2018年7月31日火曜日

 LGBTに限らず多様性が経済に与える影響を考えた時、おそらくミクロ的には様々な非効率の元になるが、マクロ的にはプラスになる、生産性の向上に役に立つと考えればいいのではないかと思う。
 生産性というと、多くの人は大量生産大量消費を想像するかもしれない。しかし、アイテムを絞り込んでの均一な大量生産は、それを求める人には安い商品を効率よく供給できるが、そうでない人はいつまでも無消費の状態に置かれてしまう。消費全体が伸びないため、やがて生産過剰に陥り、恐慌を引き起こす。
 消費全体を拡大するには、多様なニーズに応じた多様な商品が必要になる。少数のニーズにあった商品を大量に作るには、市場全体の拡大が必要とされる。
 第二次大戦までの帝国主義の時代には、これを国境の変更、つまり侵略と植民地化で解決しようとしていたが、それは悲惨な戦争によって打ち砕かれ、戦後はむしろ資本が国境を越えグローバル経済を作ることで解決してきた。国境を越えられなかった資本は戦争を起こすしかなかったが、国境を越える資本は戦後の長い期間にわたる平和をもたらした。これによってレーニンの帝国主議論は過去のものとなった。
 資本だけでなく、流通や情報伝達のグローバル化も必要だった。インターネットの普及は少量生産少量消費に更に有利な条件を提供し、従来の大量生産大量消費ではカバーできなかったロングテール市場を生み出し、拡大させている。
 多様性が必要なのは、たとえば極めて稀な病気の治療薬は、開発しても大量に売ることができないという問題の解決にも繋がる。その治療薬の原料や生産工程が他の商品と共有できれば、それによってコストを抑えることができる。それには多種多様なものが生産されていればいるほど、それは見つけやすくなる。
 LGBTはその独自な発想力と独自な消費によって、生産性の向上に貢献することは間違いない。
 日本の場合、近代化の以前の段階で既に消費の細分化が起きていた。例えば芭蕉の時代にたくさん出版された俳書を考えてみればいい。俳諧は当時の人気のある娯楽だったとは言え、それほど大量に売れたとは思えない。
 しかし、この少量生産には木版印刷がちょうど良かった。日本は韓国のような金属活字の文化を持たなかったし、壬辰・丁酉倭乱(朝鮮出兵)の時に活字を持ち帰ったと言うが、ほとんど活用されることはなかった。
 江戸前期に庶民の間に書物の需要が広がった時、限られた経典を大量に印刷するよりも、むしろ多様な書籍を少量印刷する方向に向かった。それには木版印刷の工房がいくつもできてそれぞれの工房で職人達が腕を振るい、多様な出版物に対処する方が良かった。日本で量産されたのは活字でも本でもなく木版職人だった。この基礎があったからこそ浮世絵の文化も生まれた。
 このことはやがて近代化する際にも豊かで多様な消費文化の基礎ができているという強みがあった。先に消費の多様化があって、あとからそれに大量生産大量消費のシステムが導入されたことが、短期間で生産の近代化を達成できた要因だったのではないかと思う。
 トヨタ自動車のリーン生産方式にも、江戸時代の木版工房の経験が様々に形を変えながら引き継がれているのではないかと思う。

2018年7月30日月曜日

 明け方には有明が浮かび、暑さも戻ってきた。明日は火星の大接近だという。そういえば子供の頃にも火星の大接近があって、今はなき五島プラネタリウムでそんな話を聞いたな。時は廻る。

 『貝おほひ』の二番を調べていたら、そのすぐあとの四番に猫の句があった。ついでなので引用しておこう。

 四番
   左         信乗母
 さかる猫ハ気の毒たんとまたたびや
   右勝        和正
 妻恋のおもひや猫のらうさいけ

 猫にまたたびを取つけられたる。左の句珍しき。ふしを。いひ出られたるハ。言葉の花かつをともいふべけれ共。きのどくといふことば。一句にさのミいらぬ事なれば。少難これ有て。きのどくに侍る。
 右又猫のらうさいと。いふ小哥を。妻恋にとりあはされたるハよい作にや。きんにや。うにや。かの柏木のいにしへ。ねうねうとなきしわすれ形見。又源氏の宮を。木丁のすきかげに見給しも。いづれも猫の引綱の。おもひ捨がたけれど。右の句さしたる難もなければ。為勝。

 猫にまたたびってそんなに珍しいかと今なら思うが、確かに今まで猫の句をたくさん紹介してきたけど、猫にまたたびを詠んだ句はなかった。
 「猫にまたたび」「猫に鰹節」は諺にもなっているが、当時からあったのかはよくわからない。ただ、さかる猫にまたたびをやって落ち着かせたりすることは普通に行われていたのだろう。
 「ふしを。いひ出られたるハ。」は「気の毒たんと」が小唄の言葉だからだと『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の荻野清の注にある。二十八番のところにも「気のどくたん」という言葉がある所から当時の流行語だったか。
 「ふしを。いひ出られたるハ。言葉の花かつをともいふべけれ共。」と節から鰹節、花鰹の縁で言葉を繋いでゆく。ウィキペディアの鰹節の項によれば、

 「現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(1338年 - 1573年)である。1489年のものとされる『四条流庖丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられる。」

とある。
 元禄の頃になると紀州の甚太郎が登場し、

 「燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという。
 大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。」

となる。柳屋本店のホームページによれば、

 「延宝2年(1674年)のこと、紀州の国(現在の和歌山県)の漁師、甚太郎が考え出した「焙乾法」によって初めて、今日のようなかつお節づくりの基礎がつくられました。それまでの天日による乾燥を藁や薪を利用する方 法に変え、煙と火熱を加えてできるだけ水分を取るように工夫しました。」

と、この『貝おほひ』よりも少しあとのこととされている。
 前に(2017年1月9日)紹介した『炭俵』の「雪の松」の巻の八句目に、

   熊谷の堤きれたる秋の水
 箱こしらえて鰹節売る    野坡

とあり、元禄に入ると関東にも盛んに鰹節が売られるようになったようだ。これも甚太郎が考え出した「焙乾法」によって保存性が増したためと思われる。
 だいぶ話がそれたが、猫に鰹節で花鰹と縁で繋いだ後、「きのどくといふことば。一句にさのミいらぬ事なれば。少難これ有て。きのどくに侍る。」と、結局この小唄の引用は無駄だということになる。気の毒たん。
 右の句の「猫のらうさいけ」も小唄の言葉のようで、『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の荻野清の補注には、元和・寛永の頃の籠済という遊び坊主が歌い始めたらうさい節によるという説(『昔々物語』)と、労瘵という病気だという説(『嬉遊笑覧』)の二つを紹介している。『岩波古語辞典』には「らうさいげ」は気鬱症とある。籠済節に掛けて言い興したメランコリーということか。
 あとは『源氏物語』の柏木を引いては盛り上げて、右の勝ちとする。

2018年7月29日日曜日

 芭蕉ホモ説の最も有力な根拠となっているのは、『貝おほひ』の「われもむかしハ衆道ずきの」という一文で、これは『貝おほひ』の二番に出てくる。
 『貝おほひ』は松尾氏宗房撰の寛文十二年刊の句合で、芭蕉がまだ伊賀にいた頃のものだ。ここで芭蕉は自ら「松尾氏」と苗字を名乗っている。

 二番
   左勝       此男子
 紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ
   右        蛇足
 兄分に梅をたのむや児桜

 左のあかいこんぶくろハ。大坂にはやる丸のすげ笠と。うたふ小歌なれバ。なるべし。
 右梅を兄ぶんに頼む児桜ハ。尤も頼母敷きざしにて。侍れども。打まかせては、梅の発句と。聞えず。児桜の発句と。きこえ侍るハ。今こそあれ。われもむかしハ衆道ずきの、ひが耳にや。とかく左のこん袋ハ。趣向もよき分別袋とみえたれば。右の衆道のうハ気沙汰ハ。先おもひとまりて。左をもつて為勝。

 「こんぶくろ」は小袋のことだという。紅梅の蕾が赤い小袋のようだというそれだけの句で、貞門の複雑な言葉遊びは見られない。上方ではすでに前年の寛文十一年に宗因が『宗因十百韻』を高滝以仙撰の『落花集』全五冊の内の一冊として公刊していたし、芭蕉もこの動きをほぼリアルタイムで察知し、いち早く談林の風を取り入れようとしていたと思われる。
 評には「大坂にはやる丸のすげ笠と。うたふ小歌なれバ。なるべし。」と小唄を出展としていることが示されているが、どういう小唄なのかはよくわかっていない。一説には「菅笠踊り」の歌詞ではないかという。
 こうした古典ではなく巷で流行する小唄によるというのも、当時の談林の最新の流行だったと思われる。
 丸の菅笠は頂点の尖ってない菅笠のことか。お遍路さんがよくかぶっている。
 「児桜(ちござくら)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「山桜の一種なり。又小桜のるゐにて別種也と云。按ずるに、山桜のうちに、紅色を含て美しく愛らしき花あり。故に児桜の称ある歟。」

とある。
 桜より先に咲く紅梅を児桜の兄分とするもので、稚児と兄分は衆道を連想させる。
 これは梅の発句ではなく児桜の句ではないかという。その理由として、これは兄分を慕う稚児の句で、そう思えてしまうのは「われもむかしハ衆道ずきの、ひが耳にや」と撰者自らが昔は衆道好きだからだと続く。
 そして、こん袋の句は趣向も良く、まあお遍路さんの禁欲的な中に花のある句だし、それにひきかえ児桜の句は衆道の浮ついた句だから、ということでこん袋の勝ちとする。
 ここで芭蕉が自ら「われもむかしハ衆道ずきの」の言ったのは、判定により真実味を持たせるために、その場の乗りで言ったのか、それとも真実の告白だったのかは定かではない。
 ただ、こうした文章を書いたところで、芭蕉が牢屋に放り込まれることもなければ、世間から非難を浴びるわけでもなかった。それが当時の日本の「衆道」に対する認識であり、だからこそ芭蕉ならずとも当時の俳諧で衆道ネタは普通に行われていたといえよう。
 宗因の『宗因十百韻』の中の一つ、恋俳諧「花で候」の巻の第三でも、

   夢の間よただわか衆の春
 付ざしの霞底からしゆんできて  宗因

と衆道ネタをやっている。
 また、芭蕉は元禄七年の秋、死の直前に泥足の『其便』のために「七種の恋」を七人で詠んだ時も、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

