これだけ尋常じゃない暑さだと、やはり暑さについて語った方がいいのかもしれない。
子供の頃は夏の暑い日でもせいぜい32度くらいだったような気がする。今は当たり前のように35度を越える猛暑日になる。
ただ、温暖化があまりにもゆっくりと進行しているため、昔からこんな暑さだったような錯覚を起す人も多く、人間がやわになったと勘違いしている人もいるのだろう。
夏の甲子園も昔の感覚でやり続けると、そのうち死人が出るのではないかと思う。温暖化は受け入れないといけないと思う。
芭蕉の時代は寒冷期だったから、多分子供の頃と比べてもそんなに暑くはなかったのだろう。30度いかなかったのかもしれない。「破風口」の涼みも、そういう感覚で理解した方がいいのだろう。
では「破風口に」の巻の続き。
三十四句目
鶺鴒窺水鉢
霜にくもりて明る雲やけ 素堂
「霜曇り」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「霜が降りるような寒い夜、空が曇ること。 「 -すとにかあるらむひさかたの夜渡る月の見えなく思へば/万葉集 1083」 〔昔、霜が雪や雨などと同じに空から降るものと考えられていたところからの語〕」
とある。
「雲やけ」は雲が赤く焼けるように見えることで、夕焼けと朝焼けがあるが、この場合は朝焼け。気流が乱れて天気が悪くなる予兆でもある。
『末木和歌抄』に、
さらぬだに霜がれはつる草の葉を
まづ打ち払ふ庭叩きかな
藤原定家
の歌があるらしく、この「庭叩き」が鶺鴒のことだというので、鶺鴒に霜は付け合いということなのだろう。
三十五句目
霜にくもりて明る雲やけ
奥ふかき初瀬の舞台に花を見て 芭蕉
花の定座ということで霜から強引に花に持ってゆかなくてはならないが、初瀬の山桜を霜に喩えることで解決している。
長谷寺の本堂はウィキペディアに「本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。」とあり、清水の舞台同様、初瀬の舞台と呼ばれている。
挙句
奥ふかき初瀬の舞台に花を見て
臨谷伴蛙仙 素堂
書き下し文だと、
奥ふかき初瀬の舞台に花を見て
谷を臨て蛙仙(あせん)を伴う 素堂
となる。
「蛙仙」は蝦蟇仙人のことだという。ウィキペディアには、
「左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄(中国語版)、もしくは呂洞賓に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝『蝦蟇鉄拐図』の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている。」
とある。
初瀬の山の中なら蝦蟇仙人がいてもよさそうだということか。
おそらく韻を踏むということで発想が限定された結果であろう。脇の「烟」、六句目の「涎」、十四句目の「川」、十八句目の「塡」、二十四句目の「乾」、二十八句目の「焉」、三十二句目の「天」、そして挙句の「仙」となる。
このあと最後に「元禄 八月八日 終」とある。かなり時間掛けて作られていることがわかるが、多分練りに練っての時間ではなく、いまひとつ盛り上がりにかいたために、一気呵成にとはいかず、時々思い出しながら続きを作っていったのだろう。
素堂は芭蕉の江戸に来たころからの門人で、元禄二年に出版された『阿羅野』に収められた、
目には青葉山ほととぎす初かつを 素堂
の句は、今日でもよく知られている。
その素堂も芭蕉の軽みの風にはついてゆけず、そんな中で試みられたこの和漢俳諧は、芭蕉を自分の得意な分野に誘う意味があったのかもしれない。
和漢俳諧はその後越人も試みているが、結局定着はしなかった。日本では和語による俳諧が発達しすぎたせいか、漢詩で俳諧をやる文化はほとんど発達しなかった。韓国では十九世紀に金笠(キムサッカ)が登場するが、それも孤高の存在で伝統にはならなかった。
漢詩は結局母国語ではないということで、大衆的の広がりは生み出しにくかったし、漢詩をたしなむ階層は世俗と一線を画そうとする傾向があって、大衆化できないという部分もあったのだろう。
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