昨日は箱根湯本に行った。紅葉は前に東海道の旅で11月23日に行った時よりも浅かった。今年は紅葉が遅いような気がする。これも温暖化のせいか。石畳の猫に再会した。
さて、今日は旧暦十月十日で、『花屋日記』の方は一日先に進んで十月十一日の所を読んでみる。
まず、支考の『前後日記』の記述は短い。
「此暮相に晋子幸に来りて、今夜の伽にくははりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)
この日も昨日同様意識ははっきりしていたと思われる。そして一番のサプライズは其角の到着だった。其角の句、そしてその後夜更けにみんなで詠んだ句は割愛してあって、夜も明ける頃のことを記している。支考が何らかの理由で芭蕉を取り囲む他の門人たちの所から追い出された可能性はある。ただ、実際の所何があったかはわからない。偽書の『花屋日記』はそこの所を空想で書いているが、多分当たってないだろう。
支考は他の門人たちと違い、若いということもあって、呑舟・舎羅と同様に介護役を引き受けていた可能性はある。明け方に起きていて薬の話をしているなら、この日は早番で夜遅くまで他の門人たちが句を詠んだりしていたとき、明日早いんだから寝ろとか言われて隣の部屋で休んでいた可能性はある。それが、
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
だったのかもしれない。
これに対し、其角の『芭蕉翁終焉記』は到着してから夜のことは詳しく書かれているが、一気に次の日の午後まで飛んでいる。まあ、酒飲みの其角のことだから何となく想像がつく。
其角の『芭蕉翁終焉記』には、芭蕉の所に来るまでのいきさつが書かれている。
「予は、岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に着て、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかがひより、いはんかたなき懐(オモヒ)をのべ、力なき声の詞をかはしたり。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66)
このときたまたま和泉の国の淡輪(たんのわ)に行き、弟子の岩翁・亀翁の親子とともに船で吹飯(ふけい)の浦を見て堺に戻ってきたところで、十一日の夕方に大阪に着いて芭蕉が病気だと聞いて急いで駆けつけたという。夕方に大阪に着いて暮相には芭蕉の所に来たのだから、そんなに距離はなかったのだろう。
近頃は疎遠になっていたとはいえ、延宝の頃からの長い付き合いだった其角にしてみれば、これはまさに住吉の神の引き合わせた奇跡だったに違いない。
折からの時雨に其角は一句、
吹井より鶴を招かん時雨かな 其角
出典は新古今集の、
天つ風吹飯(ふけゐ)の浦にいる鶴(たづ)の
などか雲居に帰らざるべき
藤原清正
ふけゐの浦から吉祥の鶴でも飛んできそうな時雨か。実際に飛んできたのは其角だったが。
鶴を出すあたりは、賀会祈祷の句の、
木枯らしの空見なをすや鶴の声 去来
と被っている。
そのあと
「露しるしなき薬をあたたむるに、伽のものども寝やらで、灰書に、
うづくまる薬の下の寒さ哉 丈草
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66~67)
の句をそれぞれ詠む。『去来抄』には、
うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
先師難波病床に人々に夜伽の句をすすめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19)
とある。
うづくまる薬(やかん)の下の寒さ哉 丈草
の句は確かにその場にあるものを素直に詠んでいながら、「寒さ」に病床の不安な心情が現れている。事実であると同時に比喩でもあるという表裏ある表現は俳諧では好まれる。
この句は近代の、
水枕ガバリと寒い海がある 三鬼
と比較することもできよう。三鬼の句の場合、「寒い海」が比喩なのにもかかわらず「ある」と断定している所が西洋の象徴詩やシュールレアリズムの影響をうかがわせる。江戸時代の俳諧なら、
水枕ガバリと海の寒さ哉
とするところだろう。これだと「海の」だけが比喩になり「かな」と結ぶことで断定せずに、「水枕は海のようなガバリとした寒さだろうか」となる。
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
これは『去来抄』で、「興を催し景をさぐる」と言っているように、「冬籠り」という無難な季題から興を起こし、「病中の余りをすする」という景を導き出している。「あまり」というところに謙虚さが感じられるが、型通りの挨拶句で落ち着いている。
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
これは病気の情景から離れて、門人たちが雑魚寝をしている情景を詠んでいる。
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
さっき書いたように、「支考、明日早番だからもう寝ろ」といわれてしぶしぶ隣の部屋に行く寒い気持ちを表現している?
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
夜伽の句がお題だから、素直にこのままずっと夜伽したいという気持ちを述べ、「冬籠り」の季題を放り込む。
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
これも看病生活の一場面か。飯の当番を籤で決めていたか。
延宝六年の芭蕉の句に、
忘れ草菜飯に摘まん年の暮 桃青
の句があるから、菜飯は冬にも詠んだか。
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州
蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くと言われていた。『風俗文選』の素堂の「蓑虫ノ説」に「ちちよちちよとなくは、孝に専なるものか」とある。みんな芭蕉さんのことを父のように慕ってます、ということか。
『去来抄』に「今日より我が死期(死後)の句也。一字の相談を加ふべからず」と、要するにもう自分はいないものと思い、意見や添削を一切受けられないと思って詠め、ということで弟子たちの到達点を見極めたかったのだろう。丈草はその期待にこたえたが、あとの句はどう思ったかよくわからない。ただ、それほど悪くはなかったのだろう。これで一つまた思い残すことがなくなったか。
こうしてやがて夜が明けるころ、芭蕉は支考に、延命治療の薬はいらない、老子の薬(無為自然ということか)にしてくれ、と頼み、眠りに着く。
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