2019年12月20日金曜日

 さて、今年もたくさん俳諧を読んできた。一応振り返ってみると、

 一月二十日から一月二十七日まで「洗足に」の巻
 二月十日から二月二十八日まで「此梅に」の巻
 三月十六日から三月二十一日まで「鰒の非」の巻
 四月十三日から四月二十六日まで「八九間」の巻(二種)
 五月十二日から五月十六日まで「杜若」の巻
 六月十七日から六月三十日まで「いと凉しき」の巻
 七月三日から七月七日まで「温海山や」の巻
 七月八日から七月十五日まで「忘るなよ」の巻
 八月十二日から八月二十九日まで「哥いづれ」の巻
 九月六日から九月十五日まで「実や月」の巻
 九月十八日から九月二十三日まで「名月や」の巻
 九月二十九日から十月十二日まで「松風に」の巻
 十月十三日から十月二十日まで「あれあれて」の巻
 十一月二十日から十一月二十六日まで「鳶の羽も」の巻
 十一月二十八日から十二月四日まで「凩の」の巻
 十二月十日から十二月十八日まで「枇杷五吟」

と十五巻になる。
 まあこれはゲームで言えばレベル貯めのようなもので、読む方は退屈かもしれない。
 今日はネットで話題になったGotch.aka後藤正文さんのこのツイットを読んでみようかと思う。

 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。一方で、俺は数十万円もするマイクで歌を録音してる。引き裂かれるよ。落ち込むよ。」(Gotch @gotch_akg 12月16日)

 たとえば目の前に餓えている子供がいるとしたら、心を痛めない人はいないと思うし、少なくともその時は何とかしてあげたいと思うだろう。
 それはたとえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中に富士川で捨て子を見つけ、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

と詠んだことを思い起こすこともできる。
 ただ、こうして捨て子を目の前にしたときには断腸の声をあげても、実際その後芭蕉が捨て子のために何かをやろうだとか、孤児院のようなものを考案するということもなく、その後特に捨て子を詠むこともなかった。こうした反応もまたよくあるというか普通のことだ。
 人は目の前にある物については理由もなく感情を強く突き動かされたりすることもある。ただ、その瞬間が終ればたいてい速やかに忘れ去られてゆく。ちょうどさっきまで見ていた夢が、眼が醒めてしまうと思い出せなくなるようなものだ。
 ただ、こうした記憶は何かの弾みでフラッシュバックすることもある。特に言葉や芸術作品には、人の大事な記憶をフラッシュバックさせる働きを持つことがある。
 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。」という言葉は、最初に「例えば」とあるように、実際にこの子供を目の前にしたのではなく、これは人から聞いた話ではないかと思う。似たような話を認定NPO法人カタリバのページで見つけた。

