2017年11月29日水曜日

 今日は旧暦十月十二日。芭蕉の命日。暖かな小春日和で、きっとあの日もこんなだったのだろう。
 もっとも新暦に換算すると元禄七年の十月十二日は西暦一六九四年十一月二十八日だから、新暦で言えば昨日が命日ということになる。
 そのときの様子は支考の『前後日記』にこう記されている。

 「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく垂れるを期として」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)とあり、午の刻(十二時頃)に目覚めた芭蕉は申の刻(三時頃)に亡くなったことになる。
 たくさんの門人たちがいて、鳥餅をぬった竹で蠅を取ったりして、それを見て笑って最後の時を迎えることができた。ある意味で最高の最期だったかもしれない。
 どんな時でも最後まで笑うことを忘れない、それが俳諧の力なのだろう。

2017年11月28日火曜日

 生きとし生ける者はすべて自分の遺伝子のコピーを作り出し、生存と繁殖に成功した者を残してきた。そこから生きとし生ける者にとって避けられないものとなった。
 人間とて何ら例外ではない。たった一つの地球の有限な台地。地球の面積は増えることも減ることもない。その中でたくさんの生物が暮し、それぞれ子孫を増やそうとする。自分の居場所を確保する、ただそれだけのために他の者の居場所を奪わなくてはならない。
 人間もまた生れ落ちるや否や、一人分の新しい居場所を作らなくてはならない。そのため、泣き叫び手足を振り回す。周りには愛情をもって育ててくれる人もいれば、それに嫉妬する人、あからさまに邪魔者扱いする人などさまざまだ。
 そんな中で幼い頃から生きるということは戦いだ。母も戦い子もまた戦う。親は生きるために働く場所を確保し、競争相手から身を守る。子もまた子供同士のいじめと戦う。戦いは一生止むことなく続く。
 芭蕉もまた、子供の頃は近所の悪ガキ達と争い、物心つくころには奉公に出て、職場のライバルたちと戦ってきた。身分の差は歴然としていて、雲の上の優雅な人たち、すぐ上にいる嫌なことがあると当り散らしてくる下級武士もいただろうし、料理人として一人前になったころには、擦り寄ってくる出入りの商人もいただろう。
 いつの世も人生楽しいこともあれば苦しいこともある。そんな中で芭蕉を変えたのは藤堂藩の跡取り息子に俳諧の席に誘われたことだった。
 そこでは身分の差はない。大名の息子も出入りの商人もみな「俳諧」という一つの言葉のゲームを通じて一つになり、笑い合う。人生の様々な苦しみや悲しみも、そこでは笑いに変えてくれる。
 その席で、芭蕉は自分の才能に気づいた。自分の付けた句に皆が笑ってくれる。「上手い」と褒めてくれる。それは脳内の快楽物質(脳内麻薬)を分泌するのに十分で、やがてその快楽の奴隷となって行く。
 それは別に異常なことではない。人間が一つの趣味にのめりこんでゆくときは、いつでもそんなもんだ。そしてしばしばそれは人間の一生を決める。学芸会で拍手喝采を浴びたばっかりに、役者の道にのめりこみ、貧乏暮らしをしている人はたくさんいるし、山に登った時の快感が忘れられずに、やがて世界中の山に登り、最後は山で死ぬものも多い。
 芭蕉が俳諧の道に入ったのも、そういう意味では運命だったのだろう。
 料理人時代にはちょっとした不注意で袖を焦がしてしまったことがあったかもしれない。さあ、口うるさい同僚から何を言われるやら。そんな悩みも俳諧なら、

   才ばりの傍輩中に憎まれて
 焼焦したる小妻もみ消ス     芭蕉

と、笑いのネタにすぎない。
 やがて恩人の蝉吟も死に、藤堂藩の自分の居場所は少しづつ狭まっていった。だが、芭蕉には俳諧の才能があった。貞門の選集『続山の井』に二十三歳の若さで三十一句入集の快挙を果たしていた。そして終に二十九の時に故郷の伊賀を出て江戸で俳諧師を目指すことになる。
 江戸は当時でも世界有数の大都会で、様々な刺激に満ち溢れていた。ただ生活するとなると決して楽なものではない。
 最初は日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けだった。芭蕉は実務面でも十分な才能を発揮した。やがて、小石川の神田上水の浚渫作業賀行われたときは、人足集めて作業を代行する、一種の人材派遣の仕事を思いついた。そして、その頃江戸で一世を風靡していたのは談林の俳諧だった。
 延宝三年に西山宗因が江戸に来た時は、芭蕉もその一座に加わった。俳諧のほうでも着実に実力が認められていたからだ。
 そして、延宝五年には俳諧師匠として立机した。終に念願かなって俳諧師となる事ができたのだった。そして、延宝九年に出版した『俳諧次韻』で、芭蕉は自らの新風を世間に知らしめることとなった。
 ただ、その頃芭蕉は既に体調を崩していた。頑張りすぎたのか、それとも元から体が弱かったか。延宝八年には三十六歳の若さで深川に隠居する身となった。弟子の杉風から提供された庵の庭には芭蕉の木を植え、自ら芭蕉庵桃青を名乗った。これが芭蕉が「芭蕉」になった瞬間だった。
 静かな隠棲生活も天和ニ年十二月二十八日の八百屋お七の大火によって打ち砕かれ、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れた。芭蕉はその後しばらく甲斐の国で過ごし、そして再び江戸に芭蕉案を再興して、あの古池の句の着想を得、そして藩籍の関係で伊賀に帰らなくてはならない事情があったときに、それを野ざらし紀行の吟行の旅に変え、旅の俳諧師となり、俳諧を全国に広めて行くことになった。
 その後たくさん旅をした。花の吉野山にも行った。姨捨山の月も見た。鹿島神宮にも詣でた。そして元禄二年にはみちのくを旅し、松島、象潟も見てきた。
 旅先では数々の興行をこなし、たくさんの門人ができた。中には去っていった門人もいたが、芭蕉の周りには常に才能ある人たちが集まってきていた。
 ただ、元から持病のあった芭蕉の体は、知らぬ間に少しづつ蝕まれていた。それでも、最後まで旅を続け、俳諧興行を重ね、俳諧を世に広め、世界に笑いを届けるのが生きがいだった。俳諧は人生のどんな苦しいことも笑いに変えることができる。俳諧の席では身分もなく、みんな一緒に笑い合える空間ができる。願わくば世界がそのようであったなら。

 木の下に汁も膾も桜哉      芭蕉
 影清も花見の座には七兵衛    同

 そこではすべてのものが花となる。悪七兵衛景清だって、ここにくればただの七兵衛だ。俳諧はいつでも花の座だ。

 その命ももう長くない。
 昨夜は支考が早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、支考は若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば俺も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。
 俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、酒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。
 うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。人生のパノラマを見る小春の日、待てよ、この時代には「パノラマ」なんて言葉はなかったはずだ。この句は没。枕元には支考がいる。其角はまだ寝ているのかな。‥‥。

2017年11月27日月曜日

 昨日は箱根湯本に行った。紅葉は前に東海道の旅で11月23日に行った時よりも浅かった。今年は紅葉が遅いような気がする。これも温暖化のせいか。石畳の猫に再会した。

 さて、今日は旧暦十月十日で、『花屋日記』の方は一日先に進んで十月十一日の所を読んでみる。
 まず、支考の『前後日記』の記述は短い。

 「此暮相に晋子幸に来りて、今夜の伽にくははりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)

 この日も昨日同様意識ははっきりしていたと思われる。そして一番のサプライズは其角の到着だった。其角の句、そしてその後夜更けにみんなで詠んだ句は割愛してあって、夜も明ける頃のことを記している。支考が何らかの理由で芭蕉を取り囲む他の門人たちの所から追い出された可能性はある。ただ、実際の所何があったかはわからない。偽書の『花屋日記』はそこの所を空想で書いているが、多分当たってないだろう。
 支考は他の門人たちと違い、若いということもあって、呑舟・舎羅と同様に介護役を引き受けていた可能性はある。明け方に起きていて薬の話をしているなら、この日は早番で夜遅くまで他の門人たちが句を詠んだりしていたとき、明日早いんだから寝ろとか言われて隣の部屋で休んでいた可能性はある。それが、