と稚児の句を詠んでいる。

 こうした同性愛に対するおおらかな文化をこれからも守って行きたいし、それには明治以降西洋の観念が入ってきて、同性愛に対する認識が大きく変わったことも考慮するなら、この問題は同性愛はその人の勝手と放置するのではなく、差別的な思考と対決することも必要になっている。
 そこで問題にしたいのは今話題になっている杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号。だ。
 この文章については、例によって「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」という一つのフレーズだけが一人歩きしてしまっているが、きちんとその全文を理解した上で批判してゆく必要がある。
 まず、

 「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。」

 これについては問題ない。ただ、これに続く文章は問題だ。

 「どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。」

 これは明治以降の日本に西洋の観念が流入して、今の日本の同性愛者の状況は江戸時代のそれと同じではないという点を無視している。欧米化した日本では本家の西洋ほどではないにせよ、同性愛者への偏見はやはり問題にされなくてはならないし、他ならぬ杉田水脈氏のこの文章にそうした偏見があるかどうかが問われなくてはならない。
 そこで問題になった文章だが、

 「例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」

 ここには夫婦はあるいは結婚は子供を作るためのものであるという、重要な偏見が含まれている。もちろん「生産性」という言葉は本来労働あたりの生産量をいう言葉で、この場にはそぐわない。比喩としても成立していない。「生産的でない」というならまだわかる。「『生産性』がない」というのはまず日本語としておかしい。
 夫婦は子供を作るためのものであるとするなら、同性愛だけでなく、子供のいない夫婦、独身主義、去勢手術なども全て問題なはずだ。子供が一人しかいない杉田さん自身にも十分ブーメランになる。
 またLGBTについての杉田さんの認識も根本的に誤っている。

 「T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。」

 トランスジェンダーはウィキペディアには、

 「ある人の「割り当てられた性」 (身体的特徴ないし遺伝子上の性に基づく男性か女性かの他人による識別) とは違う「性同一性」 (女か男か、あるいはそのどちらでもないか) の状態にある。トランスジェンダーであることは、特定の性的指向を有していることを必要条件としない。すなわち、トランスジェンダーの人々は異性愛者であったり、同性愛者、両性愛者、全性愛者あるいは無性愛者であったりする可能性がある。トランスジェンダーの正確な定義は不断の変化を続けているが、次の概念を含む。

 アイデンティティが男性ないし女性の性役割の従来の観念に明らかに一致していないが、両者の間で組み合わさっていたり動いていたりする人のこと、あるいはその人に関連しているものまたは示すもの。
 性 (通常生まれたときに、彼らの性器に基づく) を与えられたが、間違っているあるいは不完全であると感じる人々。
 ある者が生まれたときに割り当てられた性 (そして偽りのジェンダー) との非同一化、あるいは非表現。」

とあり、どこにも「性同一性障害」とは書いてない。ちなみにウィキペディアの「性同一性障害」のところには、

 「『出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識(Gender identity、性同一性)を持つために、自らの身体的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性別を求め、時には身体的性別を己れの性別の自己意識に近づけるために医療を望むことさえある状態』をいう医学的な疾患名。」

とあり、この「医療を望むことさえある状態」が重要だ。トランスジェンダーであっても医療を望まないものは性同一性障害ではない。トランスジェンダーも含めてLGBTはキャラであって病気ではない。ただ、トランスジェンダーのなかで性転換などの医療上の解決を望むものだけが性同一性障害とみなされる。
 LGBに関しても、杉田氏は、

 「一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。」

というが、これもLBGの正しい説明ではない。俗な言い方すればこれは「ゆるゆり」であって「がちゆり」ではない。
 この二つの偏見は、Tは治療して性転換することで男か女かのどちらかになる物で、LBGは普通の男か女に矯正可能なものと見なすもので、基本的に男と女以外の者が存在してはいけないというものだ。これは日本伝統ではない。
 同性愛を「不幸な人」と決め付けていることも問題だ。
 最後に杉田氏は、

 「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。」

と結んでいるが、この常識というのはおそらく夫婦は子供を作るためのもので、LBGは矯正されるべきものでTは治療されるべきもの、本来男と女以外の存在があってはならないというものだとしたら、その常識は一体どこから来たのか、歴史をふり返って問うてゆく必要があるだろう。
 「生産性」ということば、この文脈でな何の意味もないが、おそらくあえて括弧をつけてこの言葉を強調したのは、多様化による行政の効率の悪化を問題にしたかったのだろう。
 たとえば学校で全員が同じものを食べるなら給食室は一つでいいし、メニューも一つでいい。だが、そこに様々なアレルギーの人が加わり、さらにはムスリムのような食事に独特な戒律をもつい人たちが来たり、独自の信念によるビーガンがいたりすると、たくさんの種類の給食を用意しなくてはならなくなり、一つの給食室ではまかないきれなくなる。
 もちろん、一部にある食品を食べられない人がいるからといって、全員がそれを食べることを断念すべきではない。多様化には給食室で作るということにこだわらず、様々な特例を認めながら柔軟に対応しなければならない。
 この種の問題が性的多様性を認めると当然生じてくる。
 ただ、民族の多様性と性的多様性は本質的に違う。それは民族の多様性は外から来るので、いくらでも調整ができるのに対し、性的多様性は中から興るもので、おそらくどこの国もどこの民族でもほぼ一定の割合で生じてくるものだと思う。増えることもなければ減ることもない。
 性的多様性は自由な精神による選択によるものではなく、脳の形成の際に一定の割合で偶発的に生じると思われる。遺伝が関与しているかどうかははっきりとはわかっていないし、すべてが遺伝的に決定されているとはいいがたい。人間以外の動物でも同性愛は存在するから、ある程度の遺伝的要因は考えられるが、それと平行して脳の成長過程での偶然も作用しているのではないかと思われる。いずれにせよ性的な嗜好は自由意志によるものではない。それは根絶できないし、だからといって席巻することもない。それもまた民族問題と違う所だ。
 LBGTはキャラなのだから、大事なのはいかにそのキャラを生かすかであろう。いわばLBGTは普通の人にはない感性を持つ特殊能力者と考えればいい。
 彼等の発想は常人にはない発見をもたらすかもしれないし、それが生産性を高めることに繋がるかもしれない。また、彼等が独自のライフスタイルを持つことで消費の多様化に繋がり、強力なロングテール市場を形成する可能性もある。その意味であなたが資本家なら「LBGTは買いだ」と言いたい。
 LGBTは世界中にほぼ一定の割合で存在してるのだから、日本がいち早くLBGT市場を確立すれば、世界のLBGT市場を制するかもしれない。逆に出遅れれば、先行する国に市場を席巻されることにもなる。その意味ではLBGTへの投資は無駄にならない。
 結論。LBGTは生産性を高めるのに役に立つ。

 なお余談だがロリは性的マイノリティーではない。近代以前の社会ではティーンエージャーとの結婚は洋の東西を問わず普通だったし、生物学的に見ても既に出産能力がある者に欲望を感じるのは自然なことだ。ロリが排除されたのは近代化の際の教育期間の延長によるものにすぎない。
 だから基本的には健全な男性がティーンエージャーの少女に欲望を感じるのは自然なことであり、ただ道義的に抑制しているにすぎない。ロリは性的マイノリティーではなく、あくまでマジョリティーなのである。ただしペドは別だ。

2018年7月26日木曜日

 この前は日本で大変な水害があったが、ラオスの方も大変なようだ。テレビでもあまりやらないし、義援金の募集もまだなさそうだが、気になるニュースの一つだ。
 昨日今日と暑さがやや和らいで、きっと子供の頃の夏の暑さはこんなだったのだろう。夕暮れには月が出て、大分満月が近い。ただ、満月の頃には台風が来るようで、大きな被害が出なければいいが。
 今日も『続猿蓑』の夏の句からいくつか拾ってみよう。

 昼寐して手の動やむ團かな      杉風

 これはあるあるネタだ。団扇で扇いでるうちに眠くなって、寝落ちすると団扇を扇ぐ手が止まる。
 テレビを見ながら寝落ちしたときって、なぜがテレビが消されると急に目が覚めたりする。それと同じで、手元から滑り落ちた団扇を誰かが片付けようとすると、はっと目が覚めたりして、そんな情景が目に浮かぶ。

 虫の喰ふ夏菜とぼしや寺の畑     荊口

 昔は農薬なんてなかったから、虫の食った穴の開いた野菜は普通のことだったのだろう。暑さでその虫食い野菜すら干からびてゆく。自分の食う野菜もさることながら、虫の食う分も気遣っちゃうあたりが「寺の畑」だ。生類に哀れみを。

   川狩にいでゝ
 じか焼や麥からくべて柳鮠      文鳥

 「柳鮠(やなぎばえ)」はこの時代はどうだか知らないが江戸後期には春の季語になる。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』にも春三月のところにある。

 「柳鮠[和漢三才図会]処々河湖の中に多し。状鰷(あゆ)に似て、白色淡黒にして略(ほぼ)青色を帯ぶ。性、好て群集し、水上に浮遊す。性、蠅を好む。故に魚人、馬の尾、鯨の髭を以て、蠅の頭を模し成し、先砂糖を水上にうかぶるときは、蠅聚る時に蠅の頭を水に投じてこれを釣り、或は網を以てとる。春夏多く出、其大さ二三寸、水中を行こと至て速し。故にはえと名づく。其の柳の葉に似たるものを、柳鮠と云なり。」(『増補俳諧歳時記栞草 上』曲亭馬琴編、岩波文庫、p.158~159)

 柳鮠が夏の季語ではないなら、この場合の季語は麥からくべてで「麦焼」だろうか。ただ、『増補俳諧歳時記栞草』に麦焼はない。
 ただ、柳鮠を焼くときにまず麦打ちした屑を最初にくべてじか焼きにするという意味なら、意味から行って夏の句となる。こうすると麦の香ばしさがうつったりするのだろうか。

 異草に我がちがほや園の紫蘇     蔦雫

 これもあるあるネタだ。庭でも畦道でも赤紫蘇は勝手に生えてくる。だが、紫蘇はいろいろ役に立つので、雑草だけど歓迎され、他の雑草が引き抜かれる中で勝ち誇ったように葉を広げている。

   せばきところに老母をやしなひて
 魚あぶる幸もあれ澁うちは      馬見

 意味はわかりやすい。貧しい中でも魚をあぶり、それを渋団扇で扇ぎ、段々焼けていい匂いがすると、そりゃあ幸せな気持ちになる。
 ただ、暑さをしのぐ団扇でなく、火加減を調整するための団扇ほ一年中あるものだが、ここでは形式的に「団扇」である以上夏と判定されている。

