2017年11月29日水曜日

 今日は旧暦十月十二日。芭蕉の命日。暖かな小春日和で、きっとあの日もこんなだったのだろう。
 もっとも新暦に換算すると元禄七年の十月十二日は西暦一六九四年十一月二十八日だから、新暦で言えば昨日が命日ということになる。
 そのときの様子は支考の『前後日記』にこう記されている。

 「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく垂れるを期として」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)とあり、午の刻(十二時頃)に目覚めた芭蕉は申の刻(三時頃)に亡くなったことになる。
 たくさんの門人たちがいて、鳥餅をぬった竹で蠅を取ったりして、それを見て笑って最後の時を迎えることができた。ある意味で最高の最期だったかもしれない。
 どんな時でも最後まで笑うことを忘れない、それが俳諧の力なのだろう。

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