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

だったのかもしれない。
 これに対し、其角の『芭蕉翁終焉記』は到着してから夜のことは詳しく書かれているが、一気に次の日の午後まで飛んでいる。まあ、酒飲みの其角のことだから何となく想像がつく。
 其角の『芭蕉翁終焉記』には、芭蕉の所に来るまでのいきさつが書かれている。

 「予は、岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に着て、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかがひより、いはんかたなき懐(オモヒ)をのべ、力なき声の詞をかはしたり。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66)

 このときたまたま和泉の国の淡輪(たんのわ)に行き、弟子の岩翁・亀翁の親子とともに船で吹飯(ふけい)の浦を見て堺に戻ってきたところで、十一日の夕方に大阪に着いて芭蕉が病気だと聞いて急いで駆けつけたという。夕方に大阪に着いて暮相には芭蕉の所に来たのだから、そんなに距離はなかったのだろう。
 近頃は疎遠になっていたとはいえ、延宝の頃からの長い付き合いだった其角にしてみれば、これはまさに住吉の神の引き合わせた奇跡だったに違いない。
 折からの時雨に其角は一句、

 吹井より鶴を招かん時雨かな   其角

 出典は新古今集の、

 天つ風吹飯(ふけゐ)の浦にいる鶴(たづ)の
     などか雲居に帰らざるべき
                藤原清正

 ふけゐの浦から吉祥の鶴でも飛んできそうな時雨か。実際に飛んできたのは其角だったが。
 鶴を出すあたりは、賀会祈祷の句の、

 木枯らしの空見なをすや鶴の声  去来

と被っている。
 そのあと

 「露しるしなき薬をあたたむるに、伽のものども寝やらで、灰書に、

 うづくまる薬の下の寒さ哉      丈草
 病中のあまりすするや冬ごもり    去来
 引張てふとんぞ寒き笑ひ声      惟然
 しかられて次の間へ出る寒さ哉    支考
 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ    正秀
 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
 皆子也みのむし寒く鳴尽す      乙州」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66~67)

の句をそれぞれ詠む。『去来抄』には、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
 先師難波病床に人々に夜伽の句をすすめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19)

とある。

 うづくまる薬(やかん)の下の寒さ哉 丈草

の句は確かにその場にあるものを素直に詠んでいながら、「寒さ」に病床の不安な心情が現れている。事実であると同時に比喩でもあるという表裏ある表現は俳諧では好まれる。
 この句は近代の、

 水枕ガバリと寒い海がある      三鬼

と比較することもできよう。三鬼の句の場合、「寒い海」が比喩なのにもかかわらず「ある」と断定している所が西洋の象徴詩やシュールレアリズムの影響をうかがわせる。江戸時代の俳諧なら、

 水枕ガバリと海の寒さ哉

とするところだろう。これだと「海の」だけが比喩になり「かな」と結ぶことで断定せずに、「水枕は海のようなガバリとした寒さだろうか」となる。

 病中のあまりすするや冬ごもり    去来

 これは『去来抄』で、「興を催し景をさぐる」と言っているように、「冬籠り」という無難な季題から興を起こし、「病中の余りをすする」という景を導き出している。「あまり」というところに謙虚さが感じられるが、型通りの挨拶句で落ち着いている。

 引張てふとんぞ寒き笑ひ声      惟然

 これは病気の情景から離れて、門人たちが雑魚寝をしている情景を詠んでいる。

 しかられて次の間へ出る寒さ哉    支考

 さっき書いたように、「支考、明日早番だからもう寝ろ」といわれてしぶしぶ隣の部屋に行く寒い気持ちを表現している?

 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ    正秀

 夜伽の句がお題だから、素直にこのままずっと夜伽したいという気持ちを述べ、「冬籠り」の季題を放り込む。

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

 これも看病生活の一場面か。飯の当番を籤で決めていたか。
 延宝六年の芭蕉の句に、

 忘れ草菜飯に摘まん年の暮      桃青

の句があるから、菜飯は冬にも詠んだか。

 皆子也みのむし寒く鳴尽す      乙州

 蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くと言われていた。『風俗文選』の素堂の「蓑虫ノ説」に「ちちよちちよとなくは、孝に専なるものか」とある。みんな芭蕉さんのことを父のように慕ってます、ということか。
 『去来抄』に「今日より我が死期(死後)の句也。一字の相談を加ふべからず」と、要するにもう自分はいないものと思い、意見や添削を一切受けられないと思って詠め、ということで弟子たちの到達点を見極めたかったのだろう。丈草はその期待にこたえたが、あとの句はどう思ったかよくわからない。ただ、それほど悪くはなかったのだろう。これで一つまた思い残すことがなくなったか。
 こうしてやがて夜が明けるころ、芭蕉は支考に、延命治療の薬はいらない、老子の薬(無為自然ということか)にしてくれ、と頼み、眠りに着く。

2017年11月26日日曜日

 十月十日。結果的に最後の句となった「清瀧や」の句を詠んだ次の日にはこうある。

 「此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたためしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曽塚の旧草にかへる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.87)

 「身ほとをりて、つねにあらず」つまり異常な発熱があったというが、これは腫瘍熱であろう。腫瘍熱の場合40度を超える熱でも朦朧とした状態にならず、意識がはっきりしているという。
 実際この高熱の中で芭蕉は去来と話をしたり支考に遺書三通を書かせたりしている。そのうち一通は自分で書いたというから、これまでになく元気な状態だともいえる。
 この時も門人たちと話す話題はやはりは俳諧だった。

 「夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍〔る〕らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし。唇を打うるほし打うるほしやや談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)

 「此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。」というのは、芭蕉がまだ二十歳そこそこの頃、伊賀藤堂藩家の料理人をしてた頃、藤堂家の跡取り息子だった藤堂主計良忠(俳号、蝉吟)に誘われて俳諧の道に入って以来今に至る三十年、俳諧は様々に変化していったことをいう。
 貞門から談林、天和の破調を経て蕉風確立期がありその後の軽みへと至る流れが一方にあって、大阪では伊丹流長発句の流行から、従来の談林に蕉風の要素も取り入れながら独自の大阪談林を形成してゆく流れがあった。この二つの流れは今日の関東と関西の笑いの違いの元となっているのではないかと思う。「松茸ゆうたら熱燗やな」は大阪談林で、「送られてきた松茸ってよくわからない葉っぱがくっついてたりするよね」だと蕉門の笑いだ。
 私見だが、蕪村の俳諧は蕉門よりもその土地柄からか、大阪談林を受け継ぐものだったのではないかと思う。
 「しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず」というのは書への例えだろう。楷書は真書ともいう。貞門の真書、談林の草書、そして自ら確立した蕉風を行書に喩えていると見て良いだろう。
 「その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし」というのは、その三つの体がどれも完成には至ってないという意味か。この後の俳諧はそれぞれが完成に向かうということか。これを枕元で聞いた惟然が草書の俳諧に至るのは、この五年くらい後のことだ。

2017年11月25日土曜日

 今日は旧暦十月八日。元禄七年なら住吉詣でと病中吟の日だ。

 その住吉詣での翌日、十月九日、支考の『前後日記』にはこうある。

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉   翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 「大井川」は支考の記憶違いか。元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、

 清滝や波に塵なき夏の月   芭蕉

の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
 清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。まあ、清滝川といった場合は、嵐山の桂川よりは上流の細い流れを想像すればいいのだろう。
 細い清流だとすると月を映すにはやや無理がある感じがするから、大井川のほうがイメージしやすい。だから、ひょっとしたらその後上五を「大井川」にしたバージョンがあったのかもしれない。
 芭蕉が末期癌だったとしたら、昏睡状態と激痛や嘔吐、下血に苦しむ状態とが交互に訪れていただろう。当時はモルヒネもなかったからさぞかし苦しかったに違いない。点滴もないから栄養も取れず、日に日に衰弱してゆくのが自分でもよくわかっただろう。そろそろ終わりだと感じていたはずだ。
 今日で終わりかもしれないと思いながら、また目が覚め次の日があって、でもそんな時に頭に浮かぶのは仏道ではなくやはり俳諧だった。
 昨日は最後になるかもしれないと思いながらも、句を案じるのは煩悩で成仏の妨げにしかならないし、それに辞世を詠むほどたいそうな身分でもないなんて思いながら、実質的には辞世のような「病中吟」を詠んだ。
 今日になった気になったのは、多分最後の俳諧興行になるかもしれない園女亭での発句、

