2022年6月28日火曜日

 今日はメルカリ教室へ行ってきた。さあこれから「売物ブギ」の始まりだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「南宮山は、垂井の宿の南にあり。美濃の中山とも、不破の中山とも云。名所なり。南宮のうしろにも広き谷あり。南の谷の中にある故、中山と云。
 又、御社山ともいふ。南宮の社ある故也。社は山もふもとにあり。大社也。東に向へり。鳥居は垂井の町中の南にあり。其額に、『正一位勲一等金山彦大神』と書り。社僧十二坊、社人十二人有。其外、小なる社、人多し。社領三百石、公儀より御寄附と云。
 関が原軍の時、安国寺、ここに陣せしが、此宮を焼払ける。其後、建立あり。今、其時のまま也。関が原陣の時、毛利宰相秀元、吉川広家、其外の大勢、横合の合戦をせんため、此山に陣を備へ居たりしかども、吉川よりかねて黒田長政へ内通ありて、軍はせざりしなり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 垂井宿の南に南宮大社があり、その後ろの山が南宮山になる。美濃国一之宮になる。かつての毛利の陣のあったところは今は展望広場になっている。山頂よりやや東になる。
 中山というと小夜の中山が思い浮かぶが、特にここに街道があったわけではないようだ。不破の関跡は関ヶ原の谷間にあり、古代東山道もこの低地を通っていたようだ。
 毛利秀元と吉川広家は西軍で、南宮山の北側に陣取った家康の軍を背後から攻撃できる位置にあったが、予想以上に早く関が原で東軍が圧倒し、それを眼下に見下ろしていた毛利秀元は軍に参加せず、吉川広家は東軍に付くことになった。
 不破の中山は、

 眺めこし心は秋の関なれや
     月影清き不破の中山
              後鳥羽院(正治後度百首)
 関の戸をささぬ御代にもふりつもる
     雪にやすらふ不破の中山
              足利尊氏(延文百首)

などの歌に詠まれている。

 「〇垂井も名所なり。古歌あり。垂井の辺に小嶋と云所あり。後光厳院、南軍をおそれさせ給ひ、此所に行幸ありし行宮の石ずへ今にあり。民安寺と云律院にわたらせ給ひけるとなん。御手づから植させ給へる松あり。二条良基の小嶋のすさびと云書に、此時の事を記せり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 垂井(たるゐ)は和歌では「垂井の水」「垂井の清水」を詠む。ウィキペディアに、

 「垂井の泉(たるいのいずみ)は、岐阜県不破郡垂井町にある県指定の天然記念物である大ケヤキの根本から湧き出している泉。岐阜県の名水50選に選ばれている。「垂井」の地名の由来となった泉である。」

とあり、

 「『続日本紀』天平12年(740年)12月条に見られる、聖武天皇が美濃行幸中に立ち寄った「曳常泉」はこの場所とされており古来から由緒ある泉として近隣の住民から親しまれるだけでなく、歌枕(たる井の水)としても知られ、天下の名泉として多くの人に親しまれてきた。」

とある。

   藤原頼任朝臣美濃の守にてくだり侍けるともにまかりて、
   その後年月をへてかの國の守になりてくだり侍て、
   垂井といふいづみをみてよめる
 昔見し垂井の水はかはらねど
     うつれる影ぞ年を経にける
              藤原隆経(詞花集)
 我が袖の雫にいかがくれべみむ
     稀に垂井の水の少なき
              冷泉為相(夫木抄)

などの歌に詠まれている。
 後光厳院は北朝の後光厳天皇で建徳二年(一三七一年)に譲位して後光厳院となる。
 垂井御幸は後光厳天皇即位の文和二年(一三五三年)のことで、観応の擾乱の影響で垂井に遁れていたという。
 岐阜県のホームページに、

 「垂井祭曳車山は、西町の攀鱗閣、東町の鳳凰閣、中町の紫雲閣の3基で、各町内にりっぱな曳車山倉庫を有して大切に保存され、八重垣神社の祭礼(5月2~4日)に曳き出され、名物の子ども芝居を演じる。高山の山車も壮麗であるが、垂井の曳車山は高山のものより複雑な構造で、美しさも決して劣るものではない。山車は上部宝形造りで、3基の曳車山で三種の神器を象っているといわれている。
 垂井祭の歴史は古く、文和2年(1353)後光厳院が南朝の軍を垂井頓宮に避けられたとき、八重垣神社の祭礼に際し、里人は院を慰めるために花車山を引き回した。これを例に寛永頃から舞台作りの曳車山を作って祈るようになったという。」

とある。
 垂井頓宮はその後民安寺になったというが、その民安寺は現存せず、相川水辺公園(左岸)より少し北に行った所にある館守神社に、民安寺の石燈篭が残っているという。
 二条良基は連歌の方で有名で『応安新式』を作った人でもある。その『小嶋のすさび』にこの時のことが書いてあるという。

 「多岐山は、南宮山の東南にあり。高山にて長し。伊勢の多度山につづけり。尾越の方より見れば、西に長くつづきたる高山なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 多岐山は今の養老山地のことであろう。南の端に多度山があり、南の麓に多度大社がある。「長し」とあるように特にどの山を指すというのではなく、山地全体を指すと思われる。養老の滝があることから「滝山」だったか。

 「〇養老の滝は、多岐山の最高き所の少南の谷にあり。其下に広き野あり。其広き野の上也。山に道ある所なり。其谷は大道よりよく見ゆ。滝は見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.23)

 養老山地の最高峰は笙ヶ岳(標高908m)で養老の滝の上になる。広き野は今の養老公園の辺りか。

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