2022年6月30日木曜日

  人間は基本的にはこれまでの熾烈な生存競争の勝者の血を引いているからね。だから好戦的かどうかということに関しては男も女もそんなに変わんないと思う。
 ただ、子孫を残すことに関して、女性は自分が生まなくてはいけないが、男は基本的に消耗品だからね。だから戦うとなると男は一か八かの賭けに出る傾向があり、そのための色々奇想天外な戦略を考えるのが好きだ。
 それに比べると女は自ら矢面に立つのではなく、男をけしかけて自分を安全な所に置くことを好むものだ。女性が平和主義者だというのはそういうことだ。
 男は死んでも種を残すことはできる。女は最低でも十月十日、子供を自分が生き永らえなくては子も生き永らえない。
 そういうわけで女性の独裁者がいたからと言って、侵略戦争を起こさないという保証は何もない。ただ、先頭を切って戦うか、後ろから煽り立てるか程度の違いにすぎない。それでいくと自ら先頭に立とうとしないプーちんって、て感じはするけどね。
 ボリス・ジョンソンさんやゼレンスキーさんはいかにも男って感じがする。

 それでは「東路記」の続き。

 「南宮山の南、多岐山の北を通る道あり。南宮山と多岐山との間也。此谷は、関が原の谷あひより広しと云。上方より下る道筋は、今洲より関が原へゆかずして、関が原の西より南へわかれ、東へ行く。
 牧田と云宿、今洲より二里、牧田の東に高田といふ宿あり。其東に、唐末と云所有。是。大垣の南也。唐末より河船にのり、桑名へも宮へもゆく也。京都の商人などは荷物を江戸へ下すに、多くは此道をつかはすと云。今洲より唐末まで六里有。
 関が原軍の前の夜、石田、小西など、大垣の城より夜中に出て、ひそかに関が原の西へ退きしは、此道なりと云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24~25)

 南宮山と養老山地との間を通るルートは、今は中央自動車道西宮線が通っている。牧田川が流れていて、関が原から流れる藤古川と合流する辺りに今も牧田の集落がある。
 平野部に出た所に高田馬場町があり、その東には養老鉄道の美濃高田駅がある。、この辺りが高田宿であろう。
 養老鉄道はここで東に行き、次の駅が烏江(からすえ)駅になる。ここが唐末であろう。ここから船で揖斐川に出て、下って行けば伊勢湾に出る。桑名へも熱田へも行ける。
 この街道は九里半街道と呼ばれている。米原の朝妻湊と揖斐川とを結ぶ物流の要衝で、いわば産業道路だ。今洲から唐末が六里ということは、朝妻湊から今洲までが三里半ということか。
 石田・小西などの動向は、ウィキペディアに、

 「(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。」

とある。赤坂から移動した家康が桃配にいたため、そこを避けてこのルートから関が原に入ったという。

 「大関村は、関が原の町より三町ばかり西也。是、不破の関のありし所也。大関村の西のはづれに川あり。関の藤川と云。いづれも名所なり。俗に藤子川といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 関が原の西の旧中山道沿いに今も「不破の関跡」がある。関の藤川(藤子川)は今は藤古川と表記されている。
 不破の関は言うまでもなく多くの古歌に詠まれている。

 あられもる不破の関屋に旅寝して
     夢をもえこそ通さざりけれ
              大中臣親守(千載集)
 人住まぬ不破の関屋の板庇
     荒れにしのちはただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

などの歌があり、貞享元年にここを訪れた芭蕉も、

 秋風や薮も畠も不破の関     芭蕉

の句を詠んでいる。
 関の藤川も、

 美濃の国関のふち河たえずして
     君につかへむよろづよまでに
              陽成天皇(古今集)
 つかへこし世々の流れを思ふにも
     我が身にたのむ関の藤川
              京極為兼(続拾遺集)

の歌に詠まれている。

 「南宮山の西南に、多羅山有。其道を土岐多羅越と云。近江の日野山の方へ越す道なり。関が原陣敗れし時、嶋津氏退給ひし道なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 南宮山の西南は九里半街道牧田宿があり、そこから牧田川を遡って南西に行くと上石津町下多良という地名の残っている谷がある。その南の上多良という所には島津豊久の墓がある。伯父の義弘とともに関ケ原の合戦に西軍として参加したが、ウィキペディアには、

 「乱戦の最中、義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ、「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で伊勢街道方面に撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出した。井伊直政勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり(捨て奸)となって、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎と大軍の中へ駆け入って討死した。薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9km近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承もあり、同寺には墓が現存している。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった。」

とある。どうやらここにある墓は伝承であって確証はないようだ。美少年だったとのうわさもあるようだ。
 今は国道365号線が通っていて、伊勢へと抜けられる。鞍掛峠を越えると近江の方へも抜けられる。かつての参宮街道だったようだ。今は国道306号線が通っている。

 「関が原と今洲の宿の間に、山中の里あり。関が原陣おはりて、其後、家康公、此所に御宿陣有しなり。源の義経の葉は、常盤が墓あり。道の北、森ある所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 旧中山道は関が原を出ると南に向きを変える所があり、そこに山中という地名があり、今も常盤御前の墓というものがある。貞享元年にここを訪れた芭蕉は、『野ざらし紀行』に、

 「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤(ときは)の塚有り。伊勢の守武(もりたけ)が云ける、よし朝(とも)殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

 義朝の心に似たり秋の風」

と記している。

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風     守武

の句を思い起こしての吟になる。

2022年6月29日水曜日

 梅雨が早く明けたとはいっても、何のかんの言っても六月は明日で終わり。旧暦では今日からが水無月になる。
 いろいろ古い本やレコードやCDを引っ張り出しては要るものと要らないものに仕分けしている。「夢の大掃除」というタイトルのCDが出てきて、今の気分にピッタリだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「栗原山は、南宮山の東のはし也。南宮山につづけり。少ひきし。其下に栗原村有。関が原陣の時、長曾我部土佐守、陣せし処也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23~24)

 栗原山は南宮山の山塊の南東の端になる。栗原城跡がある。
 長宗我部土佐守盛親はウィキペディアに、

 「盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。
 しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は敗退した。」

とある。

 「野上の里、名所なり。古歌多し。今は駅にあらず、民家少あり。垂井と関が原の間なり。其南に鶏籠の山とてあり。野上の西に、桃くばりと云野原あり。是、関が原御陣の時、其日の御本陣也。小家二三軒ある所の、少東なり。天武帝も野上に陣し給ふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)

 野上は垂井宿と関が原宿の間にある。東山道の駅があったと言われているが、『延喜式』には不破駅はあるが、野上の名はない。不破駅とそう離れてないため、同じ駅なのか、後に多少移動して名前が変わったかではないかと思う。
 野上には鶏籠山真念寺があり、その南側の山が鶏籠山なのだろう。南宮山の北西になり、同じ山塊に属する。真念寺のすぐ裏に大海人皇子野上行宮跡がある。
 その少し西に今も桃配運動公園がある。このあたりが桃くばりという野原だったのだろう。そのまた少し先に桃配山・徳川家康最初陣跡がある。
 桃配山はウィキペディアに、

 「672年に起きた壬申の乱のおり、大海人皇子(後の天武天皇)が野上の行宮からここ不破の地に出陣して名産の桃を全兵士に配り戦いに快勝した。その奇縁により、桃配山とか桃賦野(ももくばりの)と呼ばれるようになった。
 のちに安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いにて、東軍の総大将徳川家康はその故事にならい、ここ桃配山に最初の陣を置き勝利を得た。」

とある。
 野上の里は、

 露しげき野上の里の仮枕
     しをれていづる袖の別れ路
              冷泉為秀(新拾遺集)
 東路や伊吹颪の激しさに
     野上の里に吹雪しにける
              藤原親隆(為忠家後度百首)

などの歌に詠まれている。

 「関が原の東北に、磐手山あり。其ふもと、竹中氏の在所なり。磐手のおくの谷の中に、菩提と云所あり。信長公の時、竹中半兵衛重治の居城也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)

 野上の北の山に菩提山城跡がある。ウィキペディアに、

 「菩提山城(ぼだいさんじょう)は、岐阜県不破郡垂井町の菩提山にあった山城である。竹中重元が岩手弾正を滅ぼした後、竹中氏の居城として新たに築城したものとされ、麓に竹中氏陣屋が築かれるまで使用された。西美濃では最大級の山城である。」

とある。この辺り一帯が磐手山だったのだろう。岐阜県不破郡垂井町岩手という地名が残っている。昔の人が「山」といった場合は特定のピークを指すのではなく、辺り一帯の山全体を指す場合が多い。甲斐が根だとか白根山だとか言っても今の北岳だけを指すのではないのと同じだ。

 「〇関が原の谷の間、南北の広さ、凡八九町程に見ゆ。道より両山の下まで、各四町余もあらんか。町の東の野、此四五十年前までは木もなくて、只かや原なりしが、今は林のごとく木ども多くおひしげれり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)

 関が原の合戦場は一面のススキが原だったのだろう。ただ、貞享の頃には既に雑木林に遷移していた。

 「関が原の町の中、北の方に八幡宮あり。其前の道は、即、越前へ通る北国街道也。其道を行て、八幡の社の後の野、関が原陣の時の古戦場也。小関村は、北国へ行く道筋にて関が原へ近し。小池村_、小関村の少さきにあり。関が原の西にひきき山、三並べり。其南のはしなる山を、天満山と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)

 関が原に八幡神社は幾つもあるが、北の方というと笹尾山・石田三成陣地跡の近くの八幡神社だろうか。近くに関ケ原古戦場決戦地もある。
 ここでいう北国街道は北国脇往還のことであろう。関が原と琵琶湖の北の木ノ本の間を結んでいた。今の藤川春照線と国道365号線に受け継がれている。
 関ケ原古戦場決戦地の南の国道365号線に小池北・小池南という信号があり、小池村の地名はこの辺りに残っている。
 天満山は関が原の開戦地に近く、北側に池寺池がある。後の二つの山はよくわからない。城山と岩倉山か。

 「松尾山は、海道の南にあり。道より少遠し。関が原の南西の方也。関が原陣の時、筑前中納言秀秋卿の陣所なり。高山の上に陣をとられし也。山上は城あとのごとく見ゆる。其昔は、不破河内守、居城なりといふ。秀秋の陣所の時には城なし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24)

 不破の関跡の南側の山全体を松尾山というのだろう。小早川秀秋陣跡があり、松尾山城跡がある。ウィキペディアには、

 「関ヶ原の戦いでは小早川秀秋が陣を構えたのがこの松尾山である。陣を構えたのは東軍・西軍の配置が一望できるということもあるが、元々この地には南北朝時代から戦国時代の城である松尾城があり、布陣のさいにその跡を利用したという。現在も土塁、主曲輪、曲輪などの跡が残る。松尾山城址は関ケ原町指定史跡となっている。」

とある。
 不破河内守は不破光治のことか。ウィキペディアに、

 「不破 光治(ふわ みつはる、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏・織田氏の家臣。不破直光(勝光)、不破源六の父。太郎左衛門尉・河内守。」

とある。一五七九年まで城主だったという。

2022年6月28日火曜日

 今日はメルカリ教室へ行ってきた。さあこれから「売物ブギ」の始まりだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「南宮山は、垂井の宿の南にあり。美濃の中山とも、不破の中山とも云。名所なり。南宮のうしろにも広き谷あり。南の谷の中にある故、中山と云。
 又、御社山ともいふ。南宮の社ある故也。社は山もふもとにあり。大社也。東に向へり。鳥居は垂井の町中の南にあり。其額に、『正一位勲一等金山彦大神』と書り。社僧十二坊、社人十二人有。其外、小なる社、人多し。社領三百石、公儀より御寄附と云。
 関が原軍の時、安国寺、ここに陣せしが、此宮を焼払ける。其後、建立あり。今、其時のまま也。関が原陣の時、毛利宰相秀元、吉川広家、其外の大勢、横合の合戦をせんため、此山に陣を備へ居たりしかども、吉川よりかねて黒田長政へ内通ありて、軍はせざりしなり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 垂井宿の南に南宮大社があり、その後ろの山が南宮山になる。美濃国一之宮になる。かつての毛利の陣のあったところは今は展望広場になっている。山頂よりやや東になる。
 中山というと小夜の中山が思い浮かぶが、特にここに街道があったわけではないようだ。不破の関跡は関ヶ原の谷間にあり、古代東山道もこの低地を通っていたようだ。
 毛利秀元と吉川広家は西軍で、南宮山の北側に陣取った家康の軍を背後から攻撃できる位置にあったが、予想以上に早く関が原で東軍が圧倒し、それを眼下に見下ろしていた毛利秀元は軍に参加せず、吉川広家は東軍に付くことになった。
 不破の中山は、

 眺めこし心は秋の関なれや
     月影清き不破の中山
              後鳥羽院(正治後度百首)
 関の戸をささぬ御代にもふりつもる
     雪にやすらふ不破の中山
              足利尊氏(延文百首)

などの歌に詠まれている。

 「〇垂井も名所なり。古歌あり。垂井の辺に小嶋と云所あり。後光厳院、南軍をおそれさせ給ひ、此所に行幸ありし行宮の石ずへ今にあり。民安寺と云律院にわたらせ給ひけるとなん。御手づから植させ給へる松あり。二条良基の小嶋のすさびと云書に、此時の事を記せり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 垂井(たるゐ)は和歌では「垂井の水」「垂井の清水」を詠む。ウィキペディアに、

 「垂井の泉(たるいのいずみ)は、岐阜県不破郡垂井町にある県指定の天然記念物である大ケヤキの根本から湧き出している泉。岐阜県の名水50選に選ばれている。「垂井」の地名の由来となった泉である。」

とあり、

 「『続日本紀』天平12年(740年)12月条に見られる、聖武天皇が美濃行幸中に立ち寄った「曳常泉」はこの場所とされており古来から由緒ある泉として近隣の住民から親しまれるだけでなく、歌枕(たる井の水)としても知られ、天下の名泉として多くの人に親しまれてきた。」

とある。

   藤原頼任朝臣美濃の守にてくだり侍けるともにまかりて、
   その後年月をへてかの國の守になりてくだり侍て、
   垂井といふいづみをみてよめる
 昔見し垂井の水はかはらねど
     うつれる影ぞ年を経にける
              藤原隆経(詞花集)
 我が袖の雫にいかがくれべみむ
     稀に垂井の水の少なき
              冷泉為相(夫木抄)

などの歌に詠まれている。
 後光厳院は北朝の後光厳天皇で建徳二年(一三七一年)に譲位して後光厳院となる。
 垂井御幸は後光厳天皇即位の文和二年(一三五三年)のことで、観応の擾乱の影響で垂井に遁れていたという。
 岐阜県のホームページに、

 「垂井祭曳車山は、西町の攀鱗閣、東町の鳳凰閣、中町の紫雲閣の3基で、各町内にりっぱな曳車山倉庫を有して大切に保存され、八重垣神社の祭礼(5月2~4日)に曳き出され、名物の子ども芝居を演じる。高山の山車も壮麗であるが、垂井の曳車山は高山のものより複雑な構造で、美しさも決して劣るものではない。山車は上部宝形造りで、3基の曳車山で三種の神器を象っているといわれている。
 垂井祭の歴史は古く、文和2年(1353)後光厳院が南朝の軍を垂井頓宮に避けられたとき、八重垣神社の祭礼に際し、里人は院を慰めるために花車山を引き回した。これを例に寛永頃から舞台作りの曳車山を作って祈るようになったという。」

とある。
 垂井頓宮はその後民安寺になったというが、その民安寺は現存せず、相川水辺公園(左岸)より少し北に行った所にある館守神社に、民安寺の石燈篭が残っているという。
 二条良基は連歌の方で有名で『応安新式』を作った人でもある。その『小嶋のすさび』にこの時のことが書いてあるという。

 「多岐山は、南宮山の東南にあり。高山にて長し。伊勢の多度山につづけり。尾越の方より見れば、西に長くつづきたる高山なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 多岐山は今の養老山地のことであろう。南の端に多度山があり、南の麓に多度大社がある。「長し」とあるように特にどの山を指すというのではなく、山地全体を指すと思われる。養老の滝があることから「滝山」だったか。

 「〇養老の滝は、多岐山の最高き所の少南の谷にあり。其下に広き野あり。其広き野の上也。山に道ある所なり。其谷は大道よりよく見ゆ。滝は見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 養老山地の最高峰は笙ヶ岳(標高908m)で養老の滝の上になる。広き野は今の養老公園の辺りか。

2022年6月27日月曜日

 随分早く梅雨明け宣言が出た。

 それでは「東路記」の続き。

 「慶長五年、家康公は、石田治部少輔等退治のために関東より御上り有て、九月十四日、赤坂の南なる岡山につかせ給ふ。此時、敵は大垣に籠城す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)

 これは大垣城の戦いのことで、ウィキペディアに、

 「大垣城に駐留していた西軍は9月14日夜、大垣城に守備兵として福原長堯以下7,500名を配置して主力を関ヶ原へ移動した。
 本丸は福原長堯、熊谷直盛、二の丸は垣見一直、木村由信、木村豊統、相良頼房、三の丸は秋月種長、高橋元種らが受け持った。また、守備に携わる武将の中に山田去暦がおり、その娘おあんが残したおあむ物語がこの戦いの城内の様子を描いたものとして残っている。
 9月15日払暁に水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信ら東軍が三の丸に攻撃を開始。三の丸はその日のうちに陥落したと思われる。また、関ヶ原の戦いもこの日で決着がついたので大垣城は敵地に取り残されることとなる。
 9月16日夜に相良頼房、秋月種長、高橋元種が水野勝成との交渉によって東軍に寝返り、9月18日に守将の垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛らを軍議を名目に呼び出し謀殺し、大垣城の主だった武将は福原長堯のみとなった。
 福原長堯は二の丸が陥落した後も抗戦を続けたが徳川家康の使者の説得により9月23日に松平康長に降伏を申し入れ、開城した。
 福原長堯は剃髪後に伊勢朝熊山にこもるが許されず後に切腹した。」

とある。
 岡山本陣跡は今のJR美濃赤坂駅の南西にある。中山道赤坂宿の南になる。

 「家康公は、態(わざと)、本道をば通り給はず、清州より海道の東の方を御通り、長柄川を御越、横大路、呂久川を御渡り、西の保斤山を御通り、赤坂のうしろ、虚空蔵山と其北、南禅寺山との間にある、金地越と云道を御通り、岡山へ御着陣あり。
 西の保村、御通りの時、八条村の瑞苑寺の禅僧、大なる柿を献ず。家康公、是を御取、『大柿、はや手に入たる』と仰ありて、御感悦あり。其寺を『柿の寺』と名を賜る。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)

 保斤山(ほきやま)はどこかわからないが、清州から西というと養老山脈の方か。横大路も長良川、呂久川と並べ垂れているから横大路川という川があったのだろう。今の大江川か。
 虚空蔵山は大垣の明星輪寺(みょうじょうりんじ)のことであろう。ウィキペディアに、

 「通称「赤坂虚空蔵」、「虚空蔵さん」、「こくぞうさん」。日本三大虚空蔵の一つという。(京都法輪寺、伊勢朝熊山金剛證寺、他の説もある)
 本尊は虚空蔵菩薩。洞窟(岩屋)の中にある彫刻。言い伝えによれば、役小角が彫刻したものという。」