 白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉

の句が、六月に野明亭で詠んだ句に似ていて、等類だの同巣だの言われるのが不本意に思えたのだろう。
 そこで、古い方の句を、

 清滝や浪にちり込青松葉     芭蕉

にしてみた。妄執とは言いながらも、やはり思い残すことなくすっきりした気持ちで死を迎えたかったのだろう。
 並みに月の美しさは、ある意味では古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。むしろ「白菊の」の句を救うための改作だったのだろう。
 結果的にはこれが最後の句となったので、「清滝や」の句が芭蕉の辞世の句だと言う人もいるが、それは「辞世」の意味をわかっていない。ただ最後に詠んだ句を機械的に辞世と呼ぶのではない。辞世はこの世を去るにあたっての最後の「挨拶」であり、「清滝や」の句にはそれがない。
 「此事は去来にもかたりをきけるが」とあるように、このことは『去来抄』にも記されている。

 「清瀧や浪にちりなき夏の月
 先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P.13)

 「旅に病で」の句にしても「清滝や」の句にしても、芭蕉は「仏の妄執」だというが、実際に激痛に襲われて苦しんでいる時には、俳諧のことを考えることでその苦しみが紛れる部分があったのだろう。
 凡庸な男ならいい女のことでも考える所だが、芭蕉さんは俳諧のことを案じるのが一番のだった、そこが凡人と違う所だろう。

2017年11月24日金曜日

 昨日は午後から谷中を散歩した。黄昏の街はやはりいい。ひょっとしてここは異界ではないかと思わせるようで幻想的だ。
 昔、黄昏時の渋谷の街をあるいてて思いついたのだが、あの世というのがもしあるならきっと一年中黄昏時の紫色の空の紫街ではないかと。たくさんの灯りがともり、世界中の死者たちがそこを行き交い、争ってた国もここではノーサイドで酒を酌み交わしたり歌ったり踊ったり、毎日地球祭が行われている。そして思い残すことがなくなった人から順に完全な死へと移行してゆく。

 それはともかくとして、昨日の続き。
 さて、住吉詣でのあったその夜、芭蕉はあの句を詠むことになる。
 支考の『前後日記』はこう記す。

 「之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに

   病中吟
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    翁

 その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍〔る〕らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.85~86)

 考えてみれば、芭蕉を一人にしてみんなで出かけるというのはないだろう。となると、支考は居残り組みだったのだろうか。「之道すみよしの四所に詣して」というのは、之道一人が詣でたわけではないにせよ、何人かは居残って芭蕉の看病をしてた可能性が高い。支考の「起さるる」の句も之道らの出発の前に詠んだのなら納得できる。
 木節の発句がないのも、医者が芭蕉のところを離れるわけにはいかなかったからだろう。舎羅の発句もないから、介護要因として居残り組だったのだろう。其角の『芭蕉翁終焉記』に、

 「木節が薬を死迄もとたのみ申されけるも、実也。人々にかかる汚レを耻給へば、坐臥のたすけとなるもの、呑舟と舎羅也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.65)

とある。
 その日の夜も更ける頃、ほとんど動くこともなく言葉もなかった芭蕉の部屋から不意に硯の音が聞こえてくれば、何かあったと思うし、もしや最後の言葉がとも思うだろう。
 幸いまだ「いまは(さよなら)」ではなく、芭蕉の詠んだ句を介護役の呑舟に書き留めさせているところだった。ひょっとして辞世の句かという思いもあっただろう。その句は、

   病中吟
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

だった。
 支考が部屋に入ると、芭蕉は「なをかけ廻る夢心」という案もあったがどっちが良いかと聞いた。これは「此道や」の句のときと同じパターンだ。芭蕉はよく弟子たちにこういう質問をしたのだろう。
 言葉というのは確かに自分がこう言いたいと思って発してはみても、聞いた人はまったく別の意味に取ることがある。だから自分の句の意味がちゃんと伝わっているかどうかこうして確認したくなるのだろう。
 「その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)」というのは「かけ廻る」の五文字のことだろう。それはどういう意味なのかと思ったものの、そう難しく考えることもないと思い、この句は何の悪い所もないのでわざわざ「かけ廻る夢心」に直すことはないと答えたという。この五文字は「不思議の五文字」だという。

 旅に病でなをかけ廻る夢心

 これだと「枯野」の字が消えてしまい季語が入らないから、確かにどっちが良いかといわれても、そんなに迷うこともないだろう。体言止めで句としての収まりは良いが。むしろ支考が気になったのは「かけ廻る」という言葉が何処から出てきたのかということだった。
 芭蕉が言うには、まず「生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど」とうことで、これは死を前にしたなら一心に仏のことを念ずべきだという意味で言っているのだろう。
 芭蕉には辞世の句を詠まなくてはならないという意識はなかったものと思われる。辞世というのは身分の高い人の詠むもので、自分なんぞはという意識があったのかもしれない。
 そして「よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。」と付け加える。
 言わば商売柄、こんな時にまで俳諧のことが気になってしょうがないのは煩悩の妄執だというわけだ。この「朝雲暮烟の間をかけり」が「かけ廻る」という言葉の意図だったのだろう。
 これに対し支考は「さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」と感想を述べる。これほどの辞世は他にあるまい。芭蕉自身はそのつもりでなくても、最高の辞世の句であることは間違いない。
 偽書の『花屋日記』も「これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.26)と言っている。近代的にあくまで作者の意図を重視するなら辞世ではないが、読んだ人が辞世として受け止めるならそれはそれでいいと思う。

2017年11月23日木曜日

 今日は旧暦の十月六日。雨の祝日ということで、ゆっくりと岩波文庫の『花屋日記』が読める。

 元禄七年の芭蕉の容態は、九月二十九日の支考『前後日記』に、

 「此夜より泄痢のいたはりありて、神無月の一日の朝にいたる。しかるを此叟(そう)は、よのつね腹の心地悪しかりければ、是もそのままにてやみなんと思ひけるに、二日・三日の比よりややつのりて、終に此愁とはなしける也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.83)

とある。「泄痢」つまり下痢は芭蕉の持病で、以前から時折こういうことはあったし、おそらく最後の旅の途中で何度もこのようなことは続いていたのだろう。だから、支考もこの時はいつものこと(よのつね)と思っていたが、容態はそのまま急速に悪化していったようだ。この日の芝柏亭での興行がキャンセルされたことは前にも書いた。
 其角の『芭蕉翁終焉記』には、

 「伊賀山の嵐紙帳にしめり、有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)にさはる也と覚えしかど、くるしげなれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去来京より馳くるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈草、平田の李由つき添て、支考・惟然と共に、かかる歎きをつぶやき侍る。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.64)

とある。
 「紙帳」は紙で作った防寒用の蚊帳のようなもので、最初はその紙帳が伊賀の嵐に湿って黴や茸が生えて、そのせいではないかと思われていたようだ。だが、伊賀にいた頃から病状が既に悪化していたことが窺われる。
 芭蕉が茸に当たって死んだという俗説は、この「有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)」を誤読したことによるものではないかと思う。園女が犯人に仕立て上げられたりして可哀相だ。
 その病を押して大阪に来て、酒堂、之道の喧嘩の仲裁をし、何度か興行を行ったが、相当無理をしていたようだ。九月二十九日の夜、終に床についたまま激しい下痢が続き、喋る力もなく体温も低下し、危篤状態に陥った。去来、正秀、木節・乙州、丈草、李由が駆けつけ、元から大阪にいた支考、惟然ニ合流した。病床で詠んだ賀会祈祷の句に之道の名前はあるが酒堂の名前はない。どこへ行ったか、九月二十六日の興行の挙句に、

   散花に幕の芝引吹立て
 お傍日永き医者の見事さ       酒堂

と詠んだ医者の酒堂は肝心なときにお傍にいない。代わりに呼ばれてきたのは大津の医者の木節だった。
 支考の『前後日記』の十月六日の所にこうある。

 「きのふの暮よりなにがしが薬にいとここちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思はれる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.84)

