相変わらずマス護美のロシア贔屓報道はひどいものがある。
ロシアはウクライナの穀物を勝手に略奪してクリミアから中東方面に運び出しているという。その上トルコと組んで略奪を加速させるために、ウクライナが機雷を敷設して妨害しているなんて言っている。
黒海の制海権欲しさにそんな世論操作をしようとしているわけだが、その「ウクライナが妨害」というロシアの宣伝工作をマス護美はそのまま垂れ流している。
ウクライナの穀物はポーランドルートで輸出されている。黒海で運ぶのはロシアの略奪分だ。
そもそも論で、ロシアがウクライナを侵略しなかったら今の世界的な穀物不足は起こらなかったんだし、ロシアがウクライナから撤退すればすべて解決するんで、この件に関してロシアには一点の正義もない。
トルコもロシア穀物の利権で確実にNATOの足を引っ張る。NATOの今の最大の弱点になっている。日本も環太平洋軍事同盟を作るなら、足を引っ張りそうな国は最初から除外した方が良い。どこの国とは言わないが、ウクライナに非協力的な国だ。
アメリカもイラクの戦後処理でクルディスタンを独立させておくべきだった。
日本の鉄道ではJR在来線の1,067 mmと新幹線や一部私鉄の1,435 mmの二つのゲージが用いられているため、軌間可変電車(フリーゲイジトレイン)の開発が進められてきたが、この技術がウクライナ(1,520mm)からポーランド(1,435 mm)への鉄道輸送に応用できないだろうか。日本での試験車両ならあるが。
日本が東京とベルリンを結ぶ弾丸列車構想を実現していたら、線路の幅が統一されてたかもしれなかったんだが。
それでは「東路記」の続き。
「箱根より十町ばかり三嶋の方に相模と伊豆とのさかひ有。箱根の北に八重山と云名所あり。箱根権現に社領二百石つく。はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)
「箱根より十町ばかり」は箱根の関所からということであろう。関所の先から箱根峠はそう遠くない。ここが相模国と伊豆国の境になる。
八重山は、
足引きの八重山越えて郭公
卯の花隠れ鳴きわたるなり
山部赤人(続古今集)
秋風の寒しくなれば朝霧の
八重山越えて雁もきにけり
伏見院(玉葉集)
などの和歌に詠まれている。
上総国の朝集使大掾大原真人今城、京に向ひし時、
郡司の妻女等の餞せる歌二首
足柄の八重山越えていましなば
誰をか君と見つつ偲ばむ
(万葉集、巻二十、四四四〇)
さらに今都も恋し足柄の
関の八重山なほ隔てつつ
津守国量(新千載集)
の歌は明らかに箱根で詠まれている。
箱根の北というと足柄峠の方になる。『万葉集』の時代に越えていたのなら古代東海道の足柄峠であろう。足柄峠は金時山と矢倉岳の間にあるが、八重山はこの辺り一帯を指すのか、あるいは坂田金時伝説が広まる前の金時山であろう。
箱根権現は今の箱根神社で、神仏習合時代は本地垂迹に基づき、権現と呼ばれていた。曾我兄弟の五郎は二男ということで、ここに預けられていた。還俗して仇討に加わる。
「はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」は芦ノ湖のことで、『東関紀行』に、
「かぎり有道なれば、此みぎりをも立出、猶行過るほどに、箱根山にも着きにけり。岩がね高く重て、駒もなづむばかり也。山の中に至りて、湖広くたたへり。箱根の水海と名付、又芦の海といふもあり。権現垂迹のもといけだかくたふとし。朱楼紫殿の雲に重れる粧、唐家の驪山宮かとおどろかれ、巌室石龕の波に望めるかげ、銭塘の水心寺ともいひつべし。嬉しきたよりなれば、うき身の行衛しるべさせ給へなど祈りて、法施たてまつるつゐでに、
今よりは思ひ乱れじ芦の海の
ふかきめぐみを神にまかせて」
とある。『東関紀行』はかつては源光行の作とされていた。和歌は『夫木抄』にも収録されている。
「伊豆の高峯は、はこねの南にあり。名所なり、万葉に歌あり。海にさし出たり。箱根と三島の間より左の方の下に伊豆の北条、蛭が小嶋見ゆる。是頼朝配流の所なり。蛭が小嶋は河中にある故名づく。その東に韮山見ゆる。是、小田原陣の時、北条の端城なり。にら山の辺、江河と云里あり。江河酒とて名物なり。伊藤と云所も有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)
伊豆の高峯は伊豆半島全体の山々を指すものであろう。箱根の南にある。
ま愛しみ寝らくはしけらくさ鳴らくは
伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
よみ人しらず(万葉集、巻十四、三三五八)
の歌は嘉元元年(一三〇三年)頃に編纂された『歌枕名寄』にも収録されている。
蛭が島は頼朝流刑の地とされていて、今は狩野川から離れているが、かつては島だったのだろう。韮山城址の側に蛭ヶ島公園がある。狩野川に近い方には北条政子産湯之井戸があり、川の向こう側には北条義時屋敷跡がある。この辺りは江間と呼ばれていて義時も江間小四郎と呼ばれていた。
韮山城はウィキペディアに、
「15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。」
とある。
北条義時は鎌倉北条氏で北条早雲は後北条氏で直接のつながりはない。北条早雲が北条氏の末裔を称しただけのようだ。
韮山の近辺に江河の里があり、ここの江川家が代々江川太郎左衛門を名乗り、代官を務めた。ウィキペディアに、
「江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、享保8年(1723年)- 宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。」
とある。
江河酒はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「江川酒」の解説」に、
「伊豆国(静岡県)大川で、代官小川(えがわ)長左衛門が醸造し、江戸幕府に献じたという美酒。また、広く美酒をいう。えがわ。
※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「うすにごりたる江河酒」
とある。
「〇箱根と三島の間、山中と云所に古城のあと、北にあり。是又、北条の端城なりしを、秀吉公一日の内に速にせめおとし給ふ。韮山は小田原城落城まで久しく持こたへし也。山中の町の道ばた、北の方に墓あり。石塔有。一柳伊豆守殿のはか也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)
江戸時代の東海道の箱根峠を越えて三島に降りる途中に、今も山中城址がある。近くには最近三島スカイウォークができた。
一柳伊豆守は一柳直末でウィキペディアに、
「一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、山中城の戦いで戦死した。末安(すえやす)の名でも知られる。弟に一柳直盛がいる。」
とある。
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