とある。周辺は石灰採掘場になっていて、昔の影もない。金地越は金生山を越える道だったか。
 西の保村は西保村でウィキペディアに、

 「西保村(にしのほむら)は、かつて岐阜県安八郡に存在した村である。現在の安八郡神戸町西保に該当する。」

とある。明星輪寺の北東で養老鉄道の広神戸駅の南西になる。
 八条村も岐阜県安八郡の一つで。安八郡神戸町に八条という地名が残っている。養老鉄道広神戸駅と東赤坂駅の中間あたりで、瑞雲寺という寺がある。
 神戸町のホームページの白山神社のところにこの瑞雲寺の僧から家康が柿を得た話が記されている。
 あえて大垣城の背後を突く形で養老山の麓の方から赤坂宿の北の方を回って岡山本陣に入ったようだ。

 「〇赤坂辺より、岐阜の山、近く見ゆる。信長公の嫡孫、岐阜の中納言秀信卿の城あと也。是、稲葉山と云。名所なり。此城も関ケ原陣の前に落城す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21~22)

 赤坂から金華山は結構距離はあるが、間に遮るものはない。何でここでという感じもするが、貝原益軒先生は鎌倉街道美濃路を通ってきたため、大垣の手前の安八町を通る辺りで金華山が一番近くなる。
 ウィキペディアに、

 「1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。
 1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。」

とある。
 元禄七年伊賀での「残る蚊に」の巻十七句目に、

   かち荷は舟を先あがる也
 美濃山はのこらず花の咲き揃ひ  芭蕉

の句があるが、これが金華山のことかどうかはよくわからない。
 稲葉山は

 稲葉山雪の松風冴えくれて
     村雲白く出る夜の月
              行能(建保名所百首)
 稲葉山松の嵐や寒からむ
     秋の麓に衣打つなり
              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

などの歌に詠まれている。

 「〇美濃国に名物多し。美濃紙は岐阜の北、いぢらの谷と云所より出る。広き谷也。尾州君の御領地なり。
 又、にう山と云所よりも出る。是は赤坂の北、十里ばかりにあり。松平丹波殿の領内なり。
 つるし柿は岐阜の近所、はち屋と云所より出る故に、はちや柿と云。
 真桑瓜は岐阜の西、赤坂よりうしとらの方二里に、真桑と云所あり、其地より出る。
 関と云所に、昔より鍛冶多し。今も然り。岐阜より五町ばかり有。いぢらの谷に近し。広き町有。海道にはあらず。郡上_近所なり。郡上は、北美濃の山中也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)

 「いぢらの谷」は伊自良村であろう。ウィキペディアに、

 「伊自良村(いじらむら)は、岐阜県山県郡にあった村である。2003年(平成15年)4月1日に山県郡の美山町・高富町と共に合併し山県市となった。」

とある。岐阜市の北にある。
 古代は関が原に近い垂井で作られていたというが、室町時代後期には製紙業の中心は山県市の方に移った。コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)「美濃紙」の解説に、

 「応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後、美濃一帯を統治した土岐成頼(ときしげより)の施政により、中世以降この地方の一大産業としての地位を確保した。京都へ送られた美濃紙は、当時の五山の禅僧の詩文に多く表れてその名を知られ、大矢田(おおやた)(美濃市)は紙の集産地として栄えた。また和本の用紙にも使われて、美濃本あるいは美濃判の名が一般化した。美濃紙の名は、1603年(慶長8)刊の『日葡(にっぽ)辞書』にも採録されている。代表的な美濃紙としては、厚手の森下(もりした)、薄手の典具帖(てんぐじょう)があるが、これらは現在でも長良(ながら)川支流の板取(いたとり)川、および武儀(むぎ)川に沿った地方で漉(す)かれている。」

とある。板取川は山県市の西の美濃市側になるが、武儀川は山県市を流れている。伊自良川も同じく山県市で、低い山を隔てて並行に流れている。
 にう山はよくわからないが、かつて垂井の北の揖斐川流域だろうか。
 松平丹波殿はこの時代だと加納藩の松平光永がいる。あとはよくわからない。
 「はち屋」は美濃加茂市の蜂屋であろう。
 真桑と言えば支考の出身地も真桑瓜の産地で、『梟日記』の旅で中津街道の大橋(今の行橋)に来た時、

 「柳浦亭にまねかれて、手作の瓜畠など見あるきけるに、古里の眞桑もいまや盛ならんとおもへば、なにがしの僧正の哥のこゝろまでおもひやられて、

 美濃を出てしる人まれや瓜の華  支考」

の句を詠んでいる。
 甜瓜(マクワウリ)は美濃の真桑村で古代から作られていたもので。近代に西洋メロンが普及するまでは夏の味覚を代表するものだった。真桑村は現在の本巣市の南部で樽見鉄道に北方真桑という駅がある。支考の出身地も美濃国山県郡北野村西山でそう遠くない。
 関と言えば関の孫六が有名だが刀鍛冶が多かった。関は郡上への入口で長良川鉄道が通っている。昔は国鉄越美南線だった。

 「赤坂の北、虚空蔵山に虚空蔵堂あり。赤坂の宿は、昔、熊坂の長半が源義経よりうたれし処なり。東照宮の御陣所、岡山は、赤坂の南にあるひきき山なり。大垣の方よりは北に見ゆる。勝山と名を改させ給ふ。其南に今も御殿あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)

 虚空蔵山は先にも出てきた明星輪寺で、家康はここを通って岡山の陣所に入った。途中大きな柿を貰った。
 「ひきき山」は前にも「ひきき木山」とあったが単に低き山のことか。
 熊坂長範はウィキペディアに、

 「室町時代後期に成立したと推定される幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。
 源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた。
 幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである。

 鞍馬寺を出奔し金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた。

 謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である。」

とある。延宝六年春「さぞな都」の巻七十九句目にも、

   甲頭巾に駒いばふ春
 熊坂も中間霞引つれて      信章

の句がある。

 「青墓は、昔は宿駅なり。今は小里なり。町なし。名所なり。古歌有。長者が屋敷の跡有り。朝長(ともなが)の社は、青墓の西の道より北の谷のおくに四五町にあり。朝長八幡と云。
 其北の山の上に、朝長の墓有り。青墓の西に青野村あり。其西は、青野が原なり。名所也。古歌あり。『熊坂の長半が物見の松』とて、大なる松あり。
 赤坂より西に行けば南に見ゆ。大垣より行けば北に見ゆる。
 垂井の少まへに川有て、大垣へ行道と、赤坂の方、木曽路の筋へ行道と、ちまたわかる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.22)

 青墓宿はウィキペディアに、

 「青墓宿(あおはかのしゅく)は、美濃国不破郡青墓村(現在の岐阜県大垣市青墓町)にあったとされている古代・中世の東山道の宿駅。青波賀,奥波賀,遭墓,大墓,青波加,青冢とも書く]。
 不破関の東側にある宿駅で、平安時代末期から鎌倉時代に遊女や傀儡子が多くいたことで知られ、『梁塵秘抄』などに伝承が遺されている。『十訓抄』によると、『詞花和歌集』6巻の「はかなくも今朝の別れの惜しきかな いつかは人をながらえて見し」は、青墓の傀儡女、名曳(なびき)が詠んだものといわれる。」

とある。
 赤坂宿と垂井宿の間にあったと思われる。青墓のよしたけあん跡が今もある。

 はかなくも今朝の別れのおしきかな
     いつかは人をながらへてみし
              くぐつなびく(詞花集)

の歌の外に、

 ひとよみし人のなさけはたちかへり
     こころにやどる青墓の里
              慈円(夫木抄)
 尋ねばやいづれの草の下ならむ
     なおおおかたの青墓の里
              飛鳥井雅経(明日香井集)
などの歌に詠まれている。
 「熊坂の長半が物見の松」は『冬の日』の「狂句こがらし」の巻二十一句目の

   いまぞ恨の矢をはなつ声
 ぬす人の記念の松の吹おれて   芭蕉

の記念の松のことと思われる。
 中山道の南、美濃路の北にあり、垂井町立東小学校裏の綾戸古墳に今も説明板が立っている。
 青野が原は、

 伊吹山さしも待ちつる郭公
     青野が原をやすく過ぎぬる
              飛鳥井雅縁(為尹千首)

の歌に詠まれている。

2022年6月26日日曜日

 俳諧を読むということは、その時代の歴史を読むことでもある。
 歴史(イストワール)を読むというのは、単に文字通り単に物語(イストワール)を読むことではなく、その物語の裏にある隠された基礎設定を理解しなくてはならない。つまりその時代の暗黙の約束事、その時代の習慣、世界観、それらをひっくるめて解明していかなくてはならない。
 この基礎設定や世界観を理解することの必要性は、ラノベの読者なら理解できることであろう。
 異世界の物語を読むには、その異世界が我々の世界とは異なる独自のルールで動いている世界であることを理解しなくてはならない。
 歴史を現代人の価値観を一方的に当てはめて理解してはいけないということは、既に戦後の歴史学の流れで起こっていたことだ。いわゆる進歩史観から脱却して、その時代を構造的に理解することで、近代的偏見から解放されなくてはならない。
 レビ・ストロースは未開社会をそれに適用し、ミシェル・フーコーは「知」の歴史にそれをあてはめた。筆者もまぎれもなく若い頃そうした著作を読んで、影響を受けた一人だった。
 俳諧を読むことは、その時代を再構成することだ。そして、その時代に転生した気分になったとき、その作品の本当の面白さが理解できる。源氏物語でもそれは同じだ。
 昔の人もそうしてきた。季吟の『源氏物語湖月抄』の最初の方の部分は、あたかも今の「設定資料集」のようだ。過去を理解するというのは昔からそういうものだったという証であろう。

 今日は「東路記」の方はお休みします。

2022年6月25日土曜日

 昨日は晴れたけど、まだ風が強く、そんなに暑さを感じなかった。
 今朝は晴れて久しぶりに末の三日月と金星や木星を見た。暑くなって梅雨明けのような一日だった。
 日本ではさして問題になってないが、欧米ではアメリカの銃規制と中絶問題の二つの司法判断が大きなニュースになっていた。
 そこで、ちょっと昨日書いたことを思い出した。

 「日本には仏教改革の指導者が現れなかった。その代りを果たしたのは、神仏儒道をその貫道するものは一つということで相対化する、俳諧の風流だったのかもしれない。」

 日本では顕密仏教が、西洋ではカトリックが、かつては巨大な力を持っていた。それは彼らが「余剰人口」の生殺与奪権を握っていたからだ。
 ただ、商工業の発達によって生産性が向上し、社会の定員が少しづつ増えて行くようになると、その分宗教的権威の力は衰えて行く。
 宗教的権威というのはかつては心の問題ではなく、余剰人口の救済という社会的役割を持っていた。それが失われた時、西洋では信仰はそうした社会的制度に係わらず心の問題だということで宗教改革が起きて行った。
 免罪符の問題も余剰人口を支えるのに欠かせない資金集めだったのだが、それを宗教的な堕落であるかのように宣伝したのはこの改革派だった。
 日本の顕密仏教にはこうした動きはなかった。仏教内部からの改革はなく、信長による殺戮で決着をつけてしまった。そして江戸時代に徳川幕府が朱子学を国教化したものの、実際に庶民の間に広まったのは神仏儒道の相対主義だった。
 もともと本地垂迹という形で、日本の仏教界は神道に譲歩してきた。仏教を普遍的な真実として、神道はそのローカルバージョンだという主張だが、やがて唯一神道がこれは逆で神道が本地で仏教こそインドのローカルだと主張し始めた。
 国教になれば、今度は朱子学の理こそが普遍的なもので、仏教も神道もその垂迹とする考えることもできた。ここまで来ると結局最終的には陰陽不測の人間の理解を越えた天地自然が真実だという所に行きつく。
 この「貫道するものは一つ」という所で神仏儒道を相対化する感覚は、今日の日本人にも染み付いている。
 だから日本の保守層に宗教的な原理主義者はほとんどいない。ごく少数の新興宗教の人たちがいるだけだ。創価学会は結構いい加減な宗教で、勧誘はうるさいけどいわゆる原理主義者ではない。原理主義だったらあそこまで広まらなかった。
 欧米、特にアメリカは原理主義者が大きな力を持っていて、パヨチンと原理主義者との板挟みになる。

 あと、「ほととぎす(待)」の巻「郭公(来)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「東路記」の続き。

 「清州に南北、町二あり。長さ一里ありと云。福嶋左衛門大夫正則の城あとは、町の北のはづれの東の方に有。道より右に見ゆる。家康公と秀吉と御合戦ありし小牧山は、清州の東にあり。ひきき木山也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 清州はJR東海道本線で名古屋を出ると枇杷島の次の駅になる。清州会議で有名な清州城がある。ウィキペディアには、

 「小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。」

とある。慶長十八年(一六一三年)に名古屋城が完成して廃城になった。平成元年(一九八九年)に鉄筋コンクリートの天守閣が立って、今に至っている。
 小牧山は清州の北東にある。標高八十六メートルの山でかつては織田信長の居城があった。今は公園になっていて昭和四十二年(一九六七年)に天守閣の形をした小牧市歴史館が建てられた。
 天正十二年(一五八四年)、小牧・長久手の戦いがあった。ウィキペディアに、

 「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。」

とある。
 「ひきき木山也」はよくわからない。

 「〇清州と稲葉の間、右の方に、尾張の国府の宮あり。大社なり。正月十三日、此辺を通る人をとらへて、一夜神前に置て明日かへす。是を名づけて、なをひと云。「儺追」と書。古のおにやらひなる由いへり。元亨釈書に、大宰府観世音寺、儺の時も、行人をとらへし事あり。是に同じ。此故に其日は此道を旅人通らず。近村の人も往来せず。人をとらゆるには、此里の者、つく棒、さすまた、熊手など、いろいろのせめ道具を持て、路行く里人を追かけとらゆる也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 稲葉は今の金華山で岐阜城がある。貞享四年十一月二十六日に芭蕉が名古屋の荷兮亭で興行した時、岐阜から落梧が来ていて、

 凩のさむさかさねよ稲葉山    落梧

の句を詠んでいる。尾張国府の宮は今日の尾張大国霊神社で、JRだと清州の次の稲沢だが、名鉄線の国府宮駅が近い。尾張国の国府もこの辺りにあったとされている。
 儺追神事(なおいしんじ)は今では裸祭りで有名になっている。
 今は儺負人の選定式が行われ、神籤(みくじ)によって儺負人を決定している。裸祭が終わった後、夜儺追神事(よなおいしんじ)の時に天下の厄災を搗き込んだとされる土餅を背負わされて礫で境外へ追出すという。この役をかつては通行人をひっ捕らえてやっていたのだろう。
 元禄六年の「蒟蒻に」の巻八句目に、

   坊主とも老ともいはず追立歩
 土の餅つく神事おそろし     芭蕉

の句がある。たまたまそこを通りかかれば、老いた乞食坊主といえども容赦なかったようだ。

 「〇尾越川は、尾越の町の西ぎはにあり。凡、此道に三の大河有。尾越川は三の内、第一の大河也。木曾川の末なり。大田の渡も此川上也。尾越と洲の股の間に、尾張と美濃のさかひあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 前に岩塚と万場の間の川も「尾越川の下也」とあったが、この川は今は庄内川で上流は土岐川になる。
 尾越川は木曾川の下流のことで、かつては木曾川の下流も庄内川も一緒になった複雑な流れになっていたのかもしれない。あるいは五条川が木曾川と庄内川を繋ぐ形になっていたのかもしれない。
 木曾川は信州塩尻の方から流れて来るが、途中で合流する飛騨川は飛騨高山の少し手前の乗鞍岳の方を水源としているので、飛騨高山から越中富山へ抜ける道筋になる。それで尾越川だったのだろう。
 岐阜市へ入る手前に木曽川があり、JRの木曾川駅がある。
 中山道の太田宿にある太田の渡しは犬山・鵜沼より上流の美濃太田にある。
 洲の股は今の墨俣で、昔の木曾川は笠松から西へ流れて墨俣で長良川に合流していて、それが尾張と美濃の境になっていた。天正十四年(一五八六年)の木曾川の氾濫で木曾川の流れが変わり、ウィキペディアには、

 「1589年(天正17年)豊臣秀吉の命により、新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡・海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。」

とある。今も柳津の西に境川があるが、古い木曾川の名残であろう。

 「洲の股川は、町の東ぎはにあり。尾越川に次で、第二の大河なり。此川上に合渡の渡有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)

 洲の股川はそうすると長良川の下流ということになる。合渡の渡しは西岐阜の方にあった。中山道の河渡宿があった。洲の股(墨俣)はここよりも下流になる。この辺りの中山道が直線的に東西に通っているのは、古代東山道の名残であろう。

 「佐渡り川は、洲の股と大垣との間にあり。洲の股に次で、第三の大河也。此川の西に、佐渡と云村あり。此川は呂久川の下なり。合渡も呂久も木曽路へ行道筋也。佐渡川は、はばせばけれど水ふかし。飛騨山、美濃の郡上の方より出る川也。此川の少東に、むすぶ村有。結の神有。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)

 佐渡り川は今の揖斐川になる。佐渡は東大垣の辺りで、鎌倉街道美濃路はここを通っていた。中山道はここよりやや上流の呂久というところに呂久の渡しがあった。今は鷺田橋になっている。
 上流と下流で呂久川、佐渡川と名前が変わっていたのだろう。
 中山道は大垣の北の赤坂宿を通る。養老鉄道に東赤坂という駅がある。古代東山道もこの辺りを通っていて大野駅がこのあたりにあったと思われる。
 揖斐川は呂久の辺りで根尾川が合流している。ともに能郷白山の方を水源としている。郡上から流れるのは長良川で、加賀白山の南側を水源とする。
 結(むすぶ)村はウィキペディアに、

 「結村(むすぶむら)は、かつて岐阜県安八郡に存在した村である。
 現在の安八郡安八町の北西部に該当し、揖斐川東岸の地域である。
 村名は、かつてのこの地域の通称、結之里に由来する。
 古くは鎌倉街道・美濃路が通過していた村であり、交通の要所であった。現在も旧・岐垣国道(現・岐阜県道31号岐阜垂井線)、国道21号(岐大バイパス)が通過する。」

とある。安八町は揖斐川と長良川に挟まれた地域で、その北の端の鎌倉街道美濃路沿いに今も、結神社がある。

 君見ればむすぶの神ぞうらめしき
     つれなき人をなにつくりけん
              よみ人しらず(拾遺集)
 心さへむすぶの神やつくりけむ
     とくるけしきも見えぬ君かな
              能因法師(詞花集)

などの歌に詠まれている。

 「〇佐渡川の西の峯より川ばたをのぼり、大垣へ行かずして赤坂へ行道有。二あり。佐渡より垂井に行には、大垣を通りたるも赤坂へ行たるも道程は同じ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.21)

 峯は岸の間違いか。結神社のところから揖斐川を渡って、そのまま川に沿って行けば中山道に出て赤坂宿へ行ける。
 美濃路でそのまま大垣を通っても、中山道で赤坂宿を経由しても、次の垂井宿で合流することになる。

2022年6月24日金曜日

  写真は今年の三月十六日に南足柄へ春めき桜を見に行った時の、狩川の土手の柳で筆者の撮影。
 「笑う芭蕉」の表紙はこの写真の明暗とコントラストを調整しただけのもので、完全オリジナル、トレパクじゃないよーーーって、ただこれが言いたかっただけ。

