2018年7月29日日曜日

 芭蕉ホモ説の最も有力な根拠となっているのは、『貝おほひ』の「われもむかしハ衆道ずきの」という一文で、これは『貝おほひ』の二番に出てくる。
 『貝おほひ』は松尾氏宗房撰の寛文十二年刊の句合で、芭蕉がまだ伊賀にいた頃のものだ。ここで芭蕉は自ら「松尾氏」と苗字を名乗っている。

 二番
   左勝       此男子
 紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ
   右        蛇足
 兄分に梅をたのむや児桜

 左のあかいこんぶくろハ。大坂にはやる丸のすげ笠と。うたふ小歌なれバ。なるべし。
 右梅を兄ぶんに頼む児桜ハ。尤も頼母敷きざしにて。侍れども。打まかせては、梅の発句と。聞えず。児桜の発句と。きこえ侍るハ。今こそあれ。われもむかしハ衆道ずきの、ひが耳にや。とかく左のこん袋ハ。趣向もよき分別袋とみえたれば。右の衆道のうハ気沙汰ハ。先おもひとまりて。左をもつて為勝。

 「こんぶくろ」は小袋のことだという。紅梅の蕾が赤い小袋のようだというそれだけの句で、貞門の複雑な言葉遊びは見られない。上方ではすでに前年の寛文十一年に宗因が『宗因十百韻』を高滝以仙撰の『落花集』全五冊の内の一冊として公刊していたし、芭蕉もこの動きをほぼリアルタイムで察知し、いち早く談林の風を取り入れようとしていたと思われる。
 評には「大坂にはやる丸のすげ笠と。うたふ小歌なれバ。なるべし。」と小唄を出展としていることが示されているが、どういう小唄なのかはよくわかっていない。一説には「菅笠踊り」の歌詞ではないかという。
 こうした古典ではなく巷で流行する小唄によるというのも、当時の談林の最新の流行だったと思われる。
 丸の菅笠は頂点の尖ってない菅笠のことか。お遍路さんがよくかぶっている。
 「児桜(ちござくら)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「山桜の一種なり。又小桜のるゐにて別種也と云。按ずるに、山桜のうちに、紅色を含て美しく愛らしき花あり。故に児桜の称ある歟。」

とある。
 桜より先に咲く紅梅を児桜の兄分とするもので、稚児と兄分は衆道を連想させる。
 これは梅の発句ではなく児桜の句ではないかという。その理由として、これは兄分を慕う稚児の句で、そう思えてしまうのは「われもむかしハ衆道ずきの、ひが耳にや」と撰者自らが昔は衆道好きだからだと続く。
 そして、こん袋の句は趣向も良く、まあお遍路さんの禁欲的な中に花のある句だし、それにひきかえ児桜の句は衆道の浮ついた句だから、ということでこん袋の勝ちとする。
 ここで芭蕉が自ら「われもむかしハ衆道ずきの」の言ったのは、判定により真実味を持たせるために、その場の乗りで言ったのか、それとも真実の告白だったのかは定かではない。
 ただ、こうした文章を書いたところで、芭蕉が牢屋に放り込まれることもなければ、世間から非難を浴びるわけでもなかった。それが当時の日本の「衆道」に対する認識であり、だからこそ芭蕉ならずとも当時の俳諧で衆道ネタは普通に行われていたといえよう。
 宗因の『宗因十百韻』の中の一つ、恋俳諧「花で候」の巻の第三でも、

   夢の間よただわか衆の春
 付ざしの霞底からしゆんできて  宗因

と衆道ネタをやっている。
 また、芭蕉は元禄七年の秋、死の直前に泥足の『其便』のために「七種の恋」を七人で詠んだ時も、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

と稚児の句を詠んでいる。

 こうした同性愛に対するおおらかな文化をこれからも守って行きたいし、それには明治以降西洋の観念が入ってきて、同性愛に対する認識が大きく変わったことも考慮するなら、この問題は同性愛はその人の勝手と放置するのではなく、差別的な思考と対決することも必要になっている。
 そこで問題にしたいのは今話題になっている杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号。だ。
 この文章については、例によって「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」という一つのフレーズだけが一人歩きしてしまっているが、きちんとその全文を理解した上で批判してゆく必要がある。
 まず、

 「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。」

 これについては問題ない。ただ、これに続く文章は問題だ。

 「どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。」

 これは明治以降の日本に西洋の観念が流入して、今の日本の同性愛者の状況は江戸時代のそれと同じではないという点を無視している。欧米化した日本では本家の西洋ほどではないにせよ、同性愛者への偏見はやはり問題にされなくてはならないし、他ならぬ杉田水脈氏のこの文章にそうした偏見があるかどうかが問われなくてはならない。
 そこで問題になった文章だが、

 「例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」

 ここには夫婦はあるいは結婚は子供を作るためのものであるという、重要な偏見が含まれている。もちろん「生産性」という言葉は本来労働あたりの生産量をいう言葉で、この場にはそぐわない。比喩としても成立していない。「生産的でない」というならまだわかる。「『生産性』がない」というのはまず日本語としておかしい。
 夫婦は子供を作るためのものであるとするなら、同性愛だけでなく、子供のいない夫婦、独身主義、去勢手術なども全て問題なはずだ。子供が一人しかいない杉田さん自身にも十分ブーメランになる。
 またLGBTについての杉田さんの認識も根本的に誤っている。

