がないから楽がある。でも熊って冬眠するのでは。

 玉落す柳に牛の眠かな      松隠

 柳が春なのは芽吹いたばかりの緑の鮮やかさだけでなく、この時期に目立たないが緑色の花も咲く。その春の柳に置く露は柳の糸に繋ぎとめられた玉にも喩えられる。

 浅緑いとよりかけて白露を
     珠にもぬける春の柳か
              僧正遍照(古今集)

という歌にも詠まれている。
 そんな柳の露の散る下で牛が長閑に眠っている。

 捨牛の海松和布求る潮干哉    清昌

 「海松和布」は「みるめ」と読む。扇状に広がる緑藻。捨てられた牛は腹をすかしてみるめでも食べるということか。
 本当に牛が緑藻を食べるのかどうかはよくわからない。ただ、最近では牛にカギケノリという紅藻を食べさせることで、牛のげっぷを減らすことができるとの研究があるようだ。

 刈込て牛の草撰躑躅かな     孤松

 躑躅を引き立たせるために、回りの草を刈り込むから、牛がどこを食べていいか撰ぶのに困る。

 松の色牛の見て鳴焼野かな    蚊市

 野焼きの後の焼野に草はないが、松の木の緑を見ると食べ物があると思うのか、鳴く。

 橋過る牛の影追ふ早鰷哉     觚哉

 「早鰷(さばえ)」は「ハヤ」のことで、ウィキペディアには、

 「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」

とある。ウグイやオイカワやカワムツなどを指す。
 牛が橋を渡ってゆくと、ハヤもそれを追いかけるように泳いでゆく。

 長き夜や花野の牛となる夢も   千春

 花野といっても牛なら食べちゃうのではないかと思う。でも、綺麗な花に囲まれ悠々と過ごす牛にはなってみたい気もする。胡蝶の夢からの発想か。

 ゆく牛に口籠はむる花野哉    可雪

 やはり牛は花野の花を食べてしまう。そのため口に籠をはめる。

2019年12月6日金曜日

 今日も『新撰都曲』から、目に留まった句を。
 まずは、

 気違の狂ひ勝たる鹿驚哉     助叟

から。今の放送コードだとやばい句だが、この場合の「気違(きちがひ)」は精神障害者ではなく風狂のことであろう。
 当然ながら当時は精神病の概念はないし、今日で言うような精神障害者はこの時代もいただろうけど、それを判定する医師がいたわけではなかった。だから「気違」の中に精神障害者も含まれていただろうけど、気違=精神障害者ではなかった。
 とはいえ、この時代に「気違」の言葉は珍しく、「物狂い」の方がよく用いられている。
 物狂いというと、謡曲『三井寺』の息子を探しに三井寺にやってきた母の月夜に浮かれて鐘を撞く場面が印象的だ。
 俳諧だと、以前読んだ「蓮の実に」の巻の十五句目に、

   官女の具足すすむ萩原
 房枕秋の寝覚の物狂ひ      西鶴

というのがあった。
 風狂といえば、芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分もそれを演出している。

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
 かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

 これを読むとぼろぼろの服をまとった風狂の徒の姿が浮かんでくる。もちろん実際はそうではなかっただろうけど。
 その『笈の小文』の伊勢参宮の時の詠んだ句に、

 裸にはまだ衣更着の嵐哉     芭蕉

の句がある。
 これは『撰集抄』の増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという話を思い浮かべ、自分はそこまではできないという句だった。これなども風狂の物語といえよう。
 『去来抄』の、

 岩鼻やここにもひとり月の客   去来

の句に対し、

 「先師曰、ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。‥略‥ 先師の意を以て見れバ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。」

というのも実際にやったわけではないが、こういう風狂というのが好まれていたことが分かる。
 そういう風狂の徒であるなら、現実はどうかは別としても鹿驚(かかし)よりもぼろぼろの服を着ていてもおかしくない。
 鹿驚(かかし)の服については、同じ『新撰都曲』に、

 絹着たる鹿驚ひとつもなかりけり 木因

の句もある。こちらは蕉門の美濃の木因の句だ。
 人間の社会の生存競争は多数派工作の戦いで、有限な大地に無限の人口を養うことができない以上、何らかの形で集団から排除され、淘汰される人間というのが出てくる。人口増加の圧力がある限り、それは必然となる。
 ただ、複数の集団が対立している場面では、他所の集団が排除した人々を取り込むことができれば、より大きな集団を作り他所を凌駕できる。そういうわけで、多様性への寛容は強い集団を作るには欠かせない要素になる。
 古代において日本は朝鮮半島で新羅によって排除された百済や高句麗の遺民を帰化人として受け入れ、その技術によって大きな進歩を遂げたし、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に朝鮮半島からやってきた職人達も特に焼物の分野で日本の文化を大きく発展させるのに貢献してきた。
 狂に関しても、あるいは衆道に関しても、寛容さは日本の文化の発展に欠かせなかった。これから日本が更なる発展をしていくためにも、このことは忘れてはいけない。