 昔の日本とアメリカが戦った戦争、結局沖縄の人たちにとっては最初から当事者ではなかったし、どっちが勝とうが関係なく、ただ戦場にされたことだけが遺恨となった。 自分たちは無関係だ。降ってわいてきた戦争に何も悪いことしてないのに犠牲になった。それが今も沖縄の人たちの意識なんだと思う。
 これから中国が攻めてくることがあっても、やはりどっちが勝とうが関係ない。どっちに占領されようが結局一緒なんだ。ただ、戦場にならなければそれでいい。だから、米軍も自衛隊も来るな、なんだろうな。
 昔から他国に支配されるのが常態だった地域だ。その入れ替わりには慣れている。ただ、ここを戦場にするな。これが沖縄の心だということを、我々は理解する必要があるのだろう。
 独立を望むなら筆者は反対しないが、そこに人民解放軍が常駐するような事態になれば、敵基地攻撃を検討せざるを得なくなる。だから、独立する以上は完全に「基地のない沖縄」を貫いてほしい。日本人として望むのはそのことだけだ。

 さて、もう少し旅を続けよう。「東路記」の続き。
 ここから先は東海道ではなく美濃路になる。今のJR東海道線のルートに近い、関ケ原を越えて琵琶湖南岸を通るコースになる。

 「熱田、此所に熱田の宮有。故に世人、是を宮と云。本名は熱田也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 熱田は東海道では宮宿になる。桑名との間は七里の渡しで結ばれている。

 「〇熱田より名護屋の北のはしまで、町つづき三里あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 熱田と名古屋はこの当時から町がくっついていた。それでも意識の上では熱田と名古屋は別というのがあったのだろう。福岡と博多に似ている。
 『笈の小文』の旅でも鳴海での「星崎の」の巻の興行では鳴海の如風に熱田の知足が参加していて、「笠寺や」の巻の興行でもだいたい同じ連衆が集まっているが、熱田の「磨なをす」の巻は桐葉との両吟になり、名古屋へ行くと荷兮、越人、野水、落梧などの『冬の日』『春の日』のメンバーに入れ替る。そこにはあたかも見えない国境があるかのようだ。
 名古屋の門人は岐阜の門人とは交流があったが、大垣はまた別になる。市街地が連続していながら、心理的な距離では熱田と名古屋は名古屋と岐阜よりも遠かったのかもしれない。
 後に支考が『梟日記』の旅で筑紫に行ったときも、福岡と博多でメンバーが完全に入れ替わっていた。

 「〇熱田より佐屋へ行て川舟にのり、桑名へも行也。熱田より岩塚へ二里、岩塚より万場へ半里、岩塚と万場の間に大河有。尾越川の下也。舟渡し也。
 万場より神守へ、一里半九町、神守より佐屋へ、二里半九町、佐屋より川舟にのり下る。此川は木曽川の下なり。
 桑名へ三里有。此間に、伊勢の長嶋と云所あり。佐屋川の中にあり。長き嶋なり。松平佐渡守殿領地なり。城はなし。田畠高、一万四千五百五十六石有。
 川下の方、たつみは海なり。信長公、秀吉公の時、合戦有し所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 佐屋は名鉄尾西線に佐屋駅がある。七里の渡し以外にも、陸路で佐屋を経由して桑名に行くルートもあった。佐屋街道と呼ばれている。
 昔の海岸線は熱田神宮より南にある今の堀川の「七里の渡し跡」の辺りから西に向かっていて、近鉄名古屋線の少し南側を沿うように伊勢長嶋の方に向かっていたのだろう。佐屋はそれより北へ一里といったところか。
 岩塚は今も名古屋地下鉄岩塚駅がある。その西には今の庄内川がある。上流は土岐川になる。川の向こうには今も名古屋市中川区万場の地名が残っている。神守は大分北の方に迂回するが、津島市神守町の地名が残っている。この南側は当時でも低地で、街道は北を迂回せざるを得なかったのだろう。
 佐屋へはここから南西に行くことになる。佐屋の西側は木曽川、長良川、揖斐川の三つの川が合わさる所で、ここから船で川を下って桑名へ向かうことになる。この三つの川はこれより七十年後の宝暦の頃に幕府の命令で薩摩藩が堤防を作り、木曾川、長良川、揖斐川は分離されることとなった。
 川の真ん中に伊勢長嶋がある。曾良の出身地で、木曾川の「曾」と長良川の「良」を取って俳号にしたという。
 伊勢長島には長島藩があった。ウィキペディアには、

 「慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が下野那須藩より1万石で入ることで再び立藩する。しかし貞享2年(1685年)に康尚の跡を継いだ次男・松平忠充が元禄15年(1702年)に乱心により重臣を殺害したため、改易された。代わって常陸下館藩から増山正弥が2万石で入る。」

とある。この時はまだ初代藩主松平康尚の時代で、従五位下佐渡守だった。
 伊勢長島の辰巳(南東)は海にまでつながっていて、そこはかつて一向一揆衆と信長秀吉の戦った合戦場だった。ウィキペディアには、

 「長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。」

とある。
 安土桃山時代は中世の顕密仏教から町人経済への移行期で、信長の楽市楽座は町人の側に立つ者で、従来の顕密仏教の権威とは真っ向から対立することになった。
 人口学的に見るなら、中世までの家督を継ぐことのできなかった余剰人口は、基本的に寺社へ預けられ、寺社が管理していた。寺社がこうした余剰人口を預かるにはそれだけ多くの寄進が必要で、それが武家の負担となり、その負担の付けは農民の負担にもなった。
 しかし一方で商工業が発達し、余剰人口がそうした所に流れ込むようになり、商工業の発達が生産性の向上をもたらすようになると、寺社の役割は縮小されてゆくことになる。
 早かれ遅かれ寺社は衰退して、信仰は社会的救済のシステムから個人のものへと転落する運命にあった。西洋ではそれはプロテスタントの台頭で宗教改革という形で起きたが、日本では武家による一方的な殺戮と破壊という結果になった。ある意味、日本人の無宗教化はこの頃始まったと言って良いのかもしれない。
 日本には仏教改革の指導者が現れなかった。その代りを果たしたのは、神仏儒道をその貫道するものは一つということで相対化する、俳諧の風流だったのかもしれない。世界中のすべての宗教も、結局元は一つという宗教観は、今も日本文化の根底の根強いものとなっている。

 「又、神守より佐屋へ行かずして、津嶋へ一里行て、川舟に乗る。津嶋は佐屋より半里上なり。津嶋へ行たるが、佐屋へ行たるより桑名へ行にははやし。いかんとなれば、陸路半里ちかくして、船路半里遠けれど、舟路は下る故、はやし。
 津嶋の渡、古歌あり。名所也。津島に祇園の社、川西にあり。六月十五日に山をつくり、通り物など夥しくて、遠近の人、多く来り集ひて是を見る。日本第一の大なる祭といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 津島は名鉄線で二駅北になる。古歌に詠まれる名所ということで、かつてここを古代東海道が通っていて、馬津駅があったところではないかと思う。
 津島の渡しは、

 久方の月をはるけみ見つるかな
     つしまの渡わたなかにして
              藤原定嗣(宝治百首)
 舟人の津島の渡り波たかみ
     すきわづらふやこの世なるらむ
              宗尊親王(夫木抄)

などの歌がある。
 陸路は佐屋よりも長くなるが、川を下る舟のスピードを考えると、津島回りの方が早く着く。
 「津島に祇園の社」とあるのは今の津島神社であろう。ウィキペディアに、

 「中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた。」

とある。牛頭天王は祇園の神だった。かつては京都の祇園社(八坂神社)と同様、六月十五日に大祭が行われていたようだ。

 「熱田より佐屋へゆく道の右に、豊臣秀吉の出給ふ在所有。いてうの木と云。加藤清正の在所、中村も此あたり也。蜂須賀、浅野など此辺にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19~20)

 豊臣秀吉の出自ははっきりしない。ウィキペディアには、

 「秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことはできていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。」

とある。出生地については、

 「江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層ともいわれてはっきりしない。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。」

とあり、概ね中村とされている。中村は今は名古屋市中村区という区の名前にもなっている。岩塚の北に豊国神社(中村公園)がある。そこへ行く道は豊国通りになっている。昔は「いてうの木」と呼ばれる場所があったのだろう。
 加藤清正はウィキペディアに、

 「永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。」

とある。
 蜂須賀は尾張国海東郡蜂須賀郷で現在のあま市蜂須賀だという。津島市の北東にある。名鉄津島線の青塚駅の北側にその地名が残っている。
 浅野は尾張国丹羽郡浅野荘で一の宮の方にあり、浅野公園が屋敷跡として残っている。

 「万場の少北、馬嶋と云所に薬師寺有。其坊主、世にかくれなき目医者の家也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 馬島は今の海部郡大治町に地名が残っている。万場の少し北西になる。薬師寺は今の明眼院で、ウィキペディアに、

 「南北朝時代に入ると、建武以後の争いの戦火で寺の大半が焼失して荒廃状態にあった。そこへ訪れた清眼(「馬嶋清眼」とも呼ばれている、永和5年3月19日没)が付属の白山社(現馬島社)とともに再興して、本尊である薬師如来にちなんで「医王山薬師寺(いおうさんやくしじ)」と改名した。
 延文2年/正平12年(1357年)のある日、清眼が自房である蔵南房(同寺首座)で睡眠をとっていると、夢の中に異国人が現れて、眼病治療の秘伝と眼病に効く霊水の在り処を告げた。目を覚ますと、その傍らに眼科専門の漢方医学の書が置かれており、夢で示された場所に行くと、霊水が湧いていた。これを薬師如来の化身によるものだと考えた清眼は、その書を精読したところ、異国人が伝えた秘伝の意味が理解できるようになった。そこで自房を眼病患者のために開放して、眼科治療を始めることになったのだという。
 当時の眼科の治療法としては、内服薬・薬液による洗眼・軟膏貼付・粉末撒布の他に鍼や烙法による簡単な手術などであった。それでも内障(当時は白内障や緑内障に限らず、硝子体や網膜の異常も含んだ)や結膜炎などの広範な治療に、効果を発揮していた。」

とある。

 「又、此間より天気よければ、加賀の白山、北の方に遠く見ゆる。飛騨国の山の谷あひより見ゆ。麓まで春も雪白し。熱田より佐屋の間、田畠平均にして草むらもなく、くろもなし。田の間に水道多して旱と大水にそなふる也。田の畔の間ひろし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 名古屋から加賀白山の御前岳(2,702m)はぎりぎりで頭だけが見えるらしい。郡上八幡のある谷の向こう側になる。
 熱田から佐屋は低地で山がなく、田んぼばかりで水路が廻らされている。今日ではこの一帯はすべてゼロメートル地帯になっている。

2022年6月23日木曜日

 わたしも投票します。
 まあ、投票日になったらね。いつも一応投票してるからね。
 まあ、どっち方面に投票するかは、この日記読んでれば大体わかると思うけど。
 でも、筆者なんぞがこんなことを言っても、勝手に行けばあ、になりそうだな。「わたしも投票します」と言って、何か良いことをしているとか評価されたり賞賛されたりする人がうらやましい。

 それでは「東路記」の続き。

 「池鯉鮒と鳴海の間、今岡村と云所に、三河と尾張の境あり。又、鳴海より一里東の道ばたの南に、桶狭間と云所に谷あり。是、信長公八千の勢を以て今川義元三万の勢に打勝て、即、此所にて義元を打取給ふ。義元を討たる所あり。義元の墓あり。此山の南に桶狭間と云村有。此谷の東北五町ばかりに千人塚有り。山上なり。千人の首を埋し所といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 今岡村は今の刈谷市今岡町に名前が残っている。池鯉鮒宿からそれ程離れてはいない。名鉄線の一ツ木駅と富士松駅の中間になる。
 その富士松駅の先、豊明、前後の次の中京競馬場前駅から南西に行った所に桶狭間古戦場公園がある。園内に「義元首洗いの泉」「今川義元の墓碑」がある。ウィキペディアには、

 「本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2019年(令和元年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち11町に桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北二丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北三丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間西」、「名古屋市緑区桶狭間巻山」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」の11町とそのほかにこれらの町の母体となった「名古屋市緑区有松町大字桶狭間」)。」

とあり、これらが「桶狭間と云村」だったと思われる。
 千人塚は今は戦人塚になっていて、地名は仙人塚になっている。首塚のイメージを払拭しようと、ちょっとばかり美化されている。

 「鳴海と熱田との間より左の方に遠き出崎見ゆ。是、野間の内海なり。是、源義朝を長田庄司が討し所なり。又、織田三七信孝も此所にて切腹せらる。又、伊勢の山田の山、伊勢の朝熊が岳見ゆる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17~18)

 野間の内海は名鉄知多線の野間駅と内海駅にもなっている。知多半島の真ん中にある。
 芭蕉の『笈の小文』の旅での元禄四年初冬、三河新城滞在中の「此里に」の巻二十四句目に、

   海少へだたる水のしははゆき
 秋風すごし義朝の墓       桃先

の句がある。大御堂寺野間大坊にある源義朝の墓を詠んでいる。
 この辺りで知多半島は東へ曲がっていて、南西の海岸から見ると、伊勢が対岸になる。

 「〇鳴海と熱田の間に笠寺の観音在り。竜福寺転林山と号す。戸辺村有。今川の家臣、戸辺新左衛門が居たりし所なり。又、星崎村あり。名所なり。宵月の浜は、熱田と鳴海の間の南の方の浜辺なり。海人の塩屋見ゆ。夜寒の里は星崎の西にあり。浦に近し。松風の里も夜寒の里にならべり。皆、名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.18)

 笠寺というと、芭蕉が貞享四年十一月、『笈の小文』の旅の時に訪れている。
 笠寺は天林山笠覆寺で笠寺観音と呼ばれている。名鉄線本笠寺駅の近くにある。ウィキペディアには、

 「寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。」

とある。笠地蔵の原型のような話だ。
 鳴海の造り酒屋だった知足が出家して笠寺に入って寂照になり、この笠寺の句を芭蕉にお願いしていた。貞享四年春(三年春説もある)の寂照(知足)宛書簡に、

   「この御寺の縁記(起)、人のかたるを聞侍て
 かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ
             武城江東散人芭蕉桃青
 笠寺の発句度々被仰下候故、此度進覧申候。よきやうに清書被成、奉納可レ被レ成候。委曲夏中可得御意候。 以上
   寂照叟」

とある。そして十一月に『笈の小文』の旅でここを訪れた時に、この句を立句として歌仙一巻が興行された。
 星崎と言えば、芭蕉にも、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥    芭蕉

の句がある。同じく『笈の小文』の旅の句だ。

 星崎や熱田のかたの漁火の
     ほのもしりぬや思ふ心を
              藤原仲実(堀河百首)
 わたの原空もひとつの朝凪に
     波間に見ゆる星崎の浦
              明日香井雅経(明日香井集)

などの歌に詠まれている。
 宵月の浜は、

 鳴海潟夕波千鳥たちかへり
     ともよひ月の浜に鳴くなり
              厳阿上人(新後拾遺集)
 よそにのみ鳴海の海人の宵月に
     身をうら風のこすとしらせよ
              正徹(草根集)

などの歌に詠まれている。

の歌に詠まれている。
 夜寒の里は、

 袖かはす人もなき身をいかにせむ
     夜寒の里に嵐吹くなり
              源顕仲(夫木抄)
 もろともに鳴きあかしつるきりぎりす
     夜寒の里の草の枕に
              藤原仲実(夫木抄)

などの歌に詠まれている。JR熱田駅と熱田神宮公園の中間あたりに熱田区夜寒町の名前が残っている。
 松風の里の歌はよくわからない。松風は古里、山里などによく詠まれる。

 「勢州鈴鹿の関は昔坂の下の東、関と云所に有し也。故、今も関と云。地蔵有所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.18)

 古代東海道も近世の東海道も鈴鹿越えのルートを通っていた。古代東海道の鈴鹿関は今の亀山市関町にあったという。江戸時代には東海道の関宿があった。
 今も関地蔵院がある。天平十三年(七四一年)行基菩薩によって開かれたという。

2022年6月22日水曜日

 
 「笑う芭蕉」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。俳諧の入門書のようなものを書いてみたかったので、出来るだけ難しい話を抜きにして、新書を意識した感じで「ですます」調で書いてみました。
 内容は『冬の日』から「狂句こがらし」の巻、『猿蓑』から「市中は」の巻、『ひさご』から「むめがかに」の巻、『続猿蓑』から「猿蓑に」の巻と、名作を並べ、おまけに伊賀の宗房時代のことを書いた「芭蕉がまだ伊賀にいた頃」を付けてみました。

 選挙が始まるとネット上はどうせネガキャンの嵐なんだろうな。しばらくニュースは見ないようにしようかな。このごろ2ちゃんねるも終わったなという感じがする。前はたまにあったようなまともな書き込みも、今はまったく見られなくなった。

 それでは「東路記」の続き。

 「岡崎の東北の方に松平の里あり。其上の山道より見ゆる。松平家御先祖の住給ひし所也。奥平と云所も松平に近し。岡崎に大樹寺あり。浄土宗也。寺領五百石つけり。六所大明神有。大社也。東照宮の御誕生の産霊也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 松平氏はウィキペディアに、

 「松平氏(まつだいらし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町時代に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に興った小豪族であり、松平家康の代に徳川氏に改姓し江戸幕府征夷大将軍家となった。

とある。今の愛知県豊田氏松平町はその通りに岡崎の北東にある。松平城跡や松平氏発跡地碑、松平東照宮、松平郷展望テラスなどがある。奥平はどこにあるのか不明。
 岡崎の大樹寺は岡崎の市街地にある。愛知環状鉄道の大門駅が最寄り駅になる。徳川氏が松平氏だった頃からの菩提寺だった。
 徳川家康はウィキペディアによれば、「三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生」したという。

 「山本勘助が在所、牛久保の里も岡崎の東にあり。岡崎と池鯉鮒の間、小浜と云所に行く海道有。其辺の茶屋を小浜茶屋と云。此東に足助と云所有。吉良も此辺よりちかし。矢矧の北に宮地山と云名所あり。南に二村と云名所有。衣の里も近にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 山本勘助は武田信玄の伝説的な軍師で、ウィキペディアには、

 「近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。」

とある。生誕地についても、ウィキペディアには、

 「『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。」

とある。他に資料がないなら、あとは『甲陽軍鑑』を信用するかどうかの問題になる。
 小浜は今の駒場町の辺りだという。kobama,komabaうーーん。まあ、bとmの交替は「けむり=けぶり」「なむる=なぶる」など多いからね。
 昔は鎌倉街道が通っていて、小浜茶屋も鎌倉街道の茶屋だったのだろう。鎌倉街道は江戸時代の東海道よりも内陸寄りを行く。
 足助という地名は松平町よりももっと北東に行った所にある。吉良町は反対側で南の三河湾の方になる。後に忠臣蔵で有名になる吉良上野介義央の所領だった。
 赤坂宿の南側に宮路山はあるが、そのことか。

 君かあたり雲井に見つつ宮ち山
     うちこえゆかん道もしらなく
              よみ人しらず(後撰集)

 嵐あらしこそ吹き来こざりけれ宮路山
     まだもみぢ葉の散らで残れる
              菅原孝標娘(玉葉集)

などの歌がある。古代東海道に宮地駅があったが、赤坂宿の辺りであろう。
 二村山は池鯉鮒と鳴海の間の内陸寄りで、かつては鎌倉街道が通っていた。古代東海道に両村駅があり、この辺りの鎌倉街道は古代東海道をそのままなぞっていたと思われる。

