生きとし生ける者はすべて自分の遺伝子のコピーを作り出し、生存と繁殖に成功した者を残してきた。そこから生きとし生ける者にとって避けられないものとなった。
人間とて何ら例外ではない。たった一つの地球の有限な台地。地球の面積は増えることも減ることもない。その中でたくさんの生物が暮し、それぞれ子孫を増やそうとする。自分の居場所を確保する、ただそれだけのために他の者の居場所を奪わなくてはならない。
人間もまた生れ落ちるや否や、一人分の新しい居場所を作らなくてはならない。そのため、泣き叫び手足を振り回す。周りには愛情をもって育ててくれる人もいれば、それに嫉妬する人、あからさまに邪魔者扱いする人などさまざまだ。
そんな中で幼い頃から生きるということは戦いだ。母も戦い子もまた戦う。親は生きるために働く場所を確保し、競争相手から身を守る。子もまた子供同士のいじめと戦う。戦いは一生止むことなく続く。
芭蕉もまた、子供の頃は近所の悪ガキ達と争い、物心つくころには奉公に出て、職場のライバルたちと戦ってきた。身分の差は歴然としていて、雲の上の優雅な人たち、すぐ上にいる嫌なことがあると当り散らしてくる下級武士もいただろうし、料理人として一人前になったころには、擦り寄ってくる出入りの商人もいただろう。
いつの世も人生楽しいこともあれば苦しいこともある。そんな中で芭蕉を変えたのは藤堂藩の跡取り息子に俳諧の席に誘われたことだった。
そこでは身分の差はない。大名の息子も出入りの商人もみな「俳諧」という一つの言葉のゲームを通じて一つになり、笑い合う。人生の様々な苦しみや悲しみも、そこでは笑いに変えてくれる。
その席で、芭蕉は自分の才能に気づいた。自分の付けた句に皆が笑ってくれる。「上手い」と褒めてくれる。それは脳内の快楽物質(脳内麻薬)を分泌するのに十分で、やがてその快楽の奴隷となって行く。
それは別に異常なことではない。人間が一つの趣味にのめりこんでゆくときは、いつでもそんなもんだ。そしてしばしばそれは人間の一生を決める。学芸会で拍手喝采を浴びたばっかりに、役者の道にのめりこみ、貧乏暮らしをしている人はたくさんいるし、山に登った時の快感が忘れられずに、やがて世界中の山に登り、最後は山で死ぬものも多い。
芭蕉が俳諧の道に入ったのも、そういう意味では運命だったのだろう。
料理人時代にはちょっとした不注意で袖を焦がしてしまったことがあったかもしれない。さあ、口うるさい同僚から何を言われるやら。そんな悩みも俳諧なら、
才ばりの傍輩中に憎まれて
焼焦したる小妻もみ消ス 芭蕉
と、笑いのネタにすぎない。
やがて恩人の蝉吟も死に、藤堂藩の自分の居場所は少しづつ狭まっていった。だが、芭蕉には俳諧の才能があった。貞門の選集『続山の井』に二十三歳の若さで三十一句入集の快挙を果たしていた。そして終に二十九の時に故郷の伊賀を出て江戸で俳諧師を目指すことになる。
江戸は当時でも世界有数の大都会で、様々な刺激に満ち溢れていた。ただ生活するとなると決して楽なものではない。
最初は日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けだった。芭蕉は実務面でも十分な才能を発揮した。やがて、小石川の神田上水の浚渫作業賀行われたときは、人足集めて作業を代行する、一種の人材派遣の仕事を思いついた。そして、その頃江戸で一世を風靡していたのは談林の俳諧だった。
延宝三年に西山宗因が江戸に来た時は、芭蕉もその一座に加わった。俳諧のほうでも着実に実力が認められていたからだ。
そして、延宝五年には俳諧師匠として立机した。終に念願かなって俳諧師となる事ができたのだった。そして、延宝九年に出版した『俳諧次韻』で、芭蕉は自らの新風を世間に知らしめることとなった。
ただ、その頃芭蕉は既に体調を崩していた。頑張りすぎたのか、それとも元から体が弱かったか。延宝八年には三十六歳の若さで深川に隠居する身となった。弟子の杉風から提供された庵の庭には芭蕉の木を植え、自ら芭蕉庵桃青を名乗った。これが芭蕉が「芭蕉」になった瞬間だった。
静かな隠棲生活も天和ニ年十二月二十八日の八百屋お七の大火によって打ち砕かれ、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れた。芭蕉はその後しばらく甲斐の国で過ごし、そして再び江戸に芭蕉案を再興して、あの古池の句の着想を得、そして藩籍の関係で伊賀に帰らなくてはならない事情があったときに、それを野ざらし紀行の吟行の旅に変え、旅の俳諧師となり、俳諧を全国に広めて行くことになった。
その後たくさん旅をした。花の吉野山にも行った。姨捨山の月も見た。鹿島神宮にも詣でた。そして元禄二年にはみちのくを旅し、松島、象潟も見てきた。
旅先では数々の興行をこなし、たくさんの門人ができた。中には去っていった門人もいたが、芭蕉の周りには常に才能ある人たちが集まってきていた。
ただ、元から持病のあった芭蕉の体は、知らぬ間に少しづつ蝕まれていた。それでも、最後まで旅を続け、俳諧興行を重ね、俳諧を世に広め、世界に笑いを届けるのが生きがいだった。俳諧は人生のどんな苦しいことも笑いに変えることができる。俳諧の席では身分もなく、みんな一緒に笑い合える空間ができる。願わくば世界がそのようであったなら。
木の下に汁も膾も桜哉 芭蕉
影清も花見の座には七兵衛 同
そこではすべてのものが花となる。悪七兵衛景清だって、ここにくればただの七兵衛だ。俳諧はいつでも花の座だ。
その命ももう長くない。
昨夜は支考が早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、支考は若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば俺も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。
俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、酒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。
うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。人生のパノラマを見る小春の日、待てよ、この時代には「パノラマ」なんて言葉はなかったはずだ。この句は没。枕元には支考がいる。其角はまだ寝ているのかな。‥‥。
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