 「良太くんのお母さんは、介護施設で働いています。
 離婚後、介護の仕事をしながら3人の子どもを育ててきました。

 2日に1度は夜勤があります。
 夜勤のあとも少しだけ仮眠をとったあと、また昼から仕事する毎日…。

 夜勤がない日も、残業がとにかく多く、夜、家にいられることがほとんどないそうです。
 それでも、厳しい家計を支えていくために、仕事を減らすことはできません。

 良太くんは、小学生の頃から、ご飯も1人、夜寝る時も1人でした。
ほぼ毎日コンビニのお弁当か、スーパーでお惣菜を買います。」

 多くの人はこの文章で、多少は不憫を感じるにしても、それほど心を痛めることもないだろう。なぜならこれは「情報」だからだ。目の前にその子供がいるわけではないからだ。
 情報である以上、自分で見て確認したわけではない。だからこの情報をたとえ本当のことだと信じたにせよ、そこに浮かんでくる映像は過去の記憶を繋ぎ合わせただけのもので、はっきりとしたものではない。「まあ、こういう人はいそうだな」くらいで終ることが多い。
 ただ、この言葉であっと心を痛める人がいたなら、それは以前にこういう人に会ったことのある人ではないかと思う。このとき言葉は単なる情報ではなく、過去の体験をフラッシュバックさせる一つの刺激となる。
 芸術には確かにこういう効果がある。普通の人には安っぽい失恋ソングに聞こえるような歌でも、今しがた失恋したばかりの人には、それがまるで自分のことのように聞こえ、涙が出てくることもある。
 勧誘というのはこうした効果を巧みに利用する。貧しい子供の話をしても、だれもがそれに食いついてくるわけではない。ほとんどの人は「ああそうですか」で終ってしまう。だが、片っ端からいろんな人に声をかければ、稀に自分の体験をフラッシュバックさせ、感銘の涙を浮かべる。そういう人に「こうすればいい」というと、ころっとなる確立が高い。
 カタリバは多分真面目で地道な活動をしている団体だから問題はないと思うが、昔の左翼だったら、それこそ革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決するという方に持って行っただろう。ある意味左翼の人たちにとって、こういう貧困の物語は左翼に勧誘されたきっかけとして、だれしも体験していることなのかもしれない。
 人の純粋な心の痛みも、導きようによっては爆弾を作って戦う人間を育てたりもする。だから貧困の物語を単なる情報としてあえて感情を抑えて放置するのも、そうした危険に対する防衛反応なのかもしれない。
 眼前から離れ、ひとたび情報の一つとなった言葉は、大概の場合真偽不明の情報として、一つのお話として、フィクションとして記憶される。
 フィクションというのは、物事を考える時に貴重なモデルを提供するもので、そのストックは多ければ多いほうがいい。そのため有史以前、文字以前の社会でもたくさんの物語が存在する。しばしばそうした物語は社会全体で共有される神話にもなる。
 フィクションはそれゆえ多様で相矛盾するものを多く持っていたほうがいい。一つのフィクションがモデルとして役に立たない時に、すぐ代わりが用意できるからだ。
 芭蕉や支考の虚実論の中で「虚」と呼ばれるのもそういうものではないかと思う。言葉によって伝えられる様々な情報、自然や人情や現実の様々な事象はすべて虚であり、ならば何が実だというと、その言葉に感動した時にはその気持ちが実なのではないかと思う。
 言葉は一つの情報でありフィクションにすぎない。ただ、その言葉に感動した時、その感動は外からやってきたのではない。自分自身の忘れかけていた重要な体験がフラッシュバックしたのであり、感動は内からやってくる。虚がきっかけになって自分の中にあった実が引き出される。それが虚を以て実を行うではないかと思う。
 先の「猿を聞く人」の句で言えば、句自体は虚だが、芭蕉が捨て子を見たときに感じた惻隠の情は実だったし、この句を聞いて断腸の思いになる人がいたら、その人の中にも実が引き出されたことになる。
 こうやって作品が偶発的にであれ、その人の心の底にある大切な感情を思い出させることができたなら、芸術はやはり捨てたものではない。
 音楽にもそれはあるはずだ。
 普段フィクションとして処理していた貧困の子供の物語を、あるときあたかも眼前にいるかのように思い出させ、心を痛ませてくれたとしたら、その芸術には価値がある。
 そして、同じ音楽を聴きながら、隣の人も涙を流していたとしたら、その人は自分の体験とはまったく別の体験を思い出して泣いているのは間違いないのだが、それでも「お前もか」「我も」「我も」ということで共鳴し合うことが出来る。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の句も、おそらくこの句のテーマは蛙でもなければ水音でもなく、廃墟、あるいは廃村だったのではないかと思う。
 かつて幸せに暮らしていた人たちが、何かの不幸でいつの間にかいなくなってしまい、荒れ放題の土地に池が残されている。そこで何らかの実体験をフラッシュバックさせた人が何人もいたのだろう。そこで「お前もか」「我も」「我も」ということになっていったのではなかったか。
 「そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。」と後藤さんは言うが、そういう社会を思い出させ、体験を共有させることができるのも音楽ではないかと思う。数十万円のマイクは何ら恥じることではない。
 別に貧困をテーマにした歌を作れということではない。なぜなら何がその重要な体験をフラッシュバックをさせることができるのかなんて誰にもわからないし、それは人によっても違うし、偶然性のほうがはるかに強い。
 偶然を呼び込むにはむしろ必要なのは多様性だ。いろいろな歌があっていろいろな芸術があったほうがいい。一つの立場の歌ではなく、様々な矛盾する歌があったほうがいい。そのたくさん街にあふれる歌の一つを作ることが、結局一番尊いことなのではないかと思う。
 世の中に無数の音楽が溢れ、音楽業界が盛況を究め、数十万円もするマイクが使われる状態のほうが、権力者の与える決まった歌しか歌ってはいけない社会よりはるかに心を豊かにし、貧困問題も解消に向うのではないかと思う。

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