 くれはとりあやに恋しく有りしかば
     ふたむら山もこえずなりにき
              清原諸実(後撰集)
 唐衣たつををしみし心こそ
     ふたむら山のせきとなりけめ
              よみ人しらず(後撰集)

などの歌がある。
 衣の里は今の豊田市挙母町で豊田市の中心部にある。

 たちかへりなほみてゆかむ桜花
     衣の里に匂ふさかりは
              三河守左近中将呉氏(夫木抄)
 わきもこが衣の里の梅の花
     さぞくれなゐの色に咲くらむ
              宗尊親王(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「八橋は、池鯉鮒の半里ばかり東の海道より、北へ半里ほどに村有、八橋村と云。昔、橋を八かけたると云所有。かきつばたの名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 八橋は『伊勢物語』九段に、

 「三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋とはいひける。その澤のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。‥略‥

 から衣きつつなれにしつましあれば
     はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」

のように描かれている。芭蕉の貞享二年に、

 杜若われに発句のおもひあり   芭蕉

の句を詠むことになる。
 同じ頃の「ほととぎす」の巻十二句目に、

   触事も田舎となればゆるやかさ
 蜘でのはしのかけつはづしつ   閑水

の句がある。
 八橋も古代東海道から鎌倉街道へ受け継がれた道にあった。

 「ちりふの町の右に長き池有。神(かう)の池なり。毎年四月に池鯉鮒の原に、一月の間、大なる市たつ。諸方より種々のうり物あつまる。原ひろし。此辺、刈屋の城あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 神池は今の知立神社にある。
 木綿市や馬市があったことは、元禄五年秋の「青くても」の巻三十三句目の、

   筵片荷に鯨さげゆく
 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市  芭蕉

の句に詠まれている。鯨も売っていたようだ。刈屋城は今は亀城公園になっている。ウィキペディアに、

 「刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷、現在の愛知県刈谷市にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから「刈谷」と表記されるようになった。」

とある。「亀城」とも呼ばれていた。刈屋藩の城だった。

2022年6月21日火曜日

 選挙は明日公示ということで、今のうちに言っておきたいが、今回の選挙の最大の争点は減税やばら撒きの多い少ないではなく、憲法改正だ。
 何度も言っているように、今の日本にはロシアが攻めてきても人権がない。防衛のための戦力の保持を憲法に明記しなくてはならない。
 武力に対して丸腰でデモをやってもミンチにされるだけだ。ウクライナを見てもわかるように、国際世論なんて何もしてくれない。自分の国の物価高の方が大事だ。
 金持ちや西洋にコネがある奴だけさっさと亡命して国境のない世界だの奇麗ごとを言っていられるけど、庶民は取り残されて虐殺とレイプが待っている。
 逃げればいいなんて金のあるやつはお気楽なことを言っているけど、逃げられない人の方が圧倒的に多い。
 日本は最低限自分の国を守る力を持たなくてはならない。武器の供与が受けられなければ自力で生産する力も必要だ。また、同盟国が侵略をうけた場合には、武器を輸出する能力も持たなくてはならない。そのためにも日本の高度な科学技術が生かせるように、道を開かなくてはならない。
 NATOもフィンランドが侵略を受けた時には、NATO加盟国(仮)ということで、トルコ抜きでも出撃してほしい。コルピクラーニやチュリサスやフィントロールの国を守ってほしい。

 それでは「東路記」の続き。

 高師山は『海道記』には、

 「やがて高志山にかかりぬ。石利を踏て火敲坂を打過れば、焼野原に草の葉萌出て、杪(こずゑ)の色煙をあぐ。此林池を遥に行ば、山中に堺川あり。是より遠江国に移ぬ。

 下るさへ高しといへばいががせん
     のぼらん旅の東路の山」

とある。これだと境川の向こう側ということで、豊橋鉄道高師駅の方に近くなる。
 ただ、そのあとに、

 「此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。」

とあるので、潮見坂にまで到る広い範囲が高師山と見て間違いない。
 『東関紀行』には、

 「参川、遠江のさかひに、高師山と聞ゆるあり。山中に越えかかるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波のことごとしく聞ゆ。境川とぞいふなる。

 岩つたひ駒うちわたす谷川の
     音もたかしの山に来にけり」

とこの参川は遠江の境ということで境川のことと思われる。やはりこの辺り一帯が高師山だった。

 「引佐細江(いなさほそえ)、遠州前坂より一里ほど東へ行て、道の左くぼき所有。真藤生たり。万葉集など其外歌集に歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 前坂は舞阪のこととおもわれるので、ふたたび浜名湖の方の名所を振り返る。爰より東一里というと天竜川河口に近くなる。中田島砂丘の辺りか。北は当時「今の浦」だったと思われる。砂丘に松原があって、そこに藤が掛かっていたということか。
 引佐細江は今は一般的には浜名湖の北の細江湖とされている。気賀宿に近い。

 万葉集に

 遠江引佐細江のみをつくし
     あれを頼めてあさましものを
              よみ人しらず(『万葉集』巻十四、三四二九)

の歌がある。他にも、
 逢ふことは引佐細江の澪標
     深きしるしもなき世なりけり
              藤原清輔(千載集)
 雁金も羽しをるらむますけおふる
     引佐細江にあまつつみせよ
              源俊頼(夫木抄)

などの歌がある。

 「吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる。〇江戸より京までの間に大橋四あり。武蔵六郷のはし、百九間。吉田の橋、百二十間。矢はぎの橋、二百八間。瀬田の橋、九十六間也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 二川宿の次は吉田宿になる。今は豊橋の市街地で豊橋公園がすぐそばにある。豊川が流れていて、そこから伊勢への船が出ていたか。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の旅でも、小夜の中山越えてからいきなり短期間で伊勢に着いて謎だったが、芭蕉もこの船に乗ったか。
 この豊川には吉田橋が架かっていた。「豊橋」の名の由来にもなっている。これを看ると矢矧の橋がだんとつに長い。俳諧によくネタにされている瀬田の橋が意外に一番短いのが分かる。
 六郷橋は前にも触れたが、貞享五年に流されて、それ以降再建されなかった。

 「赤坂と藤川の間、山中と云所に、法増寺とて浄土寺あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 吉田と赤坂の間には御油の宿がある。御油から赤坂までは僅か二キロ、当時で言う半里。

 夏の月御油より出でて赤坂や   桃青

の句がある。まあ、談林の頃のいかにもネタに走った句だ。
 赤坂から藤川までは軽い山越えの道になり、国道一号線は通っているがJR東海道線は海側の蒲郡の方を通っている。御油赤坂藤川は名鉄名古屋本線の沿線になる。その名鉄線に名電山中駅がある。
 法増寺は名電山中の一つ手前の本宿にある法蔵寺のことか。ウィキペディアに、

 「かつては、二村山出生寺と称し、法相宗の古刹であった。飛鳥時代、行基は観音菩薩像を安置し出生寺を創建した。平安時代、空海の来訪により真言宗となる。南北朝時代、竜芸上人により浄土宗に改宗し、二村山法蔵寺と改称した。その後、徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺とした。徳川家康(幼名・竹千代)が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという(硯箱・硯石・手本・机などが残っている)。江戸時代、深草派三河三檀林のひとつとなる。」

となっている。
 徳川家康ゆかりの寺ということで、当時はそこそこ有名だったのだろう。

2022年6月20日月曜日

 この頃は老後の花見て過ごせる場所を求めて移住を計画し、ばたばたしていてなかなか風流の方にも身が入らない。鈴呂屋も住み代わる世ぞ‥‥、その後が続かない。
 もうすぐ参議院選挙が始まるが、ロシアが侵略戦争を開始して、日本もロシアと国境を接している以上、いつそれが日本にもふりかかってくるかわからないこの国難の時代に、残念ながら岸田政権は左翼マス護美に媚びた発言を繰り返して弱々しい。これじゃあまるで日本のマクロンだ。調整型の首相の弱点とも言える。
 保守票をまとめられなければ、自民惨敗の可能性もある。とはいえ受け皿となる保守政党はない。つまり選挙はどうしようもなく盛り下がる可能性がある。

 それでは「東路記」の続き。

 「浜松の北に広き原あり。御方が原と云。浜松の町の北に五所大明神の社有。大社也。台徳院公御誕生の産宮也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 三方原は今の浜松市の市街の北のはずれの方になる。畑が多いが宅地化の波が押し寄せてきている。元亀三年(一五七三年)には三方ヶ原の戦いがあった。ウィキペディアには、

 「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
 信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。」

とある。
 浜松の五所大明神は今のJR浜松駅に近い。浜松城の南側にある。一九六〇年に諏訪神社が合祀されて、現在は五所神社・諏訪神社となっている。ウィキペディアに、

 「戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。」

とある。台徳院は徳川二代将軍秀忠のことで、徳川秀忠生誕の地ということでかつては徳川幕府に保護された大社だった。

 「〇浜松より御方が原を通りて浜名と云所へ行く。本坂越と云道を過て、吉田の町の少東の方へ出る道有。浜名にも荒江のごとく番所有。三河の鳳来寺へも、此道よりゆくと云。鳳来寺山上に薬師堂、又僧坊あり。甚佳景の処なり。御油より九里有。寺領七百四十石つけり。天台宗なり。鳳来寺に東照宮おはします。御社領七百廿石附。
 浜松の近所、かんまと云所あり。蒲冠者範頼の在所と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15~16)

 本坂越えの道は三方ヶ原から浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿を経て、本坂峠を越えて吉田宿の方へ抜ける道で、古代の二見道が通っていた。

 三河なる二見の道よりわかれなば
     我が背も我も一人かも行かむ
              高市黒人(歌枕名寄)

の歌がある。
 その吉田宿は今のJRの新豊橋のあたりにある。ここから豊川を遡っていた山の中に鳳来寺がある。その途中にある三河新城(しんしろ)では元禄四年に芭蕉、支考、桃隣の参加する「其にほひ」の巻、「此里は」の巻の興行があり、

 其にほひ桃より白し水仙花    芭蕉
 此里は山を四面や冬籠り     支考

の発句が詠まれている。
 鳳来寺はウィキペディアに、

 「鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来。
 参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮(神仏分離以降は神社として独立、別項参照)及び仁王門は国の重要文化財に指定されている。鳳来寺山に多く生息し愛知県の県鳥であるコノハズクでも有名である。」

とある。
 江戸時代は天台・真言両方の僧坊があったが、ウィキペディアに、

 「困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)11月2日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。」

とあり、今は真言宗の寺になっている。
 蒲冠者範頼は源範頼のことで、ウィキペディアには、

 「源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
 遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。」

とある。

 「〇俗説に新江の十町西に橋本と云所有。爰にむかし浜名の橋有しと云。此説いぶかし。橋本は今新江前坂の間にあり____。
 昔、浜名に湖ありし故、此国遠つあはうみと云を略して、とをたうみと云。都に遠きみづうみと云意なり。都にちかき湖は近江也。
 浜名の橋は、浜名の湖より海に流れ出る川にかけし橋なり。後土御門院、明応八年六月十日、大地震して湖と海との間きれて、海とひとつになり入海となる。今切、是なり。
 一説に洞の貝、此処より多く出て、湖と海との間きれたりと云。浜名の橋ありし処を橋本と云。」」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 原書に一部欠落があるようだ。
 新江は新居のことで新江前坂は新居舞阪であろう。iとeが交替している。いずれも同街道の宿場で、この間に今切という浜名湖と遠州灘の繋がる場所がある。元は川で浜名の橋が架かっていた。歌枕で、

 汐満てる程に行きかふ旅人や
     浜名の橋と名付けそめけん
              平兼盛(拾遺集)
 あつまぢの浜名の橋をきてみれば
     昔こひしきわたりなりけり
              大江廣経(後拾遺集)

などの歌に詠まれている。

 浜名川湊はるかに見わたせば
     松原めぐる海士のつり舟
              宗尊親王(夫木抄)

の歌もあり、川に架かる橋だったことが分かる。明応七年(一四九八年)八月二十五日の明応地震の時に海に繋がり「今切」になったと言われている。
 ただ、今日も新居宿を西に少し行った所の浜名川に浜名橋跡碑がある。

 「〇潮見坂は白須賀の町の西にある坂也。高師山は其さき二川の方にあり。白須賀と二川の間に境川あり。三河、遠江のさかひなり。〇潮見坂ココニカクベシ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 
 江戸時代の東海道は新居宿の次が白須賀宿で、その次が二川宿になる。潮見坂は新居宿から白須賀宿の間の、海岸の道から内陸に入る所にある。
 ここから先はしばらく内陸の道になるので、上方から下る旅人からすれば、ここで海が見えて感動する所だろう。白須賀の東になる。
 境川は今は田んぼになり、小さな小川になっているが、かつてはそれなりの川だったのだろう。今もここから向こう側が豊橋市になっている。
 高師の地名は豊橋鉄道高師駅に残っているが、それとは別に新居宿のすぐ西にも高師山がある。

 高師山夕越え暮れて麓なる
     浜名の橋を月に見るかな
              平政村(続古今集)

の歌があるが、高師山を越えて海に出たのなら、これは潮見坂であろう。となると二川から白須賀の辺り一帯の台地を高師山と言ってた可能性はある。
 古代東海道はこの辺りの近世の東海道の道をより直線的に通っていたと思われる。

 朝風に湊を出づるとも船は
     高師の山の紅葉なりけり
              西行法師(夫木抄)

の高師の山と同じ所かどうかはわからない。ただ、高師山がこの辺りの台地のかなり広い地域を表していたとすれば、港に近い高師山もあってもおかしくない。

2022年6月18日土曜日

 欧米の物価高騰にはいろいろ原因が重なっているのは確かだ。直接引き金になったのはロシアのウクライナ侵略で化石燃料と穀物の価格が急騰したことだが、それ以前にコロナ下でお金をばら撒きすぎて、通貨供給の過剰が生じていたのも原因の一つになる。
 日本は国民がきちんと自粛に従い、ばら撒きが最低限で済んでいることと、穀物に関しては米がほぼ百パーセント自給できることで、欧米ほどの深刻な物価高騰は今のところ起きていない。
 物価高騰にあえぐ欧米は、金利を上げることで通貨供給を減らして、通貨の価値を上げ、相対的に物価を下げようとしている。ただ、これをやると、企業の新規の事業への投資意欲が損なわれ、また株価の下落も起きてさらに資金調達が困難になり、景気が一気に減速するという副作用がある。
 景気と物価を秤にかけて、日銀はなかなか難しい判断を迫られているし、少なくとも金利を上げれば魔法のようにインフレが静まるなんてうまい話ではない。
 まして国家の中央銀行の行う金利政策は、基本的に政府から独立したもので、国民が選んだ国会議員とはいえ、大まかな目標を設定するぐらいしかできない。基本的には日銀とのすり合わせを必要とする案件だ。
 今度の選挙でインフレ対策が焦点だといっても、どれほどの有効を提起できるのか、しっかり見てゆく必要がある。子供だましの減税連呼に騙されないように。また、ばら撒き公約はインフレ対策とは逆のものだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「懸川の西にほそき川あり。其川をへだてて西なるを背川と云、東をば原川と云由、長明が記にみえたり。袋井と見付の間に三香野の橋あり。宗尊親王の歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 今の国道一号線が原野谷川を渡るその手前の所に掛川市原川という地名が残っている。江戸時代の東海道もこのあたりで川を渡っていた。川の反対側は今は国本という地名になっている。
 「長明が記」は『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』の注に「海道記」のこと。当時は鴨長明作とされていた。」とあるが、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の「海道記」「東関紀行」を見たがよくわからなかった。
 「三香野の橋」は太田川に架かる三ヶ野橋で、

 うかりけるみかのの橋の朽ちもせで
     おもはぬ道に世をわたるかな

の歌が『歌枕名寄』にある。日文研の和歌検索データベースには「未入力」とあり、作者はわからない。

 「見付の宿、東の入口に坂あり。其坂を下り、右へ三町程のぼりゆけば、天神の社有。舞車と云謡に此天神の事を作れり。見付の里、名寄に歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 見付宿は今の磐田で、太田川を渡ると行人坂という上り坂があるが、しばらく行くと道は下り坂になって左に見付愛宕神社がある。ここを下ったところから右側の小高い所に見付天神矢奈比賣神社がある。
 謡曲『舞車』はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「舞車」の解説」に、

 「能の曲名。四番目物。非現行演目。作者不明。シテは鎌倉の男。遠江の見付(みつけ)では祇園会の当日泊まり合わせた旅人に,東西の舞車の上で舞を舞わせる習慣だった。祭りを明日に控えて舞の係り(ワキ)が待ち受けていると,鎌倉の男(シテ)が来かかるので舞を所望する。男は,都から連れ帰った女が留守中に父親から追い出されたので,探し求めて都に上る道中だった。翌日になり,西の舞車では旅の女性(ツレ)が《美人揃の曲舞(びじんぞろえのくせまい)》を舞う。」

とある。
 『歌枕名寄』の見付の歌は日文研の和歌データベースではよくわからなかった。『十六夜日記』にある

 誰か来て見付の里と聞くからに
     いとど旅寝ぞそら恐ろしき
              阿仏

の歌は『夫木抄』にもあるというのはわかった。

 「〇見付の少西に、中泉といふ町有。昔は馬次にて宿なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 中泉という地名はJR磐田駅の辺りに残っている。遠江国府に近いからその関係で宿場があったのだろう。

 「〇見付の台より直に田の中を通りて、天竜川のほとり池田に出る小道有。本道よりちかし。馬は通らず。池田の里、名所也。古歌有。見付の南に、今の浦とて大なる池有。湖也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 江戸時代の東海道は見付宿は県道岩田袋井線よりもさらに北にあり、だいぶ山側に寄っている。遠江國総社淡海國玉神社がある。
 この先で南に折れて今のJR磐田駅の辺りまで来て、ここから北西へ折れて天竜川の渡河点である池田へ向かう。池田の地名は今でも磐田市池田として残っていて、国道一号線新天竜川橋の手前の北側になる。南に折れずに直進すれば、池田まで近道できる。

 いつくさのあひ乱れたるたなつもの
     池田の里に雲をなしつつ

の歌が『夫木抄』にあるが、日文研の和歌データベースでは番号外作者とあるのみで、作者が分からない。
 今の浦は今之浦川のある辺りに地名が残っているが、その南に広範囲にわたる低地があり、田んぼになっているので、かつてここが浦だったのではないかと思う。大池がその名残なのだろう。

2022年6月17日金曜日

 我々から平和を奪ったのは誰なのか。食糧危機を引き起こしているのは誰なのか。石油や食品価格の高騰を引き起こしたのは誰なのか。間違ってはいけない。
 ロシアのウクライナ侵略が実は夢であって、明日朝目覚めたら世界は平和に戻っている、そんなことはあるわけない。
 とにかく、話を横にそらそうとしている奴らに騙されてはいけない。日本国民が正しい判断をすることを信じている。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「東路記」の続き。

 「岡部と藤枝との間に朝比奈川有。川上に朝比奈と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 朝比奈川は今の新東名の藤枝岡部インターの辺りを流れている。河口近くの焼津市街地でで瀬戸川に合流し、海に出る。
 上流の「道の駅 玉露の里」の辺りが朝比奈で、朝比奈城跡がある。ウィキペディアには、