2018年7月24日火曜日

 何か今更のようにマスコミは暑いのは日本だけでないとばかりに、ロサンゼルスが暑い、ストックホルムが暑いと言い出した。そういえばワールドカップのロシアも暑かったようだな。みんな暑い時は無理しないでね。まじ死ぬよ。
 では昨日の『続猿蓑』の句が途中だったので‥。

 茨ゆふ垣もしまらぬ暑かな      素覧

 「茨」はウィキペヂアに「棘のある木の総称」とある。ノイバラ・ヤマイバラ・ヤブイバラといったバラ属だけでなく、ミカン科カラタチ属のカラタチも含まれる。
 カラタチは古くから棘があるため防犯上の意味もあって生垣に用いられてきた。クコも棘があるので生垣に用いられる。
 飛田範夫の『日本の生垣の歴史的変遷について』(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/62/5/62_5_413/_pdf)によれば、

 「江戸時代前期も刺がある樹木を使った生垣は盛んに設 けられていたようで、宮崎安貞著『農業全書(巻9)』(元禄9年[1696])の「園籠を作る法」 に、

 いけがきに作る木は、臭橘(からたち)、枸杞(くこ)、五加(うこぎ)、秦椒(さんしょう)、梔子(くちなし)刺杉(はりすぎ)、楮(こうぞ)、桑、桜、桃、細竹色々多し。此等の類よし。中にも臭橘、うこぎ、枸杞勝れて宜し。

と記されていることから、カラタチ・クコ・ウコギ・サンショウ・ハリスギ(ネズミサシ?)が 生垣に用い られてたことがわかる。
 こうした実例としては、延宝3年(1675)2月に金沢藩の一柳堅物屋敷廻りにサイカチが挿し木され、芭蕉七部集の1つの『猿蓑(巻5)』(元禄[1691])の芭蕉の句に「うき人を枳穀垣よりくゞらせん[2022]」と詠 まれていることなどがある。井原西鶴著『日本永代蔵(巻6第1)』(貞享5年)〔1688])には、「程なく大屋敷を買いもとめ[略]生垣も拘杞・五加木を茂らせ」と、物語上だが利発な男が無駄がないよ うにとクコ ・ウコギを生垣にした と書かれている。」

とのことである。
 『猿蓑』の芭蕉の枳穀垣(きこくがき)の句は、「鳶の羽も刷(かいつくろい)ぬはつしぐれ 芭蕉」を発句とした巻の二十五句目で、

   隣をかりて車引こむ
 うき人を枳穀垣よりくぐらせん    芭蕉

という付け句だ。憂き人が久々に隣にやってきたので、門を閉ざしてカラタチの棘だらけの垣根をくぐらせようか、という句。「せん」は「せむ」でそう思うだけで、実際は門を開けてしまうのだろうな。
 この枳穀垣(きこくがき)はカラタチの垣だ。
 素覧の句に戻るなら、この句はカラタチの棘で入れなくしている垣根なのに、暑いもんだから風を通すために門が開けっ放しになっている、という意味だろう。

 草の戸や暑を月に取かへす      我峯

 草の戸の昼も暑さも、日が暮れて月が出れば涼しくて風情もあり、昼の暑さのマイナスを取り返す。

 あつき日や扇をかざす手のほそり   印苔

 暑い日が続くと夏痩せで、扇であおぐ手もやせ細ってゆく。扇の骨が見えるように手の指の骨が見えるという類似に面白さがある。

 積あげて暑さいやます疊かな     卓袋

 昔は暑い時には畳をはがして板の間にして涼しくしたというが、暑さが増すごとにはがす畳の数も増えてゆく。

 粘になる蚫も夜のあつさかな     里東

 鮑が糊になるって、そりゃ腐っているから食べちゃ駄目だ。

 立寄ればむつとかぢやの暑かな    沾圃

 鍛冶屋は火を使うからただでさえ暑い所を余計に暑い。

2018年7月23日月曜日

 猛暑で二年後の東京オリンピックのことが心配されている。
 これまでも暑い時期にオリンピックが行われたことはあったが、今年のような暑さが二年後にもとなると、やはり心配だ。
 多分、競技の多くを夜と早朝に集中させることで解決されるのではないかと思う。この時間帯は欧米のゴールデンタイムでもあるため、スポンサーは賛成するだろう。
 ついでに勤務時間も遅らせてくれれば、仕事でオリンピックが見れないという不満も解消できるのではないかと思う。
 問題はやはり夏の甲子園ではないかと思う。某大手新聞社が主催者だから、マスコミはこの話題に触れたくないのだろうけど、実際に熱中症での選手交替や応援の高校生が熱中症で倒れるという事件は起きている。
 夏の甲子園は象徴的な意味でも、「球児たちが暑い中で頑張ってるんだからお前らも‥」だとかいうことで、無理強いするときに利用されたりするし、心身を鍛えれば暑さは克服できるという神話を生む元になっている。
 日本中が見守る大会だからこそ、熱中症対策でも日本中に見本を見せてほしい。選手はまだそれなりの覚悟でやっているかもしれないが、関係ない生徒やブラスバンドを駆り出すのはやめた方が良いと思う。死んたら永久にもう野球をすることもみることもできない。去年死んだ女子マネジャーへ捧げる2本塁打なんてものを美談にするな!

 それでは今日は『続猿蓑』の暑い句を。

  盛夏
 かたばみや照りかたまりし庭の隅   野萩
 李盛る見世のほこりの暑哉      万乎
   藪醫者のいさめ申されしに答へ侍る
 実にもとは請て寐冷の暑かな     正秀
 取葺の内のあつさや棒つかひ     乙州
 煤さがる日盛あつし臺所       恕風
 茨ゆふ垣もしまらぬ暑かな      素覧
 草の戸や暑を月に取かへす      我峯
 あつき日や扇をかざす手のほそり   印苔
 積あげて暑さいやます疊かな     卓袋
 粘になる蚫も夜のあつさかな     里東
 立寄ればむつとかぢやの暑かな    沾圃

 「かたばみや」の句は、夏の炎天下だと葉を畳むカタバミを「照りかたまりし」と表現したのか。黍の葉はよれて、カタバミは照り固まる。
 カタバミはクローバに似た三つ葉で、家紋にも用いられるが、雑草として嫌われ、畑の畦道や庭の隅などに黄色い花を咲かせる。
 「李盛る」の句は、市場の情景か。時代劇の演出だったらコーンスターチをばら撒く所だろう。未舗装の土の道路や広場に土埃は付き物だった。
 李(すもも)は江戸時代に栽培が広まり食べられるようになった。真夏に熟す。
 「見世」は本来は「見世棚」という商品を陳列する棚を言った。略して見世と呼ばれるようになり、やがて店舗の意味になった。店舗(みせだな)を「みせ」と略さずに「たな」と略すこともある。

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)  芭蕉

 「たな」が陳列台なのに対し「みせ」は見せるというのが本義だから、遊郭の遊女が見えるようにするところも見世と呼ばれた。
 「実(げ)にもとは」の句。「藪醫者」というと元は名医だったのだが、その名声が世間津々浦々に知れ渡ると「藪」を名乗る偽物が横行するようになり、偽医者の代名詞になった、と『風俗文選』にある。
 そのやぶ医者の言うとおりにしたら、夏なのに寝冷えしたということか。一体何を教えたのか。

 夕涼み疝気おこしてかへりけり   去来

という句も『去来抄』に去来が初学の頃に作って芭蕉の一笑されたというが、「疝気」も腹が冷えることによる症状をいう。
 「夕涼み」に「疝気」は「これにてもなし」だが、「寐冷の暑」は俳諧になる。「夕涼み」は涼しいところに招待してくれた主人への感謝も含まれるので、マイナスのイメージを嫌うということなのだろう。
 「取葺(とりぶき)の」の句。「取葺」は板屋根の上に重石を置いただけの粗末な屋根で、60年代の漫画にはよくこういう家が描かれていた。貧乏人の掘っ建て小屋だろうか。
 ネットで検索する場合は「石置屋根」で検索するといいだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「板葺(いたぶ)きの上に石を置いて、板が風で飛ばないようにした屋根のこと。日本では中世の絵巻物に描かれた民家の屋根にしばしばみられ、江戸時代初期の京都市中にもなお用いられていたことが「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)」によって知られており、なかには石が転げ落ちないよう縄で結わえているものもある。このような屋根は、瓦(かわら)がまだ普及せず、板がもっとも信頼できる葺き材料で、しかも釘(くぎ)などがそれほど豊富に使用できなかった時代の生活の知恵であろう。現在では、風の強い山間部の小規模な建物、たとえば山小屋などに用いられるだけである。[山田幸一]」

とある。
 「棒つかひ」はこの場合棒術の達人のことではなく、多分「つかひ棒」のことだろう。石置屋根の粗末な家はただでさえ暑そうなのに、その屋根が落ちないようにつかえ棒しているあたり、なおさら暑そうだ。
 「煤さがる」の句。昔の台所は油を使わないから油汚れはないが、煤は屋根や梁に付着してたりしたのだろう。年末になると煤払いをしたが。
 ただでさえ火を使う台所は暑いが、上が煤けていると余計に暑く感じられる。

2018年7月22日日曜日

 今日はスカイツリーのあるソラマチに行った。スカイツリーには登らず、郵政博物館の「はしもとみおの木彫」展を見た。オランウータンの背中の扉が気になる。
 そのあと世界のビール博物館で昼食。やはり日本はベルギーに勝てないのか。

 さて、昨日は『猿蓑』の句を見たが、今日は『炭俵』。京都も暑いが江戸の暑さも負けてはいない。
 先ずはやはりこの句だろう。利牛の「子は裸父はててれで早苗舟」を発句とする百韻の九十五句目。

   もはや仕事もならぬおとろへ
 暑病の殊(ことに)土用をうるさがり 孤屋

 今は熱中症と言うが、ちょっと前は日射病だとか熱射病だとか言われていた。江戸時代には「暑病(あつやみ)」と言ってたようだ。
 「うるさし」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 ①めんどうだ。わずらわしい。
 ②わざとらしくていやみだ。
 ③立派だ。すぐれている。
 ④ゆきとどいている。気配りがされている。細心だ。
 注意:現代語の「うるさい(=やかましい)」の意味に使うのはまれである。

