今日はどこもかしこも渋滞がひどかった。
動物にもおそらく理性に該当するものはあるのだろうけど、人間は言葉を持つことで記憶へのアクセスを容易にしたことと、思考の共有を可能にしたことでこの能力を飛躍的に高めたと思われる。
ただ思考の共有化は少なからず個々の思考を抑制し、集団の意思に従う必要が生じ、個と全体との緊張関係が生じるようになった。
これによって、理性による欲望や感情の抑制は、全体の意思に従うことによるメリットと個の抑制との生存の取引の場となった。人は生きるために自分を殺し、他人に従うことを覚えたが、それは完全な全体への埋没を意味するのではなく、生存のための絶えざる取引であり、集団の中でいかに自分にとっての有利な地位を手に入れるかの駆け引きの場にほかならない。
集団での地位とひきかえに自分の本来持っている感情や欲望を抑えるといっても、それは決して消えてなくなることはない。ただ、抑圧された意識として心の底に取り残されることとなる。
その失われたもう一つの自分は、韓国で言う「恨(ハン)」のように、静かに心の中に降り積もるものなのかもしれない。日本ではむしろ風の比喩を好む。心の中を吹きぬける風。尾崎豊は「俺は風を感じる」と歌い、そして「風がどこに行こうとしてるか、みんな知りたくないかい?走り出すんだ」と歌う。
その風の流れこそ、風流の原型なのかもしれない。
さて、それでは「破風口に」の巻の続き。
十句目。
挈帚驅倫鼡
ふるき都に残るお魂屋 芭蕉
「お魂屋(おたまや)」は古語辞典には「①埋葬の前にしばらく遺体を収めておく建物②霊魂をまつってある建物」とある。この場合は後者の方だろう。おそらく御霊信仰に関係したものであろう。御霊は道半ばにして死んだ旅人の霊としての道祖神にも通じるものがある。
放棄で鼠を追い払う場面を、お寺から神社にした。
十一句目。
ふるき都に残るお魂屋
くろからぬ首かきたる柘の撥 芭蕉
首は「かしら」と読む。柘(つげ)の撥(ばち)で首を掻いている人物は琵琶法師だろう。「くろからぬ」というのは旅芸人ではないということか。旧都のお魂屋を拠点としている琵琶法師だろうか。
十二句目。
くろからぬ首かきたる柘の撥
乳をのむ膝に何を夢見る 芭蕉
前句の柘の撥の持ち主を琵琶法師ではなく、三味線を弾く遊女に取り成す。遊女の子供にどんな未来があるのかと思うと、なんとも物悲しい。
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