芭蕉の命日が近づいてくると、辞世の句というのが気になりだす。
芭蕉のあの有名な、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
の句が辞世の句なのか単なる病中吟なのかというのは、これまでも様々に論じられてきたが、それ以前に芭蕉の時代に俳諧師が辞世の句を詠むというのは一般的に行われていることだったのかが気になりだした。
ネットで辞世の句を検索すると、出てくるのはたいてい戦国武将だったりする。もちろん発句ではなく和歌だ。
岩波文庫の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(竹内玄玄一著、雲英末雄校注、一九八七)を読むと、やはり古い時代は和歌を詠んでいる。
はかなしや鶴の林の煙りにも
立ちおくれぬる身こそ恨むれ
宗祇法師
俳諧の祖、荒木田守武は和歌と発句両方詠んでいる。
越しかたもまた行末も神路山
峯の松風峯の松風
荒木田守武
朝顔に今日はみゆらんわが世かな 同
同じく俳諧の祖、宗鑑は和歌の形式ではあるが俗語を交えた俳諧歌になっている。
宗鑑は何処へと人の問ふならば
ちとようありてあの世へといへ
宗鑑
貞門の祖、松永貞徳は辞世の歌を三首読み、その中の一つが『俳家奇人談』に記されている。
明日はかくと昨日おもひし事も今日
おそくは替る世のならひかな
松永貞徳
野々口立圃は辞世の発句を詠んでいる。
月花の三句目を今しる世かな 立圃
桜の満開の時に綺麗な月夜になることが稀なことからの発想か。西行は、
ねがはくは花のもとにて春死なむ
その如月の望月のころ
西行法師
と詠んだが、今の自分は月の句花の句と続いた後の三句目で、月も花もないということか。実際、立圃は旧暦の九月三十日に亡くなった。
山本西武(さいむ)は、
夜の明けて花にひらくや浄土門 西武
と極楽往生への願いを句に込めた。
斎藤徳元も貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。辞世の句は、
今までは生たは事を月夜かな 徳元
「生(い)きたは」から「たわごと」を導き出す手法は和歌の手法の俳諧化だ。豊臣の世が続いていたならいっぱしの大名になっていただろうに、そんな不遇な生涯を自嘲して、月にたわごとを言う俳諧師になったと詠んだのだろう。
こうしてみると、辞世の句を詠んだ人はそれほど多くなさそうだ。
もっとも、死ぬ直前に辞世を詠めるというのは状況的にも限定されている。まず、死ぬ直前にある程度元気でなくてはならない。長い昏睡状態の末に死んだのでは辞世は詠めない。また、くも膜下出血や心臓発作のような突然死でも辞世は詠めない。一番余裕を持って辞世を詠めるのは刑死する人と切腹する人かもしれない。そうでなければ遺言状のようにあらかじめ作って用意していたか、そんなところだろう。
そういうわけで、別に俳諧師だからといって辞世の句を詠まなくてはいけないということはなかったのだろう。
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