とある。この場合は①の意味であろう。「五月蝿い」と書いて「うるさい」と読ませることもあるが、今の「音が大きい、騒がしい」という意味ではなく、昔の「わずらわしい」という意味だと、なるほど蠅が飛び回ると鬱陶しくて、わずらわしいと納得できる。
 土用の丑の日に鰻を食うようになったのは、百年後の平賀源内の時代だから、この頃は土用だからって特に何かしたわけでもないのだろう。夏の終わりの暑さは厳しく、熱射病になって仕事などできる状態ではない。
 多分今の気温はこの頃より5度以上高いのではないかと思う。職場も学校もスポーツ競技会も十分な配慮をすべし。
 さて、そのほかの『炭俵』の暑さの句となると、「夏旅」の句だろうか。

 並松をみかけて町のあつさかな    臥高
 枯柴に昼貌あつし足のまめ      斜嶺
 二三番鶏は鳴どもあつさ哉      魯町
 はげ山の力及ばぬあつさかな     猿雖
 するが地や花橘も茶の匂ひ      芭蕉
   此句は島田よりの便に

 その他「題しらず」のところに、

 團賣侍町のあつさかな        怒風

の句がある。
 「並松を」の句は宿場町の風景で、町を抜けると松か杉の並木道になり、日影にもなれば風も通るが、それを見るにつけ街中はじりじりと日が照り付けて暑い。
 「枯柴に」の句は、背の低い木が暑さで立ち枯れて、そこに昼顔がまきついて花をつけているのを見ると、暑いのだなと思う。「顔あつし」から「足のまめ」と展開する。
 「二三番」の句は、一番鶏が鳴き、それに続くように二番鶏、三番鶏が鳴く明け方だというのにやはり暑い、という句。
 「はげ山の」の句は、木がないから日を遮るものがないという単純な理(ことわり)だが、「力及ばぬ」と擬人化するところにひとひねりといったところか。
 「するが地や」の句は特に暑さとは関係なく、元禄七年の芭蕉の最後の東海道下向の時、大井川が増水し、島田で足止めされた時の句。
 近代の浪曲の「 旅行けば 駿河の道に茶の香り」のフレーズの原型ともいえよう。
 「團賣(うちわうり)」の句は、武家屋敷の並ぶ侍町に団扇売りの声が響くが、武家屋敷は門を堅く閉ざして人の気配もなく、余計に暑く感じられる。
 やはり昔の江戸も暑かった。ただ、やはり京都ほどではなかったか。

2018年7月21日土曜日

 KADOKAWAのついランで、7月21日は「日本三景の日」というのがあって、そこで長年謎だったば「松嶋や」の句の謎が解けた。

 松島やああ松島や松島や

の句は「江戸時代の後期に狂歌師・田原坊が作ったものだといいます」とそこには書いてあった。
 芭蕉庵ドットコムによれば、「仙台藩の儒者・桜田欽齊著「松島図誌」に載った田原坊の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」の「さて」が「ああ」に変化し、今に伝えられている。」のだという。

 まあそれはともかく、とにかく暑い日が続く中で、暑い暑いと言いながらも暑さと真正面から向き合ったいきたい。
 俳諧で言えば、やはり『猿蓑』の、

   市中は物のにほひや夏の月
 あつしあつしと門々の声   芭蕉

が、暑さを代表する句ではないかと思う。
 『春の日』や『阿羅野』では、夏というと涼みだったり清水だったり、涼しさを求めるものが多く、真正面から暑さと向き合った句は少ない。それが『猿蓑』になると一変する。

 日の暑さ盥の底の蠛(うんか)かな  凡兆
 水無月も鼻つきあはす數奇屋哉    同
 日の岡やこがれて暑き牛の舌     正秀
 たゞ暑し籬によれば髪の落(おち)  木節
 じねんごの藪ふく風ぞあつかりし   野童
 夕がほによばれてつらき暑さ哉    羽紅
 青草は湯入ながめんあつさかな    巴山

というふうに暑さをテーマにした句が並ぶようになる。
 発句は本来挨拶だから、上流階級だと客人を迎えるのに様々な涼しくなるような趣向を用意し、発句を詠む客人も「涼しいですね」と詠むのが普通だったのだろう。
 ただ、庶民の挨拶となると、暑い時は「いやあ、暑いですねえ」となるのが自然だ。そういうわけで、市中だと「あつしあつしと門々の声」ということになる。京都は盆地だからそうでなくても暑い。大阪だとやはり「あつはなついでんな」とボケたりしたのだろうか。
 「日の暑さ」の句は、日がかんかん照り付けているとウンカも暑さを遁れて盥のそこにへばりついている、というもので、底というのは盥を裏返した時に見つけたという意味だろう。
 特に古典の趣向によるものではない日常のあるあるネタで、凡兆の得意とするところだったか。
 「水無月も」の句の「數奇屋」はweblio辞書の「三省堂大辞林」に、

 ①  庭園の中に独立して建てた茶室。茶寮。かこい。
 ②  草庵風に作られた建物。また、茶室の称。
 ③  障子に貼る美濃紙みのがみ。

とある。
 水無月のお茶会で、暑い中汗をかきながらも、狭いお茶室の中で鼻と鼻を突き合わせて、ご苦労なことだ。それこそ「數奇」でなくてはできないことだ。
 「日の岡や」の句は、山梨県の芭蕉dbによれば、

 「「日の岡」は、京都市山科区日ノ岡で、東側だけが開いているので朝日が顔に当たるところからこう呼ばれているそうである。「こがれる」のは焼け付くことで、恋することではない。日の岡を牛が猛暑に焼きつかれながら歩いている。さぞや喉も渇いていることであろう。」

とのことだ。特に付け加えることはない。
 「たゞ暑し」の句。「籬」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「竹や柴などで目を粗く編んだ垣根。ませ。ませがき。」とある。
 暑さを避けてみんな寄りかかるもんだから、よく見るとそこに抜けた髪の毛が残ってたりする、というあるあるネタだ。
 「じねんごの」の句の「じねんご」は竹の実のこと。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「竹・笹の果実。小麦に似た長楕円形で、食用となるが味は悪い。」とあり、「大辞林 第三版の解説」には「まれに結実する竹・笹類の実。往時、飢饉の際の非常食とした。ささみどり。自然秔じねんご。」とある。
 「じねんご」のなる竹薮を吹く風がことさら暑く感じられるのは、多分飢饉を連想させるからなのだろう。
 「夕がほに」の句は、『源氏物語』の夕顔巻の最初の場面をイメージしたものだろう。源氏の君の辛い夏が始まる。光の君への揶揄を込めたこの句は、羽紅(おとめさん)の女性の立場に立った気持ちなのだろう。
 「青草は」の句は湯治場の情景だろうか。当時の銭湯は蒸し風呂が主流だったし、そこから青草は見えないだろう。
 このあとの「夕涼み」の句も気になる。夕涼みでも暑さがにじみ出るような句だからだ。

 水無月や朝めしくはぬ夕すゞみ    嵐蘭

 当時は一日二食だが、暑くて朝飯を食う気にもならず、その分夕方になって一気に食う。ムスリムのラマダンも案外そういうところから自然に生まれたのかもしれない。

 じだらくにねれば涼しき夕べかな   宗次

 『去来抄』に、

 「さるミの撰の時、 宗次一句の入集を願ひて、数句吟じ来れど取べきなし。一夕先師のいざくつろぎ給へ。我も臥なんとの給ふに、御ゆるし候へ。じだらくに居れば涼しく侍ると申。先師曰、是これほ句也なり。ト、今の句につくりて、入集せよとの給ひけり。」

とある。下手にひねった句より、何気なく吐いた一言のほうが良かったりする。

2018年7月20日金曜日

 これだけ尋常じゃない暑さだと、やはり暑さについて語った方がいいのかもしれない。
 子供の頃は夏の暑い日でもせいぜい32度くらいだったような気がする。今は当たり前のように35度を越える猛暑日になる。
 ただ、温暖化があまりにもゆっくりと進行しているため、昔からこんな暑さだったような錯覚を起す人も多く、人間がやわになったと勘違いしている人もいるのだろう。
 夏の甲子園も昔の感覚でやり続けると、そのうち死人が出るのではないかと思う。温暖化は受け入れないといけないと思う。
 芭蕉の時代は寒冷期だったから、多分子供の頃と比べてもそんなに暑くはなかったのだろう。30度いかなかったのかもしれない。「破風口」の涼みも、そういう感覚で理解した方がいいのだろう。
 では「破風口に」の巻の続き。

三十四句目

   鶺鴒窺水鉢
 霜にくもりて明る雲やけ     素堂

 「霜曇り」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「霜が降りるような寒い夜、空が曇ること。 「 -すとにかあるらむひさかたの夜渡る月の見えなく思へば/万葉集 1083」 〔昔、霜が雪や雨などと同じに空から降るものと考えられていたところからの語〕」

とある。
 「雲やけ」は雲が赤く焼けるように見えることで、夕焼けと朝焼けがあるが、この場合は朝焼け。気流が乱れて天気が悪くなる予兆でもある。
 『末木和歌抄』に、

 さらぬだに霜がれはつる草の葉を
     まづ打ち払ふ庭叩きかな
              藤原定家

の歌があるらしく、この「庭叩き」が鶺鴒のことだというので、鶺鴒に霜は付け合いということなのだろう。

三十五句目

   霜にくもりて明る雲やけ
 奥ふかき初瀬の舞台に花を見て 芭蕉

 花の定座ということで霜から強引に花に持ってゆかなくてはならないが、初瀬の山桜を霜に喩えることで解決している。
 長谷寺の本堂はウィキペディアに「本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。」とあり、清水の舞台同様、初瀬の舞台と呼ばれている。

挙句

   奥ふかき初瀬の舞台に花を見て
 臨谷伴蛙仙          素堂

 書き下し文だと、

   奥ふかき初瀬の舞台に花を見て
 谷を臨て蛙仙(あせん)を伴う 素堂

となる。
 「蛙仙」は蝦蟇仙人のことだという。ウィキペディアには、

 「左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄(中国語版)、もしくは呂洞賓に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝『蝦蟇鉄拐図』の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている。」

とある。
 初瀬の山の中なら蝦蟇仙人がいてもよさそうだということか。
 おそらく韻を踏むということで発想が限定された結果であろう。脇の「烟」、六句目の「涎」、十四句目の「川」、十八句目の「塡」、二十四句目の「乾」、二十八句目の「焉」、三十二句目の「天」、そして挙句の「仙」となる。
 このあと最後に「元禄 八月八日 終」とある。かなり時間掛けて作られていることがわかるが、多分練りに練っての時間ではなく、いまひとつ盛り上がりにかいたために、一気呵成にとはいかず、時々思い出しながら続きを作っていったのだろう。
 素堂は芭蕉の江戸に来たころからの門人で、元禄二年に出版された『阿羅野』に収められた、

