仲間を信じるというのは大事なことだ。疑ってばかりだと人と人との信頼関係は崩れ、ただ暴力と恐怖が支配することになる。
だが人を疑うことも必要だ。世の中はいい人ばかりではないし、いい人であっても知らず知らずの内にその人を傷つけてたり、あるいはとんでもない所に追い詰めていたのに気がつかなかっただけかもしれない。表向きの微笑みは必ずしも真実とは限らない。
金八先生の「贈る言葉」(海援隊)では「信じられぬと嘆くより/人を信じて傷つく方がいい」と歌っているが。自分が傷ついたりする程度で済むなら確かにそうだ。あるいは裏切られて殺されても覚悟はできていると言うなら、それはその人の考え方で済む。
だが、もしそれが大切な家族や仲間を巻き込むことになったなら、さらには地域全体や国家や民族を巻き込むことになったなら、信念だからで済ますこともできない。
だからといって、国家や民族を巻き込むレベルで人を疑ってばかりいたら、間違いなく戦争で多くの人が死ぬ。
それが難しいところだ。信じすぎるのは馬鹿だが、疑いすぎるのは危険だ。
アフガニスタンで起きた中村哲さんをはじめとする六人の殺害。中村さんは人を信じる人だったようだ。だが、完全なまでに行動を読まれ待ち伏せされていた事件は、内通者があった可能性もあるし、犯人グループの背後に組織が関与しているとしたら、今後も残された仲間達が襲撃される危険もある。
誰でも人の気持ちはわかるが、だからといって完全にわかるということはない。その完全でないというところから、いつだって人は争い、悲劇を繰り返してきた。
どこまで人を信じればいいのか、どこまで人を疑えばいいのか、もちろん答なんてない。ただ、誰もがそれをそれぞれの直感で判断しているだけだ。
多分憲法第九条もそういう問題なのだと思う。
なんか重い話になってしまったが、あの事件からずっともやもやしていることだった。
それでは気分を変えて「枇杷五吟」の続き。
二表。
十九句目。
人は思ひに角おとす鹿
春の日に開帳したる刀自仏 魚素
刀自(とじ)は戸主(とぬし)のことで、年長の女性や主婦を意味する。京都嵯峨野の祇王寺の仏壇には祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像がある。
女性の仏像は珍しく吉祥天、弁財天、鬼子母神などの天女系くらいしかない。
いずれにせよ有難い刀自仏のご開帳とあれば、人々は感銘し、鹿も角を落とす。
二十句目。
春の日に開帳したる刀自仏
交々にたかる飴うち 北枝
秘仏のご開帳とあればたくさんの人が訪れ、縁日となり露店が並ぶ。飴を目の前で鉈などで打って小さくして売る実演販売では人だかりが絶えない。
二十一句目。
交々にたかる飴うち
馬盥額に成までやり置て 牧童
「交々」は「かはるがはる」。
「馬盥(うまたらひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 馬を洗うのに用いる、大きなたらい。ばたらい。」
とある。直径二尺以上の浅い盥で、これに似ているというところから馬盥(ばたらい)という茶碗や生花に使う水盤もある。
平たいものなので底に絵や字を書けば額にできなくもない。放置され、使えなくなった馬盥は、実際に額に転用されることがあったのか。ここでは目出度く飴屋の看板になったのだろう。
二十二句目。
馬盥額に成までやり置て
越の毛坊が情のこはさよ 乙州
「毛坊」は毛坊主で、髪を伸ばした百姓でありながら僧の役割を果たす俗僧のこと。家の門に掲げた山額が盥でできてたりしたか。「こはし」には強情という意味がある。
二十三句目。
越の毛坊が情のこはさよ
月の前痛む腹をば押さすり 小春
毛坊主は俗僧ゆえ妻帯しているのが普通で、臨月の痛む腹を押しさすって産婆さんが来るのを待つ。「月の前」は月が照る中という両方の意味がある。
二十四句目。
月の前痛む腹をば押さすり
扨々野辺の露のいろいろ 魚素
これはひょっとしてシモネタか。下痢して野糞して本来の野辺の露と別の露が、ということか。大友克洋に「つゆのあとさき」という漫画があったが。
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