 長いこと昏睡状態にあったようだ。ようやく意識を取り戻して顔を起して白髪頭の様子をみる事ができたが、「枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて」というように痩せ衰えていた。このやせ細った姿の記述からも、末期癌だったと見るのが妥当だろう。
 木節をはじめとする他の京や膳所・大津、伊賀の門人たちが到着したのは、翌七日だったことが『前後日記』には記されている。『花屋日記』には「鬼貫来る。去来応対して還す。」とあるが、これは嘘だろう。鬼貫は之道とも仲が良かったし、本当に来てたなら追い返す理由なんてない。
 十月八日には之道とともに集まった門人たちが住吉四所神社に詣でて、祈願の句を奉納した。それが先に述べた賀会祈祷の句で、其角の『芭蕉翁終焉記』に記されている。

 落つきやから手水して神集め   木節

 折から神無月なので、手水の水もなかったのか、なんとも無念。から手水は今風に言えばエア手水か。

 木枯らしの空見なをすや鶴の声  去来

 吉祥である鶴の声がしやしないかと木枯らしの空を眺める。何度見ても空しい。

 足がろに竹の林やみそさざい   惟然

 「鷦鷯(ショウリョウ)は深林に巣くふも一枝に過ぎず」という『荘子』の言葉によったものか。祈願からはやや離れている。

 初雪にやがて手引ん佐太の宮   正秀

 「佐太の宮」は出雲の国二ノ宮の佐太神社で神無月には八百万の神がここに集まる。初雪が降るころにはその神様たちも戻ってきてくれることだろう、それまで何とか持ちこたえてくれと祈る。

 神のるす頼み力や松の風     之道

 「松風」は、

 深く入りて神路の奥を尋ぬれば
     又うへもなき峰の松風
               西行法師

の縁で、本地垂迹の考え方により、神道の根源には仏道があり、「松風」はそれを象徴する。神社に祈願に来たが留守なので、本地である仏だけが頼みだ、という意味。

 居上ていさみつきけり鷹の貌   伽香

 鷹が身を起こして睨みつけているさまだが、惟然の句と同様、その場にあったものを詠んだのだろう。鷹は吉祥ではある。

 起さるる声も嬉しき湯婆哉    支考

 湯婆は湯たんぽのこと。寒い朝は起きるのがつらいが、湯たんぽのぬくもりが残っていれば起される声も嬉しい。きっとこの日、祈祷に行くといくというので早く起されたのだろう。ただ、芭蕉の病気治癒の祈願にこの句はなんかそぐわない。
 このあとの病床吟「しかられて」の句にも通じるものがある。つまり、支考はいつもこういう調子っぱずれな句を詠む人だというだけのことだったのかもしれない。ある意味それは天才なのだろう。付け句の方ではその才能が遺憾なく発揮されているが。

 水仙や使につれて床離れ     呑舟

 呑舟は芭蕉の介護で、排泄物の処理など汚い仕事を引き受けていたようだ。水仙が春の使いとなって芭蕉を床から上がれるようにしてくれれば、と祈る。
祈願の句としてはこれまででは一番真情がこもっている。

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ   丈草

 「さなり」は小さな物音のこと。「さなる(そのようになる)」に掛かる。「諸きほひは峠こす鴨のさなりや」の倒置。ここで皆が祈願の発句を競って詠むことは、峠を越す鴨のさなりのような小さな音にすぎないが、そのように芭蕉の病気も峠を越えてくれればな、と祈る。掛詞と比喩が見事な句だ。芭蕉が聞いたなら、「丈草出来たり」というところか。

 日にまして見ます顔也霜の菊   乙州

 これも比喩で、日ごとに集まる人も増えて、芭蕉の病気が良くなることを祈ってます、ということ。
 神無月ネタに走った者、素直に祈願した者、いろいろだけど、其角が「是ぞ生前の笑納め也。」と言ったように事態は悪化していった。

2017年11月21日火曜日

 芭蕉の命日が近づいてくると、辞世の句というのが気になりだす。
 芭蕉のあの有名な、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

の句が辞世の句なのか単なる病中吟なのかというのは、これまでも様々に論じられてきたが、それ以前に芭蕉の時代に俳諧師が辞世の句を詠むというのは一般的に行われていることだったのかが気になりだした。
 ネットで辞世の句を検索すると、出てくるのはたいてい戦国武将だったりする。もちろん発句ではなく和歌だ。
 岩波文庫の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(竹内玄玄一著、雲英末雄校注、一九八七)を読むと、やはり古い時代は和歌を詠んでいる。

 はかなしや鶴の林の煙りにも
     立ちおくれぬる身こそ恨むれ
                 宗祇法師

 俳諧の祖、荒木田守武は和歌と発句両方詠んでいる。

 越しかたもまた行末も神路山
     峯の松風峯の松風
                 荒木田守武
 朝顔に今日はみゆらんわが世かな 同

 同じく俳諧の祖、宗鑑は和歌の形式ではあるが俗語を交えた俳諧歌になっている。

 宗鑑は何処へと人の問ふならば
     ちとようありてあの世へといへ
                 宗鑑

 貞門の祖、松永貞徳は辞世の歌を三首読み、その中の一つが『俳家奇人談』に記されている。

 明日はかくと昨日おもひし事も今日
     おそくは替る世のならひかな
                 松永貞徳

 野々口立圃は辞世の発句を詠んでいる。

 月花の三句目を今しる世かな   立圃

 桜の満開の時に綺麗な月夜になることが稀なことからの発想か。西行は、

 ねがはくは花のもとにて春死なむ
     その如月の望月のころ
                 西行法師

と詠んだが、今の自分は月の句花の句と続いた後の三句目で、月も花もないということか。実際、立圃は旧暦の九月三十日に亡くなった。
 山本西武(さいむ)は、

 夜の明けて花にひらくや浄土門  西武

と極楽往生への願いを句に込めた。
 斎藤徳元も貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。辞世の句は、

 今までは生たは事を月夜かな   徳元

 「生(い)きたは」から「たわごと」を導き出す手法は和歌の手法の俳諧化だ。豊臣の世が続いていたならいっぱしの大名になっていただろうに、そんな不遇な生涯を自嘲して、月にたわごとを言う俳諧師になったと詠んだのだろう。
 こうしてみると、辞世の句を詠んだ人はそれほど多くなさそうだ。
 もっとも、死ぬ直前に辞世を詠めるというのは状況的にも限定されている。まず、死ぬ直前にある程度元気でなくてはならない。長い昏睡状態の末に死んだのでは辞世は詠めない。また、くも膜下出血や心臓発作のような突然死でも辞世は詠めない。一番余裕を持って辞世を詠めるのは刑死する人と切腹する人かもしれない。そうでなければ遺言状のようにあらかじめ作って用意していたか、そんなところだろう。
 そういうわけで、別に俳諧師だからといって辞世の句を詠まなくてはいけないということはなかったのだろう。

2017年11月19日日曜日

 ある程度俳句を勉強した人がこの鈴呂屋俳話を読むと、多分かなりの違和感を感じると思う。
 晩年の芭蕉に関しても、古くからの弟子たちが去っていって孤立する中で、

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉
 此道や行人なしに秋の暮     同
 秋深き隣は何をする人ぞ     同

といった句も、自分の目指す俳諧が全然理解されていないことへの孤立と孤独の表現と見るのが普通なのかもしれない。
 実際の芭蕉は常に弟子たちに囲まれ、臨終の際にも多くの門人の見守る中で、さながら釈迦涅槃図のようでもあった。
 桃印、寿貞に先立たれて、その意味でいくら弟子たちがいつも回りにいても、心にぽっかり穴の開いたような孤独感があったのは確かだと思う。「白菊の」の巻の三十一句目、