 目には青葉山ほととぎす初かつを 素堂

の句は、今日でもよく知られている。
 その素堂も芭蕉の軽みの風にはついてゆけず、そんな中で試みられたこの和漢俳諧は、芭蕉を自分の得意な分野に誘う意味があったのかもしれない。
 和漢俳諧はその後越人も試みているが、結局定着はしなかった。日本では和語による俳諧が発達しすぎたせいか、漢詩で俳諧をやる文化はほとんど発達しなかった。韓国では十九世紀に金笠(キムサッカ)が登場するが、それも孤高の存在で伝統にはならなかった。
 漢詩は結局母国語ではないということで、大衆的の広がりは生み出しにくかったし、漢詩をたしなむ階層は世俗と一線を画そうとする傾向があって、大衆化できないという部分もあったのだろう。

2018年7月19日木曜日

 いやあーー、言うまいと思ってもやはり暑い。
 まあとにかく、少しずつ「破風口に」の巻を続けよう。と言っても残りわずかだが。

二裏
三十一句目

   わすれぬ旅の数珠と脇指
 山伏山平地           素堂

 前句の「数珠と脇指」から贋山伏と見たか。山伏なのに平地に居るというのは、丘サーファーのようなものか。

三十二句目

   山伏山平地
 門番門小天           素堂

 これは対句になっている。「山伏は山を平地とし、門番は門を小天とす」となると、何か有難いことを言っているように聞こえる。
 山伏から見れば山は普通の人の平地のようなもので、門番は門が世界の全てだということか。

三十三句目

   門番門小天
 鶺鴒窺水鉢           芭蕉

 門番にとって門が世界であるように、水に棲む鶺鴒も籠の中では小さな水鉢が世界になる、ということか。

2018年7月17日火曜日

 先ず訂正から。二十四句目の作者は素堂ではなく芭蕉だった。名前のところが蕉、仝、蕉となってたし、これまで漢詩は全て素堂が詠んでいたから、ついついつられてしまった。

二十四句目

   朝日影頭の鉦をかがやかし
 風飱喉早乾        芭蕉

 そして、二十五句目は素堂が漢詩ではなく五七五で詠む。

二十五句目

     風飱喉早乾
 よられつる黍の葉あつく秋立て 素堂

  黍の葉も秋立つ頃は暑さで萎れてよれたようになる。前句の風飱喉早乾を黍のこととした。

二十六句目

   よられつる黍の葉あつく秋立て
 うちは火とぼす庭の夕月    芭蕉

 立秋は八月八日前後で、広島原爆忌と長崎原爆忌の間に来る。そのため近代俳句では同じ原爆忌でも広島の場合は夏で長崎の方は秋になる。
 旧暦の場合は年内立春があるように、水無月の上半期立秋もあるが、一般的には文月の初め頃になる。
 夕月はまだ七夕になる前の細い月であろう。夜は暗いので家の中では火を灯す。

二十七句目

   うちは火とぼす庭の夕月
 霧籬顔孰與         素堂

 「霧のまがき、かんばせいずれ」と読む。通ってくる男は霧の向こうで、一体誰なの、と恋の句となる。

二十八句目

   霧籬顔孰與
 ■浦目潜焉         芭蕉

 最初の文字は雨冠に衆で「しぐれ」と読ませている。CJK統合漢字やCJK統合漢字拡張Aの所も探したが見つからなかった。国字か。これで「時雨の浦、目はなみだぐむ」と読む。
 潜を涙ぐむと読むのも本来の読み方ではない。水に潜るというところから、目が水に潜る=涙ぐむとしたか。漢詩というよりも当て字といった方がいい。洒落で作った偽漢文と見た方がいいのだろう。
 前句の「與」を反語に取り成し、霧のまがきの向こうの顔は誰?誰もいやしないとして、船で海を渡っていった人のことを思い、涙ぐむ人とする。

二十九句目

   [雨衆]浦目潜焉
 ふとん着て其夜に似たる鳥の声  素堂

 其の夜がどういう夜なのかはわからないが、悲しい夜だったのだろう。その夜と同じ鳥の声がする。夜だから梟か何かだろうか。時雨の浦に目は水に潜る。

三十句目

   ふとん着て其夜に似たる鳥の声
 わすれぬ旅の数珠と脇指     芭蕉

 前句の鳥の声を旅の思い出とする。
 『野ざらし紀行』の伊勢のところに「腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ」とあるが、ここでは脇差を持って旅したことになる。旅をするときに一時的に僧形になるのはよくある事だった。

2018年7月16日月曜日

 鈴呂屋書庫の方に「詩あきんど」の巻、「日の春を」の巻、「此道や」の巻をアップした。それにかなり前に書いた謝霊運の詩もアップした。
 洒堂の名前を大分前から誤って酒堂と書いていたのに気づいた。恥ずかしい。お酒ではなく洒落の「洒」で棒が一本少ない。
 それでは「破風口に」の巻の続き。

二表
十九句目

   韻使五車塡
 花月丈山閙        素堂

 書き下し文だと、

   韻は五車をして塡(いしずえ)とす
 花月丈山閙(さはが)し

となる。
 そういえば初裏で月も花も出てなかった。本当は十七句目あたりにあればいいこの句が十九句目に出ている。変則的な歌仙だけに、忘れてたのか。
 丈山はウィキペディアには、

 「石川 丈山(いしかわ じょうざん、天正11年(1583年) - 寛文12年5月23日(1672年6月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。もとは武士で大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲して丈山と号した。
 江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。」

とある。気になるのは「煎茶の祖」と言われていることだが、隠元禅師の来日が一六五四年で、寛文元年(一六六一)宇治に黄檗山万福寺を開いたから、その頃に交流があったのかもしれない。
 丈山の代表作というと「富士山」のようで花月の詩はよくわからない。ただ没後も詩仙堂は有名だったのか、花の頃や月の頃は人が集まって騒がしかったのかもしれない。それもこれも五車の書物を学んだことが礎となっている。

二十句目

   花月丈山閙
 篠を杖つく老の鶯     芭蕉

 老の鶯というと、『炭俵』に、

 鶯や竹の子藪に老いを鳴く 芭蕉

の句がある。
 去年の六月十二日の日記に書いたが、各務支考の『十論為弁抄』(享保十年刊)にこうある。

 「ある時、故翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯といひ、病蠶といへる此詞のおもしろければ、
 鶯や竹の子藪に老を啼
 さみだれや蠶わづらふ桑の畑
かく此二句をつくり侍しが、鶯は筍藪といひて、老若の余情をいみじく籠り侍らん。蠶は熟語をしらぬ人は、心のはこびをえこそ聞まじけれ、是は筵の一字を入て家に飼たるさまあらんと、其句のままに申捨らしが、例の泊船集に入たるよし。」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫、P.139)

 ただ、ここでは「竹の子」という夏の季語が入ってるので、この時はまだ「老鶯」を夏の季語として提起したわけではなかったのだろう。
 句は老いた丈山の姿を思い浮かべ、老鶯に喩えたものか。「老鶯」は「老翁」に通じる。季節は春として扱われている。

二十一句目

   篠を杖つく老の鶯
 剪銀鮎一寸       素堂

 書き下し文だと、

   篠を杖つく老の鶯
 銀(しろかね)を剪(き)つて鮎一寸 素堂

となる。
 「鮎一寸」は鮎の子で春の季語になる。
 これは対句的な展開で、相対付けといえよう。老鶯に若鮎が対句になる。「剪銀」は比喩で、銀を細く切ったような、という意味。

二十二句

   剪銀鮎一寸
 箕面の滝や玉を簸(ひる)らん 芭蕉

 「簸る」はコトバンクの「デジタル大辞泉」によれば、

 「[動ハ上一]箕(み)で穀物をあおって、くずを除き去る。
「糠(ぬか)のみ多く候へば、それをひさせんとて」〈著聞集・一六〉」

だという。箕面の地名に掛けて、「簸る」とする。
 箕面の滝は箕面大瀧とも呼ばれている。役行者も修行したといわれている。箕面瀧安寺は修験の寺だが、その一方で富籤でも有名だった。ただし、箕面の場合は金銭ではなく牛王宝印の護符だった。
 芭蕉も貞享五年の『笈の小文』の旅を終えて明石から戻る途中に立ち寄っている。
 箕面の滝や玉を簸るというのは、滝の水によって玉が選り分けられるように白銀のような鮎の子がきらきら光るというもの。「簸る」という言葉に富籤をほのめかしたのではないかと思われる。

二十三句目

   箕面の滝や玉を簸らん
 朝日影頭の鉦をかがやかし  芭蕉

 「鉦(かね)」は金属の皿の形をした打楽器。真鍮製の黄金に輝くものもあり、芭蕉は朝日に喩えている。
 滝の玉に朝日のような鉦はともに丸く輝くもので、響き付けになる。

二十四句目

   朝日影頭の鉦をかがやかし
 風飱喉早乾        素堂

 「風飱(ふうさん)喉早乾(のどはやかはく)」と読む。検索すると中国のサイトに「露宿風飱」だとか「風飱水宿」とかいう言葉が見られる。
 露に宿し、風を餐とするというのは飲まず食わずの野宿のことと思われる。
 朝日が鉦のように輝く中、野宿して早くも喉が乾く。

2018年7月15日日曜日

 テレビやネットのニュースで知るくらいの知識だが、水害や土砂災害の爪あともまだ痛々しい。まあ、あまりこういうのを露骨に政局に利用しようとすると、却って反感を買い、支持率を落とすものだ。
 支援物資の配分は、どうしても社会主義的な非効率に陥りがちなので、コンビニなどの復興を政府が助けて、資本主義の効率の良さを利用するのは悪いことではないと思う。
 それでは「破風口に」の巻の続き。
 十三句目。

   乳をのむ膝に何を夢見る
 舟鍧風早浦          素堂

 書き下し文にすると、

   乳をのむ膝に何を夢見る
 舟は鍧(ゆる)ぐ風早(かざはや)の浦 素堂

となる。「鍧」はおそらく「訇」と同様で、ごうごうという激しい音を表す字であろう。
 「風早の浦」は安芸の国に実在する地名で、

 『万葉集』巻十に、

   風速(かざはや)の浦に舶泊(ふなどま)りの夜に作る歌二首
 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを
 我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり

