明け方には有明が浮かび、暑さも戻ってきた。明日は火星の大接近だという。そういえば子供の頃にも火星の大接近があって、今はなき五島プラネタリウムでそんな話を聞いたな。時は廻る。
『貝おほひ』の二番を調べていたら、そのすぐあとの四番に猫の句があった。ついでなので引用しておこう。
四番
左 信乗母
さかる猫ハ気の毒たんとまたたびや
右勝 和正
妻恋のおもひや猫のらうさいけ
猫にまたたびを取つけられたる。左の句珍しき。ふしを。いひ出られたるハ。言葉の花かつをともいふべけれ共。きのどくといふことば。一句にさのミいらぬ事なれば。少難これ有て。きのどくに侍る。
右又猫のらうさいと。いふ小哥を。妻恋にとりあはされたるハよい作にや。きんにや。うにや。かの柏木のいにしへ。ねうねうとなきしわすれ形見。又源氏の宮を。木丁のすきかげに見給しも。いづれも猫の引綱の。おもひ捨がたけれど。右の句さしたる難もなければ。為勝。
猫にまたたびってそんなに珍しいかと今なら思うが、確かに今まで猫の句をたくさん紹介してきたけど、猫にまたたびを詠んだ句はなかった。
「猫にまたたび」「猫に鰹節」は諺にもなっているが、当時からあったのかはよくわからない。ただ、さかる猫にまたたびをやって落ち着かせたりすることは普通に行われていたのだろう。
「ふしを。いひ出られたるハ。」は「気の毒たんと」が小唄の言葉だからだと『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の荻野清の注にある。二十八番のところにも「気のどくたん」という言葉がある所から当時の流行語だったか。
「ふしを。いひ出られたるハ。言葉の花かつをともいふべけれ共。」と節から鰹節、花鰹の縁で言葉を繋いでゆく。ウィキペディアの鰹節の項によれば、
「現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(1338年 - 1573年)である。1489年のものとされる『四条流庖丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられる。」
とある。
元禄の頃になると紀州の甚太郎が登場し、
「燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという。
大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。」
となる。柳屋本店のホームページによれば、
「延宝2年(1674年)のこと、紀州の国(現在の和歌山県)の漁師、甚太郎が考え出した「焙乾法」によって初めて、今日のようなかつお節づくりの基礎がつくられました。それまでの天日による乾燥を藁や薪を利用する方 法に変え、煙と火熱を加えてできるだけ水分を取るように工夫しました。」
と、この『貝おほひ』よりも少しあとのこととされている。
前に(2017年1月9日)紹介した『炭俵』の「雪の松」の巻の八句目に、
熊谷の堤きれたる秋の水
箱こしらえて鰹節売る 野坡
とあり、元禄に入ると関東にも盛んに鰹節が売られるようになったようだ。これも甚太郎が考え出した「焙乾法」によって保存性が増したためと思われる。
だいぶ話がそれたが、猫に鰹節で花鰹と縁で繋いだ後、「きのどくといふことば。一句にさのミいらぬ事なれば。少難これ有て。きのどくに侍る。」と、結局この小唄の引用は無駄だということになる。気の毒たん。
右の句の「猫のらうさいけ」も小唄の言葉のようで、『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の荻野清の補注には、元和・寛永の頃の籠済という遊び坊主が歌い始めたらうさい節によるという説(『昔々物語』)と、労瘵という病気だという説(『嬉遊笑覧』)の二つを紹介している。『岩波古語辞典』には「らうさいげ」は気鬱症とある。籠済節に掛けて言い興したメランコリーということか。
あとは『源氏物語』の柏木を引いては盛り上げて、右の勝ちとする。
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