2017年11月7日火曜日

 立冬だけど俳諧のほうではまだ九月十九日で秋。秋ももう終わりに近い。
 昔の人は季重なりにこだわらなかった。そのため、狼も秋に詠むこともある。昨日はついつい見落としていたが、

    すさまじき女の智恵もはかなくて
 何おもひ草狼のなく   野水

の句は「おもひ草」が秋なので秋の句となる。
 秋の狼は露川撰の『北國曲』にも、

 狼の足跡さびし曼珠沙花    露竹

の句がある。
 秋の梟の句も、以前紹介した許六撰『正風彦根体』の、

 梟の世を昼にして月見かな   希志

もあるが、他にも『杜撰集』に、

 ふくろうの鳴音に落る熟柿哉  百花

の句がある。
 『一幅半』にも、

 梟を布袋のやうにわたり鳥   乙由

の句がある。梟を渡り鳥と間違えたのだろうか。秋に渡ってくる渡り鳥たちを七福神に喩えれば、布袋さんはフクロウというところか。
 『鵲尾冠』の、

   此鳥昼は諸鳥に笑はれ不出
 木兎や見ぬ葛城の神の顔    梅振

の句も秋の所にある。
 葛城の神といえば芭蕉の『笈の小文』にも、

   葛城山
 猶みたし花に明行神の顔    芭蕉

の句がある。
 葛城の神、一言主神はいわゆる異形だったのだろう。「顔が醜いから」というのは役の行者に使役されるのがいやだったから、仕事をサボる言い訳で使ってたのだろう。
 ただ、宮廷では夜にしかお目にかかれない女を「葛城の神」と呼んでたりしたから、中世の謡曲になるといつの間にか葛城の神は女神になってしまったようだ。芭蕉が「猶みたし」というのは本当は美人なんじゃないかと思ったからだろう。美人だけど歳とってちょっとやつれた感じが多分芭蕉の壺だと思う。

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