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

にもそれは表れていると思う。
 ただ、一般の近代俳句に所属する俳人や俳句研究者は、こうした孤独感に近代の文化人の孤独を無理に重ね合わせていたようにも思える。
 明治以降の急速な近代化の中で、日本の文化人は常に西洋化を促進する立場にあり、そのつど日本の伝統的な価値観や風習と戦ってきた。その中で、たとえ成功を収めたとしても、なかなか西洋の価値観を受け入れてくれない大衆への苛立ちを感じ、時としてあからさまに侮蔑の言葉を投げかけることもあった。それを少なからず芭蕉に投影してたのではないかと思う。
 正岡子規が芭蕉の古池の句を「写生」への開眼とと解釈し、それがやがて定説となっていく中で、一方ではそれが弟子たちに十分理解されず、「軽み」の俳諧についても一種の大衆迎合(ポピュリズム)と見て、否定的に評価する人も多かった。
 それは西洋文学を学んで、それを日本に広めようとしながらもなかなか大衆がそれについてこない、近代の文学者自らの孤独に重ねていての発想だったのではないかと思う。
 筆者は別に近代化や西洋化を否定するつもりはない。ただ、近代化・西洋化を急ぐあまりに、伝統文化とあまりに敵対的になりすぎた人たちに関しては疑問を感じざるを得ない。
 今日のジャパンクールといわれる漫画、アニメ、ゲーム、ラノベ、あるいはビジュアル系と呼ばれる音楽も、別に日本の伝統文化から発生したわけではない。漫画やアニメも西洋から入ってきたものだし、コンピューターゲームもさまざまな西洋のゲームの影響を受けながら、日本で独自の文化が形成されていった。ラノベも基本的には西洋の小説の書式によるものだし、ビジュアル系バンドも西洋のロックの日本独自の展開にすぎない。
 こうした大衆の側から発生したジャパンクールは、伝統文化と対峙するのではなく、融和の中から生まれてきた。むしろみんな本当は西洋にあこがれ、西洋人のようになろうとしたのだけど、生まれ育って自然に身についた日本文化の重力で各々日本的要素を含むようになり、それが逆に世界で注目されるようになったといった方がいい。
 明治の旧派の俳諧師も決して伝統に固執して、それをかたくなに守ろうとしてきたわけではなかった。彼等もまた開国によって様々な西洋の文物が入ってくる中で影響を受けただろうし、西洋への憧れもあっただろう。ただ彼等が明治二十五年以降の正岡子規の一派と違っていたのは、日本の伝統を近代化を妨げる敵として対立させることをしなかっただけだと思う。
 正岡子規は『俳諧大要』や『歌よみに与ふる書』などを通じて伝統の詩歌連俳を厳しく糾弾してきた。それをやらなかったのが旧派だという程度の違いで、旧派も基本的には俳句の近代化には賛成だったと思う。そして、筆者もまた西洋文化を否定して近代以前の日本文化に戻そうなどという考えは毛頭ない。ただ、対立的にではなく融和的に考えているだけの違いだ。
 西洋文化に対して排他的な態度を取ることは、自国の文化の更なる発展の可能性を葬り去ることで、むしろいろいろな文化と融合することで自国の文化は無限に発展するものだと考える。
 それと同様、西洋化、あるいはグローバル化にあまりに固執するあまりに、日本の文化に対して排他的な態度を取ることも発展の芽を摘むことになると思う。西洋文化も十九世紀後半のジャポニズムを経て更なる発展を遂げたし、今でもジャパンクールに並々ならぬ関心を持ってくれている。そのことによって西洋も、グローバル文化も発展してゆくのだと思う。日本の文化人だけが自国の文化に対して過度に排他的な態度を取っているのは本当に残念だ。
 まあ、基本的に彼等は輸入商のようなものだから、輸入品の価格を吊り上げるのが仕事で、そのために国産品の価値を貶めているだけなのかもしれない。いずれにせよ、そういう人たちと一線を画すのが、この鈴呂屋俳話のスタンスだと思っていただければいいと思う。
 西洋化が近代という時代の中で避けて通れぬものだったのは、その圧倒的な生産力の高さによるものだったと思う。生産力の高さは豊かさをもたらす。人間は誰でも豊かになりたい。そして自由になりたい。だから西洋を学び、西洋を追いかけてきた。それはごく自然なことだと思う。だから、西洋化の波は今でも世界を覆っている。
 ただ、近代化は世界を一つにするのではない。それは西洋を学び西洋を追いかけている非西洋圏の人たちは、それぞれ独自の伝統文化を背負い、それと融合させながら追いかけているからだ。そこに自ずと近代化の中でも多様性が生じる。日本人は日本人らしい近代化を実現したし、中国人もインド人もアラビア人も彼等らしい近代化を実現している。それらは西洋にない要素を持っていることで、かえって西洋文化を発展させる原動力にもなる。西洋人はそのことをよく知っているから、異邦人を歓待する。日本人だけが卑下する必要はない。胸を張ってこれが日本の近代だと言っていいと思う。
 日本の文化も西洋の文化もどこの文化も、人間の作るものに絶対はない。むしろ完成されてないからこそ、まだまだ発展できる。世界は多様性とその融合によって発展できる。その道を閉ざすような一面的な日本卑下はいい加減に終わりにした方が良いと思う。
 だいぶ芭蕉の話からそれてしまったが、芭蕉も伝統文化と敵対しようなどとはまったく考えてなかっただろうし、新しい俳諧を求めてゆく中で結局は伝統と融合しながら不易と流行のバランスを取った方がいいことに気づいたのだと思う。そして、その歩みは少なくとも俳諧師の間で芭蕉を孤立させることはなく、ただ流行についてゆけなくなった年寄りがいただけのことだと思う。だから、芭蕉と反目していた其角も芭蕉の臨終に駆けつけてくれたのだと思う。

2017年11月17日金曜日

 今日は旧暦九月二十九日。今日で秋は終わり。この日芭蕉は急に容態が悪化した。

   雑秋
 咳しあふ隣や秋の一ちから   梅府『伊達衣』

 この句は「秋深き」の句に通じるというか、影響を受けたという感じだ。

 浅茅生にごそつく人や秋の暮  乙孝『一幅半』

も同巣か。
 秋の暮はとにかく悲しいものなので、

 行秋のさてさて人をなかせたり 越人『卯辰集』
 鬼の目に泪があらば秋のくれ  正丸『一幅半』
   九月尽
 秋の暮男は泣ぬものなればこそ 翁『ばせをだらひ』

 最後の句は「翁」とあるが、芭蕉の句ではなさそうだ。1538さんのサイトに、

 秋には夕(ゆふべ)を男は泣かぬものなればこそ

という越人の句があった。

 秋梟の句がまた一句見つかった。

 梟の何ほうばりて秋の声    巴兮『そこの花』

2017年11月16日木曜日

 今日は旧暦の九月二十八日。夜明け前の空には逆さの三日月が見えた。二十八日の月は昔は何と呼んでたのかよくわからない。特に名称もなかったのか。
 今年は閏五月があるということで、奇しくも芭蕉のなくなった元禄七年と重なるということもあって、ずっと元禄七年の芭蕉と重ね合わせてみてきた。
 九月二十六日は清水の茶店で泥足らと「此道や」の半歌仙を巻いた。二十七日には園女亭で「白菊の」の歌仙を巻いた。そしてこれが芭蕉の最後の俳諧興行となった。
 九月二十八日は畦止亭に芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人が集まり、七種(ななくさ)の恋を詠んだ。芭蕉の句は、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

 この日、次の日(九月二十九日)に予定されていた芝柏(しはく)亭での俳諧の発句として、

 秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

の句を詠んでいる。
 発句を事前に主人に知らせておくことは中世連歌の時代から普通に行われていたようだ。「此道や」の句も、九月二十三日の書簡で既に作られていたことが確認されている。
 「秋深き」の句は一般には、

 秋深し隣は何をする人ぞ      芭蕉

の形で知られている。前者は支考の『笈日記』、後者は元文三年(一七三八)の野坡等編『六行会』に収録させている形で、おそらく「秋深き」の方が正しく、「秋深し」は伝わってゆくうちに変ってしまったものと思われる。桃隣編の『陸奥鵆』(元禄十年)にも、