の歌がある。
 ただし、ここでは「風早の浦」は風のごうごうと吹く浦という意味と掛けて用いられている。風が強い浦で波風の轟々と音を立てる中、舟は木の葉のように揺れ、そんな中で幼い乳飲み子は何の夢を見るのか。
 おそらく壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇をイメージしたものであろう。

 十四句目。

   舟鍧風早浦
 鐘絶日高川          素堂

 書き下し文だと、

   舟は鍧(ゆる)ぐ風早(かざはや)の浦
 鐘は絶ふ日高川        素堂

となる。
 日高川は和歌山県日高川町を流れる。能で有名な道成寺がある。鐘はその道成寺の鐘であろう。紀伊水道もまた波が荒く一般的な意味での風早の浦といえよう。
 「川」は「烟」「涎」の韻を引き継ぐ。

 十五句目。

   鐘絶日高川
 顔ばかり早苗の泥によごされず 芭蕉

 謡曲『道成寺』は安珍・清姫伝説を能にしたもので、僧の安珍は奥州白河の僧という設定になっている。
 多分そこで芭蕉は自らが白河で詠んだ、

 早苗にも我色黒き日数哉   芭蕉

の句を思い出したのだろう。
 はるばる白河から旅をしてきた安珍は真っ黒に日焼けしていそうだが、清姫が惚れるほどの美男だったから、きっと顔は日焼けもしてないし、早苗の泥にもまみれてないのだろう、というところか。
 それが仇となって、鐘の中で絶命することになった。

 十六句目。

   顔ばかり早苗の泥によごされず
 食はすすけぬ蚊遣火のかげ  芭蕉

 前句を普通の農夫のこととし、一日泥にまみれて働いて、夏でも食欲旺盛で、まるで口だけは泥に汚れていないかのようだ。夏だから蚊遣火を焚くが、その煤にも食(めし)はすすけない。

 十七句目。

   食はすすけぬ蚊遣火のかげ
 詫教三社本         素堂

 「詫」は「た」と読み、わびる(侘びる、詫びる)という意味だが、ここでは「たく」と読ませているから「託」のことであろう。
 書き下し文だと、

   食はすすけぬ蚊遣火のかげ
 詫(たく)は三社をして本とならしむ 素堂

となる。
 「三社」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「さんじゃ」とも》三つの神社。特に、伊勢神宮・石清水(いわしみず)八幡宮・賀茂神社(または春日大社)をさす。」

とある。
 江戸で三社というと、かつて三社権現社と呼ばれていた浅草神社のことでもあり、いまでも三社祭りにその名前を残している。
 浅草神社のホームページによれば、漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁をしていたが、その日に限り一匹もかからず人型の像高が掛かり、何度投げ捨ててもこの人型がだけしか網にかからないので、土師真中知に尋ねたところ、これぞ聖観世音菩薩の尊像だということで兄弟は信心を起して祈ったところ、大漁になったという。

 「土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
 土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。」

とホームページには記されている。
 ここでいう三社は浅草の三社様の方で、人型の託があって三社権現社の本となり、江戸の庶民が夏でも飯を食える、と考えたほうがいいだろう。

 十八句目。

   詫教三社本
 韻使五車塡        素堂

 書き下し文だと、

   詫(たく)は三社をして本とならしむ
 韻は五車をして塡(いしずえ)とす 素堂

となる。
 「五車」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「荘子」天下から》5台の車に満ちるほどの多くの書。蔵書の多いこと。五車の書。」

とある。
 この二句は対句となる。連歌で言えば相対付けになる。
 託は三社の本となり、詩は五車の書物が基礎となる。意味はそんなに関連してなくても対句だからこれでいい。
 五車というと蕪村七部集の一つに維駒編の『五車反古』というのがある。
 これは維駒の父である召波の、

 冬ごもり五車の反古のあるじ哉  召波

から取ったものだ。
 五台の車にも満ちるほどの反古というと、どんなけ書いては捨てを繰り返したのか。紙の値段の安くなった江戸時代ならではだろう。
 「塡」は「烟」「涎」「川」の韻を引き継ぐ。

2018年7月14日土曜日

 今日はどこもかしこも渋滞がひどかった。
 動物にもおそらく理性に該当するものはあるのだろうけど、人間は言葉を持つことで記憶へのアクセスを容易にしたことと、思考の共有を可能にしたことでこの能力を飛躍的に高めたと思われる。
 ただ思考の共有化は少なからず個々の思考を抑制し、集団の意思に従う必要が生じ、個と全体との緊張関係が生じるようになった。
 これによって、理性による欲望や感情の抑制は、全体の意思に従うことによるメリットと個の抑制との生存の取引の場となった。人は生きるために自分を殺し、他人に従うことを覚えたが、それは完全な全体への埋没を意味するのではなく、生存のための絶えざる取引であり、集団の中でいかに自分にとっての有利な地位を手に入れるかの駆け引きの場にほかならない。
 集団での地位とひきかえに自分の本来持っている感情や欲望を抑えるといっても、それは決して消えてなくなることはない。ただ、抑圧された意識として心の底に取り残されることとなる。
 その失われたもう一つの自分は、韓国で言う「恨(ハン)」のように、静かに心の中に降り積もるものなのかもしれない。日本ではむしろ風の比喩を好む。心の中を吹きぬける風。尾崎豊は「俺は風を感じる」と歌い、そして「風がどこに行こうとしてるか、みんな知りたくないかい?走り出すんだ」と歌う。
 その風の流れこそ、風流の原型なのかもしれない。
 さて、それでは「破風口に」の巻の続き。

 十句目。

   挈帚驅倫鼡
 ふるき都に残るお魂屋     芭蕉

 「お魂屋(おたまや)」は古語辞典には「①埋葬の前にしばらく遺体を収めておく建物②霊魂をまつってある建物」とある。この場合は後者の方だろう。おそらく御霊信仰に関係したものであろう。御霊は道半ばにして死んだ旅人の霊としての道祖神にも通じるものがある。
 放棄で鼠を追い払う場面を、お寺から神社にした。

 十一句目。

   ふるき都に残るお魂屋
 くろからぬ首かきたる柘の撥  芭蕉

 首は「かしら」と読む。柘(つげ)の撥(ばち)で首を掻いている人物は琵琶法師だろう。「くろからぬ」というのは旅芸人ではないということか。旧都のお魂屋を拠点としている琵琶法師だろうか。

 十二句目。

   くろからぬ首かきたる柘の撥
 乳をのむ膝に何を夢見る    芭蕉

 前句の柘の撥の持ち主を琵琶法師ではなく、三味線を弾く遊女に取り成す。遊女の子供にどんな未来があるのかと思うと、なんとも物悲しい。

2018年7月11日水曜日

 毎日暑い日が続き、毎日暑いですねーでも何なので、別の話題から入らせてもらいます。
 欲望、感情、衝動など、遺伝的なものに基づきながらも、実際には生後の学習によって作り上げられてゆく。欲望の対象にしても、食欲の場合多くの動物は幼少期に親から与えられたりして口にしたものが刷り込まれて、それが生涯にわたって食べるべきものとなる。
 その一つの例が、その昔霊長類研究所が屋久島の野生のニホンザルを名古屋近郊の犬山に移植しようとした時、サル達は植生の違うこの地で幼い頃から慣れ親しんだ食物を見つけられず、かといって新しい食物を開拓するでもなく、緑の森にあって餓死していったという。
 逆に人工的な環境で飼い慣らされた動物は、幼少期に与えてやれば、いろいろ変わったものを食べるようになる。
 性欲にしても、少なからず環境によってその対象が形成される。昔の日本のお坊さんの世界では、男色も珍しくなかった。
 生存に必要なものを成し遂げることに、脳内快楽物質による快楽報酬が得られるのは先天的な仕組みによるものであっても、対象は様々な偶然の出会いによって左右される。いわゆる「はまる」という現象は後天的であり、偶然性が強い。しかもひとたびはまると、生涯それなしではいられない人間が形成されたりする。
 好悪の感情というのも、環境による所が大きい。ムスリムが豚に対して抱く嫌悪感は、何かに豚から作られた成分が使用されていると知っただけでパニックを引き起こしかねない。しかし、それはそういう環境に育ったことによるものだ。反日や嫌韓も環境によるもので、先天的ではない。
 ただ、後天的とはいえ、こうした脳の回路は自由意志によって選択されたものではない。前にも確か言ったが、人間は自分のニューロンの回路を自分で設計することができない。食物の偏食から高所恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症などの生理的な嫌悪も自分の意志ではなかなかどうにもならない。
 人間の行動は、こうした先天的要因プラス後天的な脳回路の形成によって必ずしも自由にはならない。その不自由な脳で理性を操っても、結局どこかしら偏った思想しか生まれてこないし、しばしば粛清だのホロコーストだのハルマゲドンだのとんでもない行動を命令してしまう。
 こうした偏った思想を防ぐには、一概に一つの思想によってそれに反する感情や欲望や衝動を悉く抑えつけてしまうのではなく、さしたる害のない形で発散させることで思想からの自由を獲得する必要がある。
 風流の道はその助けになると思う。危険な独裁国家はほぼ例外なく芸能を禁止したり極度に抑圧したりする。特に笑いに関するものは真っ先に目の敵にされる。逆に言えば、それが開放されていることが健全な社会の証しだといえる。

 それでは「破風口に」の巻の続き。
 初裏。
 七句目。

   露繁添玉涎
 張旭が物書なぐる酔の中    芭蕉

 張旭はウィキペディアには、

 「張旭(ちょうきょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
 草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
 詳しい経歴は不詳であるが、地元(現在の常熟市)で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり書家として活動していた。
 大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。」

とある。その酔狂のエピソードも、ウィキペディアにある。

 「欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。」

 頭に墨をつけて人間筆なんて、今でも結婚式の余興でやる人がいるようだが、最初にやった人は偉い。
 前句の「露繁(つゆけさ)玉涎を添ふ」を文字通りよだれのこととし、酔っ払って頭で書いた書ならさぞかしよだれでべとべとだろう、と付ける。

 八句目。

   張旭が物書なぐる酔の中
 幢(とばり)を左右にわくる村竹 芭蕉

 「幢(どう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種。彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした。はたほこ。
 2 魔軍を制する仏・菩薩(ぼさつ)のしるし。また、仏堂の装飾とするたれぎぬ。」