 摂待に先あはれなる座頭哉    水流

 「摂待(せったい)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「( 名 ) スル
 ① 客をもてなすこと。 「湯茶の-」 「取引先の社長を-する」
 ② 陰暦七月、寺巡りの人々や往来の人々に仏家の門前に湯茶を用意してふるまうこと。門茶かどちや。 [季] 秋。 《 -の寺賑はしや松の奥 /虚子 》」

とある。この場合は②の意味。
 お寺で摂待をすると、真っ先にやってくる座頭がいてあわれだ、というのが句の意味と思われる。

 摂待や卒塔婆の中の一煙     都雪

はそんな摂待の風景を詠んだ句だ。
 座頭は平曲を演奏する琵琶法師で、「平家物語」や「浄瑠璃十二段草子」などを琵琶を引きながら謡い語った。
 目の不自由な人の耳が良いことと記憶力に優れていることとで、こういう職業が与えられ保護されてきた。ウィキペディアによると、江戸時代に入るとこれに地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩などの職業も加わっていった。
 障害者との共存には、その障害にあった役割を与え居場所を保障する事が不可欠になる。それをせずに形だけ平等の権利を与えても、居場所がなければどうにもならない。今後の様々なマイノリティーのことを考えてゆくにしても、こうした過去の知恵は参考にしてゆく必要がある。

 継母に槿のはなをしへけり    民也
 魂祭子の㒵みたる継母かな    万玉

 継母というと継子いじめがどうしても連想されがちだが、江戸時代には幼児虐待は死罪で、継子いじめもご法度だった。
 子供は無邪気に継母(ままはは)に槿(アサガオ)の花が咲いていることを教えてあげる。
 お盆には亡き母の魂を祭る子の姿を、継母(けいぼ)がそっと見守る。
 やはり人倫とはこうありたいものだ。

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

 尚白は近江蕉門。「左義長」はドンド焼きとも呼ばれる正月の行事で、正月の松飾りや注連縄などを焼く。
 俳諧師が毎年配る歳旦三物帳もこのとき一緒に焼いてしまったようだ。どうりで残ってないはずだ。

 人数に夢をくばりし火燵哉    萩水

 火燵に入ると眠くなる。みんなそれぞれ夢の中で、そういうことで、おやすみなさい。

2019年12月5日木曜日

 言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』はその名の通り京の都の風流で、京ならではのテーマが見られる。
 その一つは「お火焼(ひたき)」で、今でも京都の人にはなじみがあるのだろうけど、関東のほうの人間にはいま一つぴんと来ない。
 とりあえずいつものように、コトバンクを引用しておこう。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「京都を中心に行なわれた冬の火祭。旧暦 11月に社前に火を焚く神事の一つ。知恩院をはじめとして,出雲路幸神社,伏見稲荷大社などで連日にわたって行なわれた。宮中では一条天皇のときに始まるといわれる内侍所御神楽が奏でられた。当日は民家においても一般に庭火を焼き,製茶業,風呂屋,飲食店など大火を焚く商家も神供を献じたが,のちには鍛冶屋のふいご祭にわずかに名残りをとどめるだけとなった。この祭式は一般に夜に入ってから行なわれ,社前にあらかじめ積み上げられた井桁の薪の中央に笹や竹を入れ,これに新穀の神饌,神酒を供え,神楽を奏し,祝詞が終わると斎火を笹に移し,神酒をそそいで爆竹三声で式を閉じる。」

とある。
 まず『都曲』から一句。

 お火焼や梟飛でねぬ鴉     可心

 夜に火を焚くから、その火で梟の飛ぶ姿が見えたりしたのだろう。明るいもんだからカラスも起きていて鳴いてたりする。
 もう一句。

 御火焼に木葉は薫ぬ習かな   去留

 まあ、お火焼は落葉焚きではなく、あくまで神事なので割木を組んで、竹を立てて燃やす。炎が高く上がることになる。

 お火焼や疱瘡したる子の数多き 入安

 「疱瘡」はここでは「いも」と読む。天然痘のこと。病気にご利益があるというのと、暗がりだから疱瘡の跡があっても目立たないということか。
 鉢叩きも冬の京の風物だった。