   大阪芝柏興行
 秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

となっている。
 芝柏も大阪の人で、其角編の芭蕉追善集『枯尾花』には、

 石たてて墓も落ちつく霜夜哉    芝柏

の句がある。芭蕉の発句は前日できていたものの、この興行は行われなかった。おそらく芭蕉の体調の悪化によるものだろう。
 秋も深まると寂しかったり悲しかったりで、何となく人恋しくなり、隣の人のことが気になったりする。お隣さんも同じようにこの秋の深まる中、同じような気分になってるのだろうか。
 興行の句としては、「隣」は集まった連衆のことに他ならず、みんなそれぞれ自分の隣に座っている人を見ながら、秋が終わるのがやはり悲しいかい?そうだろうな、なんてそんな情景を期待したのだろう。
 これが「秋深し」になると、本来の興行から引き離されて一人歩きすることになる。「秋深き隣」だと「秋も深まる中でお隣さんは」と繋がるわけだが、「秋深し」と切ってしまうと単に「秋も深まった!隣は‥‥」と暮秋と隣人が分離されてしまい、近代俳句で言うところの二物衝突になってしまう。ちなみに「し」も「ぞ」も切れ字だから、切れ字が二つになってしまう。
 この句はちょうど筆者が子供の頃、つまり七十年代にはマスコミ関係でよく用いられた。つまり、高度成長期を経て様々な地方から大都市へと人口が流入した結果、隣近所との人間関係が希薄になり、それを象徴するかのような言葉として芭蕉のこの句が盛んに引用された。木枯し紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった頃だった。
 それは芭蕉が思いもしなかった用いられ方だったのだろう。そのせいでこの句は、隣近所への無関心の句というイメージが広まってしまった。
 本来の意味だと、「秋深き隣は何をする人ぞ?」「俳諧に決まってるじゃないか!」という乗りだったのかもしれない。芝柏の脇が残ってないのが残念だ。

2017年11月14日火曜日

 昨日は十六句目まで一気に進んだが、実は十七句目になって、つまってしまった。その十七句目。

   塩飽の船のどつと入り込
 散花に幕の芝引吹立て        畦止

 問題はこの「芝引」で、『校本芭蕉全集第五巻』の中村俊定さんの註釈も、「太刀の鞘尻の刃の方に伏せた金具のことであるが、解し得ない。吹く風に幕のあいだから芝引が見えるという意か。」とやはり満足な答が出なかったようだ。
 確かに「芝引」で検索すると、刀の鞘の下側の金具が「芝引」で上側は「雨覆」というらしい。「火縄銃の台座の先端」というのもあったが、それでも意味不明。
 「幕」という言葉は芝居を連想させるので、何か芝居用語に「芝引」ってないかと思って探したが、やはり見つからなかった。
 似たような言葉でようやく見つかったのが柴引で、「もしかして:柴引」。
 「柴引」は神楽の演目で、太玉命が天の香久山の榊を引き抜いて、天の岩屋の前に飾る踊りで、客席とのあいだで榊の枝を引っ張りっこをするのが一番の見せ場のようだ。
 散る花の頃に幕を開けた神楽の柴引に風が吹いて桜の花びらが舞い、秋には豊作となり米を満載にした廻船がどっと押し寄せる、これもかなり無理矢理だが、意味が通らなくもない。
 米を乗せた「廻船」が秋のイメージなので、それを花の定座ということで無理に春に転じようとすると、向え付けか違え付けになりやすい。今のところ他にいい解釈が思いつかないので、とりあえずこれにしておこう。

 挙句

   散花に幕の芝引吹立て
 お傍日永き医者の見事さ       酒堂

 「お傍」は中村俊定註に「高貴の人の側に侍るの意」とある。高貴な人なら「芝引」は刀の鞘の金具に取り成してもいいのかもしれない。「幕」も芝居の幕ではなく陣を張る時の幕としてもいい。高齢のお殿様で、いつも側に医者を侍らして、この半歌仙の一巻も目出度く終わる。
 酒堂も医者だから、芭蕉さんの側には私がいますというメッセージか。肝心な時にはいなかったようだが。

2017年11月13日月曜日

 昨日は秦野の震生湖から千村の方へと歩いた。震生湖には猫が八匹もいた。釣りをしてる人もたくさんいた。
 栃窪にある愛犬ハウスセキノからは相変わらず膨大な数の犬たちのワンワンキャンキャンいう声が聞こえていた。そういえば一昨年の九月に来た時に、

 騒ぐ犬悲しく一体何の秋の風

とい句を詠んだっけ。ちょっと芭蕉の猿を聞く人の気分になったが、今も犬の声はその頃と何も変っていない。
 千村も以前八重桜を見に行ったが、今は紅葉を通り越してかなり落葉していた。

 さて、「此道や」の巻の続き。

 十一句目

   恵比酒の餅の残る二月
 兵の宿する我はねぶられず     泥足

 二月と八月は関東の譜代大名の参勤交代の季節で、江戸の商人である泥足は、お侍さんの御一行を泊めたりしてたのだろうか。三人称ではなく「我は」と限定するのは珍しい。

 十二句目

   兵の宿する我はねぶられず
 かぐさき革に交るまつ風      芭蕉

 「かぐさき」は獣肉、皮などの匂いのこと。
 展開する時には「我は」は余り気にせず、乱世の頃の話にしてもいい。実際に軍の装備をしている兵(つはもの)は革の匂いがぷんぷんしたことだろう。
 「兵(つはもの)の宿する」に「かぐさき革」、「ねぶられず」に「松風」と四つ手に付ける。

 十三句目

   かぐさき革に交るまつ風
 ばらばらと山田の稲は立枯れて   車庸

 前句の「かぐさき革」を動物の死体のこととしたか。飢饉の光景だろう。

 十四句目

   ばらばらと山田の稲は立枯れて
 地蔵の埋る秋は悲しき       支考

 地蔵が埋もれるのだから、上流から土砂が流されてきたのか、あるいは火山の噴火によるものか。この年の五月に、

 牛流す村のさはぎや五月雨     之道

の句を発句とした「牛流す」の巻が巻かれていることを思うと、何かそういう事件があったのか。
 「埋る」は草に埋もれるとも取れるため、飢饉ネタはここで終わらせることができ、月呼び出しになる。

 十五句目

   地蔵の埋る秋は悲しき
 仕事なき身は茶にかかる朝の月   之道

 草に埋もれた地蔵に貧しさを感じての展開で、仕事もなく朝からお茶を飲んでいる牢人の句とする。抹茶でも煎じ茶でもピンからキリまであり、貧しいなりにもお茶は飲めた。

 十六句目

   仕事なき身は茶にかかる朝の月
 塩飽(しあく)の船のどつと入り込 惟然

 塩飽は瀬戸内海の塩飽諸島のこと。ウィキペディアには、

 「寛文12年(1672年)、河村瑞賢が出羽国の米を江戸に運ぶべく西廻海運を確立すると、塩飽の島民はその運航を一手に担い、新井白石が奥羽海運記で「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」と記した廻船に乗り、江戸や大阪など諸国の港を出入りする。」

とある。塩飽(しあく)の船は廻船のことをいう。
 この場合は「仕事なき身は」をそういう人もいるという程度に取り成して、朝の月の頃に米を積んだ廻船が続々と入港するという展開と見ていいだろう。

2017年11月11日土曜日

 注文していた『花屋日記』(小宮豊隆校訂、一九三五、岩波文庫)が届いた。先日、やぶちゃんの電子テキストより引用した『笈日記』の中の芭蕉終焉記に相当する「前後日記」がこの本を基にしているというので、早速検索して取り寄せた。この鈴呂屋俳話もたくさんのネット上の見も知らぬ人たちの協力の上に成り立っていて、とにかくみんなに感謝します。ウィキペディアにもそろそろお金払った方がいいかな。
 この本はいわゆる偽書で、「此道や」の巻の興行が九月二十一日になってたりする。
 この本の一番の見所は十月十一日、芭蕉の死の前日、門人たちが集まって夜伽(よとぎ)の句を詠ませた場面だろう。
 『去来抄』「先師評」に、「さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。」とあるその場面だ。「出来たり」というのは、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

の句だった。
 この時の、

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

の句だけが異質で、「おい支考、一体何やらかしたんだ」って感じだったが、『花屋日記』では上手く辻褄を合わせて一つのストーリーを作っている。まあ、所詮は見てきたような嘘なのだが。
 そういうわけで、一人では何も出来ない筆者が、会ったことのないたくさんの人たちの協力を得ながら、今日も「此道や」の巻の続きを行きたいと思います。