 「朝比奈城(あさひなじょう)は、日本の静岡県藤枝市岡部町殿地区にある戦国時代の山城。この地域の豪族朝比奈氏の居城。藤枝市指定史跡 。殿山城とも。」

とある。

 「大井川、ふかき時は藤枝より嶋田にゆかず、川下の方にすぐに行て川を渡り、むかへの色尾と云所にあがる。川はば広き故、水あさし。色尾は川より東にあり。金谷より色尾へは一里有。川下なり。
 大井川は甲斐の国のおくより流れ出る。海道第一の難所也。川ごしを多くやとふて、又、此里の馬にのるべし。他所より通りたる馬にのるべからず。あやうし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 この道は色尾道と呼ばれるもので、古代東海道の名残と思われる。
 古代東海道は静岡を出て安倍川を渡ると、手越から南へ向かい日本坂を越え、焼津を南西に向かい、大井川を今の新幹線の鉄橋のやや川下のあたりで渡り、島田市阪本の色尾道から金谷の諏訪原のほうに一直線に進んだと思われる。
 色尾という地名は島田市坂本に残っている。
 近世の東海道よりも川下を渡るため、川幅が広い分川が浅くなる。
 大井川は南アルプスの赤石岳・荒川だけの東側で東俣と西俣に分かれ、西俣は塩見岳を水源とし、東俣は間ノ岳を水源とする。言わずと知れた東海道の難所で、橋がなく、川越人足を雇って手引、肩車、蓮台などで渡った。
 馬では越せないので、ここで馬を乗り換えることになったのだろう。その時に他所から来た怪しげな馬がいたようだ。

 「金谷の上に諏訪の原とて、長き野有り。武田勝頼ここに城をきづき、信州の蘆田などと云士を籠めおかる。東照宮の軍士、これをせむ。城中後攻なくして持こたゆる事かなはず。芦田以下城をあけ渡してのがれぬ。其城あと、金谷の町の上の方にあり。道の南に在。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14~15)

 諏訪原城はウィキペディアに、

 「諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。」

とある。築城についてはウィキペディアに、

 「翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』など後代に成立した史料のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている」

とある。天正十八年(一五九〇年)に廃城になったという。
 ただ、場所は金谷の町の上にあるのは間違いないが、江戸時代の東海道の道筋だと北側になる。

 「此上より横須賀まで原の長さ六里有。横須賀は海に近し。金谷と西坂の間、菊川あり。名所なり。古歌有。又、昔、後鳥羽院の御時、承久の乱に光親卿と云し人、咎により関東へ下られしが、此宿にて、詩を作らる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 横須賀は今の掛川市横須賀であろう。原というのは牧之原になる。横須賀城跡がある。ウィキペディアに、

 「天正6年(1578年)、武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。」

とある。
 菊川は東海道の間宿がある。芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で小夜のなか山を越える時、朝早く宿を出て、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

の句を詠んでいる。杜牧の「早行」の詩なども引用していて、その前に大井川の川留めに逢って、急いでいたと思われるが、朝未明の内に小夜の中山を越えたとすれば、菊川に宿泊した可能性がある。
 菊川は歌枕で、

 波に今映してみばや菊川の
     名も便りある星あひの影
              冷泉為相(夫木抄)
 神無月またうつろはぬ菊川に
     里をばかれず秋ぞ残れる
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。
 光親卿は葉室光親、あるいは藤原光親と呼ばれる人で、ウィキペディアに、

 「承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
 光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐源氏の一族・武田信光によって鎌倉へ護送される途中・駿河国車返の付近で鎌倉からの使の命を受け、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑された。」

とある。
 この時捕らえられた藤原宗行・藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能の五人は承久殉難の五忠臣と呼ばれている。
 島田市のホームページには、藤原宗行の、

 昔南陽県菊水 汲下流而延齢
 今東海道菊河 宿西岸而失命

 昔は南陽県の菊水の
 下を流れる水を汲んで寿命が延びたという。
 今は東海道の菊川の
 西岸の宿で命を失う。

の詩が掲載されている。詩碑も立っているという。

 「又、此間に小夜の中山有。東西と中と三山あり。其中なる山也。此辺に事の任と云所有。小夜の中山の道の口也。社有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 小夜の中山だけでなく、小夜の東山も小夜の西山もあったということか。確かに小夜の中山の北の方に「掛川市東山」という地名がある。「掛川市西山」という地名もあるが、かなり離れていて、天竜浜名湖鉄道の原谷駅の西側になる。
 「事の任」は事任八幡宮であろう。日坂にある。ウィキペディアに、

 「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂にある神社。式内社で、遠江国一宮。」

とある。
 小夜の中山が名所なのは言うまでもない。ここで多くの和歌が詠まれていて、今日の小夜の中山の道の脇にも沢山の歌碑がある。

 雲のかかるさやの中山越えぬとは 
     都に告げよ有明の月 
              阿仏尼(十六夜日記)
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 
     命なりけりさやの中山 
              西行法師 (新古今集)
 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月 
    しぐれてこゆる小夜の中山 
              蓮生法師(続後撰集)
 東路のさやの中山なかなかに 
    なにしか人を思ひそめけむ 
              紀友則(古今集)

など。

2022年6月16日木曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「久能山に東照宮あり。社領三千石ありき。此所ははじめ家康公を葬奉りし地也。のち元和三年日光山にうつさせ給ふ。今も美麗なる宮あり。山上にたち給ふ。ふもとより八町上る。府中より三里あり。江尻よりもゆく。山上、石門あり。佳景也。山上に僧坊あり。井ふかし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 久能山の東照宮は日本平の南の海に面した所にある。府中(静岡)からも江尻(清水)から離れている。その華麗な姿は今にも残っている。
 石門というのは拝殿と本殿の間にある石の間のことか。権現造りの特徴とされている。権現様で神仏習合なので、僧坊もある。「井戸ふかし」は勘助井戸で、深さ三十三メートルあるという。山本勘助が堀ったという伝承がある。

 「府中に浅間の社有。是は富士浅間の新宮なり。延喜年中、富士本宮をここに勧請す。東照権現、御尊敬有し社也。宮づくり美麗なる大社也。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とす。社領六百石つく。浅間の社官は、新宮左近、惣社宮内とて両人あり。浅間の社の上の山を、しづはた山と云。名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 府中の浅間神社は今は静岡浅間神社と呼ばれている。ウィキペディアに、

 「徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定無形民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。」

とある。
 新宮左近は浅間神社の宮司で、惣社宮内は神部神社・大歳御祖神社を合わせた駿河国総社の宮司であろう。総社とはいえ、実質浅間神社なので、こういう二重行政になっていたのだろう。
 賤機山(しずはたやま)は浅間神社の北に南北に連なる低山で、標高一七一メートル。「しずおか」の名の由来になっているという。

 今朝見れば賎機山のこずゑより
     紅葉の錦織りぞそめつる
              藤原実清(夫木抄)
 散りしける賎機山のもみぢ葉を
     苔地に織れる錦とぞみる
              藤原忠房(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「駿府の御城は慶長十二年成就し、東照宮御隠居ありて其年七月三日ここにうつらせ給ふ。其後、駿河大納言忠長卿、駿河、甲斐五十万石を領して爰に居城し給ふ。故ありて寛永九年上州高崎に配流せられ給ふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13~14)

 駿府城は十四世紀に国府となった今川氏によって築城された今川舘が前身となっていたが、ウィキペディアによると、

 「ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である。」

とある。連歌師の宗長も丸子に柴屋軒を構える前は、今川館の近くに住んでいたという。
 「駿府の御城は慶長十二年成就し」とあるが、ウィキペディアには、

 〇1607年(慶長12年)
  〇2月 駿府城拡張工事開始。
  〇3月 家康、入る。
  〇12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
 〇1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。家康、18年ぶりに駿府城へ移る。

とある。出典は「田中省三 『大御所徳川家康と駿府城公園』羽衣出版、2012年11月1日。ISBN 978-4-938138-98-1。」とある。
 駿河大納言忠長卿は徳川忠長で、ウィキペディアに、

 「徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。」

とある。
 また、ウィキペディアには、

 「寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれる様になる。しかし、忠長は自分が将軍の実弟である事を理由に満足せず、大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める。また、忠長の要求を知った家光からも、かつて祖父・家康が敵対した豊臣家が所有し、大坂の陣で落城させた大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われる様になり、幕臣達も諸大名に持て囃される忠長の姿を「まるで将軍が二人いるようだ」と評し、神経を尖らせていく。」

とある。
 家光の弟で従二位大納言の官位を貰い、嫡男の家光と対立する。源義経といい、足利直義といい、徳川忠長といい、またこのパターンかという感じがする。

 「〇阿部は、名所なり。阿部川のさきに手越と云町あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 安部は「安部の市」として歌枕になっている。

 いとどしく安部の市人さわぐらし
     坂越えかかる夕立の雲
              二条為明(新続古今集)
 君がため弥生になればよつまさへ
     安部の市路にははこ摘むなり
              源俊頼(夫木抄)

などの歌がある。
 安部川を越えると手越になる。手越は千手の前のいた所で、『平家物語』に描かれ、謡曲『千手』にもなっている。ウィキペディアには、

 「千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年4月25日(1188年5月23日))は平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれている。」

とある。

 「〇阿部川のあたりより北にあたりて、雪白き高山遠く見ゆる。是、甲斐の白峯と云。甲斐が峯とも云。平家物語十巻海道下にも、「手越を過て行けば北に遠ざかりて雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ」とあり。府中と鞠子の間に木枯の森有。安倍川の上也。鞠子と岡部の間、右の山中に、連歌師宗長が居たりし寺有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 南アルプスは南北に長く、静岡市街からも小夜の中山からも見ることができる。甲斐が峯(ね)、甲斐の白根は今は北岳だけを限定的に指すことが多いが、かつては南アルプス全体を指してそう呼んでいた。
 木枯の森はウィキペディアに、

 「木枯森(こがらしのもり)または木枯ノ森は、静岡県静岡市西部を流れる安倍川最大の支流、藁科川の河川敷にある中州である。静岡県指定の名勝となっている。」

とある。

 木枯らしの森の下草風はやみ
     人のなげきはおひそひにけり
              よみ人しらず(後撰集)
 消えわびぬうつろふ人の秋の色に
     身を木枯らしの森の下露
              藤原定家(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 連歌師宗長は永正元年(一五〇四年)に丸子の宇津ノ谷に柴屋軒を作って住むことになる。宗祇の死後になる。
 宗長の柴屋軒は宗長の死後、今川氏親によって吐月峰柴屋寺に改められたといわれていて、その後荒れ果てていたのを徳川家康が改修し、茶室や庭園を整えて今に至っている。

 「〇宇津の谷の上の山、宇津の山なり。名所なり。〇岡部は名所也。岡部に岡部の六弥太居たりしと云は虚説なり。六弥太が屋敷のあとは武蔵の岡部に有り。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 宇津ノ谷峠は『伊勢物語』九段の、

 駿河なる宇津の山辺のうつつにも
     夢にも人に逢はぬなりけり
              在原業平(新古今集)

の歌でよく知られている。地の文に「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく」とあるところから「蔦の細道」とも言われている。
 宗長の時代から十団子が名物で、

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

の句もかつてはよく知られていた。元禄五年頃米価が高騰した時のステルス値上げを詠んだ句であろう。
 岡部は一応、

 うち靡き暮れぬ岡べの花薄
     宿とふ人の袖にまがへて
              覚助(嘉元百首)
 夕月夜さすや岡べの秋風に
     霧晴れて鳴く小男鹿の声
              宗良親王(李花集)

の歌があるが、地名なのか一般名詞なのか何とも言えない。
 岡部には西行ゆかりの笠掛松がある。ネット上の大坪利絹さんの『去来付句「歌の奥義を知らず候」考─西行説話との関連─』によると、弟子の西住が松に掛けた笠に、

 西へ行く雨夜の月やあみだ笠
     影を岡部の松に残して

と書いてあったのを見て、

 笠はありて身のいかにして無かるらん
     あはれ儚き天が下とは」

と返したという伝承が近代の『志太郡志』に記されているという。
 中世の『西行物語』には西住の「岡部の松」の歌はなく「我不愛身命 但惜無上道」の詩が書きつけてあったことになっている。
 つまり、この歌がいつ頃作られたのかは不明ということになる。
 岡部の六弥太は岡部忠澄のことで、ウィキペディアに、

 「岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。事績については詳細に乏しいが、『平家物語』における平忠度を討ち取ったエピソードで知られている。」

とある。岡部氏の本拠地は埼玉県深谷市岡部の周辺で、JR高崎線にも岡部駅がある。岡部六弥太の墓もここにある。

2022年6月15日水曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「〇奥津川のほとりより甲州身延山へ行道あり。清見寺の客殿に雪舟の絵あり。清見寺の堂の前、絶景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 興津を起点として身延山へ行く道は「身延道」と呼ばれていて、参詣者の道になっていた。江戸の方から行くと、興津川を渡った辺りから興津川に沿って遡って行く。今の国道52号線の元になった道でもある。途中に新東名の新清水インターがある。
 清見寺はそれより先にある。昔は清見が関があり、この辺りの絶景は歌枕にもなっているが、今は埋め立てられて見る影もない。清見潟とも言われていたから、干潟だったのだろう。伝雪舟筆の『富士三保清見寺図』にはその昔の姿が留められている。
 この絵に「伝」と付くのは、雪舟自筆のオリジナルではなく、それの精密な模写だとされているからだ。
 そこには左手前に清見寺の大伽藍が描かれていて、その後ろに山があり、画面中央に興津川の河口が複雑に入り組んだ地形に描かれていて、その反対側には三保の松原が描かれている。清見潟はこの興津川の河口から対岸の三保の松原までを含んでいたのだろう。
 そして遠景に富士山と愛鷹山が描かれている。三保の向こうには伊豆の山も描かれている。ネットで日本平からの富士山方面のパノラマ写真が見られるが、これを左右に大きく圧縮すれば、雪舟の絵に近いものになる。角度的に言えば清水船越堤公園の方が近いかもしれない。いまは清水市街地のビル群に遮られているが、おそらくこの辺りから見た景色が元になっているのだろう。
 その雪舟だが、雪舟がここを訪れたという伝承はあり、『富士三保清見寺図』も雪舟筆のオリジナルがあったとされているが、清見寺に雪舟の絵は残っていない。貞享の頃にはまだあったのだろうか。
 雪舟の『富士三保清見寺図』の富士山は中央に大きな三角の山を描き、その左右にやや山頂を低くした二つの山が描かれている。これがあたかも釈迦三尊のようで、投資家だったら株価のチャートが思い浮かぶところだ。
 この筆法はその後の狩野派などにも受け継がれ、芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』の富士山もこれを踏襲している。
 実際静岡側から見た富士山は中央手前に最高峰の剣が峰(3776m)があり左に白山岳(3756m)、右側に三島岳(3734m)が見える。ただ、山頂をただリアルに描くのだったら、中央の剣が峰の裾野を山の下の方まで引っ張る必要はない。これは異なる視点から見た三つの富士山を合成したもので、どの角度から見ても美しい姿を見せることを表現したものと思われる。
 日本の伝統絵画は近代の西洋画のような一つの固定した視点で描かれてはいない。多くは斜投象で描かれていて、それに複数の視点を追加するようなことは普通に行われていた。斜投象は決して線遠近法に劣った図法ではなく、むしろ物の形がより正確に描けるということで設計図などにも用いられている。
 雪舟のこの富士山の筆法は、やがて北斎によって破られることになる。北斎は一枚の絵でどの角度から見ても美しい富士山を描くのではなく、三十六枚の絵を書くことでそれを打ち破ることとなった。
 清見潟は薩埵峠の海岸線から興津川の河口域、それに対岸の三保の松原を含む、今の清水港一帯を含んだ入り江で、そこには干潟が形成され、美しい風景を形作っていた。
 和歌にも、

 清見かた関にとまらてゆく船は
     嵐のさそふこのはなりけり
              藤原実房(千載集)
 清見潟月はつれなきあまの戸を
     待たでもしらむ波の上かな
              源通光(新古今集)
 清見潟月すむ夜半の村雲は
     富士の高嶺の煙なりけり
              登蓮法師(続拾遺集)

など多くの歌に詠まれている。

 「奥津、清見寺のあたりの浜、清見潟也。奥津と江尻の間に田子の浦有。菴原川有。此川上に廬原(いはら)と云村あり。頼朝の時、廬原左衛門が居たりし所なりと、云。此辺すべて庵原郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 吉原宿の方にも田子の浦があったが、奥津と江尻(今の興津と清水)のほうも田子の浦と呼んでいたか。かつて古代東海道の時代に波の関守のいる道を嫌って、興津から船で沼津の方まで渡っていたとしたら、この全体が田子の浦だったのかもしれない。江戸時代も沼津と江尻の間に海上ルートがあったことは沼津の所に書いてあった。
 「いはら」という地名は菴原、廬原、庵原と三つの表記がされている。この時代の人は音があっていれば文字はそれほど気にしなかった。どれが正解ということではない。今日も静岡市清水区庵原町という地名が残っている。東名高速の清水インターのある辺りになる。東海道の道からはやや内陸に外れる。
 廬原左衛門はここを所領としていた庵原氏の者で、ウィキペディアに、

 「663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。『今川仮名目録』には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。」

とある。この庵原左衛門は明応(一四九二年から一五〇一年まで)の頃だから、頼朝の時代ではない。代々庵原左衛門を名乗っていたのかもしれない。

 「江尻と府中の間に草薙村有。明神有。むかし景行天皇の御時、日本武尊東夷征伐の大将として東国へ下り給ひし時、此所にて夷ども火を放て尊を焼殺さんとす。尊、はき給へる宝剣を以て草を薙はらひ給ふ。其火、敵の方へもえて敵悉く焼殺さる。宝剣を草薙の剣と云は此いはれ也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 江尻は今の清水、府中は静岡になる。かつて駿河国の国府が今の静岡にあり、国府のあった場所はその後徳川家康の駿府城になった。国府のある所という意味で府中と呼ばれている。
 この物語はウィキペディアには、

 「その後、ヤマトタケルは相武国(『古事記』および『古語拾遺』)もしくは駿河国(『日本書紀』、熱田神宮伝聞)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)、向い火を点け脱出する。 日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。」

とあり、この部分は『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)に、

 「ここにその國造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その姨倭火賣命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にありき。ここにまづその御刀もちて草を刈り撥ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆その國造等を切り滅して、すなはち火を著けて焼きたまひき。故、今に焼道と謂ふ。」

とある。延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻十一句目に、

   火付の野守とらへられけり
 草薙の風公儀より烈しくて    似春

の句がある。

 「〇府中の方に狐崎あり。梶原景時が討れし所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 梶原景時の最期については、ウィキペディアに、

 「正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたとの説もある。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉川友兼が景茂を打ち取った際、友兼が所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎」として現在に伝わる。」

とある。最期については諸説あるようだ。
 狐崎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「狐崎」の解説」に、

 「静岡市葵区柚木(ゆのき)と駿河区曲金(まがりかね)の間の道沿いにある地の俗称。梶原景時が一族とともに戦死した地と伝えられる。清水区大内付近ともいう。」

とある、これも諸説あるようだ。「府中の方」とあるから、ここでは柚木の方であろう。
 柚木・曲金はJR東静岡駅の近くで、近くに古代東海道の遺跡(曲金北遺跡)もあり、古代東海道がこの辺りを通っていたことが分かっている。
 清水区にJR狐ヶ崎駅があるが、ここは元々上原駅で、狐ヶ崎遊園地ができたことで狐ヶ崎駅になったという。ウィキペディアに、

