2019年12月3日火曜日

 社会主義の敗北は理性崇拝の敗北でもあったのだろう。社会主義を失ってから理性は暴走している。人権派、ビーガン、環境エコロジスト、彼等の一部過激化した思想はどこへ行くのだろうか。
 もう一度人間の感情を見つめなおそう。そこに次の時代の答がある。
 「凩の」の巻の続き。

 二十五句目。

   餅つく人ぞ人らしき㒵
 来ますとは世の嘘ながら祭ル魂  言水

 お盆で先祖の魂が帰ってくるというのは確かに「世の嘘」なのだけど、それを言っては元も子もない。
 京都ではお盆に「おけそく」と呼ばれる餅を供えるという。霊魂の話、鬼神の話は疑わしいとはいえ、それを信じて祭る人の心は人らしい。
 二十六句目。

   来ますとは世の嘘ながら祭ル魂
 邪神に弓はひかぬ鹿狩      言水

 邪神というと今はクトゥルー神話になってしまったが、元は災いをもたらす神の意味だった。
 日本では鹿を食う習慣がなかったので、鹿狩りは農作物の害獣駆除として行われていた。
 鹿は鹿島神宮の神使でもあり、奈良の春日大社でも神鹿とされている。その鹿には弓を向けるけど、邪神には弓を向けないというのは、確かに先祖の魂など信じない合理主義者には矛盾のように感じるのかもしれない。実際に姿を現すわけでもない邪神には弓の引きようがないが。
 このあたりも蕉門の人たちと言水のキャラの違いなのだろう。何のかんの言って蕉門の人たちは信心深い。それが不易の風雅の誠の探求へと向わせたのだが、言水は現世的だ。
 唯物論者というのはいつの時代にもいるもので、定家の卿もそうだったようだ。他の巻だが、

   牙生し子は我家に置兼て
 いのれど弥陀は常の㒵なる    言水

なんて句もある。
 二十七句目。

   邪神に弓はひかぬ鹿狩
 腰居し岩に麓の秋をみて     言水

 前句を単なる鹿狩りの光景として、岩に腰掛けて麓の秋の景色を眺める狩人を描く。
 二十八句目。

   腰居し岩に麓の秋をみて
 朝霧かくす児の古郷       言水

 「秋」は「飽き」との掛詞になる。男色に相手に飽きた稚児は故郷を離れる。岡の上から振り返る故郷は朝霧に隠れている。
 二十九句目。

   朝霧かくす児の古郷
 月にこそ砧は昼の物めかず    言水

 砧といえば李白の「子夜呉歌」で、月の下で聞くから趣もある。

 み吉野の山の秋風小夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
               参議雅経(新古今集)

が本歌だが、朝になってもはや砧の音は聞こえない。まあ、昼聞いてもらしくないしな、と冷ややかに言う所が言水らしさなのだろう。
 三十句目。

   月にこそ砧は昼の物めかず
 鷗と遊ぶ江のかかり舟      言水

 「かかり舟」は繋船(けいせん)のこと。江に浮かぶ船は月にこそふさわしいが、つながれて鷗と遊ぶ昼の舟はそれはそれで別の味わいがある。
 砧は物めかないが、舟は昼でも物めく。

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