 四句目

   月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て
 小き家を出て水汲む        游刀

 游刀は膳所の能役者だという。月白む頃に家を出て水を汲みに行く。小さき家は貧しい家の人なのか、それとも隠遁者かと想像を掻き立てる。

 五句目

   小き家を出て水汲む
 天気相羽織を入て荷拵らへ     之道

 前句の人物を商人と見ての位付けだろう。天気の具合を案じながら、羽織を一枚入れて荷支度する。

 六句目

   天気相羽織を入て荷拵らへ
 酒で痛のとまる腹癖        車庸

 車庸は大阪の商人で、元禄五年に『己が光』を編纂している。
 前句の商人を酒飲みと見ての展開。
 YAHOO!知恵袋に「胃が痛い時にお酒を飲むと治ることがあるのですがなぜでしょうか?」というのがあったので、実際こういう人はいるようだ。
 また、zakzakの記事で、「不思議なもので、酒を飲むと痛みも消えるので」というのが実は胆のう炎だったというのもあった。
 酒で痛みが止まるのは単に酔いに紛れているだけで、深刻な病である可能性もあるので注意しよう。

 初裏
 七句目

   酒で痛のとまる腹癖
 片づかぬ節句の座敷立かはり    酒堂

 酒で腹痛を紛らわしているのは、節句の座敷に入れ替わり立ち代り客がやって来るせいで、いろいろ気を使って胃は痛くなる。痛くなった胃を次の客との酒で紛らわす。これじゃ体に良い分けない。

 八句目

   片づかぬ節句の座敷立かはり
 塀の覆にあかき梅ちる       畦止

 畦止も大阪の人。芭蕉も滞在している。
 前句の節句を正月として座敷の塀に散る紅梅を添える。

 九句目

   塀の覆にあかき梅ちる
 線香も春の寒さの伽になる     惟然

 「梅散る」を人が亡くなった暗示としての展開だろう。一人仏前に向えば線香の煙に仏様の方から「元気出せよ」と慰められたような気分になる。

 十句目

   線香も春の寒さの伽になる
 恵比酒の餅の残る二月(きさらぎ) 亀柳

 亀柳についてはよくわからないが、大阪の人のようだ。
 恵比寿の餅というのは正月の十日恵比寿の餅のことか。二月になれば黴だらけだろうな。昔は黴の生えた餅でも平気で食ってた。
 これで一応全員一句づつ詠んだことになる。

2017年11月10日金曜日

 昨日の続き。
 さて、その元禄七年九月二十六日の興行だが、江戸の泥足が『其便』の編纂をやっている頃、たまたま大阪に来ていることを知って尋ねていって実現した半歌仙興行だった。
 『其便』には次のような前書きがある。

 「此集を鏤(ちりばめ)んとする比、芭蕉の翁は難波に抖擻(とそう)し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半歌仙を貪り、畦止亭の七種の恋を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

 「抖擻」は「ふるえている」ということ。病気で苦しんでいるという意味か。
 「七種の恋」は芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人がそれぞれ漢語の題で故意を詠むという趣向で行われたもので、芭蕉は、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

とあえて男色を詠んでいる。やはり噂通りそういう趣味の人なのか、それとも女色を詠むことに照れがあってホモネタに逃げているのか、定かではない。
 この時芭蕉の体調はかなり悪化していたと思われる。晴々亭の興行が半歌仙で終わったのも、体力的な問題があったと思われる。翌二十七日には園女亭で歌仙興行が行われるが、これが芭蕉の最後の俳諧興行となる。
 泥足は、芭蕉の、

   所思
 此道や行人なしに秋の暮      芭蕉

の発句に脇を付ける。

   此道や行人なしに秋の暮
 岨(そば)の畠の木にかかる蔦   泥足

 ここは余り発句の情を深く受け止めてしまうと重くなり、興行の始まりから暗い気分になりそうなので、あえて情を突き放して付けたのだろう。
 行く人のない道に山奥の情景を付け、そこに暮秋の蔦の紅葉を添えている。四つ手付けの句だ。
 次に支考が第三を付ける。

   岨の畠の木にかかる蔦
 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考

 畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。この頃の支考は本当に天才だ。
 「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。
 「牛流す」の巻の六句目

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち    支考

の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。

2017年11月9日木曜日

 昨日雪が降ったのか、今日の富士山は雪をかぶっていた。前は南は少なく北は多く、斜めに雪が積もっていたが、今日の雪は平行で絵に描いたような富士山だった。
 今日は旧暦九月の二十一日で、確実に冬に近づいている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)には『芭蕉最後の連句、解説』という、「柳小折」「牛流す」「猿蓑に」「白菊の」の四つの歌仙を収めたPDFをアップしたのでよろしく。古典文学関係の連歌の下の方にあります。
 さて、『芭蕉書簡集』(萩原恭男注、一九七六、岩波文庫)の元禄七年九月二十三日付の意専(猿雖)・土芳宛の書簡に、この句が最初に登場する。

   秋暮
 この道を行人なしに秋の暮    芭蕉

 二日後の曲翠(曲水)宛書簡にも、この句は登場する。

 「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に
   秋の夜を打崩したる咄かな
   此道を行人なしに秋の暮
 人声や此道かへる共、句作申候。」

と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。
 この別案についてはその後各務支考の『笈日記』(やぶちゃんの電子テキストより引用)に、

 「廿六日は淸水の茶店に連吟して、泥足が集の俳語あり。連衆十二人。
  人聲や此道かへる秋のくれ
  此道や行人なしに龝の暮
 此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、是に、所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。爰にしるさず。」

というように記されている。

 人声やこの道かへる秋のくれ
 この道や行人なしに秋の暮

の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
 これは支考が後から書いたもので、興行の時にはすでに「此道や」の形になっていたが、多分どっちが良いか尋ねられた時にはまだ「此道を」の形だったのではないかと思う。
 芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。
 半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際には連衆は十人だった。もしかしたら主筆を含め、句を詠まなかった二人がいたのかもしれないが、確証はない。
 さて、この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句になる。
 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
 それに対し、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。

2017年11月7日火曜日

 立冬だけど俳諧のほうではまだ九月十九日で秋。秋ももう終わりに近い。
 昔の人は季重なりにこだわらなかった。そのため、狼も秋に詠むこともある。昨日はついつい見落としていたが、

    すさまじき女の智恵もはかなくて
 何おもひ草狼のなく   野水

の句は「おもひ草」が秋なので秋の句となる。
 秋の狼は露川撰の『北國曲』にも、

 狼の足跡さびし曼珠沙花    露竹

の句がある。
 秋の梟の句も、以前紹介した許六撰『正風彦根体』の、

 梟の世を昼にして月見かな   希志

もあるが、他にも『杜撰集』に、

 ふくろうの鳴音に落る熟柿哉  百花

の句がある。
 『一幅半』にも、

 梟を布袋のやうにわたり鳥   乙由

の句がある。梟を渡り鳥と間違えたのだろうか。秋に渡ってくる渡り鳥たちを七福神に喩えれば、布袋さんはフクロウというところか。
 『鵲尾冠』の、

   此鳥昼は諸鳥に笑はれ不出
 木兎や見ぬ葛城の神の顔    梅振

の句も秋の所にある。
 葛城の神といえば芭蕉の『笈の小文』にも、

   葛城山
 猶みたし花に明行神の顔    芭蕉

の句がある。
 葛城の神、一言主神はいわゆる異形だったのだろう。「顔が醜いから」というのは役の行者に使役されるのがいやだったから、仕事をサボる言い訳で使ってたのだろう。
 ただ、宮廷では夜にしかお目にかかれない女を「葛城の神」と呼んでたりしたから、中世の謡曲になるといつの間にか葛城の神は女神になってしまったようだ。芭蕉が「猶みたし」というのは本当は美人なんじゃないかと思ったからだろう。美人だけど歳とってちょっとやつれた感じが多分芭蕉の壺だと思う。

2017年11月6日月曜日

 昨日は三峰に行った。天気も良く紅葉も見頃だった。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/ )の「牛流す」の巻を若干書き直した。芭蕉晩年の俳諧を集めたPDFも準備中。『炭俵』の四歌仙、水無瀬三吟、湯山三吟、文和千句第一百韻のPDFが公開中。