 鉢扣銭やる馬士の㒵見たし   民也

 鉢叩きは普段は茶筅の製造販売を行っているという。『風俗文選』の去来の「鉢扣ノ辞」にも、

 「常は杖のさきに茶筅をさし大路小路に出て、商ふ業かはりぬれどさま同じければ、たたかぬ時も鉢扣とぞ曲翠は申されける。」

とある。
 「馬士(まご)」は馬子に同じ。馬に荷を乗せて運ぶ人のこと。なんとなく鉢叩きと並ぶと不釣合いな感じだったのだろう。

 しのふ夜や似せても似ざる鉢扣 北窓

 去来の「鉢扣ノ辞」にも、芭蕉の鉢叩きを見せようとしたがあいにくの悪天候で鉢叩きは来ず、仕方なく去来が、

 「箒こせ真似ても見せむ鉢扣と、灰吹の竹うちならしける、其声妙也、火宅を出よとほのめかしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもならず。」

と鉢叩きの真似は結構難しかったようだ。

 夕ぐれや五条あたりの鉢扣   随友

 清水五条の東に空也上人の開基による補陀洛山六波羅蜜寺があり、夕暮れになると鉢叩きたちがここに集まってきたのだろう。
 あと、これは夏のものになるが、京都というと加茂の競馬(くらべうま、けいば)がある。

 競馬見ぬ人や河原の歌念仏   可心

 「歌念仏」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松の《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。」

とある。単なる念仏ならわざわざ見に行くものでもないが、物語ともなれば競馬と張り合える。

 市原に昼寝さめたる競馬かな  和海

 京都の市原は貴船や鞍馬の方の入口だが、上加茂神社からは二キロくらい離れている。そこまで加茂の競馬の歓声は聞こえたのだろう。

 おほかたは冠見てくる競馬哉  露吹

 見に行っても人だかりが凄くて冠しか見えない。

2019年12月4日水曜日

 だいぶ寒くなってきた。
 夕暮れの月は半月になっていた。
 それでは「凩の」の巻、挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   鷗と遊ぶ江のかかり舟
 黄昏を無官の座頭うたひけり   言水

 ウィキペディアによると琵琶法師は、「検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。」という。無官というのは、まだ官位を持っていない初心の琵琶法師だという。
 場面を黄昏時とし、はじめたばかりの琵琶法師が鷗相手に練習をしているのだろうか。
 三十二句目。

   黄昏を無官の座頭うたひけり
 ゆるく焼せてながく入風呂    言水

 「焼せて」は「たかせて」と読む。当時の銭湯はサウナだったが、この場合は家の中に据え付ける据風呂(水風呂)だろう。
 ここでいう無官の座頭は多分なんちゃって座頭で、入浴している人が気分良くて平曲の一節なんかを歌ったりしたのだろう。
 三十三句目。

   ゆるく焼せてながく入風呂
 しぐれより雪みる迄の命乞    言水

 「命乞(いのちごひ)」は本来は長生きができるように神仏に祈ることだった。
 長風呂をしていると、時雨がいつの間に雪に変わっていた。
 三十四句目。

   しぐれより雪みる迄の命乞
 内裏拝みてかへる諸人      言水

 内裏というと京都御所のことだろうが、ここを訪れて神社のように拝んで、長寿を祈ることは普通に行われていたのだろうか、よくわからない。
 だいぶ後になるが、

 女具して内裏拝まんおぼろ月   蕪村

の句もある。
 三十五句目。

   内裏拝みてかへる諸人
 やさしきは花くはへたる池の亀  言水

 ネットで調べたが、亀が花を食べるのは珍しくないようだ。
 「やさし」の元の意味は身も痩せ細るような思いをすることだが、それが転じて謙虚で立派な心がけを言うこともある。
 まあ、実際は花を食べているのだろうけど、見た目には花を咥えていると、内裏に花を奉げているようにも見える。
 挙句。

   やさしきは花くはへたる池の亀
 弥生のあやめ出さぬ紫      言水

 池の亀ということで、池にはあやめ(ここでは花菖蒲であろう)が植えられているが、弥生なのでまだ紫の花も蕾も見えない。亀の咥えている桜の花が池に花を添えている。
 まあ、亀に花ということで、目出度く一巻は終わる。

2019年12月3日火曜日

 社会主義の敗北は理性崇拝の敗北でもあったのだろう。社会主義を失ってから理性は暴走している。人権派、ビーガン、環境エコロジスト、彼等の一部過激化した思想はどこへ行くのだろうか。
 もう一度人間の感情を見つめなおそう。そこに次の時代の答がある。
 「凩の」の巻の続き。

 二十五句目。

   餅つく人ぞ人らしき㒵
 来ますとは世の嘘ながら祭ル魂  言水

 お盆で先祖の魂が帰ってくるというのは確かに「世の嘘」なのだけど、それを言っては元も子もない。
 京都ではお盆に「おけそく」と呼ばれる餅を供えるという。霊魂の話、鬼神の話は疑わしいとはいえ、それを信じて祭る人の心は人らしい。
 二十六句目。