とある。張旭が筆を揮う場所を竹林に囲まれたお堂としたか。

 九句目。

   幢を左右にわくる村竹
 挈帚驅倫鼡          素堂

 書き下し文にすると、

   幢を左右にわくる村竹
 帚(ほうき)を挈(ひっさげ)て倫鼡(ちうそ)を驅(か)る 素堂になる。要するに箒で鼠を追い払うということ。寒山拾得の面影か。

2018年7月10日火曜日

 思うに理性というのは一種の計算機だと思う、AIのようなもので、使う人次第でどうにでもなる。
 何が計算機を用いるかというと、結局それは太古より進化の過程で獲得した様々な本能、欲望、情動、感情であり、それは古いものから新しいものまで幾重にも層を成し、一筋縄ではいかない。
 そうした衝動によって理性は突き動かされ、ひとたび理性が一つの決定を下すと、それに反する衝動を全て抑制しようとする。良い衝動に動かされるときもあれば、悪い衝動に突き動かされることもある。ナチスの狂気も、オウム真理教の狂気も、ある意味理性的であり、理性を動かす衝動次第で、とんでもないことになるということなのだろう。「汝なし得る」という実践理性の定言命令も、そこに限界がある。
 社会主義も常にそうした危険と隣り合わせにある。オウム真理教をイスラム原理主義と同様に反米闘争(反資本主義闘争)の英雄に祭り上げるような動きがあるなら、警戒しなくてはならない。
 理性は良いも悪いもそれを動かす衝動次第だということを肝に銘じよう。
 さて、「破風口に」の巻の続き。

 漢詩としても、

 煮茶蠅避烟
 合歡醒馬上

とするよりは、

 合歡醒馬上
 煮茶蠅避烟

の方が納まりがいいから、俳諧のルールに従って、第三だから上句を付けたと見ていいだろう。
 では四句目。

   合歡醒馬上
 かさなる小田の水落す也    芭蕉

 書き下し文だと、

   合歡馬上に醒む
 かさなる小田の水落す也    芭蕉

となる。
 山間に作られた小さな田んぼが重なり合う棚田の風景だろう。馬上の目覚めに長閑な田園風景を付けた、さっと流すような四句目だ。
 五句目。素堂が付ける。

   かさなる小田の水落す也
 月代見金気          素堂

 書き下し文だと、

   かさなる小田の水落す也
 月代金気を見る        素堂

となる。五句目だから月の定座で月を出す。
 ただ、「月代」は普通は「さかやき」と読み、時代劇によく出てくる額を剃り上げた髪型をいう。中国に「月代」という熟語があるのかどうかは不明。
 そうなると、ここでは月を詠んだのではなく髪型を詠んだことになってしまうが、多分素堂は「月代」に本来の月の意味があるとして詠んだのであろう。
 金気は五行説の考え方で、「金生水」だから、月の金気は水を生じる。
 六句目。

   月代見金気
 露繁添玉涎          素堂

 書き下し文だと、

   月代金気を見る
 露繁玉涎を添ふ        素堂

となる。
 「露繁」も「露しげく」という日本語に漢字を当てた感じだ。
 「小田の水」は水辺で、「露」は降物だから、式目上は問題ないが、金生水のパターンで、打越は「小田の水」、付け句では「露」というのはやや輪廻のきらいがある。
 「玉涎」はそのまま読むと玉のようなよだれで、露の形容としてはあまり綺麗ではない。「玉延」だと山芋のことになる。中国の百度百科に「玉延是山药的别名」とある。山芋に露がしげく降る、となる。
 漢詩風の五言とはいえ、やはり俳諧であり、真面目な漢詩ではない。山芋を玉のよだれにする事で洒落てみているのだろう。
 なお、ここでは長句に短句を付ける場面なので、順番は入れ替わらない。
 二句目、三句目とあわせると、

 合歡醒馬上 煮茶蠅避烟
 月代見金気 露繁添玉涎

となり、烟と涎で韻を踏んでいる。

2018年7月9日月曜日

 今日も夏らしい晴れた暑い一日だった。
 さて、そろそろまた俳諧を読んでみようと思うが、今回はちょっと変則的な歌仙を読んでみようと思う。元禄五年夏の芭蕉と素堂との両吟だが、俳諧と漢詩の両吟になっている。
 先ずはその発句。

   納涼の折々いひ捨たる和漢
   月の前にしてみたしむ
 破風口に日影やよはる夕涼    芭蕉

 「破風(はふ)」は、ウィキペディアには、

 「破風(はふ)は、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のことである。切妻造や入母屋造の屋根の妻側には必然的にあり、妻壁や破風板(はふいた)など妻飾りを含む。」

とある。
 切り妻屋根は二方向に屋根の傾斜があり、横から見ると屋根のない三角形の壁のスペースができる。ここが破風になる。
 入母屋屋根の場合、この三角形のスペースの下に手前へ向けて屋根がある。大きなお寺や城などは、ここに様々な装飾が施されている。
 この他、唐破風は中央が丸くドーム状になり、両端がその反対の曲線を持つ切妻で、お寺や銭湯などによくある。駒形破風はラヴクラフトの小説に登場するが、昔の日本にはあまり見ない。
 「破風口(はふぐち)」というのは、多分入母屋破風の区切られた三角のスペースのことと思われる。昼間は太陽がほぼ真上に合って、屋根の陰がくっきりとつくが、夕暮れになると横から日が当たるために陰がなくなる。夕暮れの弱々しい日に照らされた破風口に、涼しさが感じられる。
 この句には露川編『流川集』に、

 唐破風の入日や薄き夕涼     芭蕉

の形もある。こちらの方が推敲し直した形か。
 破風口だと普通の民家からお寺や城まで幅広いが、唐破風だと大体お寺に限定される。それに「入日や薄き」と和らいだわかりやすい表現になっている。
 さて、この歌仙の一番の特徴は脇が七七ではなく五言の漢詩の詩句になっていることで、以降、芭蕉は普通の俳諧の体で詠み、素堂が五言の詩句を付けるという変則的な両吟となる。
 その脇句。

   破風口に日影やよはる夕涼
 煮茶蠅避烟           素堂

 書き下し文にすると「茶を煮れば蠅烟(けぶり)を避く」となる。これを、

   破風口に日影やよはる夕涼
 茶を煮れば蠅烟(けぶり)を避く 素堂

としてもいい。
 茶を煮るは抹茶ではなく、当時広まりつつあった煎茶の原型ともいえる唐茶のことであろう。隠元禅師の淹茶法がお寺を中心に広まったとすれば、破風口はやはりお寺の装飾の施された破風口で、唐破風としてもそれほど意味は変わらないことになる。
 煙を蠅が避けるというところに、漢詩句とはいえ俳諧らしさがある。
 第三も五言で素堂が付ける。

   煮茶蠅避烟
 合歡醒馬上           素堂

 書き下し文にすれば、

   茶を煮れば蠅烟を避く
 合歡(がふくわん)馬上に醒む  素堂

となる。
 「合歡」はwebloi辞書の「三省堂 大辞林」には、

 ごうかん がふくわん 【合歓】
( 名 ) スル
 ①喜びをともにすること。
 ②男女が共寝すること。
 ③「合歓木(ごうかんぼく)」の略。
 ねぶ 【〈合歓〉】
 ネムノキの別名。 「我妹子(わぎもこ)が形見の-は花のみに咲きてけだしく実にならじかも/万葉集 1463」

とある。
 漢詩句といっても俳諧なので、ねむの木を「眠る」に掛けて、馬上に居眠りして目覚める、合歓の花の下で、となる。茶の烟と馬上に醒るは、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

の埋句。

2018年7月8日日曜日

 桂川ばかりか長良川もかなり危険な状態になったようだ。関市といえば親父とお袋の墓があって、ロシア=クロアチア戦を見ていてもそっちが気になる。
 西の大雨とは裏腹にこちらの方は晴れて夏が戻ってきた。蝉が鳴き、入道雲が浮かび、いかにもな夏。心配されていた夕立もなかった。
 そういうわけで越人撰の『庭竈集』から夏らしい句を。

 木の間より夕日砕て蝉の声   簔笠

 日が西に傾いて少し暑さも和らぐと、木の間越しの西日がまぶしく、世界が緑色に光り輝く一瞬だ。それを「夕日砕(くだけ)て」と描写するあたりは近代的な感じがする。蝉の声も油蝉からヒグラシに変わる頃か。

 白雨や軒の雫に夕日影     簔笠

 夕立が晴れて残る雫が夕日にきらめく。涼しさを感じさせる。

   奇峯
 春はいはば花と化たる雲のみね 簔笠

 雲の白い峯を吉野の花の峯に喩えた句。
 簔笠という人はどういう人かよくわからないが、越人撰の『庭竈集』や『鵲尾冠』『猫の耳』に登場するので越人の門人なのか。
 以前、

   華火
 鐘のねを聞デ散行花火哉   簔笠

の句を紹介したこともあった。これも『庭竈集』の句。
 『鵲尾冠』の簔笠の句。

 古池に動かぬ水の色あつし  簔笠

 夏だって蛙はいるんだろうけど、どこへいったか。

   川音・松風の時雨は涼しきに
 冬の名の時雨に似ぬか蝉の声 簔笠

 「蝉時雨」という言葉はいつ頃からあるのかよくわからないが、案外この句が起源なのかもしれない。『鵲尾冠』のこの句の後に、次の二句が続く。

   時雨といへば雨の字あれども
 蝉の声時雨るる松に露もなし 飛泉
 時雨だけいよいよ暑し蝉の声 嘉吟

 最後に『猫の耳』から、

 蜘のゐに朝露すずし小松原  簔笠

 越人門は軽みに走った芭蕉とは別に、『冬の日』『春の日』『阿羅野』の頃の平明で古典趣味を現在のリアルに置き換える風を維持したせいか、こうしたやや近代的な写生に近い句風が見られる。

2018年7月6日金曜日

 西の方では水害で被害が出ている。京都の桂川も危ないようだ。
 これまで幻住庵記、嵯峨日記と見てきたが、それに先行するものとして、「十八楼ノ記」をちょっと見ておこうと思う。
 貞享五年の夏、明石で『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は、途中山崎に寄り、

 有難き姿拝まんかきつばた    芭蕉

の句を詠み、京で杜国と別れ、岐阜妙照寺の住職の己百に誘われて岐阜へ行き、妙照寺に滞在する。

 しるべして見せばや美濃の田植歌 己百

 美濃の田植歌を御案内しますという発句に芭蕉は和す。

   しるべして見せばや美濃の田植歌
 笠あらためん不破の五月雨    芭蕉

 それでは不破の関を越える時の五月雨に備えて笠を新調しましょう。
 そして岐阜に着くと、

   その草庵に日ごろありて
 宿りせん藜の杖になる日まで   芭蕉

と長居をきめこむ。藜(あかざ)は昔は食用にされてきた。筆者も子供の頃藜の味噌汁を食べたが、そういえば今は亡き父は岐阜の人だった。また、『野ざらし紀行』の旅で名古屋の桐葉と別れる時、