 三峰といえば狼だが、狼は冬の季語になっている。

 狼の声そろふなり雪のくれ    丈草

のように、昔は狼の遠吠えが普通に聞こえたりしたのだろう。
 『韻塞』には、

 狼の道をつけたる落ばかな     程己
 狼のかりま高なり冬の月      奚魚

の句もある。「かりま高なり」はよくわからない。
 『猿蓑』には、「灰汁桶の」の巻ニ十四句目に、

   すさまじき女の智慧もはかなくて
 何おもひ草狼のなく       野水

の句もある。前句の「すさまじき」は女の物思いと狼の遠吠えの両方に掛かる。
 いずれにせよ、狼の声は冷え寂びた哀れで悲しげな響きとして聞かれていたのだろう。

2017年11月3日金曜日

 一昨日が十三夜だったから昨日は十四夜で今日は十五夜。別に十三夜に劣るわけではない。満月は明日らしい。
 昼は世田谷の方を散歩した。世田谷線の猫の電車を見た。経堂は農大の収穫祭で盛り上がっていた。後藤醸造の経堂エールを飲んだ。行列の出来るたい焼き屋の隣にある。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の方には「猿蓑に」の巻をアップした。「牛流す」の巻の六句目がないのに気づき、それも加えた。

 今日はまた連歌の付け筋に戻ってみようとおもう。
 今の連句では句が付かなくても誰も問題にしないし、むしろ付いてはいけないと思っている節もあるから、付け筋なんて誰も興味はないのかもしれない。
 しかも、今は興行ではなく、ネットでやる場合でも一日一句くらいのペースでやっているから、句をその場ですばやく即興で付けるということをしない。
 かつては興行の場で、特に古い時代は百韻が普通だったから、みんなが考え込んでしまって先に進まなくなる事を嫌った。だから、付け筋をいくつか覚え、さして内容の意味の深さにはこだわらず機械的に句を付けて切り抜けることも大事だった。いわゆる「遣り句」ができて一人前という世界だ。芭蕉も三十六句遣り句でもいいと言っている。
 梵灯の『長短抄』の「救済、周阿一句付」と呼ばれる、前句付け的な遊びに、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公
 花の後青葉なりしが紅葉して    周阿

 の句がある。「侍公」は救済(きゅうせい)の別名。

 「春夏秋」に対して冬の雪のときを持ってきて、意味の上できちんと通じるようにするのは違え付けになる。
 これに対し、「春」に「花」、「夏」に「青葉」、「秋」に「紅葉」を付けるのは四つ手付けになる。こういう付け筋を理解していると、難しい前句をふられても、すぐに付けることができる。
 『去来抄』にある芭蕉の、

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて   はせを

は秋の蓮の実から花の定座に持ってゆくつけ方で、秋に春をつけるため、基本的には「違え付け」か「相対付け」になる。
 対句的な「相対付け」ではなく、「違え付け」にする場合、上句下句合わせて意味が通るようにするには時間の経過を句に盛り込まなくてはいけない。この場合は「かたぶきて」が春から秋までの時間の経過を表す。

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ      はせを

の句も同様だ。この場合は時間ではなく「出つ入つ」が空間の移動を表すため、樫の木の森と咲く花を共存させることができる。
 救済の「雪のときさていかならむ峯の松」の句も、春夏秋に対して「さていかならむ」とすることで、これからの時間の経過を表している。
 一條兼良の『筆のすさび』では、この、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公

の句が、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 雪の比またいかならん峯の松    救済法師

になって、別の付け句を試みている。多分、当時は紙が高価だったため、口承で伝えられた句を記すことが多く、こういう異同が生じたのであろう。
 兼良の付け句は、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 実をむすぶなしのかた枝の花の跡
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに
 都出て幾関こえつ白河や

の三句だ。
 「実をむすぶ」の句は「春夏すぎて」に「花の跡」、「秋にこそなれ」に「なし」と四つ手に付いているから、周阿の句に近い。
 「毛をかふる」もまた鷹の換羽を「秋にこそなれ」に付けている。
 「都出て」は、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
               能因法師

を本歌とした付けになる。
 他の付け筋はないだろうか、ここでもう少し考えてみよう。
 たとえば「咎めてには」で付けられないだろうか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 なべて世はうつろふものと心せよ

 「春夏秋」の時間に対し空間に違えて付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 もろこしもやまとも人はそれぞれに

 周阿の「花の後青葉なりしが紅葉して」を「花」「青葉」「紅葉」をそれと言わずに匂いで付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 酒を酌み涼みし木々も空見へて

 別に句としての優劣というのではなく、本来連歌というのはいろいろな展開の可能性を試すゲームだったのではないかと思う。

2017年11月1日水曜日

 今日は十三夜で月がよく見える。ようやく天候が安定してきた。公孫樹は黄色くなっている所と緑のままの所が極端だったりする。
 今回は日本人の霊性について考えてみようと思うが、別にそんなに難しいものではない。基本的には多神教のまま近代化したため、神話や神の名は忘れてしまったが多神教の多元性原理だけは残っているという状態だ。
 多元性原理というのは簡単に言えば唯一絶対の物はないということだ。その点では一神教原理と真逆にある。
 唯一絶対の物はないということは、人間はもとより皆不完全だし、人間の理性や思考も完全なものではないから、どんな思想も絶対的なものではない。多神教の場合神様もまた完全ではない。だからどんな宗教も完全ではない。
 完全なものがないから、崇拝の対象としての絶対者は存在しない。日本人が自分の宗教のことを聞かれ、多くの人が「無宗教」と答えるのは、キリスト教のような絶対的な神を信じていないという意味で言っているだけで、神社へ行けば柏手を打ち、お寺へ行けば合掌する。
 絶対的なものがないから、一つの考え方の押し付けは日本では嫌われる。みんなそれぞれある一面では正しくて一面では間違っていることを認め合いながら、お互いに譲り合い妥協しあう。それが日本人のやり方だ。パヨクが嫌われるのも、彼らは一方的に自分の主張を押し通そうとする所があるからだ。
 とにかく自分が不完全であることを認め、謙虚さと慎みがこの国では求められる。
 同じ多神教でもインドではヒンディーの神々や神話が生きているのに対し、日本の多神教がなぜ神話や神の名を失ってしまったかというと、それは古代にまで遡ることができる。
 元来日本列島には縄文人が住んでいたが、中国の長江の下流域、いわゆる江南地方から海流に乗って様々な人間が断続的にやってきた。中国の漢書に登場する江南の倭人も日本人の祖先の一つと思われる。
 万葉の時代には秦人(はたひと)、漢人(あやひと)、呉人(くれひと)、越人(こしひと)、隼人(はやひと)など様々な人が登場する。それに加えて百済や高句麗の難民(いわゆる帰化人と呼ばれる人たち)が多数流入し、多民族の混然とした状態になっていた。
 記紀神話は当時の人たちに伝わるそれぞれの神話を統合した統一神話の試みだったと思われる。ただ、神道はこの神話を教義とすることもなく、その後も八幡神社や高麗神社、白山神社などの渡来系の神社が加わって、神話は結局統一されることなく、神道は結局教義や戒律のない宗教として多様なまま相対化されていった。
 一定の教義や戒律を持たないことで、日本の多神教文化は閉じた体系の宗教ではなく、常に新たな神々へと開かれた多神教という形を取るようになった。神道は仏教と習合したし、儒教も取り入れた。そんな開かれた多神教文化が近代化の際、キリスト教を取り込むことにも何の抵抗もなかった。ただ、多神教の一部として取り込まれただけで、日本は韓国や中国と比べてもキリスト教徒の数は少ない。キリスト教にとって最も難攻不落な土地だった。
 クリスマスやハローウィンは大騒ぎしてくれるけど、決してキリスト教を信じてはいない。多分イースターもだんだん日本に浸透してくるだろう。ただクリスチャンにはならない。日本の多神教的風土の中に取り込まれるだけだ。
 他所の国の人は日本は不思議な国だと思うかもしれない。ただ、ここには絶対的なものは何もないんだということを理解すれば、多少はわかりやすくなるだろう。
 絶対的なものを求めない日本人は、永遠の命も求めない。イワナガヒメではなくコノハナサクヤヒメを選んだ日本人は、限りある短い命を生きることを選んだ。『竹取物語』も本来はそういう物語だった。