今日も晴れた寒い一日だった。
昨日に続き、つれづれに、行方も知れず。
年わすれしかし太鼓はたたかれじ 如柳(『千鳥掛』)
ネットで見ると「年忘れ」は鎌倉時代から年末に連歌会を催したところからきているという。出典はよくわからない。
江戸時代では一年の仕事の終わりの打ち上げだったようだ。
この時代にはまだ年越し蕎麦はなかったが、年越し蕎麦もまた仕事を終えたときの打ち上げで食べていた。近代だと忘年会と年越し蕎麦は別の行事になっている。
「年忘れ」は、昔は数え年で、誕生日ではなく正月が来ると年齢が一つ上がるということで、年を取るのを忘れるという意味での「歳忘れ」だった。別にこの一年あったことを忘れるという意味ではない。
一部の人たちでは歴史を忘れるとはけしからんということで「望年会」をやってたりするが、はたして歴史を忘れているのはどっちだか。
太鼓をたたかないというのは、本来それほど盛大にやるものではなかったのだろう。挨拶程度に今年も一年お疲れさんという感じのもので、江戸後期になると年越し蕎麦に取って代わられていったのだろう。
人に家を買はせて我は年忘れ 芭蕉
の句は元禄三年、大津膳所の乙州新宅での句で、
かくれけり師走の海のかいつぶり 芭蕉
の句とともに詠まれている。カイツブリは鳰(にお)ともいい、琵琶湖に多く生息していたので琵琶湖のことを「鳰の海」ともいう。
京都から琵琶湖の方へ逃れてきたから、自身をカイツブリに喩えて詠んでいる。
ここでも隠れ家での年忘れだから、そんなに派手なものではあるまい。
同じ元禄三年だがこの句より少し前に京都上御霊神社神主示右亭で年忘れ九吟歌仙興行が行われ、
半日は神を友にや年忘れ 芭蕉
の句を詠んでいる。こちらの方が中世以来の連歌会の伝統を引き継ぐ「年忘れ」だったのだろう。神主さんを友としてこれから半日楽しい時を過ごしましょうという挨拶の句になっている。
これに対し示右は、
半日は神を友にや年忘れ
雪に土民の供物納る 示右
と返す。おそらく「半日」を受けて、この興行の前の半日は地元の氏子さんたちが供物を納めに来たので大忙しでした、満足なおもてなしが出来るかどうか、という意味であろう。
「太鼓はたたかれじ」のついでだが、江戸時代は鐘や太鼓で時を知らせていたが、いわゆる除夜の鐘というのはなかった。一部では行われていたかもしれないが、全国に一般的に広がったのは近代に入ってからだろう。
夜中の日付が変わる頃に初詣する習慣ができてから、いつのまに年越し蕎麦も初詣の直前に食べ、除夜の鐘が初詣に集まる人にとっての合図になっていったのではなかったか。
最近になって除夜の鐘がうるさいという人たちが増えてきたが、鐘そのものよりも深夜に参拝に来る人たちがうるさいのではないかと思う。
初詣はウィキペディアによれば、
「江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形であるが、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。」
ということで、初詣の習慣は明治中期以降の鉄道の発達によるものだという。深夜の参拝も鉄道が終夜運転を始めてからではないかと思う。多分に西洋のカウントダウンの影響もあるのではないかと思う。
江戸時代の大晦日は静かに過ごした。
心よき年
恙なく大晦日の寝酒かな 蚊足(『続虚栗』)
晦日だから当然月もなく、外は真っ暗だったはずだ。さっさと酒飲んで寝るのが一番いい年の暮れだった。
蚊足の句もう一句。
晦日晦日や御念の入て大晦日 蚊足(『続虚栗』)
そんな大晦日の夜、唯一にぎやかな場所があった。
年の一夜王子の狐見にゆかん 素堂(『続虚栗』)
王子稲荷神社には一年に一度大晦日の日に狐達が参詣し、狐火を灯したと言われている。
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