 「狐ヶ崎は本来、鎌倉幕府創設に貢献した梶原景時とその一族が鎌倉からの追手に殲滅された地である現在の葵区川合付近の名称であった(景時が討たれたのは葵区の谷津山南側の曲金地区という説もある)。鎌倉御家人の吉香友兼が景時の三男景茂を討ち取った備中青江為次の太刀は、名刀「狐ヶ崎」と呼ばれる。友兼は翌日に戦傷死したが、子孫の安芸国人吉川氏、さらにその家系を簒奪した毛利分家旧岩国藩主吉川氏のもとで、伝来の家宝として拵えともども管理され、岩国市の吉川史料館で保存されている。刀身、拵えとも国宝に指定である。刀身は、いかにも平安末から鎌倉前期らしい、ふんばりの付いた見事な元反りの刀姿と、古青江らしい澄んだ直刃と地肌が特徴で、美術的価値を高く評価されている。拵えは、源平期から鎌倉初期の武士の刀装のありかたを示す貴重な歴史的史料である。現在の駅名はこの静岡ゆかりの高名な刀剣にちなんだ「狐ヶ崎ヤングランド」に由来するものであり、駅周辺地域の本来の名称は「上原」である。」

とあり、梶原景時の最期とは直接の関係はない。

2022年6月14日火曜日

 曽我兄弟の陰謀説って、結局一九七九年の大河ドラマ『草燃ゆる』(永井路子原作)の丸パクリだったようだ。「草燃ゆる」改め「草生える」。
 筆者の子供の頃から大河ドラマは親父が必ず見ていたので一緒に見ていたが、『草燃ゆる』は何か親父がつまらないだとかぶつぶつ言って見るのをやめたのを思い出す。人間関係をあまりに現代のメロドラマ的に解釈しているのが面白くなかったようだ。それは今の鎌倉殿にも言える。
 筆者の「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─」も、現代的な言葉をしゃべらせているという所は三谷さんの影響があるけど、世界観はできるだけその時代を再現しているつもりだ。現代的解釈はしていない。
 曽我兄弟の陰謀説が間違いなのは、簡単に言えば幕府の側からすれば仇討を「美談」とする理由がないからだ。『曽我物語』でも仇討は美化されていない。周囲の人々、特に女性の悲しみとともに描かれている。仇討は人情であり、抑えることのできない衝動によるもので、それが義に反するからこそ曽我兄弟は処刑されている。
 戦場では多くの人が死んでいる。それに対していちいち仇討を行っていたなら収拾がつかなくなる。謡曲『摂待』もその恨みの連鎖を断つことをテーマとした物語だった。
 基本的に仇討は人情であり、いつの時代でも「義」は仇討を禁じている。それは忠臣蔵でも同じだ。今日の死刑廃止の議論を見ても、死刑廃止は義であり死刑存続は人情だ。
 たとえば源平合戦が源義朝の仇討の戦いだったとしたら、実際に仇を討ったのは頼朝ではなく義経になる。その義経を討った頼朝に何で仇討を美談にする必要があったのか。
 頼朝は清和天皇以来の源氏の正当な血筋である義朝の嫡男であるというだけで、最初から正統な後継者なのであって、仇を討ったことで正統な後継者になったのではない。仇討の美化は頼朝政権の根底を覆してしまう。
 『曽我物語』でなぜ最初に長々と源氏の系譜のことを語っているのかというと、最初から仇討はあくまで人情によるもので、それが明らかに秩序に反するものであることを、源氏の血筋を語ることによって前置きする必要があったからだ。

 ロシアのウクライナ侵略によって引き起こされた食糧危機は、アフリカの農業の問題を考えるきっかけにしてゆく必要がある。
 アフリカの多くは農業国でありながら、なぜ食料自給率が低いのか。二つ原因がある。一つは前近代的な生産性の低い農業がおこなわれていること。もう一つはその一方で欧米や日本へ向けての大規模な商品作物栽培に農地の多くを取られていること。
 今回の食糧危機はウクライナには何の非もなく、全面的にロシアに非があるのは勿論の事、小麦に依存した今の世界を考え直すきっかけにすべきではないかと思う。
 日本は食料自給率が低いとはいえ、米はほぼ自給できている。そのため、今の日本では食料に対する危機感はまったくないと言って良い。パンが食えないならご飯を食べればいい、で済んでいる。アフリカにも本来彼らが先祖代々食べてきた穀物があったはずだ。
 伝統的な食生活を変えて欧米流の小麦依存体質にすることのリスクを、今こそ知るべきではないか。
 不思議なのは、これだけ小麦の不足が叫ばれていて、それに円安も加わっているというのに、パスタの価格が全然上がっていない。これはデュラム小麦の生産地である北アフリカや中東地域の食糧危機を回避するヒントになるのではないか。
 ちなみに国産パスタはカナダ産のデュラム小麦が使用されている。これらの地域に直接関係はない。

 それでは「東路記」の続き。

 延宝八年の災害については、ネット上の「防災情報新聞」に、

 「○延宝8年閏八月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる[改訂]
 1680年9月28日(延宝8年閏8月6日)
 強烈な台風により、東海道筋と江戸など沿岸地帯が強風と高潮に襲われた。
 東海地方の被害は、三河(愛知県)では三河湾沿岸の西尾、吉田(現・豊橋市)、田原に高潮が押し寄せ(山鹿素行先生日記)、特に吉田藩では39人死亡、家屋倒潰1699軒の被害となった。(玉露叢)
 遠江(静岡県)では浜松、横須賀(現・掛川市)、掛川の被害が大きく、浜松藩では大風により、浜松城の本丸から天守、二の丸、三の丸の櫓や塀が破損、城下では358軒の侍屋敷や町家が倒潰した。横須賀藩では高潮に襲われ、300人余死亡、城の櫓(やぐら)1棟、武士・町人の家6000余軒が流失(徳川実紀)。掛川藩は暴風雨で水損した田畑5700石余、民家の倒潰2794軒と記録されている(玉露叢)。駿河(静岡県)では湾沿いの吉原(現・富士市)、原(現・沼津市)に高潮による被害があり、吉原での300人をはじめ、倒潰した家屋や死亡した人は数え切れない程だという(山鹿素行、玉露叢、浅間文書纂)。」

とある。『東路記』は「津波」と書いているが、延宝八年にあったのは高潮だった。延宝五年の間違いではなく、「津波」の方が間違っていた。

 「〇吉原より今泉を通り富士のすそ野を経て大宮にゆく道あり。吉原より大宮に行道一里ばかりにあつ原と云村有。曾我十郎、五郎が社、一所に両柱あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 今泉の地名は今も富士市にあり、岳南鉄道の吉原本町の隣の本吉原駅も富士市今泉一丁目になる。江戸から行くと、吉原宿入口の手前になる。ここから北の地域が今泉になる。ここから富士宮の浅間神社へ行く道があったようだ。これより百年後になると富士講が盛んになり、多くの人が訪れることになる。
 厚原という地名も今日に残っている。JR身延線や県道の富士富士宮線よりも山側を通っていたのだろう。五郎の首洗い井戸というのが今でもあり、近くに今も曽我八幡宮がある。
 それよりさらに南西に行き、富士富士宮線を越えた所に曽我寺があり、曽我兄弟の墓がある。かつては本地垂迹で曽我八幡宮と一体だったのだろう。富士講の名所だったに違いない。
 富士の巻狩りの行われた藍沢は富士山の御殿場側で、今も自衛隊の演習場がある。「首洗い井戸」のことがこの『東路記』にない所を見ると、富士講が盛んになった江戸後期に後付けで作られた名所である可能性がある。五郎十郎の霊は富士講が盛んになるはるか前から、何らかの理由でここに祀られていたのだろう。

 「〇吉原と蒲原の間、うるい川有。大宮の方より出る川なり。此辺、富士のすそのより出る小川多し。富士川は甲州のおくより出、見延をへて下る。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 東海道の方に戻るが、吉原宿を出てすぐの所に潤井川がある。富士山の西の大沢崩れを水源として、浅間神社の西側を通って田子の浦にそそぐ。
 その先に富士川がある。今日では甲府盆地で釜無川と笛吹川が合流し、そこから下が富士川になっている。見延を経て富士市の西側にそそぐ。
 笛吹川は甲武信ヶ岳の方に発し、釜無川は甲斐駒ヶ岳の北西を水源とする。
 富士川というと芭蕉の『野ざらし紀行』に、

  「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

とある。
 多産多死の時代には捨て子は珍しいものではなく、捨て子を収容するような施設もなかった。捨て子の命はただ天命であり、泣くこと以外に何もできなかった。
 有限な大地の有限な自然の恵みでは、自ずとそこに棲める人の数も限られる。生まれてきた人のすべてが生きれるわけではなかった。それは定員の限られた小舟に乗っているようなものだった。みんなが乗ったら船が沈んでしまう。そこで厳密な掟を作って、命に序列をつけ、生きることに優先順位を付けざるを得なかった。
 この掟は天であり絶対的なものである必要があった。そうしないと生き残りをかけて親子兄弟の間でも血で血を洗う争いになる。事実歴史上、親子兄弟同士が合戦をした例は限りなくある。
 武家などの上層階級は寺が余剰になった子供の受け皿になったが、下層階級は捨て子をした。

 「由井と興津の間に、薩埵山あり。昔、足利尊氏と其弟直義と兄弟合戦ありし所也。太平記に見えたり。爰に下道、中道、上み道とて三筋あり。
 下道はおやしらず子しらずとて、海辺の岩間を通る難所也。ここを岫(くき)が崎と云。夫木に歌あり。中道は、明暦元年、朝鮮の信使来りし時始て開く。上道は近年開く。
 明暦元年より前は、下道ばかりにて、中道、上道はなし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 「薩埵峠の戦い」は南北朝時代のものと戦国時代のものとがある。戦国時代の方はウィキペディアに、

 「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、戦国時代の1568年(永禄11年)12月から翌月にかけて駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度にわたって行われた合戦である。」

とある。
 『東路記』にあるのは南北朝時代の方で、これもウィキペディアに、

 「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、南北朝時代の正平6年/観応2年(1351年)12月、駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦である。戦の行われた場所から桜野の戦いともいう。」

とある。
 これもよくある兄弟合戦で、足利直義は尊氏の同母弟になる。鎌倉幕府を倒す時は協力し合っていて、建武の乱の時も湊川の戦いで共に楠木正成を討ち取っている。
 その後義直が官位を得て公卿になったというあたりは、どこか源義経と似た所がある。尊氏の方は征夷大将軍になると南朝から直義追討の綸旨を得て、実の弟と戦うことになった。
 頼朝の場合もそうだが、基本的に国の支配者のポストは一つしかない。兄に優先権があるのは誰しも認めることだった。そこに弟が朝廷と組んでその優先権を脅かす恐れがあるということになると、兄弟でも容赦しない。それはよくあることだった。
 誰もが分かり切った単純な理屈ではあるが、その不条理もまた誰もが感じていることで、それが判官贔屓を生んだと言っても良いだろう。いわゆる義理と人情のはざまで、判官贔屓は人情の方だった。人情、その言葉は西洋の「人権」に相当する日本の言葉だった。
 芭蕉の富士川の句にしても、捨て子が「天」だというのは義理であり、それを泣くのは人情だと考えればわかりやすい。
 薩埵峠には三つの道があった。
 下道は古代同街道の時代からある海辺の波を被る道で、『東関紀行』には、

 「岫(くき)が崎といふなる荒磯の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風はげしきに、うちよする波も隙なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して、干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打詠られつつ、いと心ぼそし。

 沖津風けさあら磯の岩づたひ
     波わけごろもぬれぬれぞ行」

とある。

 さらぬだにかはらぬそでを清見潟
     しばしなかけそなみのせきもり
              源俊頼(続詞花集)

の歌もあるように、ここには清見が関の関守とは別に波の関守がいると言われていた。人の関守は通しても、波の関守はなかなか通してくれなかった。
 「おやしらず子しらず」は北陸道の難所で、『奥の細道』にも市振のところに、

 「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」

とある。それに匹敵する難所だったということだろう。
 近代でも国道一号線と東海道線はここを通っている。
 そのため江戸時代になって明暦元年(一六五五年)に第六回朝鮮通信使が来た時に、薩埵峠を越える道が作られ、これが中道になる。
 この時の中道は薩埵峠を興津側に下る時に、海岸へ出てたようだが、後に瑞泉寺の北側を大きく迂回するルートが作られ、これが上道になる。これが江戸時代の東海道のスタンダードになった。

2022年6月13日月曜日

  今日は開成町の紫陽花を見に行った。
 紫陽花の名所というと庭に固まって植えてあるところが多いが、ここは田んぼの脇にかなりの広い範囲に植えているのが特徴で、種類もいろいろあった。
 写真は今日撮影。

 大河ドラマは何であんな変な陰謀説にしちゃったんだろうね。それに十郎いないじゃん。虎御前どこへ行った。まあ、陰謀説の好きな人にはあれでいいのかな。
 歴史は政府の工作でいくらでも改変することのできるものだ、というのがテーマだったら、それは間違っていると言おう。人のうわさというのを侮ってはいけない。政府はころころ変わるが民衆はいつでもそこにいる。最終的には民衆の間で語り継がれた物が残る。

 それでは「東路記」の続き。

 「〇吉原の町より七八町北、富士のすそ野に今泉といふ村あり。此村に五郎右衛門と云大百姓有。天性父母に孝あつく、他人にも慈愛ふかく、善行多き事、あげてかぞへがたし。其父先年死けるが、其所のならはしにて、父死すれば家富たるものはかならず葬のともに其家の馬をひかせ、すぐに寺につかはす。
 五郎右衛門も其父の馬を葬礼の時ひかせけるが、父の平生乗たる馬を他人の手に渡さんも不便なりとて、其馬のあたひより多く金子を寺へつかはして馬を取返し、むま屋を別に新しく作りて其馬をたて置、数年の後、馬病死するまで、のらずつかはずして飼置し也。
 吉原の町に津波上りし時、五郎右衛門が家に大釜を七ツあつめ、飯を多くたきて、吉原より海水をさけてのがれし家々につかはし、いづくよりともなく其飯を置て帰る。此時、吉原の町の者は、五郎右衛門が養ひにて命をたすかると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9~10)

 前半は「葬馬」の習慣で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「葬馬」の解説」に、

 「〘名〙 葬送の時、葬列につらなる引馬。
  ※太平記(14C後)三二「今まで秘蔵して乗られたる白瓦毛の馬白鞍置きて、葬馬(サウば)に引かせ」
  ※随筆・松屋筆記(1818‐45頃)九五「死たる時聖に布施する馬をば葬馬といへり」

とある。古代には馬を殉死させる習慣もあったようで、それが馬の埴輪に取って代わったとも言われている。いつからか、馬をお寺に寄進するふうに変わっていったのだろう。
 お寺にお布施として馬を渡しても、お寺もそのまま飼うわけにもいかずに、大抵は売却されていたのだろう。それならば、ということで馬の代りにお金でお布施を渡し、馬を手元に留め天寿を全うさせたという美談になっている。
 その五郎右衛門が大津波で多くの被害ができた時、今で言えば炊き出しだが、日本人は昔から善行をするときに自分の名を表に出すことを嫌って、いわば匿名で困っている人の所に飯を置いて行ったという。
 今もタイガーマスク運動というのがあるが、寄付するときは決して売名にならないように匿名でやらなくてはならないという習慣は、日本では根強いものがある。一説には道教に由来するとも言う。
 道教は日本では教団化されることがなく、明確な教義や戒律を持たない神道の中に溶け込んで習慣化されて行っている。

 「又、其比海水あふれしゆへ近国の浜に塩なかりしを、五郎右衛門船に乗て上方へ行き塩を多く買来り。家人を多く塩商人のごとくして彼津波のあげし村々の家々につかはし塩をうらせ、其あたいをば重てとりに来るべしと云はせければ、久しく塩にうゑたる家々悦て是を取る。日久しけれ共、其塩のあたいをこひに来らざれば、みないぶかしくおもひける。後によく聞てこそ五郎右衛門がほどこしなりとはしりたりけれ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)

 塩を配るにも、ただで配るのではなく、商人がやって来て料金を後払いということにして塩を配り、結局取りに来ないという所で施しにしている。

 「凡、人に物をほどこして其名をあらはす事をこのまず、陰徳多し。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)

 陰徳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「陰徳」の解説」に、

 「① 人に知られない善行。ひそかに施す恩徳。かくれた功績。陰騭(いんしつ)。
  ※本朝文粋(1060頃)七・奉左丞相書〈三善清行〉「紛乱之間。授攘之会。宜下立二其陰徳一、塞中怨門上」
  ※太平記(14C後)一四「陰徳(イントク)遂に露れて、今天下の武将に備はり給ひければ」 〔史記‐韓世家賛〕」

とあり、古くからある言葉だが、別に道教起源でなくても、人類に普遍的にあるのではないかと思う。少なくとも、西洋人は寄付すると大々的にアピールするが、それに比べて日本人は遅れている、という主張は正しくない。
 寄付しているのをアピールすることは、宣伝した方がより多くの寄付が集まるというメリットがあるからにすぎない。自分の持っている私財を越えた多くの寄付金を集めるのには有効だが、私財の範囲内で寄付する分には、西洋人だってそれを吹聴するようなことは恥じると思う。
 基本的に贈与は只ではない。よく「只ほど高いものはない」というが、贈り物は一般に返礼をとセットになるもので、これは贈り物をするというのが同時に「恩を売る」ことになるからだ。
 贈与は相互依存的に生活せざるを得ない人間の社会にあっては、少なからず返済の義務を生じる。恩を受けたからには何かお返しをしなくてはいけないというのは、原始の頃からの人間の普遍的な感情だ。
 だから、善行は「恩を売ってない」ということを明白にする必要がある。返済を要求しない一方的な贈与であることがわかるようにしないなら、貰う方もうかつに貰うことができない。匿名の贈与というのはそういう意味を持っている。
 モースの『贈与論』には、ポトラッチと呼ばれる競覇型贈与が多くの民族に見られることを指摘しているが、相手が返済できないほどの贈与は、いわば返済不能な借金を負わせるようなもので、そのまま債務奴隷に転落させる。それを防ぐには、贈与には贈与で対抗しなくてはならない。
 今でもヤクザにうっかりものを貰ってしまったら、即座に同額の品を返す、いわゆる「全返し」を行い、貸し借りをチャラになくてはならない。
 当たり前のことだが、人に物を施しても、それでもって恩を着せて相手を債務奴隷に転落させるようなことは、善行どころか悪徳以外の何でもない。善行が基本的に陰徳でなくてはならないのは、普遍的なことだと思う。ただ、仲間に寄付を促すために、自分もこれだけ出したから、と言うのは正しい。

 「飢饉の時は人をすくふ事尤多し。伊勢に参宮せんとするもの財乏しくて行く事かなはざれば、路銀をかして、重て其つぐのいを求めず。
 或時、五郎右衛門が家に盗人来て、蔵をうがちて米を二俵取て出けるを、五郎右衛門が下女見付て五郎右衛門に告ぐ。五郎右衛門は父母死してより以来、父母のためとてあかつきごとに看経おこたらず。此おりふしも看経して居たりしが、是をきき其まま経よみていらへもせず。下女こらへかねて家のおのこ共につげしかば、盗人入たりとてひしめくを聞て、村中のもの多くおどろき出て盗人を追ければ、ぬす人米をすててにげたり。
 後に五郎右衛門ん聞て腹をたて下人をしかりけるは『我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある。其ため村中の大勢を動かしけん事、有まじきひがことなり。其盗人は定めて粮つきて、せんかたなきままに、五郎右衛門が蔵には米も多くありなんとおもひてこそ来りて取つらめ。それをおひおとしてとらんも本意にあらず』とて、盗人のすて置たりし米を下人にもたせてぬす人のかたへぞおくりける。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10~11)

