今年の冬は雨が多いが、今日は冬らしい寒く晴れた一日になった。いつの間にか旧暦でも師走の三日になり、新暦では年の暮れ。
今日は特にテーマもなくつれづれに。
下女帯紣ヶ童めが文匣年暮けり 濁水(『庵桜』)
この句は漢字が難しい。「紣」はなかなかフォントが見つからず、「糸偏に九十」で検索したら出てきた。「綷」の俗字だと言うが、音読みの「サイ、 スイ、 シュツ、 シュチ」はわかったが、「ケ」と送り仮名をふる訓読みがわからない。意味的に解く方ではなく絞めるほうなので、「からげ」だろうか。
意味は、「漢字辞典オンライン」によると、
「五色の糸で模様を織り出した絹布。
混ぜる。混ぜ合わせる。
綷䌨(すいさい)は、衣擦れの音の形容。」
だという。
「文匣(ぶんこう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「厚紙に漆を塗って作った手箱。書類や小物を入れるのに用いる。手文庫。」
とある。句には「ブンコ」と振り仮名がふってある。
「文庫結び」という帯の結び方があるが、関係あるのか。ウィキペヂアには「江戸時代には武家の女性の基本の帯結びだった経歴があり格調が高い。」とある。今でも浴衣帯びを結ぶときの定番だという。
童には「ワロ」と振り仮名かある。わろ(和郎)だとすると、召使の子供のことで、ここでは下女の子供のことか。
そうなるとこの句は、年の暮れには下女も子供の帯を文庫結びに結うということか。はずれだったら御免。
人の命や仙家にも鯸を売ならば 鑯卵(『庵桜』)
名前も難しい字を書くが「尖った卵」?
「鯸」は河豚(ふぐ)のこと。
「河豚を売るならば仙家にも人の命や」の倒置で、河豚の毒に当たれば仙人といえども人のように命を落とすのではないか、という意味でいいのだろう。
夏の句だが、
日は東に一鏡西にほととぎす 東行(『庵桜』)
の句は、百年後に詠まれる、
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
の句を髣髴させる。月を「一鏡」と呼ぶのは天文学的にも言い得て妙だ。
蕪村風にするなら、「ほととぎす日は東にて月は西」だろうか。
師走の月を
冬がれは白髪遊女の閨の月 嵐朝(『虚栗』)
老いた遊女の姿を冬枯れに喩えるのはいかにもだが、こうした遊女に冬の月を添える所に愛情が感じられる。
何でもかんでも若い娘がいいというのは、まだ本当の遊び人ではない。老いた遊女の境遇に共感できて、それで遊べてこそ夜の帝王の名にふさわしい。
さまざまに品かはりたる恋をして
浮世の果は皆小町なり 芭蕉
の句もそんな遊び人の最終形ではないかと思う。老いた小町に愛の手を。
寒苦鳥孤婦がね覚を鳴音哉 李下(『虚栗』)
芭蕉庵の芭蕉の木を贈ったという李下さんの句。
「寒苦鳥(かんくちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。仏教では、怠けて悟りの道を求めない人間にたとえる。かんくどり。」
とある。冬の季語。音的には閑古鳥と紛らわしい。
怠け者で女の元に通うことしか考えない寒苦鳥。自身を自嘲したか。
ねさせぬ夜身ヲ鳴鳥の寒苦僧 才丸(『虚栗』)
「才丸」は「才麿」に同じ。江戸時代には人麿も「人丸」と言った。
「寒苦鳥」を「寒苦僧」と言い換えて、夜遊びの破戒僧とする。
貧苦鳥明日餅つこうとぞ鳴ケル 其角(『虚栗』)
同じ遊び仲間の其角さんだが、寒苦鳥を「貧苦鳥」と言い換えて、明日は餅を搗こうというのだが、はたしてそのお金はあるのか。杉風さんにすがることになるのか。
米つかず餅つかぬ宿は、みづから
清貧にほこる
臼寝て閑なる年の夕べ哉 似春(『武蔵曲』)
「寝て」は「ねせて」か。「閑」はヒマというルビがふってある。まあ、餅はなくても、
しら粥の茶碗くまなし初日影 丈草
という人もいるから安心していい。
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