 「T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。」

 トランスジェンダーはウィキペディアには、

 「ある人の「割り当てられた性」 (身体的特徴ないし遺伝子上の性に基づく男性か女性かの他人による識別) とは違う「性同一性」 (女か男か、あるいはそのどちらでもないか) の状態にある。トランスジェンダーであることは、特定の性的指向を有していることを必要条件としない。すなわち、トランスジェンダーの人々は異性愛者であったり、同性愛者、両性愛者、全性愛者あるいは無性愛者であったりする可能性がある。トランスジェンダーの正確な定義は不断の変化を続けているが、次の概念を含む。

 アイデンティティが男性ないし女性の性役割の従来の観念に明らかに一致していないが、両者の間で組み合わさっていたり動いていたりする人のこと、あるいはその人に関連しているものまたは示すもの。
 性 (通常生まれたときに、彼らの性器に基づく) を与えられたが、間違っているあるいは不完全であると感じる人々。
 ある者が生まれたときに割り当てられた性 (そして偽りのジェンダー) との非同一化、あるいは非表現。」

とあり、どこにも「性同一性障害」とは書いてない。ちなみにウィキペディアの「性同一性障害」のところには、

 「『出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識(Gender identity、性同一性)を持つために、自らの身体的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性別を求め、時には身体的性別を己れの性別の自己意識に近づけるために医療を望むことさえある状態』をいう医学的な疾患名。」

とあり、この「医療を望むことさえある状態」が重要だ。トランスジェンダーであっても医療を望まないものは性同一性障害ではない。トランスジェンダーも含めてLGBTはキャラであって病気ではない。ただ、トランスジェンダーのなかで性転換などの医療上の解決を望むものだけが性同一性障害とみなされる。
 LGBに関しても、杉田氏は、

 「一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。」

というが、これもLBGの正しい説明ではない。俗な言い方すればこれは「ゆるゆり」であって「がちゆり」ではない。
 この二つの偏見は、Tは治療して性転換することで男か女かのどちらかになる物で、LBGは普通の男か女に矯正可能なものと見なすもので、基本的に男と女以外の者が存在してはいけないというものだ。これは日本伝統ではない。
 同性愛を「不幸な人」と決め付けていることも問題だ。
 最後に杉田氏は、

 「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。」

と結んでいるが、この常識というのはおそらく夫婦は子供を作るためのもので、LBGは矯正されるべきものでTは治療されるべきもの、本来男と女以外の存在があってはならないというものだとしたら、その常識は一体どこから来たのか、歴史をふり返って問うてゆく必要があるだろう。
 「生産性」ということば、この文脈でな何の意味もないが、おそらくあえて括弧をつけてこの言葉を強調したのは、多様化による行政の効率の悪化を問題にしたかったのだろう。
 たとえば学校で全員が同じものを食べるなら給食室は一つでいいし、メニューも一つでいい。だが、そこに様々なアレルギーの人が加わり、さらにはムスリムのような食事に独特な戒律をもつい人たちが来たり、独自の信念によるビーガンがいたりすると、たくさんの種類の給食を用意しなくてはならなくなり、一つの給食室ではまかないきれなくなる。
 もちろん、一部にある食品を食べられない人がいるからといって、全員がそれを食べることを断念すべきではない。多様化には給食室で作るということにこだわらず、様々な特例を認めながら柔軟に対応しなければならない。
 この種の問題が性的多様性を認めると当然生じてくる。
 ただ、民族の多様性と性的多様性は本質的に違う。それは民族の多様性は外から来るので、いくらでも調整ができるのに対し、性的多様性は中から興るもので、おそらくどこの国もどこの民族でもほぼ一定の割合で生じてくるものだと思う。増えることもなければ減ることもない。
 性的多様性は自由な精神による選択によるものではなく、脳の形成の際に一定の割合で偶発的に生じると思われる。遺伝が関与しているかどうかははっきりとはわかっていないし、すべてが遺伝的に決定されているとはいいがたい。人間以外の動物でも同性愛は存在するから、ある程度の遺伝的要因は考えられるが、それと平行して脳の成長過程での偶然も作用しているのではないかと思われる。いずれにせよ性的な嗜好は自由意志によるものではない。それは根絶できないし、だからといって席巻することもない。それもまた民族問題と違う所だ。
 LBGTはキャラなのだから、大事なのはいかにそのキャラを生かすかであろう。いわばLBGTは普通の人にはない感性を持つ特殊能力者と考えればいい。
 彼等の発想は常人にはない発見をもたらすかもしれないし、それが生産性を高めることに繋がるかもしれない。また、彼等が独自のライフスタイルを持つことで消費の多様化に繋がり、強力なロングテール市場を形成する可能性もある。その意味であなたが資本家なら「LBGTは買いだ」と言いたい。
 LGBTは世界中にほぼ一定の割合で存在してるのだから、日本がいち早くLBGT市場を確立すれば、世界のLBGT市場を制するかもしれない。逆に出遅れれば、先行する国に市場を席巻されることにもなる。その意味ではLBGTへの投資は無駄にならない。
 結論。LBGTは生産性を高めるのに役に立つ。

 なお余談だがロリは性的マイノリティーではない。近代以前の社会ではティーンエージャーとの結婚は洋の東西を問わず普通だったし、生物学的に見ても既に出産能力がある者に欲望を感じるのは自然なことだ。ロリが排除されたのは近代化の際の教育期間の延長によるものにすぎない。
 だから基本的には健全な男性がティーンエージャーの少女に欲望を感じるのは自然なことであり、ただ道義的に抑制しているにすぎない。ロリは性的マイノリティーではなく、あくまでマジョリティーなのである。ただしペドは別だ。

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