 基本的にこういう善行と言うのは、それだけの財産があるからできることで、自分も貧しかったら分け与えるものもない。いわばそれだけ稼ぐ力があるからできることだというのは、きちんと見ておく必要があるだろう。
 富の再配分というのは、基本的に富める者の善意であるのは言うまでもない。「我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある」←ここ大事、というところだ。
 要するに真面目に働いて、ひと財産を作り、余裕ができて初めて善行というのは成り立つ。貧しい人を救いたいと思ったら、まず自分が裕福にならなくてはいけない。裕福になって初めて貧しい人に施しができる。これは基本だ。芭蕉の句にも、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

とある。
 世の中は「一寸先は闇」というように、どんな裕福な人でも冤罪かなんか着せられて一日にして没落することもあるかもしれない。そうなったときにかつて施してやった人たちが恩返しをしてくれる。そう思うと善行は結局は保険でもある。「情けは人の為ならず」だ。

 「又或時、五郎右衛門が野に在し畠に盗人来て牛蒡をほる。五郎右衛門折節通りけるが、是を見て、『そこは牛蒡のほそくてあしき所なり。こなたこそ大なる所なり』とおしへて、よき所をほらせける。其天性の厚き事、みな此類ひなりとぞ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11)

 これも「さもありなん」という話だ。
 畑仕事にしても日々工夫し、少しでも生産力を上げるように努力すれば、それだけ他人に多くの者を施せるようになる。生産性の向上ということが根底にあれば、それでけ多くの善行もできるようになる。
 盗人も畑の生産物の余剰を掠め取っているにすぎない。それであればたとえ盗人がたくさんいても社会秩序は維持できる。これがひとたび、こうした篤農家の生産手段である畑そのものを奪ってしまったのでは、これまでの高い生産力が損なわれ、畑が荒れ果ててしまう。そうなると結局盗人も餓えることになる。
 盗人にもそこの加減が大事なのは言うまでもない。二十世紀の社会主義の過ちはそこにあったのではないかと思う。
 多分この盗人も遠慮して、わざと細い牛蒡を盗もうとしていたのだろう。

 「此御代に生れ太平のたのしみをうくる事、ひとへに東照宮より以来、世々の君、上の御恩わすれ難しとて時々拝し奉る。あやまりなれ共、其忠厚の志はまことに感ずべき事なり。
 凡五郎右衛門が善行、世に人のかたり伝るは、只其かたはし也。平生の実行は猶あげてかぞへがたし。
 天和元年の夏、諸国へ巡検使をつかはされし時、五郎右衛門が善行を巡検使聞て江戸へ申上給ひしかば、江戸へ召出され、五郎右衛門がもてる今泉村の田高九十石の地を永代年貢を御免ありて御朱印を賜はる。
 其後、家弥富て財多ければ、貧民をすくひ善行を行ふ事はいよいよやまずといへども、身に奉ずる事はもとのごとく甚倹約にしておごらず。人にへりくだる事むかしのごとし。
 貞享元年其歳四十二、其家に奴婢三四十人、牛馬十五疋ばかり有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11~12)

 こうした善行ができるのも、徳川幕府の元に戦乱もなく、天下泰平だからなのは言うまでもない。
 戦国時代であれば、いつ屋敷が焼き払われ田畑が戦場になるとも限らない。平和という前提があってこそ善行は成り立つ。戦争はこうした善行を根こそぎ破壊してゆく。
 善行を成すには平和が一番の大前提であり、次に生産力の向上ということになる。
 五郎右衛門の善行は幕府も知る所となり、永代年貢免除の恩恵にあずかることになる。これは現代でも応用できるのではないかと思う。たとえばESG・SDGsの取り組みで高く評価できる企業に関しては法人税を減額するとか。
 最後に「奴婢三四十人」だが、これは本来は下人を表す言葉だった。下人は古い時代にはいわゆる奴隷だったが、江戸時代には普通に年季奉公人のことを表すようになっていた。
 下人ではなく下男・下女と呼ぶのが普通になる中で、貝原益軒さんはついつい「奴婢」という古い言葉を使ってしまったのではないかと思う。
 まあ、奴隷を使っていた罪で銅像を引きずり倒す必要はなさそうだ。

2022年6月12日日曜日

 岸田政権の「新しい資本主義」は基本的にはアベノミクスの継承であり、何ら社会主義的な政策(富の再分配など)を意味するものではないということは、前にも書いたことがある。それを左翼やマス護美が意図的に曲解して、安部と何ら変わりないとか言って叩いているのは、ただただ草が生える。
 新しい資本主義は基本的には持続可能資本主義であり、本来は株主主導で行うべきものだが、日本ではまず株主の力が弱すぎるので、そこを国策で補わなくてはならないということだ。

 それでは「東路記」の続き。

 昔の進歩史観だと、如何にも昔の人が迷信を本気で信じてたみたいに言うが、怪異についても仏の霊験についても軍記物語についても、ほとんどの人にとってはうわさ話のレベルだったと思う。
 いつの時代の人もうわさ話については自然と耐性を持っているもので、信じもせず、かといって無下に否定するでもなく、グレー領域で処理してきたものだ、今日のUFOと同じと言って良い。
 だから、歴史ドラマなんかで間者を使ってうわさを流して合戦を優位に進めるというのがあったりするけど、実際はそれほど効果はなかったんじゃないかと思う。
 うわさという形で真偽不明の情報をグレーゾーンとして保持することは庶民の知恵でもある。後で真偽が判明した時に、どっちに転んでもいいように保険をかけるのは、生きていくのに不可欠なことだ。昔から言う。信じる者は馬鹿を見る、と。

 「沼津の南の大河を狩野川と云。伊豆のおく山より出る川也。狩野は民家多き所なり。沼津の南に鷲津山とて、とがりて高き岩山そびへて見ゆる。沼津の東の方の町を三枚橋と云。是より日和よき時は、江尻へ船をのる。海上七里有。富士おろしはげしき故、嵐たつ日は渡海せず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 狩野川は伊豆半島の天城山系の方を源流とし、かつて北条氏が支配した今の伊豆の国市の辺りを経て、沼津の東で黄瀬川と合流する。沼津宿南側を流れる狩野川は伊豆の水と御殿場の方から流れる水とが合わさって、堂々たる大河になる。古来水害に悩まされてきた地域だった。
 古代東海道の位置は諸説あるが、黄瀬川を渡らずに狩野川の南を通った可能性もある。
 その沼津の南の狩野川の向こうはすぐ山になっている。まず香貫山があり、横山があり、徳倉山があり、像の背山があり、そして鷲頭山に至る。ここではこれらを総称して鷲津山と呼んでいたのだろう。今は沼津アルプスともいう。
 「とがりて高き岩山そびへて見ゆる」とあるのは、その南にある城山ではないかと思う。鷲頭山の西側にもロッククライミングをやる岩場はあるが、この描写にふさわしいのは城山の方ではないかと思う。
 昔の沼津宿はこの狩野川が河口へ向けて南に向きを変えるその西側にあった。その手前に三枚橋町の地名が今でも残っている。安土桃山時代には三枚橋城があったが、江戸時代には廃城になっている。ウィキペディアには、

 「1601年(慶長6年)に大久保忠佐が城主となり沼津藩主となったが、1613年(慶長18年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌1614年(慶長19年)に廃城となる。同年には火災がありその後徳川忠長が治め御殿を建てるものの1641年(寛永18年)に焼失し、外堀と二の丸に開墾許可が出され、1674年(延宝2年)田畑となった。1687年(貞享4年)には二の丸や土手が、また1689年(元禄2年)にも二の丸や土手が入札され農地化が進み、三枚橋城は姿を変えて行き、新たな町が誕生し(上土町・川廓町・志多町)沼津宿を形成していった。」

とある。
 「是より日和よき時は、江尻へ船をのる」とあり、ここから今の静岡市清水に向かう船が出ていたようだ。駿河湾を横断する形になる。
 古代東海道も、当時は田子の浦は大きな入り江で、沼津から吉原にかけても巨大な干潟が横たわっていたので、清見寺から蒲原までは「波の関守」のいる海岸ルートの陸路があったが、そこから先の田子の浦は海上ルートを通っていた。

 田子の浦にうちいでて見れば白妙の
     富士の高嶺に雪はふりつつ
              山部赤人(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られているが、この海上ルートから見た富士の眺めを詠んだものと思われる。

 「〇沼津の西に千本の松原有。昔、頼朝平家追討の後、小松殿の嫡孫六代、此松原にてきられんとせしを文覚上人、頼朝にこひ受て助けし所なり。ちもとの松原とて名所なり。〇車返し。沼津の辺を云。きせ川より西也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 沼津宿を出たすぐの所に海岸があり、そこに千本松原があり、今は千本浜公園になっている。十三世紀の『東関紀行』にも、

 見渡せば千本の松の末とほみ
     みどりにつづく波の上かな

の歌がある。古歌に詠まれている所は基本的に名所とみなされる。
 ここから東海道は海岸沿いに進むことになる。元は巨大な干潟と海との間の細い砂州で、江戸時代初期から新田開発が行われ、この頃は一面の田んぼが広がっていたのだろう。
 この時代は地球規模での寒冷化が起きていたから、元からかなり干潟は縮小していたのかもしれない。そのおかげで、沼津から蒲原までの陸路は安全なルートになっていた。
 千本松原は砂丘だったため、急な上り坂があったのだろう。古来「車返し」と呼ばれる坂があった。『東関紀行』にも「車返しと云里あり」と記されていて、この「里」が沼津宿の前身となる車返宿になる。

 「原と吉原の間、浮嶋が原なり。芦高山の上に蘆高明神の社有。明神の馬とて芦高山に野馬多し。百疋にはこさずと云、牧の馬のごとし。興国寺の城は芦高山のふもとなり。沼の向なり。吉原のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 愛鷹山と街道の通る砂州との間はかつては巨大の干潟で、そこに三つの島が浮かび、かつての象潟のような景観が見られたのだろう。この広い干潟全体を浮島が原と言っていたのではないかと思う。『東関紀行』には、

 「浮嶋が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはるばるとながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所々に棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。
 南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべての孤島の眼に遮なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。
 こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心ぼそし。原には塩屋の煙たえだえ立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。
 此原昔は海の上にうかびて、蓬莱の三つ嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞にも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ、いとどおくゆかし見ゆ。

 影ひたす沼の入江に富士のねの
     けぶりも雲も浮嶋が原」

とある。
 浮島が原も名所で、

 足柄の関路越え行くしののめに
     ひとむら霞む浮嶋の原
              藤原良経(新勅撰集)
 足柄の関路晴れ行く夕日影
     みぞれに曇る浮島が原
              藤原家隆(建保名所百首)

などの歌に詠まれている。
 この時代には既に、三つの島は芦原に埋もれていたのだろう。煙と雲だけが浮かんでいた。江戸時代には多くは田んぼになっていたが、一部にはその名残の沼が残っていたのだろう。
 かつて芦原だったところから、その向こうの見える愛鷹山は「芦高山」と表記されていたのだろう。
 愛鷹山の放牧については、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「愛鷹山」の解説」に、「山名はかつて足高之峰とも書かれ、古代には官牧が設けられ、馬の放牧がなされていた。」とある。
 その名残でこの時代も野生化した馬が住み着いていたのだろう。ちょうど宮崎の都井岬の野生馬のような状態になっていたか。
 江戸後期になると愛鷹牧という幕府の放牧場になり、明治の初めまで続いたという。三島市郷土資料館のホームページに愛鷹牧を描いた「世古本陣図屏風」(世古直史氏蔵)のことが記されている。
 興国寺城はウィキペディアに、

 「興国寺城は静岡県東部の愛鷹山南麓に位置している。愛鷹山南麓の地形は連続した傾斜面となっているが、興国寺城付近は谷底平野を一部伴った侵食谷によってブロック状に緩斜面が分断されている。また山麓部から低地への移行部には小扇状地が形成され、旧浮島ヶ原の低湿地につながっている。興国寺城の立地は、城の東西は開析された侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、そして南方の浮島ヶ原の低湿地を天然の要害として利用した、地形を生かした典型的な城郭の立地といえる。」

とある。
 今日の興国寺城跡とされている場所はJR原駅から北に行った、新東名の駿河湾沼津サービスエリアに行く登り口の辺りにあり、浮島ヶ原自然公園はJR東田子の浦駅の辺りで、かなり離れている。慶長十二年(一六〇七年)に興国寺城は廃城になっているから、貞享の頃にはその所在地もよくわからなくなっていたのかもしれない。

 「吉原の町、延宝八年の比、海水あふれ民屋悉く崩る。是、世俗に津波と云也。町の人は富士のすそのの方へにげて命をのがれぬ。其後もとの町ありし所、地ひきくして重て水災あらん事をおそれて、十町ばかり北へあがりて今の町を立し也。其故に原の方へは十町ばかり遠くなり、神原へは十町ばかり近くなる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 一町は約百メートルで、延宝の末に吉原宿が一キロほど北へ移動したことになる。吉原宿が今の岳南鉄道の吉原本町の辺りだとすると、かつてはJR吉原駅に近い「左富士の碑」のある辺りにあったか。今まで右に見えていた富士がここでS字にカーブしていて左に見えるようになる、そのカーブが古い宿場の名残なのかもしれない。
 延宝八年とあるが、延宝五年の延宝房総沖地震の間違いか。ウィキペディアに、

 「延宝5年10月9日夜五つ時(亥刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。
 「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある。
 〇「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
 〇「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
 〇「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
 〇「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)」

とある。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻六十七句目に、

   石こづめなる山本の雲
 大地震つづいて龍やのぼるらむ  似春

の句がある。地震の後に竜巻が起きたか、あるいは津波の跡があたかも龍が通った後みたいだったということかもしれない。FFでいうリバイアサンの大海嘯ではないが。
 六十八句目は芭蕉が、

   大地震つづいて龍やのぼるらむ
 長十丈の鯰なりけり       桃青

の句を付けている。十丈は約三十メートル。延宝五年の房総の津波はウィキペディアに、

 「東北学院大、東北大などのチームによれば、M8.34、津波の最大高は17m(銚子)、最大遡上高は20m。標高10mの池の堆積物を調べ、コンピュータシミュレーションをした。」

とあるから、十丈もあながち誇張ではない。

2022年6月10日金曜日

 まあ、普通に考えて、ロシアが日本に攻めてきたとしても、あの国の人たちが日本のために命を落とすなんてことは考えるはずがない。軍事同盟というのはそれくらい信用できないものだということは頭に入れておくべきだろう。
 日米同盟にしても盤石ではない。日本にも約十五パーセントくらいの反米勢力がいるし、奴らはマス護美を牛耳っているから、いくらでも日本国民のすべてが日米同盟に反対しているかのような印象操作はできる。そんな国をアメリカが助けるかどうか、ということにもなる。
 国を守るために戦うことすら「人殺し」呼ばわりする連中のいる国に、誰がわざわざロシア兵と戦いに行くかって話だ。
 守ってやったのに「人殺し、出ていけ!」と石を投げてくる国なんざ、俺だったら絶対行きたくない思う。そうやって日本を孤立させるのが奴らの狙いだ。
 そういうわけで、軍事同盟を過信しないことも大事だ。結局最後は「信じられるものは俺たちだけだ」ということになる。

 それでは「東路記」の続き。

 「三嶋より北条へ行道あり。又、是より伊豆の下田へもゆく也。下田は大廻りの船のつく湊也。番所あり。三嶋より十五里十五町あり。山坂難所也。下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。三島には時鐘ありて、毎日十二時をつぐる。時守は町中より養ひおくなり。三嶋の社は大山祇神也。光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる。社領五百三十石つけり。此辺君沢郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 北条という名の郡や村はなく、かつて北条氏が納めていた辺りを指して、漠然と「北条」と呼ばれることもあったのだろう。韮山代官所が治める幕府領の辺りであろう。代々江川太郎左衛門が支配していた。
 下田への道はいわゆる「天城越え」の道になる。江戸時代は二本杉峠を越えていた。
 下田は菱垣廻船の湊があり、須崎に番所があった。
 「下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。」とある。今でいう遠州灘になる。
 三島の時の鐘は今も三石神社の境内にある。ただ、鐘本体は何度も改鋳されていて、当時のものではない。
 「三嶋の社」は今の三嶋大社で、ウィキペディアには、

 「社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える[1]。
 〇三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』[原 1])
 〇伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳[原 2])
 〇三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 〇三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)
 通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として小市国造が奉斎した伊予国一宮の大山祇神社(「大三島神」)を由来とする説がある。
 現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。」

とある。
 祭神は本来大山祇命(おおやまつみのみこと)だったが、江戸後期に平田篤胤が事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)説を唱えたことで、今日ではこの二神を祭神としている。
 「光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる」とある通り、この時代は伊予国一宮の大山祇神社(三島宮)がこの地に移されたものとされていた。
 光仁天皇は和銅二年(七〇九年)から天応元年(七八二年)まで在位した。ほぼ奈良時代と重なる。

 「〇三嶋の西のはづれに川あり。伊豆・駿河の境なり。三島の方よりむかへにかくる樋あり。伊豆より駿河へ水をとる也。千貫樋といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 千貫樋はウィキペディアに、

 「千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市と駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。」

とあるが、勿論元から鉄筋コンクリートだったわけではなく、大正十二年(一九二三年)の関東大震災までは木製だった。ウィキペディアに、

 「創設された経緯については諸説あるが、1555年(天文24年)、今川、武田、北条の三家が和睦(甲相駿三国同盟)した際に、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤(蓮沼川)を築き、駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説である。」

とある。

 「〇三嶋と沼津の間に黄瀬川とて、川有。此川は富士のすそ野の方より出る。川西に黄瀬川と云町有。源九郎義経、此所にて頼朝と兄弟初て対面有し所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7~8)

 義経と頼朝は富士川の戦いで水鳥の羽音に驚いた平氏が撤収したあと、ここで対面した。ウィキペディアには、

 「合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。
 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。」

とある。まあ『源平盛衰記』の記述は脚色が多く、あまりあてにならない。

2022年6月9日木曜日

 相変わらずマス護美のロシア贔屓報道はひどいものがある。
 ロシアはウクライナの穀物を勝手に略奪してクリミアから中東方面に運び出しているという。その上トルコと組んで略奪を加速させるために、ウクライナが機雷を敷設して妨害しているなんて言っている。
 黒海の制海権欲しさにそんな世論操作をしようとしているわけだが、その「ウクライナが妨害」というロシアの宣伝工作をマス護美はそのまま垂れ流している。
 ウクライナの穀物はポーランドルートで輸出されている。黒海で運ぶのはロシアの略奪分だ。
 そもそも論で、ロシアがウクライナを侵略しなかったら今の世界的な穀物不足は起こらなかったんだし、ロシアがウクライナから撤退すればすべて解決するんで、この件に関してロシアには一点の正義もない。
 トルコもロシア穀物の利権で確実にNATOの足を引っ張る。NATOの今の最大の弱点になっている。日本も環太平洋軍事同盟を作るなら、足を引っ張りそうな国は最初から除外した方が良い。どこの国とは言わないが、ウクライナに非協力的な国だ。
 アメリカもイラクの戦後処理でクルディスタンを独立させておくべきだった。
 日本の鉄道ではJR在来線の1,067 mmと新幹線や一部私鉄の1,435 mmの二つのゲージが用いられているため、軌間可変電車(フリーゲイジトレイン)の開発が進められてきたが、この技術がウクライナ(1,520mm)からポーランド(1,435 mm)への鉄道輸送に応用できないだろうか。日本での試験車両ならあるが。
 日本が東京とベルリンを結ぶ弾丸列車構想を実現していたら、線路の幅が統一されてたかもしれなかったんだが。

