2018年7月11日水曜日

 毎日暑い日が続き、毎日暑いですねーでも何なので、別の話題から入らせてもらいます。
 欲望、感情、衝動など、遺伝的なものに基づきながらも、実際には生後の学習によって作り上げられてゆく。欲望の対象にしても、食欲の場合多くの動物は幼少期に親から与えられたりして口にしたものが刷り込まれて、それが生涯にわたって食べるべきものとなる。
 その一つの例が、その昔霊長類研究所が屋久島の野生のニホンザルを名古屋近郊の犬山に移植しようとした時、サル達は植生の違うこの地で幼い頃から慣れ親しんだ食物を見つけられず、かといって新しい食物を開拓するでもなく、緑の森にあって餓死していったという。
 逆に人工的な環境で飼い慣らされた動物は、幼少期に与えてやれば、いろいろ変わったものを食べるようになる。
 性欲にしても、少なからず環境によってその対象が形成される。昔の日本のお坊さんの世界では、男色も珍しくなかった。
 生存に必要なものを成し遂げることに、脳内快楽物質による快楽報酬が得られるのは先天的な仕組みによるものであっても、対象は様々な偶然の出会いによって左右される。いわゆる「はまる」という現象は後天的であり、偶然性が強い。しかもひとたびはまると、生涯それなしではいられない人間が形成されたりする。
 好悪の感情というのも、環境による所が大きい。ムスリムが豚に対して抱く嫌悪感は、何かに豚から作られた成分が使用されていると知っただけでパニックを引き起こしかねない。しかし、それはそういう環境に育ったことによるものだ。反日や嫌韓も環境によるもので、先天的ではない。
 ただ、後天的とはいえ、こうした脳の回路は自由意志によって選択されたものではない。前にも確か言ったが、人間は自分のニューロンの回路を自分で設計することができない。食物の偏食から高所恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症などの生理的な嫌悪も自分の意志ではなかなかどうにもならない。
 人間の行動は、こうした先天的要因プラス後天的な脳回路の形成によって必ずしも自由にはならない。その不自由な脳で理性を操っても、結局どこかしら偏った思想しか生まれてこないし、しばしば粛清だのホロコーストだのハルマゲドンだのとんでもない行動を命令してしまう。
 こうした偏った思想を防ぐには、一概に一つの思想によってそれに反する感情や欲望や衝動を悉く抑えつけてしまうのではなく、さしたる害のない形で発散させることで思想からの自由を獲得する必要がある。
 風流の道はその助けになると思う。危険な独裁国家はほぼ例外なく芸能を禁止したり極度に抑圧したりする。特に笑いに関するものは真っ先に目の敵にされる。逆に言えば、それが開放されていることが健全な社会の証しだといえる。

 それでは「破風口に」の巻の続き。
 初裏。
 七句目。

   露繁添玉涎
 張旭が物書なぐる酔の中    芭蕉

 張旭はウィキペディアには、

 「張旭(ちょうきょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
 草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
 詳しい経歴は不詳であるが、地元(現在の常熟市)で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり書家として活動していた。
 大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。」

とある。その酔狂のエピソードも、ウィキペディアにある。

 「欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。」

 頭に墨をつけて人間筆なんて、今でも結婚式の余興でやる人がいるようだが、最初にやった人は偉い。
 前句の「露繁(つゆけさ)玉涎を添ふ」を文字通りよだれのこととし、酔っ払って頭で書いた書ならさぞかしよだれでべとべとだろう、と付ける。

 八句目。

   張旭が物書なぐる酔の中
 幢(とばり)を左右にわくる村竹 芭蕉

 「幢(どう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種。彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした。はたほこ。
 2 魔軍を制する仏・菩薩(ぼさつ)のしるし。また、仏堂の装飾とするたれぎぬ。」

とある。張旭が筆を揮う場所を竹林に囲まれたお堂としたか。

 九句目。

   幢を左右にわくる村竹
 挈帚驅倫鼡          素堂

 書き下し文にすると、

   幢を左右にわくる村竹
 帚(ほうき)を挈(ひっさげ)て倫鼡(ちうそ)を驅(か)る 素堂になる。要するに箒で鼠を追い払うということ。寒山拾得の面影か。

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