   来ますとは世の嘘ながら祭ル魂
 邪神に弓はひかぬ鹿狩      言水

 邪神というと今はクトゥルー神話になってしまったが、元は災いをもたらす神の意味だった。
 日本では鹿を食う習慣がなかったので、鹿狩りは農作物の害獣駆除として行われていた。
 鹿は鹿島神宮の神使でもあり、奈良の春日大社でも神鹿とされている。その鹿には弓を向けるけど、邪神には弓を向けないというのは、確かに先祖の魂など信じない合理主義者には矛盾のように感じるのかもしれない。実際に姿を現すわけでもない邪神には弓の引きようがないが。
 このあたりも蕉門の人たちと言水のキャラの違いなのだろう。何のかんの言って蕉門の人たちは信心深い。それが不易の風雅の誠の探求へと向わせたのだが、言水は現世的だ。
 唯物論者というのはいつの時代にもいるもので、定家の卿もそうだったようだ。他の巻だが、

   牙生し子は我家に置兼て
 いのれど弥陀は常の㒵なる    言水

なんて句もある。
 二十七句目。

   邪神に弓はひかぬ鹿狩
 腰居し岩に麓の秋をみて     言水

 前句を単なる鹿狩りの光景として、岩に腰掛けて麓の秋の景色を眺める狩人を描く。
 二十八句目。

   腰居し岩に麓の秋をみて
 朝霧かくす児の古郷       言水

 「秋」は「飽き」との掛詞になる。男色に相手に飽きた稚児は故郷を離れる。岡の上から振り返る故郷は朝霧に隠れている。
 二十九句目。

   朝霧かくす児の古郷
 月にこそ砧は昼の物めかず    言水

 砧といえば李白の「子夜呉歌」で、月の下で聞くから趣もある。

 み吉野の山の秋風小夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
               参議雅経(新古今集)

が本歌だが、朝になってもはや砧の音は聞こえない。まあ、昼聞いてもらしくないしな、と冷ややかに言う所が言水らしさなのだろう。
 三十句目。

   月にこそ砧は昼の物めかず
 鷗と遊ぶ江のかかり舟      言水

 「かかり舟」は繋船(けいせん)のこと。江に浮かぶ船は月にこそふさわしいが、つながれて鷗と遊ぶ昼の舟はそれはそれで別の味わいがある。
 砧は物めかないが、舟は昼でも物めく。

2019年12月2日月曜日

 「凩の」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   牛は柳につながれて鳴ク
 野々宮も酒さへあれば春の興   言水

 京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社は、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした場所で、『源氏物語』賢木巻では源氏の君が六条御息所を尋ねてこの野宮にやってくる。秋のことだった。
 謡曲『野宮』では牛車に乗った御息所が登場するというから、前句の牛を牛車を引く牛としたのだろう。源氏も忍んで来たから、源氏がどこかの柳の木に牛を繋いでいたのかもしれない。
 斎王の制度は南北朝時代に廃絶し、それ以降は普通の神社になったのだろう。ならば酒さえあれば昔の源氏と御息所の寂しげな別れの場面なども忘れ、春の興となる。まあ、昔は潔斎の場所だから酒はなかったのだろう。
 これも古典の雰囲気を生かした蕉門の俤付けとは違い、むしろ古代と現代のギャップで笑わせる。そういうところが談林的で言水流なのだろう。
 二十句目。

   野々宮も酒さへあれば春の興
 詞かくるに見返りし尼      言水

 嵯峨で尼さんをナンパしようとしたのか。
 嵯峨の尼というと祇王寺で、清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前の悲しい物語があるが、それも昔の話。
 二十一句目。

   詞かくるに見返りし尼
 思ひ出る古主の別二十年     言水

 昔の主人との恋物語もあったのだろう。結局結ばれることなく女は尼となり、あれから二十年。ふと昔の主人に呼び止められたような気がして振り返る。そこには‥‥。メロドラマだね。
 二十二句目。

   思ひ出る古主の別二十年
 東に足はささでぬる夜半     言水

 忠臣だったのだろう。何かの誤解で左遷されてしまったかお暇を出されたか、それでも主君のいる方角に足を向けて寝ることはない。
 殿は東にいるということは家康公の忠臣か。
 二十三句目。

   東に足はささでぬる夜半
 漏ほどの霰掃やる風破の関    言水

 前句の「東に足をささで」を東に向って歩かずにと取り成したか。
 風破の関(不破の関)は荒れ果てて、雨漏りどころか霰も漏ってくるので掃き出さなくてはならない。そんな荒れた天気だから、今日は関を越えずにここで一夜過ごそう、とする。
 二十四句目。

   漏ほどの霰掃やる風破の関
 餅つく人ぞ人らしき㒵      言水

 前句の霰をあられ餅のこととする。不破の関で餅を搗いては大量のあられを作っている。一体こんな所で餅を搗くとは誰なんだろうか。人のように見えるがひょっとして人外さん?