 それでは「東路記」の続き。

 「箱根より十町ばかり三嶋の方に相模と伊豆とのさかひ有。箱根の北に八重山と云名所あり。箱根権現に社領二百石つく。はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 「箱根より十町ばかり」は箱根の関所からということであろう。関所の先から箱根峠はそう遠くない。ここが相模国と伊豆国の境になる。
 八重山は、

 足引きの八重山越えて郭公
     卯の花隠れ鳴きわたるなり
              山部赤人(続古今集)
 秋風の寒しくなれば朝霧の
     八重山越えて雁もきにけり
              伏見院(玉葉集)

などの和歌に詠まれている。

   上総国の朝集使大掾大原真人今城、京に向ひし時、
   郡司の妻女等の餞せる歌二首
 足柄の八重山越えていましなば
     誰をか君と見つつ偲ばむ
              (万葉集、巻二十、四四四〇)
 さらに今都も恋し足柄の
     関の八重山なほ隔てつつ
              津守国量(新千載集)

の歌は明らかに箱根で詠まれている。
 箱根の北というと足柄峠の方になる。『万葉集』の時代に越えていたのなら古代東海道の足柄峠であろう。足柄峠は金時山と矢倉岳の間にあるが、八重山はこの辺り一帯を指すのか、あるいは坂田金時伝説が広まる前の金時山であろう。
 箱根権現は今の箱根神社で、神仏習合時代は本地垂迹に基づき、権現と呼ばれていた。曾我兄弟の五郎は二男ということで、ここに預けられていた。還俗して仇討に加わる。
 「はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」は芦ノ湖のことで、『東関紀行』に、

 「かぎり有道なれば、此みぎりをも立出、猶行過るほどに、箱根山にも着きにけり。岩がね高く重て、駒もなづむばかり也。山の中に至りて、湖広くたたへり。箱根の水海と名付、又芦の海といふもあり。権現垂迹のもといけだかくたふとし。朱楼紫殿の雲に重れる粧、唐家の驪山宮かとおどろかれ、巌室石龕の波に望めるかげ、銭塘の水心寺ともいひつべし。嬉しきたよりなれば、うき身の行衛しるべさせ給へなど祈りて、法施たてまつるつゐでに、

 今よりは思ひ乱れじ芦の海の
     ふかきめぐみを神にまかせて」

とある。『東関紀行』はかつては源光行の作とされていた。和歌は『夫木抄』にも収録されている。

 「伊豆の高峯は、はこねの南にあり。名所なり、万葉に歌あり。海にさし出たり。箱根と三島の間より左の方の下に伊豆の北条、蛭が小嶋見ゆる。是頼朝配流の所なり。蛭が小嶋は河中にある故名づく。その東に韮山見ゆる。是、小田原陣の時、北条の端城なり。にら山の辺、江河と云里あり。江河酒とて名物なり。伊藤と云所も有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 伊豆の高峯は伊豆半島全体の山々を指すものであろう。箱根の南にある。

 ま愛しみ寝らくはしけらくさ鳴らくは
     伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
              よみ人しらず(万葉集、巻十四、三三五八)

の歌は嘉元元年(一三〇三年)頃に編纂された『歌枕名寄』にも収録されている。
 蛭が島は頼朝流刑の地とされていて、今は狩野川から離れているが、かつては島だったのだろう。韮山城址の側に蛭ヶ島公園がある。狩野川に近い方には北条政子産湯之井戸があり、川の向こう側には北条義時屋敷跡がある。この辺りは江間と呼ばれていて義時も江間小四郎と呼ばれていた。
 韮山城はウィキペディアに、

 「15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。」

とある。
 北条義時は鎌倉北条氏で北条早雲は後北条氏で直接のつながりはない。北条早雲が北条氏の末裔を称しただけのようだ。
 韮山の近辺に江河の里があり、ここの江川家が代々江川太郎左衛門を名乗り、代官を務めた。ウィキペディアに、

 「江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、享保8年(1723年)- 宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。」

とある。
 江河酒はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「江川酒」の解説」に、

 「伊豆国(静岡県)大川で、代官小川(えがわ)長左衛門が醸造し、江戸幕府に献じたという美酒。また、広く美酒をいう。えがわ。
  ※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「うすにごりたる江河酒」

とある。

 「〇箱根と三島の間、山中と云所に古城のあと、北にあり。是又、北条の端城なりしを、秀吉公一日の内に速にせめおとし給ふ。韮山は小田原城落城まで久しく持こたへし也。山中の町の道ばた、北の方に墓あり。石塔有。一柳伊豆守殿のはか也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 江戸時代の東海道の箱根峠を越えて三島に降りる途中に、今も山中城址がある。近くには最近三島スカイウォークができた。
 一柳伊豆守は一柳直末でウィキペディアに、

 「一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、山中城の戦いで戦死した。末安(すえやす)の名でも知られる。弟に一柳直盛がいる。」

とある。

2022年6月8日水曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「大磯と小田原の間に小磯と云所あり。又、梅沢と云所に大なる藤あり。其さきに曽我の里、右に見ゆる。酒匂より少まへ、大磯の方に香津と云町有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6~7)

 大磯の今のJR大磯駅の西側に東小磯、西小磯という地名が残っている。この辺りが小磯だったのだろう。江戸時代だと大磯宿を上方方面に出た辺りになる。
 梅沢は今のJR二宮駅の西側で、梅沢海岸がある。浅井了意の万治二年(一六五九年)に成立したと推定される『東海道名所記』によると、茶屋があったという。
 大磯宿から小田原宿まで約四里で、かなり離れていたので、途中にこういう休憩場所があったのだろう。北には吾妻山公園があって、今は菜の花の名所になっている。
 この先JR国府津駅の辺りから北西へ行くと、今は曽我梅林があり、この辺りが昔の曽我の里になる。
 国府津は昔は香津とも表記されていた。『東海道名所記』には国府(こふ)とある。その先JR鴨宮駅を過ぎる所に酒匂川がある。
 
 「町の西のはづれに川あり。此川端より足柄越に行道有。足柄山は、富士のとをりより少北に、丸山あり。坂は箱根よりさがしけれども、山ひきくして坂みじかし。香津より関本へ五里ばかり。関本は箱根のごとく関所有。旅人の往来自由なる事、箱根のごとし。関本の西一里半許先に、竹の下と云宿あり。名所なり。竹の下より一里半西に、御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。富士のすそ野也。御くりやより吉原へ六里有。下りには吉原より道わかる。富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。御くりやより沼津へも出る。是も六里有。此方は馬つぎ自由なり。足柄山は武蔵、相模へ通る道なる故、行人たえず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 香津(国府津)の町の西はずれの川は、その酒匂川のことであろう。ここから足柄峠へ行く道があった。今の伊豆箱根鉄道大雄山線に添って行く形になる。終点の大雄山駅の先に今も関本という地名が残っている。古代東海道の坂本駅に比定されている。
 菅原孝標女『更級日記』の、

 「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。」

とあるのも、おそらくここであろう。
 江戸時代には関所があって、それで関本になったか、ただ箱根の関と同じようにスムーズに通ることができたようだ。
 足柄峠は箱根越えにくらべると標高も低く、急な坂はあっても距離は短い。静岡側に降りたところに駿東郡小山町竹之下という地名が残っている。かなり広い範囲だが、竹の下の宿は今のJR御殿場線の足柄駅がある辺りであろう。嶽之下宮があり、南北朝の頃に足利尊氏軍と新田義貞軍の戦った竹之下古戦場がある。
 「御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。」というのは御殿場であろう。ウィキペディアに、

 「平安時代後期、1100年頃伊勢神宮の荘園「大沼鮎沢御厨」があった。これ以降、御殿場市や小山町あたりを御厨(みくりや)と呼ぶ。」

とある。またウィキペディアに、

 「1616年に亡くなった徳川家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮へ移送する際に仮の御殿を建てて、遺体を安置したところから「御殿場」という地名は生まれた。御殿の位置は御殿場高校そばの吾妻神社付近だったとされている。御殿建設の際に各地から職人が集められ、御殿場市御殿場付近の町「御殿新村(御殿場村)」が形成された。」

とあり、それが今の御殿場の地名の由来になっている。
 ここから富士山と愛鷹山の間を越えて東海道吉原宿へ行く道があったようだ。今の富士サファリパークの方を通り抜ける道だ。国道496号線がその名残と思われる。あるいはより直線的な、今の演習場の中にある道の方に近かったのかもしれない。
 「富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。」とあるように、道はなだらかだったが途中に宿場もなく、乗掛馬とかもなかったのだろう。距離的には箱根八里よりも長いくらいだが、朝早く発てばその日の内に何とか越えられたのだろう。
 「御くりやより沼津へも出る」というのは矢倉沢往還の道で、古代東海道もこれに近いルートを通っていたと思われる。こちらの方は馬次も良く、人通りも多かった。

 「〇大磯と小田原の間の海辺より、真名鶴が崎、土肥など見ゆる。石橋山有り。頼朝合戦の所なり。相州の内也。東鑑に見えたり。ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり。伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。沖に伊豆の大嶋見ゆる。大嶋は南北五里、東西三里。江戸へ四十里あり。伊豆の海、名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 大磯と小田原の間の東海道は海岸線に沿って通るので、至る所から伊豆半島や伊豆大島を見ることができる。
 伊豆方面で目に付くのは真鶴岬でこの辺りが土肥郷と呼ばれていた。今も湯河原に足柄下郡湯河原町土肥という地名が残っている。相模土肥氏の土肥実平は源頼朝挙兵に同調し、石橋山の戦いに参加している。石橋山の古戦場はJR早川駅と根府川駅の中間あたりにある。
 「ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり」は場所的には熱海温泉のことと思われる。底倉温泉は箱根宮ノ下の方にある。熱海温泉はウィキペディアに、

 「江戸時代初期の慶長9年(1604年)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある(『徳川実紀』)。以来、徳川将軍家御用達の名湯として名を馳せ、徳川家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。」

とある。
 「伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。」とあるのは伊豆山で、熱海に北にあり、伊豆山神社がある。

 思ふこと開くる方を頼むには
     伊豆のみやまの花をこそ見め
              相模(相模集)

の歌に詠まれていて、名所になる。
 熱海の沖に伊豆大島が見える。

 「小田原と湯本の間、左に石垣山有。天正十七年、秀吉公小田原の北条氏政をせめ給ひし時の御陣所なり。又、早川と云川有。名所なり。古歌多し。小田原に早雲寺と云寺あり。北条五代の墓所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 東海道の小田原宿から箱根湯本の箱根宿との間、左側に石垣山城址がある。ウィキペディアに、

 「豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。秀吉は北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中であったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。一夜城の名もこれに由来する。」

とある。
 早川は、

 うきことを早川の瀬に流すてふ
     名越の原へ誰かせざらむ
              永縁(堀河百首)
 早川の岩瀬の玉のかずかずに
     思ひくだけて恋ふとしらずや
              二条為氏(宝治百首)

他、多くの歌に詠まれているが、ここの早川かどうかはよくわからない。

 東路の湯坂を越えて見渡せば
     塩木流るる早川の水
              阿仏(夫木抄)

の歌は『十六夜日記』にもある歌で、箱根の早川なのは間違いない。
 早雲寺は箱根湯本にある。ウィキペディアに、

 「天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。」

とある。

2022年6月6日月曜日

 今日は梅雨入り宣言が出た。六月六日に雨ざあざあ降ってきてって、絵描き歌だな。

 それでは「東路記」の続き。

 「藤沢、町の右に道場有。一遍上人開基の寺、時宗の本寺也。此里に白幡明神あり。義経の首、奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也。社の前に弁慶が首塚あり。此地に小栗塚とて石塔有。今より三百年以前、此二三里おくの里に小栗と云士ありしと云。小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なりと云。古き書には見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 今は遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれ、国道一号線の遊行寺の坂は箱根駅伝でもお馴染みだが、昔は道場と呼ばれていた。宗長の『東路の津登』には「藤沢の道場」とある。藤沢山無量光院清浄光寺が正確な名称になる。時宗の総本山。
 時宗は一遍上人を開祖とし、その指導者を代々遊行上人と呼んだ。ウィキペディアには、

 「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とは、時宗集団における指導者に対する敬称。 特に開祖である一遍、その弟子で遊行派の始祖である他阿を指す事が多い。
 二代他阿以降、代々他阿(他阿弥陀仏)の名をも継承している。時宗の総本山である清浄光寺の法主が継承しており、藤沢上人と同一視されることもあるが、本来は隠居した遊行上人を指す言葉であり、一方で遊行上人とならなかった藤沢上人も存在する。梅谷繁樹は、本来代々の遊行上人および藤沢上人が名乗った名は他阿弥陀仏のみであり、「真教」(二代)や「尊観」(12代)のような道号を用いるようになったのは近世以降ではないかと見ている。またこれらの道号は、江戸時代前期の42代上人他阿尊任の頃に整備され、以降の上人も道号を名乗るようになったのではないかと見ている。」

とある。
 芭蕉も『奥の細道』の旅で敦賀に来た時、

 月清し遊行のもてる砂の上    芭蕉

の句を詠んでいる。二代遊行上人の他阿(真教上人)が自ら敦賀の気比明神の参道の砂を運んだと言われている。
 時宗の宗は「阿」の文字のつく法名を名乗ることが多く、その中には中世の芸術の頂点に立つ人も少なくない。和歌の頓阿(とんな)法師、連歌師の周阿、良阿、水墨画の能阿、芸阿、相阿、そして能の大成者である観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)も時宗の僧だった。
 また、開祖の一遍上人は念仏踊りを広め、これが盆踊りの原型になっている。俳諧で「踊り」が秋の季語になっているのは、この盆踊りを指すからだ。田楽踊が元になっていて、それを布教に取り入れたという。
 元禄七年の「柳小折」の巻二十四句目に、

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉

の句がある。
 遊行寺の坂を降りると境川を渡り、東海道の道は右に折れる。宿場の所はわざとクランクにしたりして真っすぐ侵入できないようにしてある。その藤沢宿の右側に入ったところに白幡神社がある。当時は白幡明神と呼ばれていた。
 ウィキペディアによれば、元は「荘厳寺を別当とした神社で、相模国一宮の寒川神社の祭神を祀り、寒川神社と称していた。」という。

 「文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と共に伝・源義経首洗井戸や弁慶塚が残され、宝治3年(1249年)に源義経を合祀したとしている。」(ウィキペディア)

という伝承があることで、源氏の白旗から白旗明神と呼ばれてきた。後に源氏が信仰していた八幡大神と結びついて、全国に白幡神社が作られていった。
 義経の首については『吾妻鏡』に和田義盛と梶原景時が腰越の浜で首実検ことが記されているが、その後どうなったかは不明で、「奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也」というのは伝承に属する。
 白旗明神と街道を隔てた反対側の今の中横須賀公園に弁慶塚がある。碑は後に建てられたものであろう。
 「此地に小栗塚とて石塔有」とあるが、今ある伝承小栗塚之跡は藤沢宿から境川を遡った西俣野にある。中世の説教節の『小栗判官』の塚で、ウィキペディアには、

 「藤沢市西俣野にある花応院には、焼失した近隣の閻魔堂より移された小栗判官縁起絵図が伝わる。主人公が満重の子・小次郎助重である、照手が横山大膳の娘である等、長生院の縁起と相違がみられる。なお、閻魔堂に祀られていた判官の墓がこちらにも現存する。」

とある。
 「小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なり」とあるように、物語の主人公であり、架空の人物だが、物語の舞台になったところが今でいう「聖地」になるのはよくあることだ。

 「上方より下るには、藤沢より鎌倉へ行道有。藤沢より鎌倉へ行には、絵の嶋へかかりては、腰越より極楽寺の切通を通り三里半有。甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有。藤沢より絵の嶋へ一里有。藤沢の台の上より鎌倉山見ゆる。又、三浦のみさき見ゆる。絵の嶋の向ひに西に出たる崎なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 宿場の京都側からの入口には上方見附という見張り所があった。「上方より下るには」というのは、藤沢宿上方見附を京都寄りに行った所という意味だろう。上方見附は今の小田急線藤沢本町駅の辺りにあった。江戸側には江戸見附がある。
 昔の鎌倉街道上道は遊行寺の方を通っていたので、ここでいう「藤沢より鎌倉へ行道有」は辻堂古道だろうか。道筋はよくわからないが鵠沼から江の島(絵の嶋)の前を通って腰越から極楽寺の切通を通って鎌倉を入る道があったようだ。
 宗長の『宗祇終焉記』の旅で、宗祇のいる越後直江津に向かう途中、相模国に入った時に鎌倉に立ち寄っているが、あるいはこの道を通ったか。
 「甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有」とあるが、建長寺円覚寺の前を通るなら、北鎌倉の方になる。甘縄神明宮は長谷の方にあるので、これも勘違いか。「タマ」とルビがあるから、藤沢宿から東の方へ行って、大船の玉縄から円覚寺・建長寺の前を通って鎌倉に入る別の道が二里ということだったか。
 「藤沢より絵の嶋へ一里有」というのは、また別の藤沢宿から直接江の島へ行く「江の島道」であろう。
 「藤沢の台」もどこなのかよくわからないが片瀬山のことか。今は宅地造成されてしまってどのあたりかわからないが、東に鎌倉山が見えて南に江の島から三浦半島に至る海の見渡せるビューポイントがあったのだろう。

 「藤沢と平塚の間に馬入川あり。是、相模川なり。此川は甲州の猿橋より出る。源遠き故、大河なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 相模川の下流域は馬入川とも言う。平塚市に馬入という地名があり、国道一号線の橋は馬入橋という。ウィキペディアには、

 「相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていた。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなった(詳細は旧相模川橋脚を参照)。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいる。
 江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていた。」

とある。
 相模川の上流には津久井湖、相模湖があり、そのさらに上流の上野原から先は甲斐国になる。大月の手前に甲州街道の猿橋がある。橋脚がなく、岩盤に穴を開けて刎(は)ね木をさして、それを重ねて橋を支える「刎橋(はねばし)」になっている。現在ある猿橋は江戸時代の物ではなく、一九八四年に復元された物が架かっている。

 「平塚より武蔵の厚木へ行道有。八王子へも此道よりゆく。昔は奥州へ此道をも通りし也。平塚と大磯の間に、花水の橋とて有。富士山見えて好景なり。其さきに、もろこしが原有。名所なり。又、十間坂と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 平塚から厚木へ行くのは平塚道になる。いつ頃からあった道なのかは定かでないが、古代に奥州へ向かっていたのは古代東海道で、今の海老名の辺りの浜田駅を経て武蔵国府のあった府中へ向かい、そこから東山道武蔵路で栃木県の足利へ抜けて、東山道で白河の関を越えた。
 花水の橋は平塚宿の西の花水川を渡る橋で、もろこしが原は『更級日記』に、

 「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日ゆく。」

とある。近くに高麗山があり高来神社があるところから、古代に帰化人の住んでいた地域で朝鮮半島系も中国系もいっしょくたにして「もろこし」だったのだろう。
 十間坂は茅ケ崎の地名で、平塚宿より手前にある。