 牡丹蕊深く分け出る蜂の名残哉  芭蕉
 憂きは藜の葉を摘みし跡の独りかな 桐葉

という句を交わしているから、藜を盛んに食べていたのは中京地区だけだったのかもしれない。
 そんな中で五月中旬、加嶋氏の鷗歩の水楼を訪ね、「十八楼の記」という短い文章を書く。

   「十八楼ノ記

 みのの国ながら川に望て水楼あり。あるじを賀嶋氏といふ。いなば山後に高く、乱山両に重りて、ちかからず遠からず。たなかの寺は杉の一村にかくれ、きしにそふ民家は竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引はへて、右にわたし舟うかぶ。里人の行かひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるをのがさまざまも、ただ此楼をもてなすに似たり。暮がたき夏の日もわするるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もややちかく、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見もの也けらし。かの瀟湘の八つのながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。若此楼に名をいはむとならば、十八楼ともいはまほしや。
 此あたり目に見ゆるものは皆涼し  ばせを
   貞享五仲夏」

 先ず場所を特定し、その主人について簡単に触れる。この順序は「幻住庵ノ賦」よりも完成稿の「幻住庵記」に近い。
 そして付近の山を描き、その近辺の眺望を描いていく所も「幻住庵記」に似ている。
 いなば山は今では金華山と呼ばれている。古くからここには城があり、斉藤道三や織田信長がいたことでもよく知られている。その岐阜城は徳川家康によって廃城とされたから、芭蕉の時代には尾張藩主所有の山となり、立ち入りが禁止されていたという。
 「たなかの寺は杉の一村にかくれ、きしにそふ民家は竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引はへて、右にわたし舟うかぶ。里人の行かひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるをのがさまざまも、ただ此楼をもてなすに似たり。」という景色の描写も、住民の生活感を出すあたりが「幻住庵記」の、「城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」に通じるものがある。
 このあと岐阜の夏の景物、鵜飼舟が登場する。これははずせない。
 そして最後にこの水楼の命名になる。画題にもなっている中国の瀟湘八景、そしてそれに西湖十景を加えて「十八楼」と名付ける。
 最後に一句。

 此あたり目に見ゆるものは皆涼し  ばせを

 見るもの全てが涼しげだと最上級のヨイショで主人の加嶋氏の鷗歩をもり立てて終る。
 芭蕉のこの句はちょっと前何かのコマーシャルで使われてたと思ったが、思い出せない。

2018年7月5日木曜日

 台風のせいか昨日から風が強く、時折大粒の雨が降る。気温も下がり、風の音は秋風感半端ない。まだ旧暦五月だというのに。
 日本代表も大勢の歓声に迎えられて、無事に帰ってきた。この国には卵を投げる習慣もないし、ミスをした選手も殺されたり家を焼かれたるする心配はない。
 ネット上では東国原元宮崎県知事の句がパクリではないかと話題になっていた。元知事とはいえ、以前はそのまんま東という名前で大森うたえもんとツーツーレロレロという漫才コンビを組んでいて、たけし軍団にも入っていた芸人だったが、知事になってからは偉くなってしまったか、東国原英夫の名前でテレビに出ている。
 テレビの方はよくわからないが、番組で披露される句というのがどこまで本人のものなのかはよくわからない。バラエティー番組にヤラセは付き物だからだ。
 まあ、その句というのが、

 梅雨明けや指名手配の顔に×  英夫

で、それが去年の六月に宮崎日日新聞の文芸欄に掲載された、

 梅雨寒や指名手配の顔に×  ?

 作者名は新聞に載ったときにはあったはずだから「詠み人知らず」ではなく、調べればわかるのだが、今回のネット上のニュースでは名前は出てなかった。
 今の日本ではローカルな新聞でも投句欄はあるし、そのほかに俳句誌や有象無象の同人誌を含めれば、毎月何万もの句が量産され、残念ながらその全部が作るそばからほとんど記憶されることもなく、忘れ去られ消えて行く。
 「プレバト!!」という番組で紹介されたからといっても、ほとんどの視聴者はCMのあとにはもう忘れているのではないかと思う。だから見つけてきた人もよく見つけたなと思う。
 実際どちらの句もそんなに印象的な句ではない。「指名手配の顔に×」は交番とかに張ってある手配書の写真が、犯人が捕まると×印で抹消されることで、日本人としては見慣れた光景で、そこに何の驚きもない。あるあるネタにするには当たり前すぎる。
 もちろん、事件の関係者であれば、まったく違ったふうに映るかもしれない。被害者と親しかったり、あるいは犯人を追っている刑事だったりしたら、嗚呼あの犯人ついに捕まったかという感慨を起すかもしれない。
 ただ、ここでは「梅雨の駅」という題詠だから、そういう特殊事情は絡まない。むしろ、

   梅雨の駅
 梅雨明けや指名手配の顔に×  英夫

とした方がいいのだろう。「梅雨の駅」というタイトルでいきなり「梅雨明け」は変だが、そこは置いておいて、まあ、この句は駅の風景として読めということだ。これが、

   何某の捕まりて
 梅雨明けや指名手配の顔に×

なら、憎き犯人もついに逮捕されて目出度し目出度し、気分は梅雨明けだ、という句になる。
 とにかく、「プレバト!!」の句も、オリジナルの方の句も、これと言った手柄のある句ではない。だから、「梅雨寒」を「梅雨明け」に変えてもあまり印象は変わらない。
 この句を生かすのであれば、先のように「何某の捕まりて」という前書きをつけるというのが一つの手だろう。
 あと「指名手配の顔に×」の下七五を生かす上五が何かあるだろうか。『去来抄』でも下七五ができていて、上五を何にすればいいのかという話題がいくつかあって、その中の一つで、「雪つむ上のよるの雨」の冠(上五)を何にするか凡兆が悩んでいたとき、芭蕉が「下京や」という答を出し、「若しまさる物あらバ我二度俳諧をいふべからず」、つまりもっといい冠があるというなら俺はもう俳諧をやめる、とまで言ったという。
 そのほか、同じ凡兆が「恋すてふおもへバとしの敵哉」という句を詠んだとき去来に季語がないことを指摘され、信徳が、「恋桜」賭したらどうかと提案したのだが、そのあと芭蕉が「大歳を」としたという。
 芭蕉も推敲の途中で上五を入れ替えた例はたくさんある。古池の句も最初は「山吹や」だったし、「山路きて何やらゆかし菫草」も最初は「何となく」だった。
 だとすると、「指名手配の顔に×」に合う上五が何かあるだろうか。筆者も非才なので芭蕉のようにはいかないが、

 黴の香や指名手配の顔に×

なんてのはどうだろうか。いかにも事件が風化しているような感じがしないか。

 秋深き指名手配の顔に×

これはただ「隣は何をする人ぞ」のイメージ。
 この下七五は時間の経過と忘却がテーマのように思えたからこうなったが、別のテーマならまた別の可能性があるだろう。いろいろ考えて遊んでみるのもいいと思う。
 なお、「プレバト!!」の句に、

 田植終え北の大地も日ざし待つ  淳一

の句があって、これはこのままで何の問題もない。
 この「も」は「力も」(強調の「も」)であって、並列の「も」ではない。これをわざわざ「田植終える北の大地が待つ太陽」なんかにすると、リズムも悪くなるし、完全に元の句を殺している。まあ夏井先生もあくまで台本に従っているのかもしれないけど。テレビはいろいろ大人の事情が絡むからそこのところはわからない。

2018年7月1日日曜日

 今日も晴れて夏らしい一日だった。
 それでは『嵯峨日記』の続き。

 「一、四日

 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。
 明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、

 五月雨や色帋へぎたる壁の跡」

 さていよいよ芭蕉の落柿舎滞在もこれが最後の日となる。三日の夜は曾良と朝まで話し込んで、相当酒も入っていたのだろうな。四日は一日ぐっすり寝たようだ。時折目が覚めてもやはり起き上がれず、昼から雨がやんだことくらいは覚えているようだ。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「一、四日 未ノ刻雨止 夕飯過テ久我ニ趣 梅津ノ渡リヲ越テカツラ(桂)ノ里ヲ過 日暮 夜ニ入テ一定ニ着 道蛍火多シ 三ヶ月ニ色ヲアラソフ蛍哉」

と、ある。久我は桂川を下ってった方にある、伏見区久我本町のあたりか。「梅津ノ渡リ」は四条通のあるところで、川の向こうは松尾大社だ。「一定」は人名か。途中蛍がたくさん飛んでいたので一句。

 三日月に色をあらそふ蛍哉   曾良

 さて、その頃芭蕉はというと、狭い部屋の奥や入口を見回し、さながら自宅警備か。そこで一句。

 五月雨や色帋へぎたる壁の跡  芭蕉

 壁に貼ってある色紙がはがれ、そこだけ日焼けしていない新しかった頃の壁の色が見える。キャンディーズの『微笑がえし』(阿木燿子作詞)の「畳の色がそこだけ若いわ」の心か。
 実際は二週間程度のそんなに長い滞在ではなかったから、壁の色を変えるほどのものではなかっただろうけど、何か長い時の経過を感じさせる。
 芭蕉は『奥の細道』の旅のとき、平泉で、

 五月雨や年々降りて五百たび 芭蕉

の句を詠んでいる。五百年の風雪を鞘堂を作ってしのいできた光堂の姿に、その年月の遥かさを思っての句だ。
 やがて『奥の細道』の清書の段階で、つまり落柿舎滞在の翌年の元禄五年であろうか、この句はよく知られた、

 五月雨の降残してや光堂    芭蕉

の句に姿を変える。
 光堂の歴史に重みには遠く及ばないが、落柿舎を跡にするとき芭蕉が見たのは、五月雨の降り残してや色紙の裏だったのだろう。この色紙を見たときのイメージからやがて「五月雨の降残してや」の言葉が生まれたのかもしれない。
 このあと芭蕉は小川椹木町にある凡兆宅に移る。二条城の北の椹木町通のあたりか。二条城の東の小川通の交わるあたりか。ここでまた、京都の門人を交えて、曾良に京都案内などをやって楽しく過ごすことになる。