2019年12月5日木曜日

 言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』はその名の通り京の都の風流で、京ならではのテーマが見られる。
 その一つは「お火焼(ひたき)」で、今でも京都の人にはなじみがあるのだろうけど、関東のほうの人間にはいま一つぴんと来ない。
 とりあえずいつものように、コトバンクを引用しておこう。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「京都を中心に行なわれた冬の火祭。旧暦 11月に社前に火を焚く神事の一つ。知恩院をはじめとして,出雲路幸神社,伏見稲荷大社などで連日にわたって行なわれた。宮中では一条天皇のときに始まるといわれる内侍所御神楽が奏でられた。当日は民家においても一般に庭火を焼き,製茶業,風呂屋,飲食店など大火を焚く商家も神供を献じたが,のちには鍛冶屋のふいご祭にわずかに名残りをとどめるだけとなった。この祭式は一般に夜に入ってから行なわれ,社前にあらかじめ積み上げられた井桁の薪の中央に笹や竹を入れ,これに新穀の神饌,神酒を供え,神楽を奏し,祝詞が終わると斎火を笹に移し,神酒をそそいで爆竹三声で式を閉じる。」

とある。
 まず『都曲』から一句。

 お火焼や梟飛でねぬ鴉     可心

 夜に火を焚くから、その火で梟の飛ぶ姿が見えたりしたのだろう。明るいもんだからカラスも起きていて鳴いてたりする。
 もう一句。

 御火焼に木葉は薫ぬ習かな   去留

 まあ、お火焼は落葉焚きではなく、あくまで神事なので割木を組んで、竹を立てて燃やす。炎が高く上がることになる。

 お火焼や疱瘡したる子の数多き 入安

 「疱瘡」はここでは「いも」と読む。天然痘のこと。病気にご利益があるというのと、暗がりだから疱瘡の跡があっても目立たないということか。
 鉢叩きも冬の京の風物だった。

 鉢扣銭やる馬士の㒵見たし   民也

 鉢叩きは普段は茶筅の製造販売を行っているという。『風俗文選』の去来の「鉢扣ノ辞」にも、

 「常は杖のさきに茶筅をさし大路小路に出て、商ふ業かはりぬれどさま同じければ、たたかぬ時も鉢扣とぞ曲翠は申されける。」

とある。
 「馬士(まご)」は馬子に同じ。馬に荷を乗せて運ぶ人のこと。なんとなく鉢叩きと並ぶと不釣合いな感じだったのだろう。

 しのふ夜や似せても似ざる鉢扣 北窓

 去来の「鉢扣ノ辞」にも、芭蕉の鉢叩きを見せようとしたがあいにくの悪天候で鉢叩きは来ず、仕方なく去来が、

 「箒こせ真似ても見せむ鉢扣と、灰吹の竹うちならしける、其声妙也、火宅を出よとほのめかしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもならず。」

と鉢叩きの真似は結構難しかったようだ。

 夕ぐれや五条あたりの鉢扣   随友

 清水五条の東に空也上人の開基による補陀洛山六波羅蜜寺があり、夕暮れになると鉢叩きたちがここに集まってきたのだろう。
 あと、これは夏のものになるが、京都というと加茂の競馬(くらべうま、けいば)がある。

 競馬見ぬ人や河原の歌念仏   可心

 「歌念仏」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松の《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。」

とある。単なる念仏ならわざわざ見に行くものでもないが、物語ともなれば競馬と張り合える。

 市原に昼寝さめたる競馬かな  和海

 京都の市原は貴船や鞍馬の方の入口だが、上加茂神社からは二キロくらい離れている。そこまで加茂の競馬の歓声は聞こえたのだろう。

 おほかたは冠見てくる競馬哉  露吹

 見に行っても人だかりが凄くて冠しか見えない。

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